<”忠臣”錦織剛清が旧主君・相馬誠胤を1887年(明治20)1月31日、東京府癲狂院(のち東京府巣鴨病院)から連れ出すところ。1892年(明治25年)は、相馬事件がとくに騒がれた時である。青色の衣服を着た人物が赤い敷物へと逃げていく様子(青:出雲族、赤:秦氏>
今回は、精神科医療、精神科看護の領域を勉強していると何かと耳にする「相馬事件」についてです。
まずは時系列で簡単にまとめましたのでみていきましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・(相馬事件 相馬誠胤(そうまともたね)の年齢を()内に表記。)
・1852年に産まれる。
・1858年7月23日、(6歳)相馬充胤の嫡子となる。
<相馬充胤(そうまみちたね)>
・1865年3月15日(13歳)将軍徳川家茂に拝謁する。同年4月24日、父・相馬充胤の隠居により、家督を相続する。
・1868年に(16歳)奥羽越列藩同盟に参加して戊辰戦争を戦う。
・1868年2月、明治政府に降伏して中村城は陥落。同ねん8月9日には父・相馬充胤とともに長松寺に入り、謹慎した。
・1869年6月(17歳)で中村藩知事となる
・1871年7月(19歳)に廃藩置県によって知事を免職となる。
・1872年(20歳)相馬誠胤は福沢諭吉が設立した慶應義塾に通学。
・1876年(24歳)で現代でいう緊張病型統合失調症と思われる精神疾患が発病。
・1879年4月(27歳)相馬家の親族は相馬誠胤の自宅監禁を宮内省に申請して許可。
・相馬中村藩の自宅で監禁生活を送ることとなる。
・1883年(31歳)錦織剛清ら旧藩士の一部が相馬中村藩を提訴し始める
・1885年12月10日、旧中村藩士錦織剛清は、財産横領をはかる異母弟相馬順胤らの不当な監禁であるとして、誠胤の解放などを申し入れた。(いわゆる相馬事件の始まりである)錦織は相馬家を不法監禁・財産横領で告訴した。
一方、相馬家も弁護士・星亨を雇い、錦織を誣告罪で告訴した。
・1884年7月17日(32歳)から1885年7月20日(33歳)まで東京府癲狂院に入院
・1887年3月10日から4月19日(35歳)東京府癲狂院(中井常次郎院長)に入院。
・1887年(35歳)には、錦織は東京府癩狂院から相馬を脱走させた
・1892年(40歳)相馬誠胤、白宅で糖尿病で死去
錦織剛清は相馬誠胤の死を毒殺であると訴え、遺体解剖が行われた。
しかし解剖の結果、毒殺でないことが判り、錦織は誣告罪(ぎこくざい・虚偽告訴罪)で重禁錮4年の刑が確定するに至った。
という経緯を辿っています。
参考:48.相馬事件:スクリバの鑑定書(1)(http://sisoken.la.coocan.jp/edotokyo5.html)
[資料]相馬事件について(https://www.jspn.or.jp/modules/forpublic/index.php?content_id=19)
・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
こうして時系列でまとめてみると不可解なところが多いです。
相馬誠胤は、24歳で発症し、27歳で地元に連れ戻されます。
そして相馬誠胤31歳の時に、お家騒動が勃発します。
錦織剛清が、相馬藩の陰謀を訴えます。
被告は、「作家志賀直哉の祖父で、相馬藩の家老であった志賀直道」。
志賀直道は宮城県石巻市生まれ、つまり仙台藩伊達家の藩医者の家系が志賀家となります。
(志賀直道の息子、志賀直哉の父である、志賀直温(しがなおはる)は明治26年(1893年)の総武鉄道創立に関与し共同経営者だった相馬藩士の青田綱三を社長に立て、自らは会計(後日専務取締役に就任)となって経営は順調に推移し成功を納めています。こちらから転載)
「伊達家の一派志賀氏が福島県(相馬中村藩)の乗っ取りを画策した」これが相馬事件なのかもしれません。
相馬誠胤側の「錦織剛清」がタッグを組んで医師「後藤新平」と共に徹底抗戦します。
ここで一旦整理すると
◎相馬中村藩は(伊達家の志賀直道側)は医師弁護士の星亨を雇い、相馬誠胤を追い出そうとした
◎錦織剛清は主君「相馬誠胤」を立てて、後藤新平と組んで相馬氏存続を図った
その過程で、主君相馬誠胤を1887年に、錦織剛清が東京府癩狂院から脱走させたことを英雄視して「相馬事件」としたことになります。
このお家騒動はどうなったでしょうか?
