折々スケッチ

小さなスケッチブックやハガキに水彩と鉛筆ペン等で描いた絵を中心に、感じたこと等日記代わりに添えています。

2001年大連のスケッチから

2023年06月07日 | 中国の想い出

2001.10.8 大連 烟台街



他の方のブログを見ていたとき「大連の街角から 第2回」と言うタイトルがパッと目に飛び込んできました。「大連」は懐かしい街です。2001年から4年間夫が単身赴任したため陣中見舞いと言いながら時々遊びに出かけた街です。その記事には私が訪れた数年後の旧ロシア街の写真がありました。表通りのピカピカに整備されつつあったロシア街とは全く違う裏通り。100年前のロシア統治時代に作られた建物が昔の姿で使われて生きている風情が何とも言えず魅力的でした。ただいかにも裏町と言った雰囲気は一人で歩き回るのに少し不安も感じながらも、魅力には勝てず一人でテクテクと。
その頃の私の服装は運動靴に中国の市場で買ったブラウスとズボンに麦わら帽子。それにこれも現地で買った布袋に絵の具などを入れて提げていました。ある時大連にやってきた娘と会うと「お母さん、日本人には見えないね」と言われタクシーに乗れば「朝鮮族?」と聞かれるほど現地に溶け込んでしまっていたようです。とはいえ外国人だとはすぐわかるはずですが。

通りにはたいてい机を出しておしゃべりしている人がいるので「ここで絵を描いてもいいですか?」と単語だけの中国語と手ぶりで話しかけると、びっくりしながら笑ってくれます。私は地面に座り込んでスケッチ開始。描きながら日本の飴を袋から出して一つ舐めてから「どうぞ」と渡すと皆さん珍しそうにもらってくれました。「どこから来たの」「仕事は」「ご主人は」「子供は」「大連は好きですか」「中国の食べ物は好きですか」どこでも同じことを聞かれるので、知っている単語を総動員して出来るだけにこやかに、にこやかに。ただ「画家?」と聞かれるといえ趣味で描いているだけですなどと難しいことは言えなくて、簡単に「はい」と答えていました。今日の絵を描いていた場所では椅子をすすめてくれたり描いている家の前に止まった車を動かすように言ってくれたりと変なおばさんに(当時私は60歳前)皆さん本当に親切でした。他の場所では暑いから家の中から描けばいいと言っていただいて、それでは見えている風景が変わってしまうのにと思いながら・・・お茶までいただいて絵は途中になったことも。




2001.10.8 ロシア街(新しく整備された広場)


上の絵と同じ場所



ブログの中で古い写真を見せていただいて懐かしくなって古いスケッチブックを探してみました。久しぶりに開いたスケッチブックには「あらまっ、こんな絵を描いていたんだ」と思ったり「今よりのびのびしているな」とか、色遣いが強く鮮やかなのはこの頃は白内障が進んで良く見えていなかったんだろうなと思います。絵が描けなくて悩む時などたまには昔の絵を見直して今を反省することも必要なようです。そんなことも思えた良い機会になりました。




宿舎の窓から(今Googleで見るとアパートらしきビルばかりに)



ロシアが統治していた時代の建物・・・今は・・・?
写真も2001・10・8















長江のバックウォーター現象

2020年07月10日 | 中国の想い出


長江・馬鞍山李白公園から



新型コロナのニュースでは新しいカタカナ言葉が沢山出てきて、耳になじむまでに時間がかかりました。そしてまた続く豪雨災害、テレビの解説者が「バックウォーターが起きたようです」と言ってます。私にとっては新語です。テレビなので図解していただければ状況は分かります。本来向かうはずの水が逆に流れたらどうなるか、水が押し寄せた後の映像は恐ろしくて悲しい。

画面を見ながら、以前見た長江支流の逆流を思い出しました。
20年ほど前に滞在した長江沿いの蕪湖市、ここで黄山から流れてきた青弋江が長江に合流します。
初めてここを訪れた時、昔は灯台の役目もしたという高い塔と支流に浮かぶ船が歴史を感じさせて感動しながら汗を拭きふきスケッチしました。当然のことながら支流の水は塔の向こうを流れる長江に向かって流れていました。翌年の春も同じこと、ところが7月に行ってみると濁った水がゆっくり支流を遡っています。海から遠いのだから潮の影響は考えられない。逆流する川に私の記憶がおかしいのか目の錯覚かとも思いながら本流の長江に出てみると、水かさが増して何もかも飲み込んでしまいそうな勢いが怖かったことを覚えています。渡し船の桟橋は沈んでいて仮の桟橋が架けてあり岸の灌木は半分水に浸かっているのを見てやっと本流の水位が上がって逆流しているのかもしれないと思ったものです。宿舎に帰って日本語の分かる中国人に聞くと10日ほど前に上流で大雨が降ったからだと言いました。船着き場の辺りも道路はひたひたと水が溢れていたし、宿舎の前の道ではいつも湧き出している水の出かたが増して道は半分以上水浸し、バスがしぶきをあげて通過です。でも、皆さん慣れた感じで慌てない。長江沿いの低い土地なのでよくあることのようでした。




