心の存在を日本人は知りません。
心は具体的にどこにあるのでしょうか?
それすら知らないのです。
私たちは普段何気なく生活していますが、「常に脳を喜ばせるためにどうすればいいのか?」を無意識に考えて、それを体が実際に行動を起こしています。
「脳」は隠れた臓器であり、普段、脳を意識することがありません。
この「脳」の中には電流が走っており、その電流の流れ方、また流れる電流の質や速さによって、「閃きやインスピレーションを受ける」といった、高い創造性を持ったり、高い判断能力を発揮することができるようになるといった、「脳の性能」=「人間の能力」が決まってきます。
スポーツ選手も同じです。
以下のブログでは、野球のバッティングは筋力ではなく、ミートさせることさえできればホームランが打てると理論的に書いてあります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(1/1000秒しか接していない投手の投球と打者のバット)
野球のバッティング動作も含め、スポーツというのは大きな筋肉に頼ることでは最大のパフォーマンスを発揮することはできません。バッティングで言えば、飛距離を伸ばすために筋肉を付けても、それには限界があるということです。もちろん投球にバットを押し返されないための筋力は絶対的に必要です。しかしただ飛距離を伸ばすためだけに筋力を付けようとすれば、それは失敗に終わってしまうケースが多くなるのです。
日本トップクラスのホームランバッターである埼玉西武ライオンズの中村剛也選手は、10割の力で振った時よりも、8割の力で振った時の方がホームランになることが多いと話していました。ではなぜ10割の力で振ってしまうとホームランになる確率が下がってしまうのでしょうか?
それは単純に、下半身よりも上半身の力の割合が勝ってしまうことにより上半身にブレが生じ、ミート力が低下してしまうためです。パワーというのは「速度×重量」で計算することができるわけですが、例えば筋肉を必要以上に増やしてしまうと速度が出なくなってしまいます。その代り重量は増えるため、数字上ではもしかしたら大差はなくなるかもしれません。しかしバットスウィングの速度が遅くなるということは、投球がまだ遠いところにある段階でバットを振り出す必要があるため、変化球に弱い打者になってしまいます。
さて、ここからいよいよ本題です。硬式野球に於いて140kmのストレートをバットで打った際、ボールとバットが何秒間くらい接しているかご存知ですか?
答えは約1ミリ秒、つまり1/1000秒です。そして更に、バットがボールに対し最大の力を発揮できる時間はこのうちの半分の時間となるのです。硬式球というのは非常に硬く、軟式球のように簡単に潰れることはありません。しかし1/1000秒というほんの一瞬の間に、実は約半分の大きさまで硬式球は潰れているんです。ただこれは高性能カメラであってもなかなか撮影することが難しいため、一般的なテレビ中継の映像では確認することはできません。
硬式野球のバッティングという作業はこのように、1/1000秒の間に勝負が決してしまうのです。打者はこのタイミングを合わせることが最大の仕事となり、逆に投手はこのタイミングを狂わすことが最大の仕事となるわけです。両者が同時に役割を務められることはありません。ボールは1球だけですので、必ずどちらかが勝ち、どちらかは負けてしまいます。
打者としてはそこで勝つために、フルスウィングするよりは8割の力で振った方が良いということになります。また、闇雲に筋肉量を増やすよりは、バットスウィングの速度を最大限高めるためのバットスウィングの軌道を作り上げることが大切となります。これもまた8割程度の力で振った時が、作り上げた良い軌道が最も安定するようになるのです。
最後にもう一度バットスウィングの速度についてのお話をしておきたいのですが、約140kmのボールを打った際、バットスウィングの速度115km程度でジャストミートさせることができれば、打球は約120m飛んでいきます。そしてバットスウィングが120kmを超えてくると、飛距離は130mに近付いていきます。
