佐藤功の釣ったろ釣られたろ日誌

釣り・釣りの思い出・釣り界のこと・ボヤキ.etc

閑話休題/大阪弁の面白さ・続き

2009-03-22 12:20:58 | 日々の思い
<お知らせ>

泉州ハネ釣研究会主催の恒例「岸和田ハネ釣りオープン大会」が開催されます。
全国捜してもこれだけ大盤振る舞いの大会はないでしょう、参加者の大半に賞品が当たります。昨年は300人もの人が賞品をもらいました。ぜひご参加を。

日時/4月5日(日)
場所/岸和田一文字(大阪湾南部)
受付/山田渡船事務所、AM4時から7時まで
問い合わせ/山田渡船事務所(Tel.0724-36-3949)
参加費無料!
賞品/竿・救命具・その他、豪華賞品100賞以上あります

=========================================================================

大阪弁の話の続き

大阪人の商売用語は、挨拶代わりの「まいど」からはじまりますが、私らは、普通の挨拶代わりにも、例えば道ですれ違ったときにも「まいど」てなことを言います。

この「まいど」の次に出てくるのは「儲かりまっか」で、商売もしてへんのに道行きでこんなことを言います。それに対して「さっぱりワヤや、あきまへん」と応えるのです。

他人さんが聞いていたら「お互い商売人やねんな」と思うが、実はそうでもない。

買い物に行ったら、値段表がついていても「これなんぼ?」と聞く。これは大阪人の証拠で、店の人が値段表を見ながら値段を言うと、買い手の方は、「せーだいまけてーな」という(もっとまけての意味)。

「もうほんまにかなわんなー」と言いながらソロバンを弾いて「ちょっきし○○円にしとくわ」と見せる。

それでも客が値切ると「もうカンニンや」とくる。このやりとりが大阪弁のおもろいところです。

消えかけてる大阪弁、皆さんも考えてみてください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

釣り界の変革・日本最古の釣り雑誌 

2009-03-20 20:39:41 | 釣り界の歴史

私の釣り歴のなかで大変ショックを受けたのは、日本最古の釣り雑誌といわれていた“つりのとも”が倒産したことでした。

社長の太田氏とは、同じ歳で仲良くおつきあいさせてもらっていたのですが、1999年の年末に突然の事務所閉鎖で驚きました。

その3日ほど前には、私の家で編集局長と昼ご飯を一緒に食べた時には何にも言ってなかったし、閉鎖当日も局長とあって話をしましたが、その時は局長も私には「何にも知らない、自分も今来たら戸が閉まってるのでびっくりしてるのだ」と言ってました。

後日、局長の言った言葉は嘘であることが分かりました。彼が弁護士を連れてきたというのが分かりましたから。 会社がそこまでなっているとは、私たちにはおくびにも出さなかったのです。

その少し前には、ブラックバスの釣り場を紹介する本(琵琶湖、冨士五湖など)を出版されて、大変よく売れたと喜んでおられたので気がつきませんでした。 一緒に風呂に行ったり、食事をしたりしていましたが、私自身は仲の良い友人のつもりでしたが、彼から見たらただの一読者だったのでしょう。

そんなことを考えることもなく、どうしたんだろう?と、その後何度か、彼の自宅に当時つきあっていたO社のKさんと一緒に何度も訪ね連絡を試みたのですが、残念ながら会うことができませんでした。

私の友人の建設業のM氏も、いろいろと骨を折ってくれて何とか倒産を避けるためにも弁護士さんとも相談をしてくれたのですが、話が噛み合わずに倒産という残念なことになってしまいました。 今もどうされておられるのかと思っています。

もう過去の話なので、すべて忘れて会いたいものと思っています。 この「つりのとも」の仲間が寄って色々な楽しいことをやりました。恒例の吉野川でのハエ釣り大会。 そして、その時に地元の猟師さんが山で撃ってきたイノシシを丸ごと焼いてもらってよばれたこと。