長江の支流・7月増水して静かに逆流中



停滞している梅雨前線の西の端は中国長江辺りにあります。大丈夫だろうかとネットで見ると蕪湖辺りの様子は分かりませんが、もっと上流の重慶は6月から洪水が続いているようです。
100年に一度などと形容されるような大雨や災害が毎年のようにどこかで起きて、この先子供や孫の時代にはどうなるのでしょう。人の力で何とかなるものならできる事はできるだけ、とは思うのですが・・・まだ間に合うのでしょうか。

これから10日間の天気予報で晴れは一日もなし、新型コロナと長引く梅雨とどうにもすっきりしない夏です。





長江・運搬船

旅の日記と黄砂

2020年04月19日 | 中国の想い出
  「内モンゴル草競馬」

昨日の天気予報で黄砂が降るかもしれないと言っていました。
春は黄砂の季節です。

普段は日記を書かない私ですが、外国へ行った時だけめったとできない体験なのだからとできるだけ書くようにしていました。と言っても出かけたのは20年前の娘とのスイス旅行、それ以後は中国へ7・8回、その日記を読み返すと書いてあること以上に思い出すことが多くて時間を忘れてしまいます。

2002年10月夫と出かけた内モンゴル、シラムレン草原のパオを体験して黄土高原を走りゴビ砂漠の東のはずれまで行きました。砂丘に上ろうとすると足元の砂はザザーッと崩れて行き、握ってみれば指の間からサラサラこぼれる細かな砂、これが舞い上がって日本までやってくるのかとながめました。この砂漠「響沙湾景区」は今では巨大なテーマパークになっているとか。当時も食事施設や土産店、ラクダの試乗で賑わってはいましたがまだ素朴なところでした。
それから数年後の5月に晴天続きの予報を見て安曇野に出かけました。ところがアルプスはかすかに見えるだけ、黄砂のせいでした。あぁあの砂がここまで来たのかーと思ったものです。


 「内モンゴルの砂漠」


日記の端には黄砂の別の言い方で「霾(つちふる)・胡沙来る(こさきたる)」などと書いてあり、ちょっと格好つけた俳句でも作ろうと思ったのか・・・できた記憶はありません。
日記があるからこんな古いことも思い出すこともできます。今ならブログを見返せばいい。だからずっとgooのブログがなくならないことを祈ってます。

グーグルマップで知ること

2019年10月05日 | 中国の想い出
  20年前長江の渡し船で



スケッチに初めての場所へ行くときはできるだけグーグルマップとストリートビューで下調べをします。
ストリートビューは本当に有り難い。通りの様子、曲がり角の確認もしっかり見られて大助かり。
先日信号待ちをしていると「Googleマップ ストリートビュー」と書かれた車を見かけました。
屋根に機材を載せた小さな車だったのが意外でした。街中はともかく先月行った佐久島の道など車も
入れない道なのに主要な道の撮影がされていてバイクなのか徒歩でなのかその労力は大変なことだと
思いました。おかげで私は大助かり。
ただ、我が家の前を撮影する時一言声を掛けて欲しいなと思うことも、なぜかって、洗濯物が斜めに
なっている画像が世界中に配信されていたのですから。最近のは大丈夫ですが!

数日前にアップした記事に20年前の中国のことを書きました。
もう行くことはないと思う中国の街、今はどうなっているかたまにグーグルマップで見ています。
地図と航空写真で見るとその変わり方は想像以上。
20年前の中国安徽省蕪湖市の郊外は水田と点在する池や沼、所々に集落や工場がある田舎でした。
池ではアヒルが泳ぎ水牛が繋がれて洗濯や洗い物をする人を見かけるのどかさ。
それが今見ると、ぎっしり並んだアパートらしい建物群に工場や会社名が見られます。
その中から地名を頼りに探して滞在していた学校と宿舎を見つけると嬉しくなります。
周囲は変わっても門から宿舎に行く道、教室の有る教学楼へ向かう広い坂道もそのままのようです。
残念ながら中国ではまだ航空写真だけでストリートビューは見られません。