先ほど筋肉を増やせば重量が増えると書きましたが、実はそれはボールを打つ動作に於いては適切な判断ではないのです。ボールを打つのは腕ではなく、当たり前ですがバットです。バットの重さには規定がありますので、どの打者もだいたい900g前後のバットを使っています。ということはやはり、そのバットがスウィングされる速度自体を高める必要があるのです。それにはもちろん筋肉も必要になってきますが、それ以上にスウィング軌道を整える作業がまず必要になる、ということなのです。
言い方を変えれば、最善のスウィング軌道と速度を両方維持できるのであれば、筋肉はいくら付けてもパフォーマンスは低下しません。しかしそれは現実的には難しくなるため、飛距離を伸ばすために筋力を付けるのであれば、安定したスウィング軌道と高いスウィング速度を両立させられる程度を見極めながら、徐々に筋肉量を増やしていくのが良いと思います。闇雲に筋力トレーニングをして上半身を重くし過ぎてしまうと、下半身の怪我にも繋がってしまいますのでご注意ください。
コラム著者:Kazコーチ(プロの野球専門コーチ)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
『先ほど筋肉を増やせば重量が増えると書きましたが、実はそれはボールを打つ動作に於いては適切な判断ではないのです。ボールを打つのは腕ではなく、当たり前ですがバットです。バットの重さには規定がありますので、どの打者もだいたい900g前後のバットを使っています。ということはやはり、そのバットがスウィングされる速度自体を高める必要があるのです。それにはもちろん筋肉も必要になってきますが、それ以上にスウィング軌道を整える作業がまず必要になる、ということなのです。』
とあるように、実はムキムキに体を鍛えても、バッティングでは飛距離は出ません。
筋力がなくても、無駄のないフォームでこちらに向かってくるボールのベクトルと正反対の方向に働く力でバットに当てることができれば、飛距離が出るのです。
ボールはスピードが出ているので、バットは早く振る必要があります。
バントのようにバットをボールの軌道に合わせて置いておくだけでは、ボールの勢いに負けてしまうため、ボールの持つ位置エネルギーと同じ分だけ反対側に力を加えてあげればよい。
その力は、バットをスウィングする力で十分であるのです。
つまり、バットを振る軌道と速度がボールに対してピタリと合えば、飛距離が伸びる。
止まっているボールを飛ばすのではなく、反発する力を利用できるため、それこそゴルフよりも筋力は必要ないかもしれません。
バットコントロールだけということになりますね。
このバットコントロールはどこがやっているのかというと、それはずばり「脳からの指令」なのです。
脳に入ってくる資格情報を分析し、各器官の筋肉に「どのように動くのか?」を指令している。
その速度がそれこそネットの通信速度、パソコンの処理速度のように、0コンマ何秒の世界で、脳内で行われているのです。
「野球の科学」という記事では、内野手の打球処理の反応速度について脳科学とともに書かれています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(第2章 内野守備の科学(その1))
1.頭脳と神経による動作の反応での訓練ルート
野球の内野守備を考えるとき、人間の「急発的動作開始」時の脳を中心とする動作の状況を考えなくてはならない。 このことはこの連載寄稿の先頭で解説した。 内野守備で相手バッターが球を打った直後の動作開始は極めて重要である。
飛んでくる打球に遅れを取ったらヒットになってしまう。 相手チャンス時なら決勝点になって 敗北かも知れない。
プロ野球選手の打った打球の速度は平均的に100km/時位という統計がある。
仮に遊撃手の場合、ホームの打者と守備遊撃手の距離は約30mとなる。
打球速度から計算すると、打者が打った瞬間から1.1秒で球は遊撃手に到達する。 敵の打った球に遅れをとってはならない。
先の解説で、人間の行動制御は図1のように 行われると解説した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