1892年に錦織剛清は主君相馬誠胤の怪死を「毒殺だ」と訴えますが解剖しても毒薬成分が検出されず、虚偽申告罪で重禁固4年の刑を受けます。
つまりその後の相馬中村藩は伊達家が乗っとることになります。
そして、織剛清を補佐したのが、麻薬王の後藤新平なのですが、この人物はもともと仙台の伊達家出身で医師高野長英の子孫で水沢伊達家の派閥の人物です。
つまり、宮城県、仙台藩伊達家の内紛が相馬中村藩に飛び火した形になっているのです。
志賀家VS後藤家の争いです。
・志賀家は渦中の「相馬誠胤」を精神病院に送り込んだ。
・後藤家は錦織剛清と組んで「相馬誠胤」を精神病院から奪還した。
ここで不可解な点があるのですが、そもそも東京に遊びに行っていた、相馬誠胤の私宅監置を申請したのは「相馬中村藩」であり首謀者の志賀直道であるということ。
その後、東京府癩狂院に送ったのも「相馬中村藩」奪い返したのが錦織剛清と後藤新平。
一体何があったのかという話になりますね。
これはお家騒動を有利に進めるために、一端は福島県(相馬中村藩)に幽閉した相馬誠胤が問題が起こったため、慌てて東京に幽閉したと考えられます。
相馬誠胤の顔を見れば、情が働きますから、錦織剛清側が有利になる。それを恐れて、志賀直道が相馬誠胤を東京の精神病院に幽閉した。
そうすれば戦局は志賀直道側に傾く、それを阻止するために、錦織剛清が相馬誠胤を東京から福島県(相馬中村藩)に連れ戻すということであったのだと考えられます。
確かに、藩主の相馬誠胤が気が狂ったとして地元の座敷牢で幽閉していて、志賀家にとって有利な人事をしていては、相馬誠胤派の家臣が不信に思います。
ですから、治療と称して東京の精神病院に送り込み、乗っ取り工作を勧めるのは自然の流れです。
この結果、錦織剛清が虚偽申告剤で禁固4年で幕を閉じます。
結果として、1900年に「精神病者監護法」という法律が制定され、「お家騒動は各家でやってくださいね」ということになります。
つまり、金持ちや貴族にとっての精神病というものは、
「家督相続時、やっかいな人物を追いやるための理由づけである」
ということを政府が認めたことになります。
実際のところ、相馬誠胤(そうまともたね)は精神病院で監禁されて、麻薬漬けにされていたのかもしれません。そして40歳という若さで不審死をしています。
ここからは相馬事件のスピンオフ、そして核心です。
伊達家出身、高野長英の子孫で医師であり、台湾アヘン(ヘロイン)問題対策、星製薬との疑惑の持ち主であり、満州鉄道初代総長の「後藤新平」というフリーメイソンが錦織剛清とともに裁判を戦いました。
「星亨」は志賀直道側の弁護についた。
「後藤新平」は錦織剛清側を助けた。
一見、「星亨」と「後藤新平」は相馬中村藩のお家騒動で争っているように見えます。
しかし、
星という苗字は、星氏といい、相馬中村藩に仕えた氏族にも”星”氏が存在します。
この弁護士の星亨はその後も何かと相馬中村藩現在の福島県に関わる訴訟事件の担当弁護をしていますから、相馬中村藩に仕えていた星氏とかかわりがあることは容易に想像がつきます。
そして、日本国内で初めて「アヘン」を自国で製造する技術をアメリカから持ち帰ったのが「星製薬創始者の星一(ほしはじめ)」
台湾の阿片政策で巨万の富を得たのが、後藤新平。
その記事についてはこちら。
・・・・・・・・・・・・・・・(「阿片漸禁」による「専売」で「百六十万円の収入増」立案)
さらに重大な問題が、巧みに隠蔽または偽装されたまま、最近まで事実上、アカデミズムに無視されてきた。後藤らは台湾の産業開発に先んじて阿片専売による巨利を企み、成功していたのである。
阿片の吸飲は日本国内では厳禁だった。
中国本土でも禁止運動が広がっていた。
それを知りながら、後藤は、台湾では阿片を禁止せずに「漸禁」の専売政策を実施し、「医療用」に専売したのである。
「漸禁」の名による阿片許可の政策は、財政目的だけではなくて、現地人を阿片漬けにし、反抗を押さえる目的をも合わせ持っていた。
イギリスと中国の阿片戦争の例を引くまでもなく、阿片は歴史的に、植民地支配の根幹としての役割を果たしてきたのである。
しかも後藤は、実は、一般に流布されている経歴の説明とは違って、いきなり「民政局長」に任命されたのではなかった。
その二年前の一九八六年に「台湾総督府衛生顧問」になっていたのである。
