瀝瀝(れきれき)散歩道

瀝瀝というのは「水が音をたてる様子/風が音をたてて吹く様子」つまり、「ありのままの風景」ということでしょうか。

偉大なる歩幅69センチ

2020-09-22 14:11:09 | 日記


自分の歩幅を測ったことはないのですが、歩幅についてとても注意を払っているのが、自衛官の人たちですよね。
75センチで左足から歩き始める、なんとなくスピードも歩幅も揃っているので、数名の自衛官が歩いているとすぐにわかります。
しばらくたつと隊列みたいになっちゃうんですよね。

伊能忠敬という人がいました。この人は歩幅69センチで正確に歩きます。
正確に歩かないと、仕事に大きな支障が出るからです。

伊能忠敬は最初の日本地図を日本をくまなく歩いて作り上げた人です。
なんと、伊能は50歳の時にキャリアチェンジして、地図作りに入ったのです。
ちょっと興味が出たので、調べてみました。

伊能忠敬は1745年1月11日に現在の千葉県山武郡九十九里町の名主の家に生まれました。
その後、下総国香取郡佐原村の酒造家・伊能三郎右衛門家の婿養子となり、4歳年上の妻と結婚します。17歳の時です。

伊能家は酒造り、米、薪、燃料等などの取引きを行なっていたものの、その商売はあまり上手くいっていませんでした。
しかし、それを忠敬の才覚で盛り返しました。
伊能家はその後、年商およそ1億円の商売を展開します。
商売だけではなく、忠敬は天明の大飢饉の時も困難に直面した人々に手を差し伸べた人格者でもあります。
この地域では有名な名主として知れ渡っていました。

しかし、彼は何を考えていたのでしょうか、、、、
1790年頃から隠居を願っていた忠敬は1794年にやっと隠居が認められ、49歳で家督を長男に譲ります。
翌年50歳になった彼は、それまでも勉強を続けていた暦学をさらに学ぶため江戸へ行きました。

50歳というと、ちょうど節目の歳ですよね。

江戸の深川黒江町に隠宅を構え、旗本の天文方に抜擢された新進の天文学者・高橋至時に入門します。なんと19歳年下の師匠です。
師匠の高橋至時は1797年に新たな暦「寛政暦」を完成させますが、地球の大きさや緯度が分からなければ正確なものはできないと、
この暦に満足しませんでした。
忠敬は地球の大きさを求めようとするプロセスの中で、日本の正確な地図を描くことが必要という結論に辿り着いたのです。

この時代に「地球の大きさ」を求めようとしている人がいるなんて、すごいなあ、と感心せずにはいられません。

忠敬は55歳(1800年)の時に第一次測量のため、蝦夷地へ向かいました。
この時の測量は一定の歩幅になるような歩き方を訓練し、複数の人間が同じ場所を歩いた歩数の平均値から距離を計算していくという方法でした。
その1歩は正確に69センチ! 歩数から距離を計算したのです。

気が遠くなるようなやり方ですが、それでも毎日40kmを移動したと言うのですから、その脚力にも驚かされます。
蝦夷地滞在は117日間にも及び、帰宅後は測量データをもとに3週間かけて地図を完成させたと言われています。

測量が始まったばかりの頃に師匠の高橋至時が病死してしまいました。
自分よりも遥かに若い有望な人材を失ったことを嘆いた彼は、より一層に地図の完成を志すようになります。



忠敬の測量の特長は、丁寧でねばり強いことでした。まさに、道なき道を測量して進み、海の上からも測量し、夜のあいだも地図づくりは続きます。
北極星などの星を観測、自分の位置をわり出し、測量が正しいかどうかを確かめます。
忠敬は全国を旅すること17年。こうした地道な測量のすえ、正確な地図「大日本沿海輿地全図」が生まれました。

高橋至時の死後、彼の役職だった天文方は息子・高橋景保に受け継がれますが、景保はのちにシーボルトに内通したとして斬首になります。
その原因は景保がシーボルトに禁制品である日本地図の写し、つまり伊能忠敬の「大日本沿海輿地図」を渡したからです。
彼の地図はこの語の幕府の政治や外交戦略においても非常に有用な道具でした。 それゆえ、海外に出回ると最悪侵略される恐れすらあったのです。

さて、伊能忠敬は50歳で大きなキャリアチェンジをしました。しかしそれは急に決めたものではなく下準備を確実にした結果です。
彼は身分や年齢の上下に関係なく、正しい意見に耳を傾け、それを積極的に吸収しました。

正確に69センチの歩幅で、彼は着実に自分のライフワークを達成するために前に進んでいたのです。


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