状況認識して、素早く動き出す能力を「予測能力」と言い換えることができます。
予測は外れる事がありますが、その確立が限りなく99%に近い人間が各スポーツ分野でのトップアスリートと言えるのかもしれません。
しかし、トップアスリートは、その分野でしか訓練してきていませんし、他の分野に応用が利くかというとそうでもない。
なぜなら、名選手が名監督にあらず、名コーチが名解説者であるとは言えないからです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(スポーツ解説 しんちゃん (2010年3月 4日 20:46) | コメント(0))
テレビのスポーツ中継では、スポーツのジャンルを問わず、実況を担当する「アナウンサー」と「解説者」が、
視聴者が分かりやすく楽しめるようにサポートしてくれる。
実況アナウンサーはラジオの場合、その名の通りリスナーの目に浮かぶような実況を担当するが、テレビの
場合は実況よりも解説者への聞き役としての役割が重要になる。
一方、解説者は、見ただけでは分からない専門的な説明を適切に分かりやすく視聴者に伝える役割を求められている。
例えば、フィギュアスケートの場合、一般人には識別しにくいジャンプの種類やスピン、ステップなどの説明を
してくれることが、見る側の興味をより深くしてくれる。
最近でこそ番組枠が減少し、目にすることも少なくなったプロ野球。全盛期のシーズン中は毎日のようにテレビ
中継されていた。にも関わらず、私の記憶にある限り、まともな解説者は1人もいなかった。
それも当たり前。
取材力やトークのうまさよりも、現役時代(解説者は100%元プロ野球選手)の実績やキャラだけで選ばれていた。
その解説と言ったら「ここはなんとしても踏ん張らないと」とか「是が非でも塁に出たいところですね~」など、
殆どが精神論。
守備側がピンチになったら、ピッチャーの踏ん張りに期待するのは当たり前。
負けているチームが攻撃側になったら、ランナーを出したいのは当たり前。
誰もが分かっていることを熱く語るだけで解説者の役割を果たしていると思ったら大間違い。甘いよね~。
大袈裟かもしれないけど、解説者の質が低かったことって、野球界衰退の一因でもあると思う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
それもそのはず、プロ野球選手は、「まさか自分が脳で野球を行っているということを知らない」ため、体を動かすメカニズムや根拠すら持ち合わせていません。
思考・判断・反応というプロセスは「脳」が行っているのですが、選手の皆さんは「目で見て動いている」程度にしか考えていない。
ですから、考えていては遅いため、長嶋茂雄のような教え方になってしまいます。
『擬音を使いこなした指導といえば、長嶋終身名誉監督だ。巨人の監督時代は「ビューッときたらバーンと打つ」など独特の言葉で、大リーグでも活躍した松井秀喜氏らを育てた』
脳の中で何が起きているのか分からないため、再現性に乏しいのです。ですから解説できない。
名選手ほど「感覚で野球をしている」のです。
精神科看護では、この目に見えない「脳」の働きを可視化していく作業をします。
先ほどは脳機能をスポーツ、野球を例に説明しました。
野球という高度な筋肉を使った運動は難しいですが、我々は日々日常生活の中で動いたり、考えたりしています。
さらに高度なのは、対人関係です。
思ったことを口にしたり、露骨に嫌な表情を出してしまえば、対人関係摩擦が生じます。
時には、思ったことを伝えなくてはならないこともあるし、露骨に嫌な表情をしなくては相手に伝わらないこともあります。
それが、相対する人間の数だけパターンがあるとしたら、どれだけ対人関係とは難しいのか?と思えて来ませんか?
対人関係摩擦が生じると、とても不快に感じます。
不快が行き過ぎれば、口論になったり、暴力沙汰、煽り運転やはたまたエスカレートして殺人まで起こしてしまうかもしれません。
なぜこのように、対人関係摩擦が生じるのでしょうか?