そうなった理由は、そのさらに前年の一九八五年、内務省衛生局時代に、内務大臣と首相兼台湾事務局総裁という立場の伊藤博文に対して、大変な長文の「台湾島阿片制度施行に関する意見書」を提出していたからであった。
後藤がまとめた阿片「漸禁」政策は、実は、かれの創意になるものではなかった。
すでに台湾総督府の前任者から、阿片を厳禁すると、現地の反抗を押さえられないという意見が上がっていた。
現地の中国人社会の実情は、本来の台湾人に阿片を売り付けることで成り立っているような、一種の植民地型の経済支配であった。さきに記したように、「地主などの上流層を宴会政治で籠絡した」と表される警察型の支配政策は、現在も日本国内で続いている警察と暴力団の馴れ合いのようなものである。
・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
福島県相馬中村藩の相馬事件で関わっていた後藤新平は「アヘン(ヘロイン)」でぼろ儲けしています。
そして、福島県いわき市出身の実業家、星一(ほしはじめ)。
そして、相馬中村藩の志賀直道を弁護した「星亨(ほしとおる)」
この3人物は福島県(相馬中村藩)を拠点に関わりを持ち、さらに「後藤新平」と「星一」は阿片(ヘロイン)製造やヘロイン政策にかかる重要な役割をしています。
さらに、後藤新平のwikipediaには以下の記事があります。
・・・・・・・・・・・・・・・(後藤新平 フリーメイソンリーとの関係)
文化人類学者の綾部恒雄によれば、後藤新平はフリーメイソンであった。
フリーメイソンリーを「国際的なつながりをもつ様々な職業のトップエリートによる最高度の情報交換のネットワーク」とする中田安彦は、後藤新平がドイツ留学中、1892年の第5回万国赤十字会議に日本赤十字社委員として出席するまでにフリーメイソンリーの一員として迎え入れられていたと見ており、「後藤が赤十字という国際結社を通じてフリーメイソンに入会し、その後、日本を代表する“黒幕”として時の権力者に献策を続け、それが時には成功し、時には失敗した」としている。
ボーイスカウト運動はフリーメイソンリーとの関係が深いが、後藤新平が「少年団日本連盟」(現在の財団法人ボーイスカウト日本連盟)の初代総裁となったのも、フリーメイソンリーとのつながりからであろうとしている
・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
後藤新平が、日本赤十字社とフリーメイソン、そしてボーイスカウトまで繋げている重要人物であることがわかります。
福島県生まれの星一がヘロインを日本国内製造を持ち込む。
福島県相馬中村藩志賀家を弁護する星亨。
錦織剛清に協力した台湾ヘロイン政策をした後藤新平。
これらヘロインビジネスを展開している人物たちが、この「相馬事件」に関わっているのです。
そして、相馬事件とは精神看護学では1900年に「精神病者監護法」という日本国における最初の精神病患者への処遇を示した法律となっていますが、実際は私宅監置を認めたお粗末なものでした。
その陰には、相馬中村藩内で勃発した、伊達家の乗っ取り騒動であったのです。
そして、現代では相馬家は麻生太郎と繋がっています。
福島第一原発が旧相馬中村藩領地(麻生の義弟・甥のお膝元)ということがひっかかるし、だんだんキリがなくなってくるけど、麻生グループの資料にも相馬の甥がでてきていたり…。特権階級の「私物国家」にされている。 pic.twitter.com/a9v5sHMmPp
— ᴹ ⁰ ₁ ⁷ (@q_MW_p) 2018年12月20日
そして、麻生太郎が諸悪の根源であることは言うまでもありません。
・・・・・・・・・・・・・・・(相馬氏ウィキペディア)
”第33代当主・相馬和胤の母・雪香は尾崎行雄の娘、妻・雪子は麻生太郎の妹である。”
旧相馬中村藩領は、平成23年(2011年)の東日本大震災で打撃を受けた上、その一部に建つ福島第一原子力発電所の事故によって小高以南が立入禁止区域となった。これに伴い、旧藩主家とその一族は一時北海道へ移った後、第34代・相馬行胤の代になって広島県東部にある神石高原町へ集団移住した。
・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
「尾崎行雄」について知りたい方はこちらをどうぞ。↓↓
NWO(世界統一政府)の提唱者がフリーメーソンであり、日本人であるという確たる証拠。
私たちの生活を苦しめ続ける人物、麻生太郎の悪事について詳しく知りたい方はこちらをどうぞ
