今回は野菜高騰の記事について雑感を書く予定でしたが、貧困指数について考察していきたいと思います。
まずは野菜高騰の記事から。
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野菜が高い…。そんなときは「ミックスベジタブル」を賢く活用してやりくり上手に!
この冬は、葉物を中心に野菜の価格がとにかく高い!これは昨年秋の台風や天候不良の影響なのだそうです。それでもやっぱり野菜は食べたいですよね。そんなときは「ミックスベジタブル」を活用してはどうでしょうか?ごはんものからパンまで、さまざまなアレンジをご紹介します。
ミックスベジタブルが救世主に!
野菜、本当に高いですよね。みなさんはどうやりくりしていますか?
編集部内でも、「大根を少しずつ切って大事に使っている」「豆腐ばかり食べている」「もやしばかり食べている」などみんな苦労している様子。
そういう私は、主婦の自覚がまだ薄いのか、ホウレンソウが高いことには気づいていたけれど、実はどれもこれも高いということに気づいていませんでした……。
いまさらながら対策にのりだして、冷凍野菜を買うようになりました!
なかでもミックスベジタブルは、グリンピース、ニンジン、コーンなどが一度に楽しめて、彩りがきれいなのも魅力。オーガニックのものもあるので、冷凍食品はちょっと抵抗があるなという方も、一度チェックしてみてはいかがでしょうか?
使い方もハンバーグなどの付け合わせだけじゃなく、さまざまな楽しみ方がありますよ!
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「野菜=健康」というイメージがありますが、果たしていかがなものでしょうか?
私は以前、食養の勉強を趣味でしていましたが、菜食主義やベジタリアンは理論的には素晴らしいのですが
実践してみるとそのあまりの偏りのため、食事が楽しくなくなり、辛いものになっていきます。
そして、免疫力はかなり低下していつも風邪をひいていました。
マクロビ+ヨガをセットでやっていましたが、本当に不健康でした。
健康、不健康を分けるポイントは「考え方が健康的かどうか」になります。
健康的な考え方とは何か?
「無駄なお金を使わないにはどうすれば良いか?」
常に考えることです。ようは「ケチ」になることです。
「ケチ」とは???調べてみました。
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けちは、金銭を使うことを嫌い、基本的な快適さや生活上の必要の一部を犠牲にしてでも、金銭その他の財産を溜め込もうとする人物[1]。吝嗇家(りんしょくか)ともいい、「けち」に「吝嗇」の字を当てることもある[2]。また、特に金銭を溜め込むことに執着する人物は「守銭奴(しゅせんど)」と称されることもある[3]。
この言葉は、金に汚い人物を一般的に指して使われることもあるが、 そうした場合でも金などを溜め込むことによろこびを見出している訳ではない場合は、けちと称するのは適切ではない。
人物類型としてのけちは、いつの時代にも人気のある魅力的な題材であり、様々な文化において作家や芸術家が作品を生み出す豊かな主題となってきた。
けちに関する諸説[編集]
けちの態度の説明のひとつとして、ジークムント・フロイトの肛門性格 (anal retentiveness) の理論があり、幼児期におけるトイレットトレーニング(排泄訓練)が、けちの行動を形作っていく要因となっていると考えるが[4]、この見解は発表されて以来、様々な批判を受けてきた[5]。
キリスト教圏の西洋では、金を集めることにもっぱら関心を寄せる人物は、教会の教えによって差別されてきた。キリスト教の立場からすれば、けちも高利貸しも、七つの大罪のひとつである強欲にあたるものとされ、両者はしばしば混同されることがある[6]。外典的書物である『ヘルマスの牧者(英語版)』に見える「ニレとツタ(英語版)」の寓話は、富者と貧者が互いに助け合う関係にあるべきだと説いている。富をもつ者は、救済を受けるためには貧しき者の祈りをしなければならないが、これは慈善を行なわなければ達成できない[7]。キリスト教のこうした教義を説明した後年の典型的な例は、アースキン・ニール(英語版)による『The Riches that Bring No Sorrow』(1852年)で、そこではフィランソロピストと、けち (miser) を対比した、一連の伝記を踏まえて道徳譚が語られている[8]。
