ヒットの影には理由がある。世の中でブームを起こすのは、必ず火付け役がいる。
ということで、今回は瀬戸内寂聴の付き人が話題になっているためどのような人なのか調べたところ、
まだ、出自は少なくこれといった情報がありませんでした。
お笑い芸人が平凡な作品で賞をとる、単なる付き人がヒットメーカーとなる、文学界の堕落は下げ止まりなく、さらにこんな不自然なことはありません。まずは、何かとメディアの中心的な僧侶となっている瀬戸内寂聴を調べていくと、彼女自身は旧姓「三谷」家から「瀬戸内」家に何らかの理由で養子縁組していること、瀬戸内家が「塩田の父」と呼ばれ徳川将軍家傍流の高松松平家に仕えた久米通賢(くめみちかた)を先祖に持つ家系であることがわかりました。
彼女自身の出自は良く、「単なる水商売出身の尼さん」ではないことがわかりました。
また、瀬戸内寂聴の元夫が、酒井悌なる人物で、国会図書館の副館長まで登り詰めている人物でした。
・・・・・・・([図書館] 国立国会図書館副館長酒井悌)
秦郁彦『昭和史の謎を追う 下』の「第27章熊沢天皇始末記(上)」によると、
CICが「偏執狂的」と評価したのは、必ずしも的外れではなかった。二十二年に入ると、熊沢一派の対GHQ運動は一段と高揚する。八月十日付で、マッカーサー元帥あてに第二の請願文が発送された。(略)
この請願文は酒井悌(のち国立国会図書館副館長)が、GHQにいた日系二世の友人から入手したものだが、「吾々の南朝再興に関する請願も愈々其最後の段階に達したと思います。それは最近強まって来た天皇退任説であります」と書き出している。
・・・・・・・・(転載ここまで)
GHQから文書請求できるほどの重要人物のようですね。
この酒井梯子という人物に関してのほかの記事もあります。
・・・・・・・(「図書館事業基本法」問題)
東條● 同じ頃に「図書館事業基本法要綱案」[注32]が出るんですよね。当時、昭和五六年の『図書館雑誌』に栗原さんが毎号経過報告を書かれています[注33]。僕らもその後反対したけれど、反対運動があってつぶれたというのはどうも怪しいんですが。あれ元々はどこから出てきたんですか。
栗原● まず、私が日図協に着任した直後の昭和五三年に図書議員連盟(図議連)[注34]が発足した。国立国会図書館の副館長酒井悌[注35]さん、あるいは総務部長の高橋徳太郎さんらのお働きかけがあったのだと思う。国会図書館は創立三〇周年に当たり全国的に図書館の機能と運動を国会議員に理解してもらい支援を得たいと考えてのことだったでしょう。高橋徳太郎さんを偉いなと思ったのは、総務部長やっていた高橋さんのところへ行くと「栗原君、衆議院の議運委員長の何とか先生がこれから外国に行くから、成田まで送りに行かなければならない」。翌日行ってもまた別の人を送ることを言っているわけだ。加えて、「向こうへ行ったら国立図書館に寄ってください。そこの図書館長にちゃんと連絡しときますから」と、図書館のことをどうにかして議員に理解してもらおうとしている姿に感心していた。図議連をつくったのもそういうことね。国会図書館だけでなく全国のさまざまな館種の図書館のことを議員が頭に入れられるようにしようと、案をつくったんですよ。それはもちろん酒井副館長と高橋総務部長のご努力でしょう。お二人が岸田實館長にこういうことをしたいと言った時、岸田さんが、「それもやってご覧なさい」と言ったに違いない。「栗原さん、図書館の人が国会議員に図書館のことをホントに解ってもらうようにしなくちゃだめですよ。やれることをやってください」と岸田さんは言ってくれましたからね。
・・・・・・・・(転載ここまで)
ここでも酒井梯が出てきます。国会図書館の副館長まで登りつめる人物はただものではなさそうですね!