 20年前安徽省のレンガ工場


夫が次に4年間赴任した大連、地図を見るとここも大きくさま変わり。
当時も学校の周辺は工事ばかりでしたが、やはり建物群に囲まれてしまい名前と運動場でまだ残って
いることが分かるだけになっています。
海水浴に出かけた浜の沖合には長い橋が架かりました。ここは風景区だったはずなのに経済発展には
そんなこと言ってはいられなかったのでしょう。

地図と航空写真で昔々を懐かしんでします。


  20年前の省都合肥への道

あれから20年

2019年10月02日 | 中国の想い出
 20年前滞在していた蕪湖の市場



あれから20年の「あれから」とは私が初めて中国に行った時のこと。

1999年8月終わり頃、赴任する夫の短期同伴者として1カ月間のビザで中国に着いた時、ちょうど
建国50年の看板がいたる所にありました。
赴任先の蕪湖市でも中心部はお化粧直しの真っ最中。行く先々で土埃がモクモク。デコボコ道が磨かれ
た石で覆われて、歩いたら滑って転びそうなピカピカ道に変わり、表通りの古いビルは解体されたり
見栄よく化粧直し。

あっという間に1ヶ月の滞在期間が終わり1人で帰国することになりました。
住んでいた街からバスで南京へ、南京から北京へは飛行機、北京で一泊、折角なのでちょっとは見物
しようと天安門広場へ出かけました。
ガイドブックには天安門に登れると書いてあったからですが、それはとても無理な事でした。
行った日は建国記念日1週間前の9月24日、警備が厳重で近寄ることも出来ません。
軍隊だか武装警官だかとにかく怖そうな人たちが沢山いてカメラも向けられずにそのまま大回りして
故宮へ向かいました。
昨日はテレビで長安街を行く盛大な「中国建国70年祝賀パレード」を見て20年前のことを思い出して
いました。あの時の私は出かけてはみたものの戻るホテルが見つからず夕暮れの街に満月が昇るのを
眺めながら広い長安街をテクテク歩いて心細かった。

2019年10月1日建国70年「いかなる力も偉大な祖国の地位を揺るがし、中国人民と中華民族の前進の
歩みを妨げることはできない」自信にあふれた習主席の演説でした。
これから20年、この国と世界はどう変わって行くのでしょうか。
近い未来に不安というよりも恐ろしさを感じています。





   蕪湖の街から長江を望む



※またまた週末までブログお休みしたします

京杭大運河(けいこうだいうんが 中国)

2019年02月05日 | 中国の想い出
 「大運河」 ハガキ


昨夜のテレビで大紀行「京杭大運河」を観ました。
北京から杭州まで1794キロ続く世界最長の運河です。
普段は新聞のテレビ欄をあまり見ないのですが、何気なく見ると「京杭大運河」の文字。
私がずっと憧れている運河です。これは見なくてはと。
1400年前隋の皇帝によって作られそれ以後も都の移転などもあって途中のルートの変更など
されながら現在も水運の動脈として利用されている運河です。
番組で紹介された杭州、蘇州、揚州、北京は訪れたことが有り懐かしくもありました。


  「大運河 揚州」ハガキ


20年程前、夫が中国に単身赴任していた時、私は何度か陣中見舞いと称して出かけていました。
上海から高速バスで夫の街まで6時間余り、長江沿いの道中は魅力的な風景ばかりでした。
その途中でずっと続く菜の花畑の中を川のような運河のような狭い水路があり押し合うように
多くの船が行き交うのが見えました。あれは何だろう?普通の川ではないことは感じました。
バスは普通の中国のバスなので日本人は誰もいず誰にも聞けない。
当時はスマホはもちろん、パソコンだってまだ使ったことはなく旅の調べ物は案内書の
「地球の歩き方」だけのころ、後で調べるとどうも大運河のようでした。
1ヶ月を夫の赴任先で過ごして帰る道中でもあの運河は気になりました。



それから何年かして夫と蘇州、杭州、旅することになりました。
私は蘇州から杭州への移動を大運河を船で行くことを楽しみにしていました。
船で夜を過ごせばホテル代の節約にもなるし・・・。
「地球の歩き方」によると蘇州フェリーターミナルから杭州行きは毎日夕方出ていて翌朝7時には
杭州到着 二人部屋で110元から150元のはずでした。
前夜会食した夫の教え子の中国人が「聞いたことない」「杭州へはバスが一番です」というのです。
だから不安に思いながらフェリー乗り場に行くとそこは随分使われていない様子。
男性が一人居るにはいましたが話が通じない。
切符売り場らしい扉の張り紙には4月中旬に運行開始されるようなことが書いてありましたが
その紙の古さから「これって今年の事?」と思えました。

