小旅館幌子
柳の枝で編んだ 笊籬(そうり。ゆでた麺やワンタンを鍋からすくい上げる網じゃくし、揚げざる)の模型をつるして幌にした。昔、北方で旅行し外出する者は皆馬に乗って出かけた。民間の風習で人が出発する時に、餃子を作って見送り、到着すると麺を作って歓迎した。月日が経つうちに、「上馬餃子、下馬麺」の俗語ができた。餃子も麺も、茹で上がると、「笊籬」を使って鍋からすくい上げた。したがって小店が「笊籬」を幌にするのは、寓意(他の事物に託してほのめかす意味)が深遠で、旅人に我が家に帰って来たかのような暖かみを感じさせたのである。
看板の効果
招幌(看板)は、物象広告(客観的な事物の広告)として、設置や制作の精緻さ、奇抜さは、ただ店の入口を飾るだけでなく、流通の領域でも、かなり重要な役割を果たした。商人たちは巨額の投資を惜しまず、奇を争い勝利を目指したが、その目的はただ一つ、人々の視線を惹きつけ、顧客を繋ぎ止めることであった。元曲の『后庭花』に二句の唱詞がある。「酒店の門前に三尺の布、過ぎ来たり過ぎ往き主顧を尋ねる。」言っているのは酒旗の役割である。『宋朝事実類鈔』におもしろい話が載っている。福州にひとりの酒売りの老婦人がいて、酒旗の上に太守、王逵(おうき)の酒望子(幌子)詩「下に臨む広陌(こうはく。広小路)は三条の闊(ひろ)さ,斜めに倚(よ)る危楼は百尺の高さ」と書いたところ、これにより大量の食客を惹きつけ、「これより酒の販売が数倍」になったという。
これだけでなく、多くの名牌(ブランド品)の看板は、商家に対しても良いサービスを促す効果があった。看板を台無しにせぬよう、商品は質と量を保たねばならなかった。昔の北京の「金驢儿」の石鹸、「銅老倭瓜」の白蕎麦麺、「黒猴儿」の帽子、「王麻子」のハサミは、顧客の中で名声を博していた。商品の品質を重視し、ブランドが有名な店も、それによって財を為した。陸元輔『菊隠紀聞』の記載によれば、北京の「勾欄胡同の何闉門家の布、前門橋陳内官家の首飾、双塔寺李家の冠帽、東江米巷党家の鞋、大柵欄宋家の靴、双塔寺趙家の薏酒(ハト麦酒)、順城門大街劉家の冷淘麺、本司院劉家の香、帝王廟街刁家の丸薬は、皆一時期有名で、巨万の富を築いた。」
店舗の招幌(看板)は、多数が民間の芸術家、職人が設計、制作したもので、採用された模様や図案は大衆が好むもので、よく使われる蟠龍紋、蝙蝠紋、寿字紋、蓮花紋など、皆吉祥、富貴を祈る題材であった。多くの招牌は、またその多くが著名人の自筆であった。例えば、清代南京で保存された明代の著名人が起草した扁額の中で、牛市口の石鹸、粉おしろい店の縦型の扁額の「古之敬家」の四字は、劉青田が書いたものだ。三仙街の毛氈店の横型の扁額の「伍少西家」は、顧起元が書いたものである。行口大街南貨店(中国南方の食品店)には長方形の扁額があり、「楊君達家海味果品」の八字は、学士(文人)の余孟麟の傑作である。北京の「六必居」は、厳嵩が書いたと伝えられている。「都一処」は乾隆皇帝の親筆である。これらの招牌(看板)の筆跡は、上品なものもあれば、飾り気がなく実直なものもあった。
昔の北京の多くの店舗の店名は含蓄があり、味わい深かった。例えば、地安門外の茶葉舗は、「金山」と言った。安定門外の茶肆は、「鶏鳴館」と言った。ある茶社の名は「半畝園」、「水楽庄」、「柳蓮居」、「緑意軒」、「怡性斎」、「萃園別墅」などと言った。また本書中の「知楽魚庄」は、おそらく魚と熊の掌は同時に得られない(望みが2つあれば、その1つを捨てざるを得ない)の意から取り、有魚知楽(魚が有れば楽を知る)としたのである。
知楽魚庄(金魚池にあった魚屋)