続いて、瀬戸内と酒井の関係についてです。
・・・・・(2011-04-30■[図書館]瀬戸内寂聴の夫だった酒井悌国会図書館副館長)
高見順の日記に、昭和38年4月3日 上野図書館長が瀬戸内晴美さんのもとの亭主だったと言う。彼女から妻が聞いたと言う。この人は私の印象では、実にいい人だった。とある。この頃の国会図書館支部上野図書館長は、酒井悌である。酒井の経歴を『図書館関係専門家事典』や『簡約日本図書館先賢事典』などで見ると、
酒井悌 さかいやすし 大正2年9月1日徳島市生
昭和14年 大東文化学院研究科修了、外務省留学生(29歳)
15年 国立師範大学
19年 輔任大学専任
20年 国立北京大学助教授
22年5月 参議院事務局調査部
23年 国会図書館
25年2月 考査奉仕課長
29年6月 運営課長
33年8月 庶務課長
34年6月 会計課長
37年4月 支部上野図書館長
41年4月 連絡部長
47年4月 参考書誌部長
48年6月 総務部長
52年12月 副館長
55年3月 退職
平成4年2月28日 没。死亡時、全国学校図書館協議会会長、金沢工業大学理事。喪主は妻緑。
一方、瀬戸内の年譜によると、寂聴は、
昭和17年8月 見合いをして婚約(酒井悌)
18年2月 徳島で結婚。夫は北京に単身赴任
18年10月 北京に渡る
19年6月 輔仁大学学長細井二郎宅に仮寓の後、輔仁大学の教員宿舎に転居
<1967年 | 愛知東邦大学 東邦学園 ..第2代細井次郎 短大学長就任>
20年6月 夫が現地召集
8月 終戦。夫帰宅
21年8月 親子三人で、徳島に引揚げ
22年秋 一家三人で上京
25年2月 正式に協議離婚
このほか、寂聴の「場所」には、夫は外務省留学生として北京に渡ったとか、寂聴(大正11生)より9歳年長とある。これらにより、寂聴の夫は酒井だったと確認できた。
このことは、寂聴の年譜、奥田富子『瀬戸内寂聴伝』(日本文学館、2010年8月)やネット上には出てないと思っていたが、よくよくググったら自称「悪の図書館ブログ」の管理人の誰ぞが言及していた。→「書物蔵」。どうやって、知ったのだらう?
寂聴の年譜などに記載のないのは、プライバシーの問題というより、国会図書館副館長といっても、館界以外の人にはただの人だからということかしら。
・・・・(転載ここまで)
続いて、瀬戸内の作家としての来歴です。
・・・・・・・(瀬戸内寂聴)
S21 1946年の帰国後、夫の教え子と恋に落ち家を出る。大翠書院などに勤めながら初めての小説「ピグマリオンの恋」を投稿する。
S25 1950年に正式な離婚をし、本格的に小説家を目指して三谷晴美のペンネームで活動を開始、
S 31 1956年に処女作「痛い靴」を『文学者』に発表し、同年「女子大生・曲愛玲」で新潮同人雑誌賞を受賞。
その受賞第一作である「花芯」は、ポルノ小説であるとの批判にされされ、「子宮作家」と呼ばれるようになったことで、文学雑誌ではなく大衆雑誌、週刊誌等で作品を発表。
S38 1963年には自身の不倫恋愛体験を描いた『夏の終わり』で女流文学賞を受賞し作家としての地位を確立する。以後数多くの恋愛小説・伝記小説を各人気作家となる。『源氏物語』の現代語訳でもその名を知られている。
S48 1973年に、中尊寺にて天台宗で得度、法名を寂聴とし、翌年には比叡山で60日間の行を経て京都嵯峨野で寂庵と名付けた庵に居す。尼僧としても、週末には青空説法などを行うなど、積極的に活動する。
麻薬で逮捕された萩原健一の更生に尽くしたことで知られている。