どっちにしても船には乗れないのだからバスターミナルから杭州行きのバスに乗りました。
蘇州から杭州への高速バスは頻繁に出ていて豪華バスでも72元(約1,000円)2時間30分で到着。
結局いつからかは不明ですが杭州行きの船便は廃止されたのだそうです。

豪華でなくてもいい、早くなくてもいい、整った杭州のホテルでやっぱり船旅がしたかったと
残念に思っていました。
ネットがうまく使えたらもっとよく調べられたはずでこんなことはなかったと思います。




 「蘇州 寒山時付近」

 「揚州」


 「揚州」


想いが叶わなかった京杭大運河、番組は期待した船旅ではありませんでしたが、ゆっくりテレビで
想い出を重ねて楽しむことができました。

※ バス料金などは10数年前の値段です。

中国旅行の思い出 青島(3)

2017年05月09日 | 中国の想い出
市内の洋風建築


青島旅行 4日目
大連へ帰る日。
朝食は近くの店で「小豆粥、ゆでたまご、揚げパン 2人分で5元」
安くておいしい。宿で食べるものより、外で普通の中国人の朝食と同じものが楽しい。

帰るために青島駅前の満席になったら発車という時間の定まらないバス(流水発車)に乗る。
来た時と同じ煙台へ向かう。
道はリンゴ畑の丘やトウモロコシ畑の道を走って走って4時間過ぎてやっと煙台へ。
なぜだか時間がかかり途中で乗客の激しい要望でトイレ休憩1回、要望しないと止まらないのか?
そう言えば上海から夫の住む蕪湖迄高速バスで行った時も5時間半から6時間、休憩は1回か
多くても小休止1回と食事休憩1回、食事休憩ない時もあり皆さん我慢強かった。


煙台で大連行きの高速船の切符を買おうとしたら「今日の分は売り切れ」と。
仕方がないので少し高い豪華船の2等船室にする。
1部屋に二段ベットが2つ、トイレとシャワー付き。
同室者は中国人の若い夫婦と7歳の女の子、若い父親は私達に気をつかってベッドのセットや
シャワーの使い方、案内放送等も英語で説明してくれる。
女の子はベッドに腰掛けてピアノの演奏の真似ごと。両親はとてもうれしそうに私たちを見るので
「ピアノ習っているの? それはすごいね!」とちょこっと中国語で褒めるとほんとに満足そう。
当時の中国ではピアノを習うのは凄い事だったのです。
もっともシャワー付きの豪華船に乗れるのだからゆとりのある方達だったのでしょう。
一人270元位?当時、師範学校を出て見習い教員さんの給料は1ヶ月1000元ほどでした。

煙台から大連へ渤海海峡





いつだったかお世話になった学校の幹部の一人を宿舎の部屋にお招きした時も奥さんと8歳の娘さんを
伴って来て私達の前で「今日はピアノ練習したか?」と聞くのです。
私達は「まぁ ピアノ習っているの? ピアノを持っているの!」と驚いて見せたことがありました。
私はお酒が好きだと聞いた幹部の男性お1人をお酒でもご一緒にのつもりでしたが、3人でいらして
びっくり!家に招待すると言う事は家族で、という事なのですね。知らなくて・・・おろおろ。
でも、ま、中国流に料理は沢山あまるように用意していたのでなんとかなりました。
ちらし寿司、ひじきの五目煮、胡麻和え、天ぷら、大連産のカニなどでした。
漆塗りの木のお椀をとても珍しがって「レンジは使えますか?」なんて聞いてらした。



7時間ほどの船旅は二段ベッドでウトウトするうちに夜遅い大連港につき タクシーで宿舎へ。
3泊4日の青島ミステリーツアーが終わり宿舎のギシギシいうベットにホッとしました。

中国旅行の思い出 青島(2)

2017年05月08日 | 中国の想い出
  「花石楼から」

青島の3日目 市内見物へ。
青島は日清戦争後にドイツ艦隊の母港となり、ドイツの植民地モデルとして整えられました。
今も西洋風の建築物や青島ビールなどドイツの影響が残っています。

街中の天主教堂、黄海につき出した桟橋、屋上の展望がよかった蒋介石の別荘「花石楼」など
色々見て回りました。人が多く、人人人の黒山の人だかりといった感じの場所が多かった。
海辺に行くと渚で大はしゃぎの人々…海のない地域から来てるのかな。
「地球の歩き方」片手にテクテク歩いて見て回ったけれど、覚えているのはこれくらい。

