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旧精神科医療は思想警察なのか?

スポーツと人生のあり方を考察する。本当にこのまま激しいスポーツをしていていいのでしょうか?

2018年06月18日 | 学歴もスポーツも同じ

<西武ライオンズ時代の怪物、松阪投手>

プロスポーツがあると青天井に争いが続きます。

プロスポーツのある競技は、小学校から中学高校大学と何かと大会成績が、進学、就職にメリットとなります。

下手すると、「勉強なんかさせるよりスポーツさせたほうが、有名大学や国公立大学に進学できる」

と考えてしまう親御さんお多いことでしょう。

しかし、スポーツで進学したり就職すれば、その人の人生は「スポーツで縛られてしまいます」

こどものキャリア形成は子供にさせてあげるべきだと思います。

今回の記事はその道で一時代を築いた選手のキャリアが、怪我と加齢によって崩れていく一幕について考えさせられたため書こうと考えました。

どうか、読者の皆様には、今回のような記事を他人事に思わないでほしいと思います。

・・・・・・・・・(【中日】背中けいれんで先発回避の松坂、登録抹消へ…試合途中に引きあげる 6/17(日) 14:59配信 スポーツ報知)


◆日本生命セ・パ交流戦 西武―中日(17日・メットライフドーム)

 試合前に背中のけいれんを発症し、先発を回避した松坂大輔投手(37)が試合途中に球場を離れた。症状は軽くなく、18日に出場選手登録を抹消される可能性が濃厚になった。

【写真】松坂が取材を受ける様子をのぞき見するドアラ

 試合中はトレーナーのマッサージを受けるなど治療に努めたが、午後2時半頃、迎えのタクシーに乗り込んだ。トレーナールームから駐車場への長い階段を歩く際も、手すりにつかまり、西山和夫球団代表(69)に背中を支えられながら、重い足取りで慎重に昇っていった。

 同代表は「松坂は(つらそうだった?)そりゃつらいよ。きょうは病院に行かない。(新幹線に)長く乗れる状況でもないので名古屋にも帰らない」と説明。引き続き都内で静養し、18日に検査を受けることになりそうだ。

 松坂は球団を通して「ブルペンに入って投げ始めたところで背中がつってしまい、何とか投げようと思ったのですが痙攣(けいれん)が収まらなかったので、登板を回避させていただきました。たくさんの方が投げるのを楽しみに来てくれた中で、このような形になり申し訳ありませんでした」とコメントした。

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

これで引退となるかどうかはわかりませんが、スポーツ選手にとって、体だけが資本となります。

人生100年の中で、ここでプロスポーツ選手としてのキャリアが終わるのは勿体ないですし、セカンドキャリアは用意されていません。

プロスポーツ選手のセカンドキャリアについて見ていきましょう。

・・・・・・・・・・(初めての「就活」元プロスポーツ選手 現実は厳しい 元西武・高木大成、元楽天・福盛和男、元マリノス・阿部祐大朗ほか 週刊現代講談社 毎週月曜日発売プロフィール)


引退したプロスポーツ選手のうち、指導者や解説者になれるのはほんの一握りのスターだけ。だが、「しょうがないからサラリーマンでもやるか」という気持ちで通用するほど、社会は甘くはない。

すべてをかけてきたのに


上野広小路の商店街、様々な店が立ち並ぶなかに、ピンクを基調にした看板を掲げた小さな靴屋があった。その店頭に、プロ野球ファンなら見知った顔がある。元ロッテの正捕手で、4番も務めた橋本将(37歳)だ。

「'11年、戦力外通告を受け、小学生からずっとやってきた野球ができなくなった。トライアウトも受けましたがどこからも声がかからなかった。僕はそのとき、人生を変えるチャンスかな、と思いました」

橋本は現在、海外の人気シューズブランド「アイラブフラット」のフランチャイズ店を上野御徒町で経営している。つまり「靴屋」になったのだ。

「友人の勧めもあってこの職に就きましたが、現役のころに靴やファッションに興味があったわけでもないし、ゼロからのスタートでした。

人間、置かれた環境が変われば、精神的にも変わらなければならない。プロで4番を打ったからといって、いつまでもプロ野球選手のプライドを持っていても、一般社会では食べていけませんからね。店頭でお客さんに頭を下げるのも、今の僕の仕事です」

店がオープンしたのは今年4月。今のところの売れ行きはどうか。

「すごくひどいわけではないですが、トントン拍子でもありませんね。商売だからよいときも悪いときもある。景気にも左右されるし。自分が打てばいい野球とはそこが違います。今後どうなるかわかりませんが、やらずに後悔するより、やって後悔したほうがいいですから」

プロスポーツ選手たちが、引退後はじめて挑む「就活」。社会の一般常識もろくに学ばぬまま、人生のすべてをスポーツにかけてきただけに、彼らが直面する就活の厳しさは学生の比ではない。

元Jリーガーの阿部祐大朗(29歳)も、そんな現実を味わった一人だ。

「幼稚園の年長から、サッカー漬けの人生でした。だからプロを辞めて、サッカーから離れたとき、何をやったらいいのか、自分に何ができるのか、全くわかりませんでした。最初に面接に行ったのは、好きなファッション雑誌を出している出版社。その後は、広告代理店や環境関連の会社、塾の講師など、いくつも受けました。覚悟はしていましたが、なかなか採用には至りませんでしたね」

「10年に一人の逸材」と言われ、高校時代から各世代の日本代表に選出されてきた阿部も、サッカーという最大の長所を失えば、一般企業の求める人材ではなかった.
しかしそれでも、阿部はサッカーに頼らない生き方を求めた。

「引退したとき、サッカー関連の仕事への誘いがないわけではなかった。でも、解説者や指導者になれるのは、ほんの一握りのスターだけ。僕のような中途半端な選手の場合は、安月給でフットサルのコーチをするくらいです。その仕事を否定するわけではありませんが、それなら新しい世界を知りたいと思ったんです」

家族を食わせるために耐える
そんな阿部の就職先が決まったのは、就活を始めてから3ヵ月が過ぎた頃。ブライダル事業を扱う企業に、ウエディングプランナーとして勤めることが決まった。

ただ、勤め始めた後も、華々しいプロスポーツの世界とのギャップに、戸惑いの連続だったという。

「特に苦労しているのは言葉遣いです。ウエディングの仕事は、丁寧で正しい言葉選びが要求されますし、これまで、人の気持ちを考えて話すことなどなく生きてきましたからね。嫁さんを相手に電話対応などの練習をしていますが、まだ全然ダメです」

サラリーマンになりきれず、就職後に悩むのは、阿部だけではない。今年、球団史上初の日本一を果たした楽天が、初めてクライマックスシリーズに進出した'09年に、クローザーとしてチームを牽引した福盛和男(37歳)もそうだ。

彼はいま、叔父が経営する携帯電話の販売・修理会社で、取締役を務めている。

「クライマックスの日ハム戦でスレッジから浴びた逆転満塁ホームラン。あれが僕の引退の引き金になったと思っている人が多いですが、そうじゃないんです。実はその前から肘を壊していた。その状態が翌年も続き、もう思うように投げられませんでした。そんな時、叔父から『跡を継いでくれないか』と話があり、僕もここが引き際かなと感じたんです。

僕を含めプロ野球選手はみんなプライドがありますからね。年齢的にも精神的にも、下積みから人生をやり直すのは……やはり難しいですよ。だから、取締役という立場は正直、ありがたかった」

しかし、プロ野球選手がいきなり役員になれば、周囲からは当然、懐疑的な視線を向けられる。

「全く知識のない人間が上司になるわけですから、当たり前ですよね。仕事で会った取引先からも、『野球しかやってこなかったくせに何がわかる』という雰囲気が伝わってきました。

いまは徐々に認められている気もしますが、仕事が楽しいかと聞かれれば、楽しくはないです」

それでもいまの仕事を始めて3年になる。続けていられる理由を、福盛はこう語る。
「家族だけはしっかり食べさせてやらないといけないですからね。プロ野球選手のなかには、辞めた途端カネが無くなって離婚する人も結構いますけど、僕はそれだけはするまいと踏ん張ってきました」

福盛のようにある程度の実績を残し、「やりきった」と思ってプロの世界から身を引ける者はまだいい。不完全燃焼のまま戦力外を通告された者は、葛藤しながら次の職を探す。

'98年にドラフト8位で中日に入団した清水清人(34歳)もそうだ。「打てる捕手」として期待されながら、結局チャンスを生かせないまま、'05年に戦力外通告、そのまま引退を余儀なくされた。現役時代、清水がポジションを争った相手は、あまりにも強大だった。

<中日で捕手として8年間在籍した清水清人(36)は、引退後、故郷の島根県大田市に帰った>

「長年マスクを被っていた中村(武志)さんと、その中村さんと入れ替わるようにベイスターズから移籍してきた谷繁(元信)さん。いずれも中日では絶対的な存在であり、自分には大きすぎる壁でした。

ただ、僕はプロだった8年間一度たりとも野球への情熱を失うことはありませんでした。だからこそ、仕方ないと頭ではわかっていながら、野球を辞めなくてはならないのは本当につらかった。球団なんてどこでもいいから、続けられるだけ続けたい、そう思っていました」

名刺も持ったことがない
悩む清水は、戦力外通告を受けたその日、地元島根で一本釣り漁師をしている父親に報告した。するとその翌日、父親から電話がかかってきた。

「『こっち(島根)に戻って漁師をするのもいいんじゃないか』と言われました。当時僕は26歳。最初は『まだ地元に戻るのは早い』と思いましたよ。でも、じゃあ自分に何ができるのか、と考えたら野球以外には何もないと初めて気づいた。そして、父親が黙々と続け、実はずっと僕に継いでほしいと思っていた漁師の仕事について真剣に考えるようになりました」

清水が出した結論は、故郷に戻って父親の跡を継ぐというものだった。

「決めてからは迷いませんでした。他球団からブルペン捕手の誘いもありましたが、きっぱり断りました。僕にとって、どうしても野球はプレーするもの。中途半端に続けたくなかった」

いま清水は漁船に乗り、毎日、日が昇る前から漁師の仕事に明け暮れている。

'97~'98年の西武のリーグ連覇に貢献し、2年連続のゴールデングラブ賞を獲得した高木大成(40歳)の今の職業は、ホテルマン。西武の球団職員を経て、プリンスホテルに勤務している。

「現役を続けたいという気持ちもありましたから、進路については、本当に悩みました」


連日企業へ会社説明会を聞きに行く学生と同じように、高木も戦力外通告を受けたその日から西武OBや恩師に話を聞きに行った。

「大げさでなく、ありとあらゆるところに相談に行きました。でも結局、誰かに聞いても答えが出るわけじゃないんですよね。自分の人生は自分で決めるしかない。私が出した結論は、球団職員になり、育ててもらった西武に恩返しをするというものでした。

当時から選手のセカンドキャリアは問題視されていました。だからこそ、私のようなプロ経験者がフロントにいれば、一つの道を示せると思ったんです。ただ不安は相当ありました。なにせそれまで、名刺は持ったことがない、社用電話に出たこともない、キーボードなんて触ったこともない、という状態でしたからね。30歳を過ぎた男が、初めてのことだらけのサラリーマンになるのは、並大抵のことではなかった」

それでも、約6年間、高木は職員としてがむしゃらに働き、手応えをつかみ始めていた。しかし一昨年、サラリーマンゆえの苦難に直面する。突如プリンスホテルへの異動が言い渡されたのだ。

「冗談でしょ、という気持ちでした。細かい理由は通告されなくて、いいから行って来いと。

ホテルでの役職はマネージャー。一般企業で言えば、課長でしょうか。担当は企画広報。プロモーションや催事関係などの業務を行っています。置かれた場所で咲く、それもサラリーマンですよね」

予期せぬ人事に驚きながら、高木はいま、懸命にホテルマンとしての業務に取り組んでいる。

「私の入れ歯はどこじゃ」

「はい、ここにありますよ」

つくば市にあるデイサービス桑林で、老人とそんな会話をしているのは、元巨人の財前貴男(27歳)だ。

'11年に育成ドラフト5位で巨人へ入団。しかしケガに泣かされ、一軍での出場経験を得られないまま、'12年に戦力外通告を受けた。

その財前はいま、このデイサービスでヘルパー見習いとして働いている。

「いままであまり勉強してこなかったので、机に座って教えられるよりは、自分で実践して覚えていくほうが性に合っています。ただ、野球と介護では全く勝手が違いますけどね」

財前がケアしているのは、車いすや寝たきりの老人およそ30人。風呂やトイレの介助、おむつの交換などが主な仕事だ。


「もちろん、仕事は大変です。お年寄りのなかには、わがままを言う人もいれば、引っ込み思案な人もいる。一人一人性格が違いますから、仕事に正解がないんですよ。人間を相手にする仕事は本当に難しい。でも不思議と『辞めたい』とは思っていません。ここのお年寄りたちは、それぞれが『時代』を生きてきている。話していると、こちらが勉強させてもらっているような気になります」

プロスポーツはプロ野球とJリーグだけではない。元プロバスケットボール選手の山崎哲男(31歳)も、引退して、はじめての就活を経験した。

小学6年からバスケットを始め、中・高・大とバスケ一筋だった山崎は、'06年に地元チームの高松ファイブアローズに入団した。

「ただ、プロの壁は厚かったですね。外国人選手に太刀打ちできず、ほとんど試合に出られないまま、'07年に戦力外通告を受けました」

一度はツテで高松市内の不動産管理会社に就職し、営業畑で結果も残したが、30歳を目前にして、山崎はその職を手放す。

「明確な目標もないまま不動産会社に入り、その仕事を一生続けていいのか、と考えるようになったんです。俺のしたいことは何だ、と、生まれて初めて自分の気持ちと向き合った。その結果、出た答えが警察官でした。私は自分が地元に直接尽くせる仕事をしたかったんです。そこで会社を辞めて、退路を断ち、猛勉強して香川県警の採用試験に挑戦しました」

栄光が忘れられない
採用試験の結果、山崎は合格。こうして30歳の新人警察官が誕生した。190cmの長身、「存在自体が防犯につながる」という期待もあり、県内屈指の繁華街を守る交番に配属された。

そこでの山崎の評判に注目した香川県警は、今春、全国で初めてプロ経験のあるアスリートへの優遇措置を設けた。200点満点のうち100点が合格ラインである試験に、元プロは最初から40点を加点するというものだ。

しかしその新制度も虚しく、今春受験した元プロ選手は、全員合格点に達しなかった。この結果が、スポーツだけに人生をかけてきた元プロが、一般の採用試験を通過するのがいかに困難かを証明している。

代打本塁打数の世界記録を今も保持する、元阪急ブレーブスの高井保弘(68歳)が、プロ生活よりも長くなった「その後の人生」を振り返る。

「37歳で引退してから44歳まで、兵庫の西宮で飲食店を経営していた。最初は好調やったけど、一人で切り盛りしているうちに体調を崩して、閉店。その後は、店のすぐ近くで整体治療院を始めた。ゴルフしてあちこち痛いからみてくれとか、農家の人の肩こりとか、これも最初はまずまず順調だったね」

ところが開業の翌年、阪神淡路大震災が起きる。店舗が入っていたビルも自宅も壊滅状態になった。

「あのときは、何を始めたらいいかわからんかった。周りもみんな大変で、自分の商売の心配ばかりもしていられなかったしな。そして、それから数年、ぶらぶらしとった。でも、働かないと当然メシが食えない。それで、52歳のとき生まれて初めて『就活』したんです」

とはいえ、52歳での再就職は簡単ではなかった。ある日、社員募集のチラシを見て応募した会社の面接官のなかに、たまたま現役時代の高井のファンがおり、何とかビル管理会社への就職が決まった。

「それからずっと伊勢丹のホールのセキュリティ担当です。ホールのお客さんに頭を下げて挨拶しないといけないのが、最初は抵抗あったなあ。プロ野球選手のときはふんぞり返っていたからね。でもちゃんと挨拶しないと、後で年下の上司から嫌味を言われるから、やるしかない。

プロにまでいったアスリートが、すぐにサラリーマンになるのは、やっぱり難しいよ。私のように人生、思い通りにはいかないというのを経験していないと、過去の栄光がなかなか忘れられないからな」

光の当たるプロスポーツの世界を去り、「社会人」の一歩を踏み出した男たち。現実は厳しいが、それぞれがそこで新たな道を懸命に模索している。

「週刊現代」2013年12月16日号より

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

このように、セカンドキャリアは貧相なものばかりです。

ある意味世の中から隔離されて華やかな人生を歩んでいたわけですから、なかなか庶民のようなつつましい生活は難しいことでしょう。

さらに「プロ」までいけるような人は、地元でも有名ですから、差し詰め「東大卒業した秀才がコンビニバイトしているような感覚」を世間が受けるかもしれませんね。

一方で反社会勢力に取り込まれて、堕落していったスポーツ選手も数多くいます。

・・・・・・・・・(ヤクザが野球選手と交際する過程と理由を暴力団関係者が解説 2011.09.29 07:00


 島田紳助の引退により、芸能界と暴力団との関係が取り沙汰されることが多くなってきたが、芸能界とともに、暴力団との関係が囁かれてきたのがプロ野球界。1969年に発生した「黒い霧事件」では、計20人ほどの選手が永久追放などの処罰を受けたが、その後も何度となく有名選手の“黒い交際”が取り沙汰されてきた。関西で野球賭博をシノギにする暴力団関係者は「そもそも野球界と暴力団は切っても切れない関係にある」と証言する。

「いまでも野球賭博は、関西を中心に地方都市では根強い人気がある。1日6試合それぞれにハンデが出て、賭けのうえでは強いチームと弱いチームが互角の勝負になるように調整されているが、このハンデを出すのにプロ野球関係者が関与しているのは常識だ」(暴力団関係者)

 関西の3か所から元ハンデといわれる数字が出ているが、各胴元は、自分の顧客の張る傾向に合わせてそのハンデを修正して使う。

「ハンデの読み違いは大きな損失になる。だから先発投手は誰かといった情報収集には真剣なんや。その情報を得るためにワシらが使うのが元野球選手やコーチ陣。タニマチと称して関係者を選手に近づけることもする。

 ワシらが直接顔を出すようなことはない。紳助のときも間に渡辺二郎という元ボクサーを使っていたように、気づいたら取り込まれていたという状況にするわけや」(暴力団関係者)

 息のかかったカタギの人間を後援会にもぐりこませ、選手と親しくさせる。高級時計をプレゼントするなど、親交を深めさせ、携帯番号を交換できるような関係を結ばせるという。

「そうして携帯で話ができるようになれば、シーズン中に“今日投げるんか”と聞いて、“ちょっと肩に違和感があって投げられない”といった情報が手に入るようになる」(暴力団関係者)

 このように、暴力団関係者にとって有名選手との交際は、“仕事”の役に立つうえ、「タニマチ」然として振る舞うことで、周囲に大きな顔ができる。一方、選手にとっても、豪勢な接待や受け取る金品は大きな魅力だ。そもそも野球漬けの生活を送ってきた選手の中には、幅広い人脈を持ち、夜の世界の顔である暴力団関係者に一種、憧れの念を抱いている者もいる。

 1999年には、巨人の清原和博と西武の大塚光二が、1996年12月に暴力団関係者と一緒にゴルフをしていたとされる写真が週刊誌に報じられた。清原、大塚とも暴力団関係者と一緒にゴルフをしていたことを認め、それぞれの球団から「軽率な行為があった」として厳重注意処分を受けた。

 同年10月には当時、巨人の内野守備コーチを務めていた篠塚和典氏が「車庫飛ばし」を行なっていた山口組系後藤組の関連企業の役員を務めていたことが発覚。警視庁から自宅を家宅捜索される事態となり、年内謹慎処分を受けている。

 その後、球界ではこうした暴力団との関係を断つために、2003年12月、「プロ野球暴力団等排除対策協議会」が開かれ、「暴力団等排除宣言」が採択されたものの、その後も「有名選手がレイプした女性から謝罪を求められ、暴力団を交渉の場に入れ被害女性を脅す」事件が発生したりもした。

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

全文表示 | 大魔神・佐々木氏、清原和博氏の近況明かす

清原和博の最新情報…現在の姿が見てられないとネット騒然!!

このような記事を見ると、プロスポーツ選手というのは、一見華々しいように見えますが、実は暴力団関係、ヤクザ関係とは切っても切れない業界に就職することと同じです。

そこには、巨大スポンサー企業がうずまき、金のなる木としてちやほやして、次世代のスターを発掘しようとします。

確かに、プロに行ける選手というのは、ある意味においてその分野では超人的なものを持っています。

しかし、それを奪い取られたら、「一般人以下の存在になってしまう」

という事実が存在します。

私は以前から、「学歴もスポーツも同じ」というカテゴリーで書いているように、親は世間からの評判や評価が正しいとはばからず、子供の人生を選択してしまう傾向があります。

学歴やスポーツだけが高い子供は、私から言わせれば、「単に好きなことだけをやってきた子」というだけです。

普通に努力したら、普通以上の結果が出ただけなのです。

その才能を自分のためだけに使うため、このように人生半ばで「絶望」が待っているのです。

では、私たちの才能はどのように生かせばいいのでしょうか?

それは、「私たちが、なぜ生まれてきたのか?」そして「人生がなぜ100年間与えられているのか?」といったような人生の目的を知ることから始まります。

人生の目的を知れば、失敗も成功も、全てに意味があり、本当に毎日救われた、心の救いを受けて喜びで生きることができるのではないでしょうか?

結局、私たちの人生の軸にあるものは「己の欲望を満たすこと」なのです。

そのように、生まれたときから社会から、両親から、学校教育から、メディアから、友達から教え込まれてきたからです。

人生で何が大切なのか?

これを悟った人だけが幸せになれるのではないでしょうか?

松阪投手のように、これから「どんどん下落していく人」を自分には関係ないと思っていては大間違いです。

これから東京五輪まで、政府は庶民を苦しめようと活動しています。

東京新聞:成長重視の財政出動 消費増税と五輪後見据え:経済(TOKYO Web)

私たちは、本当に「今ある幸せ」に疑問を持ち、真理に辿り着くことが幸せへの近道であると悟って行かなくては、意味のある人生をおくることは難しいのではないでしょうか?

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