H10 1998年に出した『寂聴 般若心経』は、1年で43万部を売るベストセラーとなる。
主な著書・共著 (近年)
・・・(転載ここまで)
酒井梯は29歳のときに、「昭和14年 大東文化学院研究科修了、外務省留学生」という経歴が突然出てきます。
これはおかしな話ですね。
調べていくと、ご親戚に「酒井忠正(さかいただまさ)」なる人物がおり
大東文化学院総長・大東文化学院専門学校校長(第11代)などを歴任されていました。
・・・・・・(酒井忠正)
酒井 忠正(さかい ただまさ、1893年(明治26年)6月10日 - 1971年(昭和46年)2月16日)は、貴族院議員、貴族院副議長、農林大臣、勲一等瑞宝章・伯爵、中央農業会長、日本中央競馬会理事長、横綱審議委員会初代委員長、相撲博物館初代館長、雅楽頭系酒井家宗家第21代当主、大東文化学院総長・大東文化学院専門学校校長(第11代)などを歴任した。
略歴
1893年(明治26年)6月10日、備後福山藩最後の藩主・阿部正桓の次男として生れる。
<阿部正桓=浅野元次郎
1918年(大正7年)、京都帝国大学法学部を卒業。
1919年(大正8年)10月10日、家督を相続して雅楽頭系酒井家宗家21代当主となる。
1923年(大正12年)9月、貴族院議員となる。
1939年(昭和14年)、阿部信行内閣にて農林大臣に就任。
<阿部信行>
1940年(昭和15年)、同大臣を退任。
1943年(昭和18年)、第11代大東文化学院総長に就任。
1945年(昭和20年)12月、貴族院議員を退任。
1946年(昭和21年)、公職追放を受ける[1]。
1947年(昭和22年) - 華族令廃止で爵位を失う。
1954年(昭和29年)、相撲博物館・初代館長に就任。
1957年(昭和32年)、日本中央競馬会理事長・第3代理事長に就任。
1962年(昭和37年)、同理事長を退任。
1965年(昭和40年)、勲一等瑞宝章を受章。
1968年(昭和43年)、相撲博物館・館長を退任。
1971年(昭和46年)2月16日、死去。
人物
備後福山藩の最後の藩主だった阿部正桓の次男として生まれ、旧姫路藩主酒井家の酒井忠興の娘・秋子を娶り婿養子となる。1918年(大正7年)に京都帝国大学法学部を卒業する。
<酒井忠興>
1923年(大正12年)9月に貴族院議員となり、1945年(昭和20年)12月まで務める。阿部内閣にて農林大臣を務める。
(※阿部内閣(あべないかく)は、予備役陸軍大将の阿部信行が第36代内閣総理大臣に任命され、1939年(昭和14年)8月30日から1940年(昭和15年)1月16日まで続いた日本の内閣である。)
<阿部内閣>
第二次世界大戦後は日本中央競馬会第3代理事長として、アジア競馬会議の開催を提唱し、1960年(昭和35年)に実際に開催するなど、日本競馬の国際的な地位向上に努めた。また大相撲の横綱審議委員会初代委員長、日本プロレス協会初代会長を務めるなど日本のスポーツ界にも足跡を残した。
酒井自身は頼まれると断らない人柄であったため、それ故に縁の薄い角界・プロレス界からも賓客の礼をもって迎えられた。
・・・・(転載ここまで)
大東文化大学の初代総長は森友学園で名前が出てきた平沼赳夫の祖祖父、平沼騏一郎で、酒井忠正とは直接の接点はありませんが、第2次世界大戦のA級戦犯で両者とも「陸軍派」に所属していたため、起訴されています。
<平沼騏一郎、平沼赳夫>
・・・・・・・・(A級戦犯)
第三次戦犯指名
1945年12月2日に逮捕命令(59名)。軍の高官だけでなく、政財界に広く逮捕者。
畑俊六、平沼騏一郎、広田弘毅、星野直樹、大川周明、佐藤賢了
