1920年:上海にてコミンテルンの指導により中国共産党結党組織を設立。
上海にて、中国共産党は立ち上げされます。
記念すべき第1回の結党大会は、上海のフランス領、日本の東京大学の留学生であった「李漢俊」の自宅で開催されました。
1921年7月1日、中国共産党が成立しました。
— RekiShock(レキショック)@日本史情報発信中 (@Reki_Shock_) June 30, 2021
コミンテルンの主導により、北京大学文科長の陳独秀や元北京大学図書館司書の毛沢東らが、各地で結成していた共産主義組織を糾合する形で成立しました。
東京大学への留学から帰国した李漢俊の上海の自宅で第一回党大会が開かれたといいます。 pic.twitter.com/EBkYfQQDpy
中国共産党第一次全国代表大会(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E5%85%A8%E5%9B%BD%E4%BB%A3%E8%A1%A8%E5%A4%A7%E4%BC%9A)
出席者について
各省の代表者13名、コミンテルン代表の2名が出席した。
上海代表:李漢俊(東京帝国大学出身)、李達(zh)(東京帝国大学出身)
広州代表:陳公博、包恵僧(zh)
北京代表:張国燾、劉仁静(zh)
武漢代表:陳潭秋、董必武(日本大学出身)
長沙代表:毛沢東、何叔衡
済南代表:鄧恩銘、王尽美
留日代表:周仏海(京都帝国大学出身)
コミンテルン代表:マーリン、ニコリスキー
党の発起メンバーである陳独秀(成城学校出身:現成城大学)と譚平山は広州、李大釗(早稲田大学出身)は北京、沈玄廬(日本留学組)はモスクワにおり、また邵力子は上海で病臥しており、陳独秀らとともに中国共産主義青年団の前身を結成した戴季陶(日本大学出身)は出席しなかった。
(若かりし頃の毛沢東)
(李漢俊)
結党メンバー13名に、コミンテルンから2名が参加していますね。
コミンテルンとは1919年から1943年まで存在した国際共産主義運動の指導組織のことです。
この組織は第1インターナショナル、第2インターナショナルを経て結党されており、第2インターナショナルにその組織の活動が強まりました。
第2インターナショナルでは「第一次世界大戦の際、加盟する社会民主主義政党が「城内平和」を掲げそれぞれ自国の戦争を支持したために瓦解した。これに反対する諸派がスイスで開いたツィンマーヴァルト会議がコミンテルンの源流である。十月革命後の1919年3月、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)の呼びかけに応じてモスクワに19の組織またはグループの代表が集まり、創立を決めた。」
つまり、第1次世界大戦で、領土拡大、権益拡大できなかった勢力が第2次世界大戦に向けてスイスに集まり世界政府を作るために結成された組織とも言えます。
コミンテルンから各国に共産主義を拡げるために派遣されます。
1921年の中国共産党の結党に尽力したコミンテルンから参加したメンバーに
マーリンとニコリスキーがいます。
マーリンは偽名で、本名は「ヘンドリクス・スネーフリート」といい、オランダ生まれの共産主義者です。彼は各国を行き来しており、レーニンからの信頼も厚く、ソ連の建国にも深く関わっています。
次にニコリスキーですが、こちらも偽名を使っており、ロシア生まれで「ウラジーミル・ネイマン」が本名だそうです。
彼はコミンテルンの活動家でありながら、ロシアのスパイとしても活動していた人物です。
これだけを見ると、コミンテルンが上海で中国人と一緒に共産主義を立ち上げたように見えますが、結党大会出席したメンバー13名のうち、①上海代表:李漢俊(東京帝国大学出身)、②李達(zh)(東京帝国大学出身)③董必武(日本大学出身)④周仏海(京都帝国大学出身)4名は日本の大学出身者でした。
また、出席できなかった党の発起メンバーにも日本の大学出身者がいます。
①陳独秀(成城学校出身:現成城大学)、②李大釗(早稲田大学出身)、③沈玄廬(弘文学院、法政大学)、④戴季陶(日本大学出身)
(※弘文学院とは、柔道で有名な嘉納治五郎が明治期の日本において、清国からの留学生のために創立した教育機関です)
こうしてみると、中国共産党は、日本にいた李家が中心となって作られた、その末裔たちが、日本を支配していることが分かりますね。
李家とはイルミナティ13血流のうちの1つです。
次回以降、以下の内容を説明していきます
1931年:中華ソビエト共和国設立。
1945年:日中戦争終戦。
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