それは、考え方が違う人が集まるのが社会であるのは当然ですが、どのような人がそこに集まっているか?という性質に起因するからだと考えられます。
現代社会では「自分中心、優勝劣敗、勝てば官軍負ければ賊軍」というように、幼少期から教わります。
「うちはそんな教育していない」という親御さんはいらっしゃるかもしれません。
いえいえ、それは学歴、年収、スポーツ以外でも、子供を無意識のうちに比較し競争させています。
自分が好きな俳優が出てこれば「〇〇くんはやっぱりイケメンだわ」などとボソッと言った言葉に子供は反応します。
子供は親からの愛・関心が欲しいため、アイドルの「〇〇くん」のようになれるよう目指します。
しかし、実際なれません。(そもそも、アイドルはたくさんの番組スタッフによって作り上げられるものですから、本人に本当に実力があるかどうかは関係ない)
そうすると、子供はなりたい自分になれないため、落ち込みます。
競争で負けたと自覚するのです。
「競争がいけない」と言っていません。
正しい方向に向かって行われていない競争がいけないのです。
例えば、金持ちやセレブが豪華に海外旅行に行っている映像をみながらポツリと「あ~、皿洗いやら掃除なんかせんくて、お手伝いさん雇って、あんなリゾートでのんびり贅沢したいわ~」と発言したことを子供はどう捉えるでしょうか?
「お母さんは、贅沢することが幸せと考えているなら、贅沢できるように、お金を沢山稼がないとあかん」
と考えるわけです。
「そのお金の稼ぎ方」には気が行き届かないのです。
ぶっちゃけ、銀行強盗したり、違法な振り込め詐欺をしてでも効率よく、大金を手に入れれば、お母さんに贅沢させれて、幸せになってもらえるという考え方になるのです。
違いますよね?
つまり現代社会というのは、「己の欲望を叶えること=幸せ」というマスコミが作った価値観が蔓延しています。
ですから、目的を果たすために手段は択ばない、「ぶっちゃけ不正や悪事を働いても金と権力を手にしたものが勝ち組である=幸福である」と心の奥底では考えている人々ばかりなのです。
そんな人たちが集まった社会で生きていくのは本当に難しいです。
相手を利用してやろうとする「打算的な考え」が混じった社会で生きていくのですから。
何が本音で何が建前かわかったものではありません。
そんな社会で生活していくため、脳には強いストレスが生じてきます。
そして、ついには「働くこと」「金を稼ぐこと」「家族を食べさえること」「休みに旅行にいくこと」「贅沢すること」といった物質的な活動を通して得られる喜びだけが目的になってしまい、「その時だけ」しか幸せを感じることができなくなります。
すると、脳に強い負荷がかかり、まずは心身症という形で病気、体調不良が現れます。
交通事故や転落してケガしたというような外傷以外で病院に行っても、医者はその原因を特定することはできません。
ただ、体の中で異常炎症が起きている、それらの炎症によって体内臓器や皮膚などが攻撃を受けて病的状況になっているということしかわからないのです。
つまり現代の病気とはほとんどが「心の問題から起因する」と考えられのです。
心の問題は何らかの形で、まず体に現れるのです。
それを放置すると、症状が重症化していき、原因となる心の問題にアプローチしたとしても症状がすぐに改善しなくなってしまう。
不安や悩みがあれば、心臓は知らず知らずのうちにバクバク働きます。
そんな状態が続けば、血管が損傷され、臓器にも影響が来るでしょう。
臓器が上手く機能しなくなれば、倦怠感に襲われ、何もしたくなくなるかもしれない。
それこそ、今度は脳が異常適応して、現実に向き合わなくなるはずです。
「何もしたくない」「私は悪くない、私に責任はない」といった考え方が浮かんできて、それが固着してしまうのです。
それこそ、心の問題の表在化に繋がってきます。
私たちはこの隠れた臓器「脳」について詳しく知らなくてはなりません。
その脳を使ってどのように生きれば幸せになれるのか?もう一度考えてみる必要があると思います。
人生をどのように生きれば良いのか?ヒントを転載いたします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(本当の自由とは。本当の幸福とは。悪魔の作った偽物の宗教に騙されないために幾つか知っておくべきこと。Posted at 19:51h in Society by rapt 15 Comments Share 18.04.56)