第四次戦犯指名
1945年12月6日に逮捕命令(9名)。国際検察局(IPS)が追加逮捕。
木戸幸一、大島浩
近衛文麿(12月16日に自殺)、酒井忠正、大河内正敏、緒方竹虎、大達茂雄、伍堂卓雄、須磨弥吉郎
・・・・・・・・(転載ここまで)
この両者が無関係であったとはいえませんね。
酒井梯を裏口入学させた、酒井忠正は
阿部正桓の次男として生まれ、旧姫路藩主酒井家の酒井忠興の娘・秋子を娶り婿養子に出ています。
権力中枢にいる一族は、政略結婚を繰り返し
やたらと養子縁組ばかりして、平気で姓を変えます。
抵抗がないのか、氏素性を隠すことの重要性がわかっているのか、、。
酒井忠正の父親である、
繰り返しになりますが「阿部正桓」という人物については以下の通りです。
・・・・・・・(阿部正桓)
安芸広島藩第12代藩主・浅野長勲の実弟として生まれる。
<浅野長勲>
初名は浅野元次郎。戊辰戦争最中の慶応4年(1868年)、18歳で備後福山藩第9代藩主・阿部正方の養子となり、名を正桓と改め、5月20日に福山城へ入って家督を継ぐ。実際には、正方は前年末に死去しており、それを隠しての入嗣であった。そのため、正方の死は翌月6月になって公表された。なお、この強引ともいえる養子縁組は、新政府の福山藩存続を許す条件であったといわれる。
・・・・・・・(転載ここまで)
「初名は浅野元次郎。戊辰戦争最中の慶応4年(1868年)、18歳で備後福山藩第9代藩主・阿部正方の養子となり、名を正桓と改め」とあります。
浅野家⇒阿部家へ婿養子にでています。
阿部正方という人物ができてましたね。
・・・・・・(阿部正方)
阿部 正方(あべ まさかた、嘉永元年8月21日(1848年9月18日) - 慶応3年11月22日(1867年12月17日))は、備後福山藩の第9代藩主。阿部家宗家13代。
第6代藩主・阿部正寧の三男。
婚約者に水戸藩主・徳川斉昭の娘(婚姻前に正方が没)。官位は従四位下、主計頭(かずえのかみ)。
<徳川斉昭>
死後
正方は未婚であり、阿部家の血筋は本来断絶であるが、明治維新の混乱に乗じてそのことは隠匿され、数か月後、安芸広島藩から藩主浅野長勲の弟・浅野元次郎が第7代藩主・正弘(正方の叔父)の娘と婚姻することにより養子として迎えられ、戊辰戦争最中の慶応4年(明治元年、1868年)5月20日に福山城へ入って阿部正桓と名乗って跡を継いだ。この養子縁組は福山藩存続の画策であったとする説がある。親朝廷方であった浅野家の親族を養子にすることで、幕府重鎮であったはずの阿部家を存続させる、ということである。同年の年明け早々から新政府(長州軍)への恭順と新政府軍(芸州軍)の福山入城が行われており、福山は芸州藩、すなわち浅野家による占領状態であった。
・・・・・・・(転載ここまで)
酒井梯と酒井忠正は直接親戚の関係であったという資料は出てきません。
しかし酒井梯の大東文化大学学科修了という経歴から強いつながりがあると考えられ
彼も貴族出身であるため外務省派遣され国立図書館の副館長まで登り詰めることができたのでしょう。
瀬戸内晴美(寂聴)と酒井梯は、単なる政略結婚だった可能性が高いです。
三谷⇒瀬戸内⇒酒井⇒瀬戸内
という順番で改名しています。
・・・・・・・(瀬戸内寂聴の元夫と北京)
徳島に住んでいた頃、地元出身の作家・知識人と中国との関わりについて気になっていた。特に、瀬戸内寂聴(晴美)は、終戦間際に結婚して北京に住んでおり、彼女の文壇デビュー作「女子大生・曲愛玲」など初期小説の数篇は、北京での生活をモチーフとしている。