梅田で、編集長の就任祝いを皆さんのいろいろな持ち寄りでやったことなどが、今も思い出として残っています。 その後、先ほどのM氏が、何とか「つりのとも」の名前を残してやりたいとのことから、株式会社ノアつりのともと言う名前の会社を作り、当時のメンバーで釣の本を出版しましたが、残念ながら長くは続きませんでした。

時代の流れか、釣りの本が売れない時代が来たんだなと、後日、釣りサンデーが倒産した時に思いましたが、奇しくも「本の売れない時代が来ますよ」と我がブログの先生が過去に言っていたのを思い出します。

このときのメンバーである今中氏とは、今は兄弟付き合いをさせてもらっていますが、年上の私がいつも助けてもらっている状態です。

そして伝えたいのは、武富純一氏は今自分で事業をやって、私と同じ所で仕事をしていますし、永田君も京都で出版の仕事をしています。 ただ、残念ながら、連載を書いていた福島氏も亡くなり、だてや酔郷氏も平成21年1月に亡くなってしまいました・・。

その後、有名だった釣り具メーカーのオリムピックもこの業界から撤退しましたが、撤退前に「イエローガイズ」という、環境も取り込んだ釣り人の横の繋がりの会を立ち上げられたのですが、これもオリンピックがなくなったために自然消滅しました。

この会合で、堀井頌通徳島県釣連盟委員長にお会いしました。あれから早や9年になりますが、この徳島県釣連盟が昨年60周年を迎えられました。昭和22年に発足したというのですから、全関西が全日本磯釣連盟から分かれて設立される十年も前に設立されていたわけです。

この徳島県には、皆さんご存知の名人さんが多くおられます。少し名前を挙げさせてもらいますと、初代名人・小里哲也氏を筆頭に山元八郎氏、松田稔氏、江頭弘則氏、堀井頌通氏、立石宗之氏が名を連ねます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題/大阪弁の面白さ

2009-03-20 19:06:31 | 日々の思い
ブログを書き続けるということは大変な労力がいることがよく分かりました。
これをはじめるときに、途中でやめるのやったら初めからやめといてやと、
我がブログの先生から言われてますのでやめられませんが・・・

こんな昔話つづっていって皆さん、読んでくれはるのやろか?
間に少しは、ちゃう話もせんとおもろないやろな。

少し脱線して、大阪弁で話をさせてください。

僕(わて)のとれた所は、あとで自己紹介と言うことで書きまっけどな、
大阪の河内に近い、がらの悪いアベノで生まれましたんや、せやから口の悪いのは、しゃないやんけ、とか、せえだいゆうとけてなこと言ってました。

口の悪い仲間にしたら「もっと違うもんかてようけ釣ったやろ」というかもしれん。ほんまに魚より人をようけ釣ったと思う、両手両足を足してもたらんど。

大阪弁のおもろいのはなんやと思う?
挨拶がわりの、まいど、まいどとか、おんなし言葉の繰り返しが結構多いんやで。

ぼちぼち、ちゃうちゃう、うだうだ、ずっこいずっこい、とか。

もう一つ、男連中が彼女にOKもらうときによく言う言葉は、
「なあーええやろ」とか「なあーしようー」とかいう、
なんとなく女言葉になっている、
それで返事は「・・・けどー」という女子はん。

忘れられている大阪弁、次の言葉の意味分かりますか?
私のお袋がようゆうた言葉
「よろしゆうおあがり」「へっついさん」「おおきにはばかりさん」

聞くところによりますと、商いで地方に行って男が大阪弁でしゃべると警戒されると言いますが、女の人の場合は、良い方に受け入れられるといいます。
ほな、時々大阪弁でしゃべりまへんか、どないだす?。

このブログ、男だけ見てるのと違うやろからアホな歴史も書かれへんしな、
書き出したらそればっかり書けと言われるやろし、ブログの先生におこられる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

釣り界の変革・提案・続き

2009-03-19 18:26:27 | 釣り界の歴史
私がこのブログを書き始めた3月、西日本磯釣協議会の機関紙「潮目3月号」に偶然にも、西協10代目会長の伊藤氏が「西協変革の時」と題して、私が先に書かせてもらった当時の方々とのことを書いておられます。

この中で、伊藤氏は全関西が西日本磯釣協議会、日本釣連盟連絡協議会、四国磯釣団体協議会と分裂した当時の様に、時代にあった団体に変革することを指摘されています。

これは、現在あるどの団体にも言えることだと思います。
古い役員さんも大事なのですが、口ばかりで動かない、肩書きばかり気にして指図だけはするという方が増えてくると、団体は自然に消滅していくと思うのです。

磯釣りの各団体の会員数は、景気の後退とともにどんどん減少していってるのではないでしょうか?