(中略)
そんなことよりも、その宗教の教えによって自分自身の徳が高くなるかどうかがより大きな問題なのです。
宗教を信じる目的は、奇跡を起こすことではありません。幸福になることでもありません。まして、自分の願いを叶えることでもなければ、自分の悩みを解消することでもありません。
はっきり言って、自分の徳を高めさえすれば、自然と幸福になれるし、自然と自分の願いも叶えられるし、自然と自分の悩みも解消することができます。
しかし、人々はそこのところがよく分かっていません。そのため、先ず最初に幸福を手に入れようとし、欲望を満たそうとし、悩みを解消しようとしますが、そんなことだから、いつまで経ってもかえって何も得られずに苦しみつづけることになるのです。
では、徳を高めるとはどういうことなのか。一言で言うなら、それは「完全な人になる」ということです。
人の心は「知・情・意」から成り立っていると一般的には言われています。「知」とは「知識・学問」のこと、「情」とは「人情・感情」のこと、「意」とは「意志・倫理」のことを指しています。
こういったものを育て伸ばしていくこと、そして完全にしていくこと、それが「完全な人になる」ということです。
もっとも、この世の中で「完全な人になる」のはとても難しいものです。この世の中が余りに邪悪なので、自分一人だけ完全になろうとしても、実に様々な壁にぶつかってしまうからです。ときに自分を作るなど不可能だと思えることもあります。
しかも、この世のほとんどの人たちが「人間が完全になれるわけがない」と言います。キリスト教の牧師の中にすら平気でそんなことを言ってくる人がいます。「あなたが完全でなくても神様はあなたのことを愛しておられる」などと言ってその場限りの気休めを言ってくるわけです。聖書にははっきりと「完全な人になりなさい」と書かれてあるというのに。(マタイによる福音書5章48節)
もちろん、神様は私たち人類のことを基本的には愛してくれています。それは確かな事実です。しかし、本当に神様に愛されるためには、やはり人間がそれなりの努力をしなければなりません。
例えば、ある親に二人の子供がいて、そのうちの一人は自分を伸ばそうと努力もせず、毎日のように遊びほうけて生きていて、もう一人は勉学に励み、自分を磨こうと懸命に努力していたとします。果たしてその親はどちらの子供をより愛するでしょうか。
答えは明白です。後者をより愛し、その子の願いをもっと聞いてあげようとするはずです。
神様もこれと同じです。ある人が自分を完全に作ろうと努力するならば、神様はその人のことをより愛し、その人のためにもっと何かをしてあげようとします。
しかし、悪魔どもは巧妙にこの宗教の本質をすり替えてしまいました。彼らは先ず人々の前で「奇跡」を起こして、その「奇跡」を売り物にして宗教を信じさせようとします。あなたが善い行いをしようとしまいと、この宗教を信じれば何かいいことがあるよ、幸福になれるよ、といって宣伝するわけです。
そのため、この世のほとんどの宗教は、どんなに熱心に信じても、本物の善人を生み出すことができません。
この世の中には実に多くの宗教が氾濫していますから、本当ならマザー・テレサのような聖人がもっと数多く出てきても良さそうなものですが、現実にはそうなっていません。
それがなぜかといえば、この世の宗教の大半が腐りきっているからです。この世のほとんどの宗教の中枢に悪魔を拝む連中がいて、宗教の本来の目的をねじ曲げてしまっているからです。だから、この世の宗教のほとんどが完全な善人を生み出すことができないのです。
善人を生み出せない宗教、完全な人を生み出せない宗教に、果たして何の存在意義があるというのでしょうか。
私個人としては、自分を完全に作ってくれる人、自分を完全につくれる教えを説いてくれる人でない限り、むやみやたらと敬ったり、崇めたりすることはありません。ましてその人の後をついていくようなこともしません。
この世では「天皇」や「ローマ法王」が最も偉いということになっているようですが、「天皇」も「ローマ法王」も私を完全な人間に作ってはくれません。彼らがそのような教えを説くこともありません。
「天皇」はただ誰かの作った原稿を棒読みするだけですし、「ローマ法王」に至っては「同性愛者を歓迎する」などとトンチンカンなことを言っています。幾らそんな話を聞いたところで、自分を完全な人間に作ることはできません。