日本への帰国後、彼女は夫の教え子と出奔し離婚に至るのだが、彼女自身夫の名を明らかにしていないこともあり、それが誰であるのかずっと知らずにきた。北京の輔仁大学で中国音楽を研究していた、という断片的な知識を除いては。
だが、急に思いついてネット上を検索してみると、あるブログ記事により、あっさりとそれが誰であるのか分かってしまった。それがこのページ「瀬戸内寂聴の夫だった酒井悌国会図書館副館長」。このページにも紹介があるように、瀬戸内と同様徳島市出身の酒井は、1939年に外務省留学生として北京留学、国立師範大学を経て1944年に輔仁大学専任、1945年に北京大学、帰国後はずっと図書館畑を歩み、上野図書館長、国立国会図書館副館長などを歴任したようである。
さらに検索してみると、これまで元夫の名は伏せられてきた、というのは自分の思い込みに過ぎず、幾つかの書籍ですでに瀬戸内の元夫として酒井の名が挙げられていることもわかった。
・板垣直子『明治・大正・昭和の女流文学』(1967)165ページに酒井の名がある模様。
・巌谷大四『物語女流文壇史 下』(1977)193ページに酒井の名がある模様。
・川西政明『昭和文学史 中巻』(2001)604-606ページに酒井の名がある模様。
酒井が輔仁大学の前にいたのが(日本支配下の)北京師範大学だとすると、同校で教鞭をとっていた台湾出身の作曲家・江文也と交流はあったのだろうか。気になるところである。
輔仁大学には民俗学者の直江広治
(直江 広治(なおえ ひろじ、1917年5月23日 - 1994年2月1日)は、日本の民俗学者、筑波大学名誉教授。 青森県出身。東京文理科大学卒。1942年北京の輔仁大学講師。戦後、東京教育大学教授、筑波大学教授。82年定年退官、名誉教授、清泉女子大学教授。62年「屋敷神の研究」で東京教育大文学博士、66年同書で柳田国男賞受賞。)
や中国文学者の奥野信太郎も在籍していた。
(奥野 信太郎(おくの しんたろう、1899年〈明治32年〉11月11日 - 1968年〈昭和43年〉1月15日)は、日本の中国文学者、随筆家。 東京都出身。父は陸軍大尉。母政子は子爵橋本綱常の娘。したがって橋本左内は奥野信太郎の大伯父にあたる。 )
中国における直江について取り上げた王京『一九三〇、四〇年代の日本民俗学と中国』という本の中でも酒井の名は見られ、日本文学を教えていることが分かる。(中身はこちらで読めます(一番下までスクロール、第四章-3)→ココ)酒井の名は見当たらないが、永井英治「戦中期北京輔仁大学の日本人教員とその戦後-成立期新制大学の教員移動に関する試論」という論文もあり、関係者の回想などの資料も抑えてあるので有益だ(→ここで読めます)。酒井に関する記録もあるかもしれない。
戦後の酒井の活動には「中国古代音楽史」に関する業績などはほとんど見当たらないが、唯一見つかったのだが、1955年の「京劇今昔話」『読書春秋』6(3)である(図書館畑では立派な仕事をされたようではあるが)。
ついでながら、「女子大生・曲愛玲」のモデルとなった日本人の同性愛者の女教師についても、誰であるかが見えてきた。恐らく田村総という人。田村は『いきいき老青春(ラオチンチュン)』という本を1990年に上梓しており、自分と中国との関わりを振り返っているようだ。(注文したので詳細がわかり次第補足したい。)
・・・・・・(転載ここまで)
「輔仁大学には民俗学者の直江広治や中国文学者の奥野信太郎も在籍していた。」とあるように
彼女が作家「三谷晴美」として成功したのも、元夫の影響力からでしょうか?