これと並行して、古典古代から継承された考えとして、けちを奇人の一類型とする傾向があった。G・H・ウィルソン (G. H. Wilson) による全4巻の短い評伝集『The Eccentric Mirror』(1807年)をはじめ、19世紀の書物には、けちについての説明がいろいろ見出せる[9]。例えば、チャールズ・ディケンズの小説『互いの友 (Our Mutual Friend)』(1864年/1965年)では、けちは、喜劇的な扱いをされ、ヴィクトリア朝の資本主義に鋭く切り込んだ分析が示される。この小説の第3章では、ボフィン氏 (Mr Boffin) が、養女としたベラ・ウィルファー (Bella Wilfer) の、富や地位への執着を解くために、けちのようにふるまってみせる。
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フロイトまで出てきましたね。
フロイトの学説が悪魔崇拝であることは以下の記事を参照してください。
RAPT | RAPT×読者対談〈第91弾〉悪魔崇拝と麻薬。
「蓄財のためにお金をケチる」のはなんとも気の毒ですが
「お金を使わない体質」=無駄な経費をかけない体質
は企業としては強い体質です。
小売で店長をしていた頃は、常に経費コントロールばかりでした。
毎週毎週、無駄な経費がないか?経費表を隅から隅まで目を通す。
そして月末の結果と、翌月の数値起案にそれらの経費予定を反映させます。
豊かな人生を送るには、
「大金を稼ぐ」
のではなく
「大金がなくても生きていける体質になる」
ことです。
「贅沢したい、あれやこれや欲しくなる」
↓
「余分なお金が必要」
↓
「会社で稼ぎ続けなければならない」
↓
「会社の仕事ばかりしている人間になる」
↓
「物質はあるが、心に余裕がない人間になる」
という流れになります。
消費は確かに楽しいです。
しかし、消費に溺れると、消費依存になり、結局人生で大切なものが
消費をさせてくれる「お金」になります。
「お金を愛する人」「(お金を産み出す)権力を愛する人」
なんとも虚しいと思いませんか?
私たちは「劣等感」「プライド」を刺激され、世の中の情報に振り回されていき続けています。
「全員が全員、美男美女でベンツのGBにのって、ブランド品の服を着て、表参道のオシャレなお店でシャンパン乾杯」
してたらどうなるでしょうか?
テレビを見ていても、不安をあおるニュースか消費を煽る特集しかありません。
それに『気づかせない」のがテクニックなのですが。
人生最後の日にお金に囲まれて死んでいくことが素晴らしいでしょうか?
それよりも、自分の徳を高める、心を高め、欲に打ち勝つ生き方をするために時間を使うほうが、お金のためにがむしゃらに働くよりも立派だと考えるのは私だけでしょうか?(言っている私ができていませんが)
「趣味がなければならない」「恋人がいなければならない」「結婚していなければならない、子どもがいなければならない」「マイホームを持っていなければならない」
世間さまの言い分にしたがっていると苦しくなってきます。
重荷しか載せてきません。
全てお金がかかることを言ってきますね。
お金をかけずに生きることは、お金を稼ぐことと同じです。
この世の中でお金を使わないには、知恵と努力が必要です。
知恵も努力もなく、ただ嫌々会社に出勤するほうがよっぽど簡単です。(楽ではありませんが)
余談ですが、家計における食費の割合をエンゲル係数といいますね。
で、エンゲル係数とは、貧困をあらわすスケールで貧困指数とも言われます。
家計の中でも避けて通れないのは、食費ですから、このエンゲル係数が貧困指数となるのですが
なぜか、不動産ローン、住宅ローンについては何も言われませんね。
住居費は固定経費として見逃されがちです。
世の中でぼろもうけしているのが
銀行とハウスメーカーだとは過去記事で書いています。
競売 個人 不動産落札方法(12)
彼らが税制優遇という形で、住宅ローンシステムを作ったのかな?と年末調整時には勘繰りたくなりますね。
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