横浜から北海道の山村に移り住んだ、我が家のつぶやき

北海道追分に移り住み5年。今度は追分から恵庭へ。毎日が新鮮で愉しい事だらけ。そんな生活を気まぐれにおしゃべりしています。

仕事アラカルトⅡ

2013年11月20日 16時48分52秒 | 仕事

好きだったのは八百屋と魚屋かな~

八百屋では野菜、果物の並べ方、照明の当て方、見分け方、いかに買ってもらえるかなどなどを教わった。

まだ車の免許を持っていなかったので暮れの繁忙時は原付バイクの後ろにみかんを2箱、足元に1箱を置き、よく配達に行ったっけ。

牛蒡や人参が古くなるときんぴらを作ったり、客とのやりとりなど、楽しかった。

店のおやじさんが“あんたは腕がいいから知り合いの八百屋で修行してみないか?”と言われちゃった。それって嬉しいけど八百屋になる気はなかったから・・・・

おやじさんありがとう。

しばらくして店を訪ねたらもうなかった・・・・

魚屋もよかった。

そこは神奈川県三浦市三崎の業者が店を出していて大きなビルのフロアーいっぱいに品物が置いてあった。

男性6人、女性2人。威勢のいい声が常に飛び交っていた。

ここでも魚の種類、さばき方、調理方法、陳列方法などを教わる。

まかない飯を作るのは女性。まぐろや鯖のあらを使ったり、売り物にならなくなった物で、いかに美味しく作るか、随分勉強させてもらった。

暮れとなればおおぜいの客で溢れていた。

ここももうなくなった。

あれだけ賑わったお店なのに、近くに大手スーパーが出来てからは衰退する一方。

客と対で話をしながら、料理方法を聞かれたり聞いたり、よかったんだけど・・・

時代なのかな。

地域によっては活気溢れる昔ながらの商店街も健在だ。

フレーフレー!

 


仕事アラカルトⅠ

2013年11月20日 01時18分20秒 | 仕事

今まで色々な仕事をやってきた。

新聞配達、ラーメン屋の皿洗い、ポーラ化粧品販売、ゴム販売、スナック、バー、クラブ、パブ、魚屋、八百屋、企業保養施設、学校給食、訪問看護、メロン栽培、リサイクルショップ、あと何かやったかなあ~

初めての仕事は中学生の時かな~。人様の自宅を掃除したり、簡単な子供の洋服やエプロンを頼まれて作ったりしてたっけ。

母が出て行ってから夜勤明けでバイトしたのがラーメン屋。優しいオヤジさんで色々食べさせてもらった。有り難かった。

日勤後は、初めて経験するするスナックでの仕事。お店の名前は「夜の銀狐」

ここで知り合った客と結婚。

別居中で、相手の女性と飲んで飲んで、酔うと天井が回ることを初めて知った。

ギターとマドロスバックを肩に掛け我が家にやってきた。

お金に疎い人だった。

初めて体験するバー勤め。

ママに“横に座ったら、相手の腿に手を当てるのよ。”と言われるが・・・

気にくわない客がいて、頭に飲みかけの水割りを掛けちゃった。

その男黙って名詞を出した。

○○組の若頭って書いてある。

“あんた、ここに若いもんがいないからよかったな~。いたら大変な事になっていたかもな。”

クラブでは名前を呼ばれてお客の席に。

お金がないのに、話題作りのため新聞2紙を取って情報収集。

新聞配達は3時半起床、カブで1時間ほどの仕事。スポーツ紙あり、経済紙あり、その順番を間違えるとそりゃ大変。

いい事もあった。毎日待っていてくれるお客さんがいたんだ。“ご苦労様” 嬉しかった。

雨の時はポストに“雨の中、ありがとうございます。”って書かれて紙が張ってあったり、

雨上がりの朝は朝露がきれいなんだ。

ある日、門柱に財布が置かれていた。お金が欲しかった。

財布には1万円が。

「ごめんなさい・・」

翌日、財布をポストに入れる。

それから何年か経って、封筒に1万円を入れポストに。

早朝、道路を走る車はスピードを出している。

路肩に停めておいたバイクに接触、散々。

配達途中で具合が悪くなり受診すると胃潰瘍と診断され入院を勧められるがとんでもない事。内服でなんとかしのぐが、もう無理だった。

子供が小さい時はなるべく側にいたいと思っていたから、短時間のバイトをちょこちょこしてたんだけど、水商売が一番嫌だったな~。馬鹿騒ぎが出来ないし、猫撫で声も出せないし、おねだりも苦手で早々に止めちゃった。

 

 

 

 

 

 

 


縁続き

2013年11月20日 00時13分05秒 | 家族

おと~さんとの出会い、

もう8年になるんだ。

私は横浜で看護師をし、おと~さんは札幌でサラリーマンをしていた。

夜、パソコンで遊んでいたらたどりついたメル友サイト。

書くのが好きだったのもあり、メル友での交流はなかなか面白く、ちょっとはまっちゃった。

何人かの人と会ったりもしたけど、どれもこれもパッとせず、

気がついたらおと~さんと最後までメールをしていた。

チャットをするが、じっくり考えてるのか返信が遅い。

当時、おと~さんは家内別居をしており、

“何やってんの、そんなの結婚って言えないよ、さっさと離婚すれば”

“子供のために・・”

“何が子供のためよ、もうみんな成人しているんだからそれこそ迷惑だよ”

なんて言いたい事を言って、

「つまんない男」って思っていたんだけど・・・・

私が交通事故で入院をしたら休みを取って横浜にやってきた。

保険会社とも折衝してくれ、当面の支払いもしてくれたのだった。

こんな人っているんだ・・・・

家には28歳の息子と21歳の息子がいるけど、いいか。

53歳の花嫁となった。

それから色々あった。

有り過ぎるほどあった。

早期退職、義母のアルツハイマー発症、義父の“ばばが出来なければもうメロン作りも終わりだ”の言葉で追分に移り住み、メロン作りを始めることに。

義父母が埼玉から開拓で移り住んだ築50年近いブロック作りの屋根裏が最初の住まい。

次に別の作業部屋の屋根裏、

慣れない農家の仕事。義父が癌を発症するが、入院を嫌い自宅点滴をし、“点滴が洩れてる”と畑に教えに来る義母の言葉で家に戻り差し替えをする毎日。

廃墟のような住まいを借り受け何とか住めるようになった時の喜び。

追分での生活は北海道の自然をまざまざと見せつけられた。

感動の毎日だった。

メロン作りの面白さを知り、人との出会いがあり、

横浜からさくらとモコがやってきて、メロンをムシャムシャ夜毎食べにくるアライクマ退治に飼う事になったアイリッシュセッターのチャチャと出会い、アライグマ捕獲の檻に捕まった猫の「梅」が生んだ4匹の猫と出会い、雪降る朝、育児放棄され放り出されていた生まれたばかりの風太と出会い、

歩けなくなり、“農業をする身体じゃない”と医者から言われ車椅子生活になり介護認定を受けたり、

メロン作りを止めようと決心したとき、リサイクルシャップの話があり、“やってみようか”

横浜から移ってきた息子の存在は大きかったな~

こんなそんなで今に至っている。

8年の月日、

いや~実に面白い。

おと~さんとの「縁」続き。

「縁」があってよかった。

私に最高な幸せをくれた。

縁は異なもの味なもの。