となると、不倫相手は「民俗学者の直江広治や中国文学者の奥野信太郎」かもしれません。
そして、その相手の人脈を使って尼僧作家として売り出したと言えそうです。
では、今回ヒットした?瀬戸内の秘書の記事を見ていきましょう。
・・・・・・・(初エッセイ本が大ヒット、瀬戸内寂聴の65歳年下秘書 瀬尾まなほ氏(30)に密着)
さまざまな分野でキャリアを輝かせている女性たちに密着し、意識・無意識にかかわらず、その人が「いつもしている7つのこと」=「セブンルール」を見つけ、掘り下げていく関西テレビ・フジテレビ系ドキュメンタリー『7RULES(セブンルール)』(毎週火曜 後11:00)。13日の放送は、京都にある寺「寂庵」の僧侶で、ベストセラー作家・瀬戸内寂聴氏(95)の秘書・瀬尾まなほ氏(30)に密着する。
【写真】セーターを着ている瀬戸内寂聴氏の姿も
大作家と年齢差65歳の秘書とのまるで祖母と孫のような笑いの絶えない関係が今、脚光を浴びている。昨年出版された瀬尾氏の初エッセイ『おちゃめに100歳!寂聴さん』につづられた、秘書にしか知りえない寂聴氏との日常が話題となり、発売から3ヶ月で発行部数が15万部を超えるベストセラーとなった。
大学を卒業後、友人の紹介で寂庵の事務職として働き始めた当初は、寂聴氏の小説を読んだことすらなかった。ところが25歳の時にベテラン秘書が退職し、その後を引き継ぐことに。「若いからダメだよね…とならないように、本気で頑張った」という彼女は、今では原稿の進まない寂聴氏に鋭いツッコミを入れ、携帯のアプリで変顔の写真を撮り合い、仲良くおやつのケーキを食べる…、祖母と孫のような関係性を築くまでになった。一緒に寂聴氏の身の回りの世話をするスタッフも、「まなほさんが来てから寂聴さんの笑顔が増えた」という。
影で寂聴氏を支える秘書だった彼女だが、忙しい寂聴氏とコミュニケーションを取るため、事ある毎に送った手紙が自身の本を出すきっかけとなった。寂聴氏は「彼女の文章は気取ってない。思いのままに書いているのがいい」と文才を絶賛するが、彼女自身は「作家になるなんて考えたこと無かった」という。思いがけない方向に人生が転がり出した彼女は今、戸惑いの真っ只中にいた。
本が売れたことで取材が殺到し、シンデレラガールのようになった彼女だが、世間から心無いひと言を浴びせられることもある。カメラが休日の彼女を追い続けると、自宅で酒を飲み始めた彼女の口からは、友人には言えない不安や迷いがとめどもなくあふれ出てきた…。戸惑いながらも国民的大作家に寄り添う彼女のセブンルールとは?
・・・・・(転載ここまで)
「寂聴氏は「彼女の文章は気取ってない。思いのままに書いているのがいい」と文才を絶賛するが」
とありますが、彼女が瀬戸内の後継者なのでしょうか?
アマゾンブックレビューではこのような内容が高評価を得ています。
・・・・・・・・・(5つ星のうち5.0瀬戸内寂聴、最近の元気の素が、この秘書らしい)
投稿者呆け天ベスト1000レビュアー2018年1月12日
瀬尾まなほは2011年3月、大学卒業と同時に瀬戸内寂聴の秘書に採用された。面接の場で「私の小説読んだことある?」と聞かれて、「ありません」とこたえた。それを面白がられて採用されたのだという。寂聴という名前と尼さんだということは知っていたが、小説家だとは知らなかったというから、すごい。
瀬尾がきてから寂聴はよく笑うようになった。
「センセ、よくテイソウ、テイソウってここに来るオバちゃんたちに話してるでしょ。…あれってなに?」(本の最後に寂聴がよせた「まなほへ」より)。
寂聴はゲラゲラ笑う。笑うしかない。二人のなかの「天然」の部分が響きあった。
採用されて3年ほどたった2013年、寂聴を支えてきたベテランスタッフ4人が「自分たちの給料を払うために先生を働かせるのは申し訳ない」と辞めていく。残ったのは25歳のひよっこ秘書の瀬尾と、お堂をまかされていた堂守の二人きり(後に事務担当が入って現在は3人)。
ところが、このひよっこ秘書は逆境に強い体質らしく、大ピンチの寂庵の屋台骨になっていく。大病を患った超高齢者の介護、食事や入浴など見のまわりの世話、あまたの連載をかかえる小説家の秘書、多くの信者に頼られる大僧正の世話役。どれひとつとってもたいへんな仕事を、一人でやりぬく。