平成14年に、私は全関西磯釣連盟から分かれた大阪府磯釣連合会と日本釣連盟連絡協議会や全日本磯釣連盟大阪支部の各団体の会長さんに呼びかけて、「近畿釣り人の会」を立ち上げさせてもらいました。これは釣り人の横の繋がりとしての会であり、上部団体ではありません。

私は、本来の目的は横の繋がりということで、磯だけでなく釣り人皆さんの会を立ち上げて、そのなかで色々な大会をやればいいのではと考えていました。

声をかけたのが磯の会だったので、手始めにグレ釣りのトーナメントからはじめるのがよいのではとの意見から、この会は動き出しました。

この会が動き始めたので、次の新しい試みとして各団体同士の交流について、若い人から上がってきた意見として提案をしました。

それは、各団体が新年会を開くにあたり、お互いに来賓として行き来しているのをやめ、それぞれ自分たちの団体だけの総会にして、月日を改めて各団体が合同で新春互礼会を開く、そこへメーカーさんにも来てもらうようにしたら、大変な経費削減になる、というものでした。

そして、これが受け入れられて新春互礼会として2回行いましたが3年目になり、担当の団体が「会の運営をまとめきれないから」と、担当を辞退しました。

これは、互礼会となったことで自分のところの新年会に来賓が来てくれないので、やりたくないという、一部の方々の本音もあったのだろうと思います。

これを実施することによって、お互いに見栄をはらなくてもよいし、メーカーさんも来てもらいやすくなるという点がなぜ分からないのでしょうか。

同じような顔ぶれでの出たり入ったりの繰り返しはムダと思うのですが、各会長さんが思い切ってやらなくては、いつまでも、お互いに足の引っ張り合いが続くと思いますし、メーカーさんの参加も減ることでしょう。

=========================================================================

<釣り人の皆さんにお知らせ>

今年1月7日に亡くなられました元週刊釣サンデーの故小西和人氏の
「小西和人さんを偲ぶ会」のご案内

・時/4月26日(日)正午から午後2時まで

・ところ/新大阪ワシントンホテル2F/桜の間(Tel.06-6308-8700)
 JR新大阪正面から徒歩3分、地下鉄は7番出口から徒歩3分

ご香典、ご供花、ご供物などの儀は硬くご辞退申し上げます。
平服でのご参加を。オール阪神さんやビッグのレギュラーメンバーと小西さんを偲んでのお話をしませんか。

個人自由参加ですので隠れたファンの方一人でもご参加ください。
当日は私も会場におります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

釣り界の変革・続き

2009-03-18 18:33:32 | 釣り界の歴史
<関西の磯釣開拓者と開拓史>の中で書きました故三木会長の「釣り界百年の計」についての記事をここに抜粋して書かせてもらいます、釣連盟の行く末を案じて書かれた亡くなられる寸前の遺稿とも思えるものです。

=========================================================================

「波」 釣り界百年の計   昭和52年6月1日「いそつり」326号

過去6年間にわたる日釣振、全釣協の活動を見るに、何等めざましい成果を挙げ得なかったと言ってよいだろう。

そこで、この6年間の実績をふまえて、内水面遊魚の盛んな関東の諸君に内水面をご担当いただき、海面遊魚の盛んな関西に於いて、最も困難な海釣りルールつくりに全力を傾注することが急務であると私は信じている。