「麻生太郎」こそ人工地震「3.11」と「熊本地震」を起こした主犯格である可能性大。
そして、後藤新平こそが、関東大震災でぼろもうけした人物でもありました。
・・・・・・・・・・・・・・・(月間事業構想2015年12月号 関東大震災から東京を復興させた 「国家の医師」後藤新平“謀反人の子”と蔑まれて)
関東大震災後、復興された東京・昭和通り江戸橋付近。新平の震災復興構想は、100年先の日本を見すえた壮大なプロジェクトだった
(写真提供:後藤新平記念館)
新平は、1857年(安政4年)、陸中国肝沢郡塩釜村(現岩手県水沢市)の水沢藩士の家に生まれる。後藤家は、代々仙台藩の出城のある岩手県水沢市で、城主留守氏の家臣だった。
ところが、大叔父にあたる蘭学者・高野長英(1804-1850)が幕府の鎖国政策を批判したことから謀叛人として捕らえられ、脱獄して逃亡し、自刃する事件がおこる。この長英と容貌も性格もそっくりだった新平は、幼いころから“謀反人の子”と蔑まれて育つ。悲運は追い討ちをかける。水沢藩などの奥州越列藩同盟は、戊辰戦争(1868-1869)で薩長を中心とした官軍にやぶれると後藤家も“朝敵”の汚名をきせられ、平民に落とされる。そして帰農したまま明治をむかえる。新平の人生はまさに敗北から始まった。
新平の家は貧しかった。「下駄はちんばで、着物はぼろよ。心綿の書生さん」。かれの歌までつくられたくらいだ。しかし不遇な境遇で育ったことが、この少年に「いまにみてろ」と反骨精神を宿らせた。少年は勤勉努力することで克服することを学んでいった。
新平の生家は寺子屋を開いており、10歳にして論語を学ぶ。そして明治維新後12歳になった新平は、1869年(明治2年)に新たに水沢に置かれた胆沢県の給仕の職をえる。役人宅に住み込み、玄関番や雑用をするといった下働きだ。新平が仕えたのが、肥後熊本藩出身の大参事(副知事)安場保和(1835-1899)だった。そしてそれがかれの幸運だった。
「あの少年には、みどころがある。きっと大物になるだろう」。安場は新平をひきたてた(のちに安場の美しい娘を妻とする)。そして当時よく耳にしていた安場の口癖が、そのまま新平にとっての問題解決の際の「判断基準」となった。それは安場の師である横井小楠(1809-1869)の言葉だった。
「政治は、万民のためを判断基準とする王道を歩むべきで、権謀術数による覇道は排すべきだ」。つまり「パブリックの精神」を忘れなければ判断は誤らないというものだ。この教えは新平の心にしみ、かれの価値観をつくった。ここでいう「パブリックの精神」とは、たんに「公共」というよりも、渋沢栄一のいう「私利を追わず公益を図る」に近い。
のちに新平は、関東大震災の際、自分の屋敷を多数の人の避難所として開け放って炊き出しをし、また身内には“冷や飯食い”をさせても、重用はしなかった。かれは終生「パブリックの精神」を忘れることはなかった。
その後、地元の医学校で猛勉強し、はれて医師となった新平。24歳で愛知県病院長となる。翌年、自由党総裁の板垣退助(1837-1919)が暴漢におそわれる事件がおこり、新平はその手当てにあたる。「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉を残した事件だ。このとき板垣は、新平の人物を見抜き、かれが政治家でないことを大いに残念がった。
「個々の病人をなおすより、国をなおす医者になりたい」。1883年(明治16年)、新平は内務省衛生局に入る。26歳のときだ。新平は著書『国家衛生原理』のなかで、「国家は生命体である」ととなえ、それを行政官としての原点とした。さらに新平は早くから「予防医学」の重要性を訴え、とりくんでいた東京の下水道整備はかれのライフワークになっていく。
33歳になった新平は、多額の借金をし、2年間ドイツに留学する。そして“新知識”をえて帰国した新平は、1892年(明治25年)に衛生局長となり、公衆衛生行政の基礎を築いていく。その後、日清戦争の帰還兵のためのコレラ上陸阻止プロジェクトで世界的な実績をあげ、1898年(明治31年)から8年間、台湾総督府民政局長をつとめる。
このとき島民の反乱をおさえ、産業の振興や鉄道の育成を図り、破綻にひんしていた台湾を見事によみがえらせる。この実績を買われた新平は、1906年(明治39年)に、日露戦争(1904-1905)の勝利でえた南満州鉄道の初代総裁となり、今度は満州の「都市づくり」に取り組むことになる。