耳が遠く、せっかちで、早飲み込みの寂聴には、伝えたいことがあるときには手紙に限ると思いつき、苦言や感謝など、ふだん口にしにくいことを手紙に書いた。寂聴は「いまどきの若い子」の文章の新鮮さに魅かれ、あるとき自分の小説に瀬尾の手紙をそのまま引用した。編集者からその手紙部分を絶賛され、実は秘書の文章をそのまま引用したとうちあけたら、瀬尾本人にエッセイの依頼がくるようになる。そうしてできあがったのが、本書です。いやはや、たいしたものです。この人が寂聴の秘書になってくれて、ホントに良かった。篠山紀信撮影の二人の写真がたくさん掲載されていて、孫(というより曾孫か)とのツーショットにはしゃぐ祖母という感じの、寂聴の表情がとてもいい。瀬尾本人も、大らかな美人顔です。瀬尾が、寂聴の元気の素になっていることが、よく伝わってきます。
大物・天然・名物秘書の、みごとなエッセイに、乾杯。
・・・・・・・・(転載ここまで)
高齢大物芸能人や政治家が愛人に介護してもらっている、桂三枝を彷彿させますね。
瀬戸内の作品には同性愛の作品も見られます。
・・・・・・・・(寂聴さんのレズビアン小説 ネタバレあり)
瀬戸内寂聴さんの短編集「わかれ」に収録された「百合」は直球のレズビアン小説です。
舞台は2000年前後でしょうか、己のセクシュアリティを自覚した女性(20代半ば?)が子どももいるのに夫との離婚を決意し、愛する女性と生きることを決意しながら、それまでの半生を振り返ります。
主人公の女性が高校生のときに初めて女性と口付けするシーンは次のように書かれます。
輝美の接吻は甘美の極みだった。これまで私が男たちとしてきた接吻とは何と虚しいものだったのだろう。輝美の掌の愛撫は羽毛で撫でられているように軽やかで、そのくせ軀の髄まで快感が浸透してゆく。
美しい文章だなあと僕は思うのですが皆さんどうでしょうか。
しかしこの輝美さん、不慮の事故で亡くなってしまうんです。
この悲しい出来事を経て男性と結婚もし、でも主人公は己はレズビアンだと自覚し、離婚し女性のパートナーを持ち、子どもも育て仕事もします。
時が経ち現在になり、一般的ではない半生を過ごしたけれど、中年となった主人公はラストにこう断言します。
幸福とは主観的なものだ。
私は今の自分を幸福だと胸を張って言える。このラストの断言は、寂聴さんが親しくされていた宇野千代先生の晩年のお考えに似ている気がします。それはさておき、本作が「新潮」に発表されたのは2013年。寂聴さんはお幾つだったのでしょう。90歳前後?そのお歳で同性愛を肯定するお作を書いてくれるって凄いことのように思います。
いえ、エピソード一つ一つを見たら、リアリティの面で首を傾げる部分がないわけではないです(生意気言ってごめんなさい)。でも寂聴さんなりに、流行りの言葉で言えば「LGBT」について勉強してくれたんだなと感じる記述が散見されて、あまりお歳のことを言うのは失礼ですが、やっぱり凄いと思います。普通は柔軟性を失い頑固になるのに。
また僕はゲイで、しかも自分の経験や見聞きした範囲でしかゲイや「LGBT」について知らず、だからレズビアンが、「百合」を読んでどう感じ考えるのかは分かりません。個人差も当然あるでしょうし。
でも、随所に差別は良くないという寂聴さんの思い、同性愛を、もっと言うなら個人の価値観を肯定する意志を感じて僕は嬉しかったです。話は変わり、表題作「わかれ」は寂聴さんご自身を連想する91歳の「先生」と50歳の報道カメラマン・「翔」との肉体を交えない、でも恋としか呼びようのない関係を描いています。この「先生」が大酒飲みだわ口が悪いわ下ネタばんばん喋るわで、そんな「先生」を受け止める「翔」も良い男なんです、遊び人で色気があるのに、芯に真面目なものを秘めて。歳を取ってもこういう恋愛もアリかなー、と明るく、また切なくもなれるお作で僕は大好きな一本です。
・・・・・・・(転載ここまで)
瀬戸内寂聴の作品には、この作品ばかりでなく他の作品にも「同性愛」は多分に含まれています。