ですから私は、彼らのことを信じることも敬うこともしません。そんなことをする気にもなれません。
ましてや「チベット仏教」や「密教」のように性的なものを推奨するような宗教など論外です。そんな宗教は最初から信じるに値しません。
宗教に限らず、セックスをしないと人間がダメになる、性欲がない人間はダメだ、みたいなことを言っている人もみんな同じです。欲望というものは、なければないに越したことはありません。ない方がずっと楽です。
もし仮に欲望を持つとしても、自分を作ることに欲望を燃やせばいいのです。
それ以外の無駄な欲望を持って生きるから、満たされない心も大きくなり、満たされない心が大きくなるから、不平・不満が大きくなり、心配も悩みも増えていくのです。
しかし、最初から無駄な欲望がなければ、不満や不平も生じませんし、誰かを嫉妬したり恨んだりすることもなく、むしろ自分のやるべき仕事に没頭できるようになります。よそ見をすることなく、まっすぐに生きられるようになります。
そうすると、無駄なことを全くしなくなるので、それだけ時間を有効に使うことができるようになります。人が二時間かけてやることを一時間でできるようになります。そうすると、その人は他の人よりも二倍長く人生を生きたも同然です。長生きしたければ、そのように生きればいいのです。
そもそも、世的な欲望の強い人を誰が尊敬するでしょうか。中にはそういう変わり者もいるかも知れませんが、一般的にはそういう人は誰からも尊敬されることはありませんし、むしろ誰からも見下されるのが落ちです。
悪魔崇拝者たちもそうと分かっているからこそ、淫乱な儀式を人に見付からないように陰でこそこそと行っているわけです。で、自分の惨めさを慰めるために、性的なことを無理やり人にも薦めたりしているわけでしょう。
性的なことを行ってストレスが解消したり、一時的に悩みから解放されたりしたとしても、性的なことに中毒になったら、それだけでその人は人間として終わりです。そして、この世の多くの人たちがそのことを理解できず、悪魔の理論に騙されて、どんどん性的なところに流されていっています。
本当に哀れな人たちです。そうやって「できちゃった婚」などして自分の人生をダメにしている若者たちを見ていると、こっちまで情けない気分になります。
そんな悪魔の理論に騙されないためにも、私たちは自分を作ることに努力するべきです。「知・情・意」を開発する努力をすべきです。そして、そのような努力を続けている限り、悪魔の理論に騙されることは決してありません。
なぜなら悪魔は、人の体を支配することはできても、人の心まで支配することはできないからです。そして、そのような状態になってこそ、人は初めて真の幸福、真の自由を得たと言えるのではないでしょうか。
少なくとも、私自身はそう考えて、悪魔の罠から自分を守っています。
僭越ではありますが、今日は悪魔から自分の身を守る方法について述べさせていただきました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
見えない心とは、こういった様々な「欲望」が満たされないことによって生じる脳に対するストレス反応のことを意味しています。
こういった「欲望」を人間は他人に伝わらないように「隠す」のです。
「隠しているから」見えないのです。
「欲望」の無い人は「隠すことをしない」のです。
全てオープンにする必要はないと思いますが、頭の中に、脳内に俗的な考えや性的な考え、欲望まみれの思考がなければ、別にオープンにしていても問題なさそうではありませんか?
精神科看護では、こういった人間が脳の中に隠し持っている「欲望」を探り出し、その欲望が叶えられないことによっておこるストレスやを見ていくのです。
そして、その欲望を持たないことが本当は幸せになる第一歩であるという等身大の生き方、目標を持ってコツコツ努力していくこと、心の成長を助ける事が重要になってきます。
今回のテーマは見えない心をどのように看護するのか?ということですが、少しはお判りになったでしょうか?
精神科で麻薬のような向精神薬を内服することが重要なのではありません。
RAPT有料記事74(2016年6月6日)体の垢を洗い落とすように、自分の罪を毎日悔い改めなさい。
上記記事のように、毎日、心の整備点検をすることが大切なのです。
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