昼、街中の食堂で食べた焼きそば大盛がとても美味しかったこと。
夜、ニンニクいっぱいの焼肉と青島ビールで乾杯したこと。

記憶は食べたことばかりです。

「桟橋にて」

中国旅行の思い出 青島(1)

2017年05月07日 | 中国の想い出
  「青島市内の天主教堂」


古い話です。
2001年 中国大連に赴任中の夫と大連から青島(チンタオ)へ3泊4日の観光に出かけました。
大連港から高速船で山東半島の煙台へ、駅前を探し歩いてやっとマイクロバスに乗れました・・・1人30元。
ポプラやプラタナスの並木が美しいまっすぐな丘陵地を3時間半ほど走って 青島到着。
途中トイレ休憩はあるけれど、ここは中国の田舎我慢したほうがマシ。
ネットで探しておいた青島飯店について・・・ヤレヤレ1日終わり。

2日目は宿のお勧めの宿の前から出る1日ツアーバスに乗りました。
夫は中国語はほんの少し、後は英語が頼りなのですが地元のツアーでは英語は通じない。
地元の中国語は私はもちろん夫もよく分からない。
それでも料金を払ったのだからどこかには行けそうだと呑気に外を楽しんでいると車掌さんが
お金を集め始めました。ツアー代金は前払いしてあるので集金の理由が分からない。
一人25元、二人なので50元、理由の分からないお金は出せないと押し問答しても埒があかず
どうしたものかと思っていたら前の席の男性が振り向いて「山に入るための入山料が必要ですよ」と
日本語で説明してくれました。そういえば以前訪れた廬山でもそうだったと思い出しました。
「日本語上手ですね」
「僕、日本人ですから」
「中国に住まわれているのですか」
「仕事で上海に住んでます。今日は休暇で・・・」
そこまでは良かったのですが、夫が余計なことを聞きました。
隣にぴったり寄り添っている若い連れの女性のことを「奥さんですか」と。
「いえ・・・」それ以来振り向いてもくれませんでした。
でも、途中で下車する時は「ここで自由昼食です。2時30分までにバスに戻ること」と
教えてくれました。
何もわからず乗っていた私たちは大助かりでこの際二人の関係は関係なしです。

食堂で困ったときのはずれのないメニュー「茄子の炒め物、ご飯、トマトと卵のスープ」を注文。
周りの中国人が見つめていました。「外人は何食べるのだろう?」って感じです。


着いたのは青島の東90キロほどにある「ラオ山」
太清宮口からどんどん登って見晴らし台まで歩くと眼下には黄海と岸辺にはレンガ色の家並みが広がり
素晴らしい眺め。
気がつくとロープウエイが近くにあって…乗りたかったな・・・と。
とにかく教えられた2時半に間に合うよう山を降りるとバスの添乗員からチケットを渡されて
船に乗れと言う。
みんなが乗るからいいだろうと観光船に乗る…船に乗るなんて宿では聞いていなかったけど。
バスの説明も船の説明も何もわからないけれど、船からのラオシャンの眺めは素晴らしかった。
海に向かって岩山が幾重にも重なり荒々しい風景が続きました。
私達には行き先も予定もよく分から無いミステリーツアーでしたが、それはそれで思い出が沢山残りました。




乗船中に通り雨があり 太陽に暈がかかり神秘的でした。

揚州の想い出 糖葫芦(タンフー・ルー)

2017年04月29日 | 中国の想い出
「痩西湖」



豊田市美術館で「東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画展」が開かれていると新聞で見て
随分前に百貨店で展示された時に出かけたたことを思い出しました。
あまりの素晴らしさに何度も戻ったりしながら長い時間見ていました。
鑑真和上のふるさとを墨で描いた揚州の絵がとても好きでした。


2003年夏の終わり夫と揚州を訪ねました。

鑑真和上ゆかりの「大明寺」その割には新しい感じのお寺、唐招提寺を模した記念堂と九層の塔が
あったなと思うくらいで思い出があまりないのです。
朝早い静かな時間に痩西湖の岸辺を鑑真和上をしのびながら散策したのが良い想い出かしら。

あとは何度も食べた「揚州チャーハン」がおいしかったこと。
サンザシを幾つも串に刺し赤いアメをからめた「糖葫芦 タンフー・ルー」を食べながら歩いたこと。
日本のリンゴ飴みたいなもので、テレビ中国語講座で見かけて食べて見たかったものです。
屋台で買って土地の人と同じように種をぺっぺと吐き出しながら歩きました。
甘酸っぱくてサクサクした歯ざわりでおいしかった。

  「糖葫芦 タンフー・ルー」


古い庭園などもいくつも見たのに食べ物の記憶の方がずっと鮮明に残っています。

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