人に人生の道を説くのがお坊さんのお仕事のはずなのに、同性愛や離婚など不道徳なことばかりを小説で描きたくる。
悪と善がごちゃ混ぜになってしまっています。
おそらく瀬尾さんは瀬戸内の同性愛パートナーとなったためデビューできたのではないか?と疑いたくなります。
ところで、瀬戸内寂聴は一応、天台宗の尼僧ですね。
天台宗は最澄がもたらした密教と深い関わりがあり、台密と呼ばれる密教です。
・・・・・・・(台密)
台密(たいみつ)とは、天台宗に伝わる密教のこと。京都東寺を根本道場とした真言密教を東密と呼ぶのに対する呼称であり、日本天台宗の開祖である最澄(伝教大師)によって創始されたものである。天海の活躍
江戸時代の初期、天台宗の天海(慈眼大師)は江戸幕府を開いた初代将軍徳川家康、2代将軍徳川秀忠・3代徳川家光の三代に仕えて、宗教活動に関連する徳川家のブレーンとして活躍した。東の比叡山(山号は東叡山)として開山した上野寛永寺は、江戸時代を通じて天台宗の総本山として大いに繁栄した。
日本伝来の宗教との結びつき
台密は日本伝来の宗教を包含しようと意欲的であり,日本の山岳宗教である修験道、特に本山派と結びつきを強めた。また、本地垂迹説に立つ山王一実神道も推進した。
・・・・・・・・・・(転載ここまで)
密教と台密とは名称違えど共通していますので密教がわかりやすいため解説を以下の通り添付いたします。
表現がグロいため、読み飛ばしていただいても構いませんが、瀬戸内がこのような官能小説ばかり書いて、沢山受賞できているのも、密教のおかげなのかな?と邪推してしまいます。
まずもって、仏教には密教と顕教があり、徳を挙げる良い行いを推奨する顕教を教えて、深みにはまってきたところ密教を教えて、堕落の道に落としていきます。彼女はそれらを忠実に実行している敬虔な仏教徒なのかもしれませんが。。。
瀬戸内がこれだけ天台宗を代表できるのは、エロ小説を描く文才があり、歴史的文学作品とは程遠い、18禁小説の「源氏物語」が好きだからだといえるでしょう。
・・・・・・・・(源氏物語は官能小説か投稿日: 2012年8月20日 作成者: 清々爺)
源氏物語は官能小説か? Yes, of course!
光源氏と数多くの女君の繰り広げる物語、性愛場面がないはずはありません。
さてどんな官能パターンが入っているか、順不同・好き嫌い不問で列挙すると;
義母、人妻、熟女、醜女、男色、幼女拉致、ロリコン、覗き、レイプ、コスプレ、身代わり、、、
まさにポルノ映画の百科事典であります。
平安時代は性倫理も比較的おおらか後宮にも男が入れた。事が起こるのも当然かもしれません。その点中国後宮は宦官制であったし、江戸時代の大奥は男子禁制であったのと大違いです。
ところが源氏物語には性愛場面はあっても性愛描写は一切ありません。多くを語らず読者の想像に委ねる、委ねられた読者の妄想は膨らむばかり、まさに紫式部の思う壺なのでしょうか。
・・・・・・・(転載ここまで)
これを教科書に載せる日本の国語教育、本当に悪質ですね。そして、ポルノ作品を文学作品だと理解できない人間がバカだなどという人もいます。エロ本が文学作品?と耳を疑いたくなりますね。
瀬戸内自身、小説家として身を立てようとしたが、頓挫それから僧侶になり、変態小説を書いて、そのギャップと家柄で大家となる。そして、自分の愛人で同性愛パートナーである秘書・瀬尾まなほ氏(30)を自分の権力でデビューさせて、ゆくゆくは同性婚でもしようというのでしょうか?
瀬戸内に救われており、瀬戸内信者は多いですから、瀬戸内のこのおかしな言動も受け入れて、同性愛が普及されることの足がかりとしているかもしれませんね。
いずれにせよ、こんあ官能小説ばかり書いて、人に人生を説く人の話は聞かないほうが身のためだと思います。
そして、彼らは大して努力もせず、戦国時代から脈々と続く血族の力で、私たちのしらないところで税金を流し込み、のうのうと暮らしていると思うとやるせない気持ちになります。
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