従って、現在ある2つの公益法人は合流一体となり内水面遊魚の為に精力を疑集して努力して行くのがよいだろう。

一方、海区に関しては、これまでそのルールがないだけに漁業者との魚場利用の調整について困難なる局面が各地で惹起している実情にあるので、今後これらを暫時改善、克服することが必要である。

従って全関西磯釣連盟はこの機会に、水産庁を主管とする公益法人に組織内容を移行して、今後に備えたいと思うので先般来、水産庁の了承を得てすべて出願の準備を終了した。

もとよりこの問題が安易に我々の希望にそうものとは思わないが、過去十年間
全関西磯釣連盟は必死にこれらの困難な問題にとりくんできたのである。

3万人会員諸君は、このことは百も承知だと思っていた。ところが、これまで何十回もの会合で事細かにその主旨説明をしてきたにもかかわらず一知半解の諸君が大部分と知って私は愕然としている。

今後百年の釣り界のために、全関西磯釣連盟のために、願わくば理解していただきたいとおもう。

このように連盟法人化の時期が迫っているので今後、これらの諸準備のためしばしば会合がひらかれるので各会代表者はご出席いただいて事実を知っていただきたい。

十年の歳月をかけて進めてきたこの道を今更連盟は引き返すわけには行かない。
只管(ひたすら)最終目的に向かって自主独往するほかない。
釣り界全般の利益の為に・・・・

この間、二、三の誠に遺憾な言動をする人達が連盟内部、すなわち我々の仲間から輩出した、ということは連盟二十年の歴史の中にかってなかったことで連盟は全くおどろいている。

これらの人々に対しては連盟の総意に基づいて重大なる反省をしていただかねばならないだろう。今後の集会に於いて、この件も当然重要な審議事項としてご協議して行きたい。

全関西磯釣連盟 会長 三木武夫

=========================================================================

「三木会長がこの以前に藤澤氏と中西氏に連盟のことをお願いしていたが、そのお二人が改革に走られたので思いが違っていたようだ」

三木会長はこの記事の書かれた後の6月11日になくなられました。

下記に、三木会長の絶筆となった文を「釣り三昧」より書かせていただきます。

=========================================================================

はじめに

この本は、長かった人生の半分を、釣に呆けていた男の日記です。しかし、この男は、それを少しも後悔していません。

それどころか、あらかた人生の終わりが近づいた今になっても、奔放で自信に満ちていた半生を思い返して、得意気に“オレはオレの人生で、しなければならないことは、総べてやった”と豪語しています。

たかが“釣りじゃないか”などと言わないで、まあ読んでください。

  1977年4月                     著者


おわりに

十年前「釣人釣魚」を出した時に、挿し絵を書いてくれた佐々木壮六君が、今度もわざわざ東京から駆けつけて挿し絵から装丁までやってくれた。

十年という歳月はご覧のとおり、一段と、その絵筆を枯淡にしていた。うれしいことだ。前衛書家長浜光先生の雄渾な題字も頂いて花を添えた。
また、各章の区切りにあるカットがわりの俳句は、長男孝の作品。

1月10日、畏友新谷博士がやってきて「癌だよ、入院しよう」と言った。
「そうだろうな」と言って梅田に近い渡辺病院に転がり込んだきり、
もう4カ月になる。

花が咲いた、花が散った。胸のモヤモヤは一向に減りそうにない。やがて梅雨になるだろう。

「院長、8月まで生かしておいてくださいよ」「しっかり食えば大丈夫でしょう」
ところが、若狭カレイの干物とかき餅しかとんとノドを越さない、イヤな病気があるもんだ。

70年も使い古したのだから、もうこの世になんの未練もないが、今、一心に願うことは「どうか痛まないでくれ」ただこれだけだ。この世の終わりになって、しかめ面して死ぬのなんかは、どう考えても冴えないからな。

ご親交を賜った釣友各位のご健康とご幸福を心より念じつつ、今日もまた私は病床に寝転がっている。

  1977年4月15日                   著者

=========================================================================

私はこれを写しながら涙がとまりません・・・
未練がないとおっしゃってるが、まだたっぷりとやり残したことがあるのに、それが出来なくて悔しかったのではないかと思います。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする