今回は、東大寺南大門の国宝、金剛力士像を取り上げたいと思います。その前に、先ず「阿吽(あうん)の呼吸」という言葉の意味を考えます。
[訳] サンスクリットで、口を開いて最初に発せられる音のことを「阿」。口を閉じて最後に発せられる音のことを「吽」という。ここから、「阿吽」は宇宙の始まりと終わりを意味するようになった。後に、「阿」は真実の追求、求道の心、「吽」は智慧、涅槃を表すようになった。また、一対のものを表すようになった。例えば、社寺の本殿の前に置かれる狛犬、仏法の守護神である金剛力士像、仁王像がそうである。更に、「阿吽」は転じて二人の人が息を合わせ共同で活動する意味となった。日本語に、「阿吽の呼吸」という言い方がある。例えば、相撲の取り組みで、二人の力士が立ち会いで息を合わせた後、立ち上がって取り組みが始まる。この、二人が息を合わせるのが「阿吽の呼吸」である。
「阿吽」の意味が分かったところで、東大寺南大門の金剛力士像を見てみましょう。
↑ 吽形像
↑ 阿形像
[訳] この二体の木像は金剛力士像で、仁王像とも呼ばれ、東大寺を守護する武将像である。この二体は高さ8メートル、ヒノキ作りで、木製の多くの部品がはめ込まれて出来ている。
大仏殿の方に向かって右側が「吽形像」で、口を閉ざしている。目じりをつり上げ、右腕を上に挙げ、左手に「金剛杵」を持っている。これは敵を追い払う武器である。
向かって左側が「阿形像」で、口を開いている。右腰の前で金剛杵を立てて構え、左腕を曲げ、手の平を広げ、左足を一歩踏み出している。
鎌倉時代の1203年、焼失した東大寺を再建する中、当時最も有名であった四名の仏師が主体となって造営した。7月24日から10月3日まで、わずか69日間でかくも巨大な仏像を完成させた。これらの仏師は、名前の中に「慶」の字が付くので、「慶派」と呼ばれる。最も有名なのは運慶、表現技法が最も優れているのは快慶である。
この二体は芸術的にも傑出した効果を生み出しており、国宝に指定されている。
では、仏像の中で、金剛力士とは、どういう仏様なのでしょうか。
[訳] 金剛力士は元々、金剛杵を執って釈迦の身辺に在って仏法を守護する役目で、一体だけのものは「執金剛像」と呼ばれる。インドで二体に分かれるようになり、二体で構成されるものは「仁王」とも呼ばれる。当初は甲冑を身に付けていたが、後に中国で裸体に変わった。口を開けた「阿形像」と、口を閉ざした「吽形像」の二体で構成される。
この金剛力士像が納まる、東大寺南大門についても説明をしましょう。基壇からの高さが25メートルもある、堂々とした山門で、鎌倉時代に中国・宋朝から伝わった大仏様建築の数少ない実物であり、国宝に指定されています。
[訳] 天平時代の8世紀に創建された南大門は、平安時代に台風に遭い倒壊してしまった。鎌倉時代の12世紀末から13世紀初頭にかけ、重源により再建された。その際、大仏殿といっしょに再建されたが、残念ながら大仏殿はその後焼失してしまった。
1199年に上棟され、1203年に内部に安置された仏像と共に竣工した。屋根は二重の入母屋造り、正面は五間、三枚扉の二重門である。の構造である。下層の屋根には天井が張られていない。円形の柱が18本使われ、柱の長さは21メートル、建物の高さは基壇から25.46メートルあり、日本最大の山門である。
次に、南大門の構造の特徴を説明します。
↑ 挿肘木
↑ 柱と貫
[訳] 屋根の構造は比較的シンプルで、屋根は単層で、たる木の傾きが屋根の傾斜に等しい。天井は張られていない。屋根には瓦が敷かれている。貫を通して柱と柱の間の力を支えている。柱には肘木が挿し込まれて屋根を支えている。挿肘木は上に積み重ねられるので、左右方向に拡げる必要がない。
[訳] こうした建築様式は「大仏様」、或いは「天竺様」と呼ばれ、鎌倉時代の13世紀初頭、東大寺大仏殿を再建するため、重源が中国宋代の中国南方から導入した建築様式である。この建築様式採用の理由は、世界最大規模の大仏殿を再建するため、しかし財政面と資源の制約で、奈良時代のような巨大な木材を準備できず、一方、当時の日本の主流の社寺建築様式である「和様」では、大仏殿の規模の建築構造では必要な強度を確保できないため、宋代の中国南方の建築技術を採用したものである。東大寺では、「大仏様」で大仏殿と南大門を建設したが、当時の大仏殿は焼失し、既に存在しない。現在私たちは南大門から「大仏様」の建築技術を見ることができる。
この南大門の後ろに控える大仏殿と大仏については、別の機会にご紹介します。
尚、全文中国語のプログも公開していますので、そちらもご覧ください。
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