これら植民地経営に手腕をふるった新平。1920年(大正9年)には汚職で疲弊しきっていた東京市の市長となる。
そんななか、1923年(大正12年)にあの関東大震災(M7.9、死者10万人、焼失43%)がおこる。
新平は、山本権兵衛(1852-1933)内閣のもとで、帝都復興院総裁として震災後の復興にあたり、帝都建設に着手する。
台湾も満州もかれにとっては「実験」に過ぎなかった。いよいよ帝都東京で理想の「都市づくり」に腕を振るえるときがやってきたのである。がしかし、ここでも権利意識ばかりが強い反対勢力によるすさまじい抵抗にあい、かれとかれの構想を打ち砕こうとするのであった。
国家は生きもの
「国家は生きものである」。新平の変わらぬ哲学だった。もしも国が病にかかったら治す手立てを講じなければならないし、国が生命体である以上、その “血管”である道路網や鉄道網、それに下水道の整備も不可欠だ。災害対策だって同じことだ。
「地震は何度でもやってくる」「大きな被害を出さないため、公園と道路をつくる」。
新平の震災復興構想は、100年先の日本を見すえた壮大なプロジェクトだった。それは綿密なビジョンと技術に裏付けられたものだった。新平は、関東大震災後に内務大臣として入閣し、「帝都復興の議」を提出。帝都復興院総裁も兼務し、壮大な都市建設にとりかかろうとしていた。ところが、台湾や満州のようにはいかない。
トップダウンがきかないのだ。薩長中心の藩閥政治では、ただでさえ“朝敵”とされた外様。さらには高橋是清(1854-1936)ら地主閥を背景とした反対勢力による猛反発にもあう。かくしてかれの事業構想は大幅な予算カットを余儀なくされてしまう。
政治家というよりも医師である新平に、政界での“根回し”などできるはずもなく、空気も読まなかった。また下戸の新平に政治家への“接待”などできるはずもない。
結局、かれの東京市改造計画案は“大風呂敷”と酷評され、40億円の震災復興計画は規模、費用、計画主体などすべての面で後退をせまられた。新平の理想はすべてを実現することはできなくなった。
ドイツ留学中の後藤新平。師事したローレンツ博士からは「国家有機体論」を学ぶ(写真提供:後藤新平記念館)
昭和天皇は、自ら体験した関東大震災の60年後に、つぎのようなお言葉を遺している。
「震災ではいろいろな体験はありますが、ひとことだけいっておきたいことは、復興にあたって後藤新平が非常に膨大な復興計画を立てた。もし、それがそのまま実行されていたら、おそらく東京の戦災(東京大空襲)は非常に軽かったんじゃないかとおもって、いまさら後藤新平のあのときの計画が実行されなかったことを非常に残念におもいます......」
挫折しながらでも、何かを残そう
しかし、そんなことでひるむような新平ではなかった。もともと敗北から始まった人生である。「挫折しながらでも、何かを残そう」。それからの新平は「区画整理」のただ一点にかけ、腹心の東京市長とともに実施した。
全身治療が無理ならせめて根幹部分の外科手術だけでもほどこそうと考えたのだ。しかしそれは、既成市街地としては世界初の画期的な試みであった。
新平の帝都建設の狙いは、江戸の歴史をひきずってきた非近代的都市を「燃えない近代都市」につくり変えることにあった。
「民」代表の渋沢栄一も、「大東京の再造には、武門政治的(軍事的)な都市でなく、商業本位の都市にしたい」と新平を全面的に後押しした。しかしそれは焼土をすべて買い上げたうえ、そこに全面的な「区画整理」をほどこし、広い街路や公園や不燃の建造物を建設するというものだった。そのためには、地主たちからは1割の土地を供出させる必要がある。当時大きな勢力をもっていた地主たちが納得するはずはなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
相馬誠胤(そうまともたね)側の錦織剛清についた後藤新平、相馬氏の末裔に妹を嫁がせた麻生太郎。
関東大震災でぼろ儲けした後藤新平。それを受け継ぐ麻生太郎。
「挫折しながらでも、何かを残そう」。それからの新平は「区画整理」のただ一点にかけ、腹心の東京市長とともに実施した。」とあるように、彼らは時代を超えて、災害復興という名目で自然災害という嘘をついて、人工地震を引き起こし、土地強奪という利権を産出し、暴利を貪っていたのだと考えられます。
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