最近、ドラマを観ていても、涙もろくなってしまいました。いつも、一人で観ているので、恥ずかしくはないのですが、年齢を重ねると涙もろくなるのでしょうか。最近は、葬儀や法事を勤めていても、お参りの方の涙に、自分もこらえるのが大変な時もあります。先日、二十歳前に、よく遊んでいた友人と、久しぶりに再会してとても楽しかった。二十歳前後の記憶は、私は、すごく良く覚えていて、きっと、毎日が楽しかったのだと思います。あの頃、私は、今を生きていたのです、明日の心配もしていないし、病気の心配もしていません。毎日が楽しかった。あの頃に戻りたいとは思いませんが、私にとって、とても、大切な時間だったと思います。私は、その友人と懐かしい話に盛り上がりながら、思い出は大切だなと思いました。嫌な事をいうようですが、皆さんが、大金を出して買った自分にとっての宝物は、ほとんどが、ゴミになります。でも、良き思い出は、いつまでも残ります。いつもの話ですが、いつか、暇になったら、いつか、お金に余裕ができたら、いつか、仕事を退職したら、いつか、健康になったら・・・、その、いつかは、幻想で終わるかもしれません。生きているのは、今だけです。今年ももうすぐ終わります。皆さん、人生に忘れ物はありませんか?
今週の土日は、法事のご予約がとても多かったです。来週の土日になりますと、だいぶ、すくなくなります。来週の日曜日は、クリスマスですので、法事をされる方はかなり少なくなります。人が亡くなるのは、大みそかでも元旦でも関係ありません。やはり、寒い時期になると、亡くなる方が多くなりますので、お寺は、忙しくなります。神奈川県は、横浜、川崎、相模原など政令指定都市をかかえております、人口の割に、火葬場は少ないので、寒い時期は、何日も待たされるのは当たり前になっています。すると、私の寺のある厚木市火葬場まで、火葬費用の割増料金(厚木市内の方よりも割高)を払ってまでも、遠方からもいらっしゃるようです。何日も火葬を待たされるということは、葬儀社さんで、ご遺体を、預かってもらうことになり、一泊いくらの料金が発生しますので、早く火葬にされたいご希望の方は、遠方でもそのほうが良いと判断される方も多いと思います。一番の繁忙期は、一週間以上またされることは当たり前です。そういえば、冬の時期、厚木市斎場に行くと、横浜ナンバーの霊柩車が多く見かけます。
社長、理事長、校長、住職、会長、世の中には、長のつく肩書がたくさんございます。いつかは、その代替わりがありますが、後継者に「あとは、任せたよ」と言っても、任せられないのが人間です。社長が、「任せたよ」と言っても、毎日、会社に様子を見に来られたら、新社長はやりにくいはずです。それは、お寺でも同じです。「任せたよ」と言ったら、口出ししてはいけません。任せるとは、受け持ちが変わることです、最高責任者が変わることです。任せるというのを、浄土真宗では信心をいただくと言われます。
弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主に成るなり、南無阿弥陀仏の主に成るといふは信心をうることなり、また、当流の真実の宝といふは南無阿弥陀仏、これ、一念の信心なり。蓮如上人御一代記聞書より

最初の弥陀をたのめばというのは、助けてくださいとお願いする意味ではありません。浄土真宗では、いつでも、阿弥陀如来の救いが、先にはたらいて下さっているのですから、たのむとはお任せするという意味です。南無阿弥陀仏の主に成るとは、人生の主が阿弥陀如来に変わることです。人生の最高責任者が阿弥陀如来になることです。私の自力のはからいでは救われません。信心をうるとは、まさに、受け持ちが変わる。自力心に用事がなくなる、念仏称えたら、信じたら、善い人間になったら、浄土真宗にたらはいりません。第一志望の大学の合格通知をもらっても、さらに、受験勉強する人はいません。お浄土参りの合格通知は、南無阿弥陀仏と届いています。ところが、親鸞聖人は、教行信証の行巻の終わりの正信偈に、凄いことを書かれています「信楽(信心)を受持することははなはだもって難し、難のなかの難これに過ぎたるはなし」とお示し下さっています。世の中で、信心をいただくこと以上に難しいことはないと言われます。この言葉は、私を長年悩ませるお言葉です。念仏称えて救われようとするのも自力、称えないのも自力。私も長年、どうしたら、信心いただけるんだろうかと悩んでます。今も不安になるときがあります。蓮如上人のお示しの通り、浄土真宗の真実の宝は南無阿弥陀仏しかありません。これこそが、信心ですとお示し下さっています。南無阿弥陀仏は、称えるのではなく、弥陀の呼び声と聞かせて頂くものです。その南無阿弥陀仏が、「我に任せよ必ず救う」と聞こえていることが、既に、阿弥陀如来のはたらきの中です。それは、今の話です。今、臨終でも助かる話です。そうしたら、私のはからい自力心には用事はいりません。それが、信心をいただいたということです。