一方「瑞蚨祥」を名付ける時は、多くの文人墨客を招き、細かく推敲して決められた。蚨(ふ)が指すのは青蚨で、古人の銭への別称であった。『捜神記』の記載によれば、「(蚨の血を)塗った銭各八十一文、市の物毎に、或いは先に母銭を用い、或いは先に子銭を用い、皆復た飛帰す、(車)輪は転じて已まず。」蚨を名に使ったのは、銭を使っても、またすぐ(銭が)戻って来て、お金がどんどん増えるという意味が含まれた。
瑞蚨祥
北京前門大柵欄に位置し、清の光緒21年(1895年)に開業し、北京で有名な絹織物の店で、当時の「八大祥」のひとつであった。店の門の上方には「瑞蚨祥」の三文字が刻まれた横型の看板で、「瑞」は良い前兆を指し、「蚨」は「青蚨」(古代の伝説上の虫で、銅銭の上に蚨の血を塗ると、銭を使った後、あっという間に元の持ち主のところに戻って来るとされ、このため「銭」のことをまた「青蚨」と言う)、「祥」は吉祥を指す。「瑞蚨祥」の三文字で、縁起が良いという意味が含まれている。
こうした民間の精神で設けられた招幌(看板)は、標識と装飾が一体になったものであった。豪華で美しい入口の装飾に、濃厚な民間の色彩を配した招幌は、より一層商店の魅力を付け加えた。
まとめ
1930年代末から1940年代初頭、北京の招牌、幌子は、相変わらず明清時代の北京の店舗の招幌の様式を踏襲していた。例えば清慎斎裱画店(表具店)が用いた縦型の看板は、明清時代の看板と何ら違いが無かった。看板は白地で、上部に書店名が書かれ、下部の一方に「蘇裱名人字画冊頁手巻法帖」と書かれ、もう一方には一巻の掛け軸が描かれ、請け負う仕事の内容と技術レベルを示していた。
清慎斎裱画店
中国の書画の装幀は、特殊な伝統手工芸で、蘇州の表装工が最も精緻であった。清慎斎裱画店の長方形の木製看板は、白色の地に、店名と「蘇裱名人字画冊頁手捲法帖」などの文字が書かれ、その横に一巻の掛け軸の絵が描かれていた。これによって請け負う仕事の内容と、その技術レベルを表していた。
また例えば「稲香村」、「南味店」であれば、二枚の横型の看板を使い、何文字かの簡単な文字で商店の名前とどのような種類の店かを明示した。
稲香村
稲香村は南方の特産品や自家製の南方の菓子類、蘇州や揚州の醬油煮の惣菜を売る店であった。店の入口の上に「新記稲香村」の横型の看板がある。写真はちょうど中秋節が近く、季節の商品が店に並べられている。店の外には「中秋月餅」と書かれた布幌(布に書かれた幟)が高く掲げられている。店内には、金華ハム、南京板鴨の実物幌が掛けられ、文字と実物招幌で客を招き寄せ、賑やかな雰囲気を引き立たせている。
本書で紹介した幌子で、例えば小麦粉を加工する工房は形をイメージした看板(形象幌)を使い、店の外に対称に白い小麦粉を捏ねた団子(マントウの模型)を吊り下げて看板とした。
粉坊幌子
小麦粉を加工する工房。つるされた幌子はマントウの模型で、形象幌に属する。昔、北京の粉坊の門前の幌をつるす柱の龍頭(柱から突き出た枝先の部分)の下には、通常白い小麦粉を捏ねた団子の模型を対になるようぶら下げることで、店の扱う商品の標識がより鮮明になった。
粗飯舗が掲げた看板は、籐で作った輪っかの外に金銀の紙を糊付けし、下端に間隔を空けて赤い紙の房をぶら下げた、典型的な 形象幌である。銅鉄舗が使ったのは実物幌で、店の外に銅壺や鉄桶を並べた。馬鞍舗の外には刺繍した馬の腹につけるベルトと細かく作り込んだ馬の鞍を使って看板にし、馬の腹のベルトの上の模様はモンゴル族が一般に好む図案や色使いに合わせてあり、たいへん気がきいていて、斬新であった。これも実物幌のひとつである。
馬鞍舗
店の外の背の高い腰かけの上に刺繍をした馬の腹に付ける革ベルト(すなわち鞓(てい))と加工の優れた馬の鞍が置かれ、実物幌に属する。
本書に収録した写真は、1930-40年代に撮影された。ここで紹介する看板は、北京の店舗看板の一部に過ぎないが、歴史的にも北京城の商業の実際の写真であり、北京の民俗学、商業史、文化史の愛好者、研究者にとって、正に貴重で価値ある資料と言えるだろう。