先ほど、思い出したのですが、今日は、涅槃会(ねはんえ)お釈迦様がお亡くなりになった日です。
しかし、浄土真宗では、亡くなったとは申しません。ご往生された日です。
仏様の世界に、生まれ変わられたましたことを、往生と申しますが、
お釈迦沙様は、特別に、お浄土に還っていかれたと申し上げた方が良いかもしれません。
それは、浄土真宗では、お釈迦様と阿弥陀如来様同じであると頂くのです。
阿弥陀如来様は、お釈迦様という人間の姿となって、この世に生まれ、
阿弥陀如来様の救いを、私たちに伝えて下さいました。だから、元の場所に、還っていかれたのです。
仏教では、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)というお言葉がございます。
私のパソコンのデーターを「涅槃」で検索してみますと、2019年6月の法話会の
原稿が出てきました。すると、その内容の最初に、
「令和五年に本山 西本願寺で、親鸞聖人御誕生850年の法要があります、是非、皆様お参りしましょうね。」
と、法話の最初に、案内をしていました。ちょうど、本日、ブログに案内を載せたので、偶然にビックリしました。
その後、この前、墓石に命日を刻むのに、「平成」と間違えて書いてしまい、石屋さんに指摘され訂正出来て
良かったと書いてました。2019年6月だと、令和になってまだ間もなかった頃の話です。そして、まだ、
コロナ過に入っていませんから、「皆さん、令和5年に、一緒に京都に行きましょう」とアナウンスしております。
まさか、その後、コロナ禍となり、世の中大混乱になるなど、その頃の私は、まったく、想像していません。
その後の内容は、「私の長女が、この四月で社会人になりました。私は、前々から思っていました、これで一安心だ、
親として、肩の荷が降りる。ところが、社会人になればなったで、心配はなくならなかったのです。今度は、
いつ帰ってくるんだろうな、仕事が大変で涙などを流している娘の姿をみると、一安心だと思っていたのが、
かえって、悩みが増えてしまったのです。それで、気が付いたのは、親というのは、一生悩みは尽きないのだろ
うなということなんですね。それと同時に、私も、今も健在の父親は、子供を心配しているのだろうなと思っ
たのです。」親は、どんなに子供が大人になって、おとしをとっても、心配し続ける存在なのです。
それが、よく、親を、阿弥陀如来様に喩える所以です。
その次に、「涅槃寂静」という話をしていました。
「涅槃寂静」という言葉があります。人間にとって、一番求めたい境地は、この涅槃寂静です。
自分の心が穏やかであるということです。病気になってしまった、将来の夢がない、お金がない、子供が言うことをきかない、仕事がない、私たちは、それぞれの立場で、悩み苦しみがあるのです。悩みのない人間は存在しません。
悩みが一つ消え、やれやれと思った次の瞬間、新たな悩みが出てくるものです。結局、悩みはエンドレスです。その終わりが、涅槃寂静です。それは、お浄土に生まれ、仏様になった時です。
その悩みの原因は、仏教では、私たちの煩悩、即ち、自分の思い通りにしたいという欲です。
その自分の心に気が付き、欲を手放すことが出来れば、私の心に「涅槃寂静」がおとずるのですが、私は、今まで、そういう方に出会ったことはありません。
と書いてあり、そこで、終わっていました。その後、どうなったかはまったく記憶にありません。
先日、新しい「領解文 りょうげもん」が、御門主さまよりお示し下さいました。
「領解文」とは、第八代御門主 蓮如上人の時代から、約500年、特に、法話会の後などに、
浄土真宗のみ教えにを聞かせて頂き、自分の受け止め方と、どのように生きていくべきかを、
領解文をみんなで声で出して唱和し、確認しあう伝統がありました。
しかし、時代とともに、古文で書かれた内容が理解しづらくなってきたのを、危惧された御門主さま
のご判断だったと思います。
その新しい領解文の後半部分に
み教えを依りどころに生きる者 となり
少しずつ 執(とら)われのこころ(煩悩)を 離れます。
生かされていることに 感謝して
むさぼり いかりに 流されず
穏やかな顔と 優しい言葉
喜びも 悲しみも 分かち合い
日々 精一杯 つとめます
とお示し下さいます。阿弥陀如来様の教えに出会い、少しずつ、煩悩から離れていきます。
完全には無くなることはありませんが、少しづつ、生き方、考え方が変わっていくのです。
涅槃寂静の日々を送りたいものですが、私には、無理なようです。