佐藤功の釣ったろ釣られたろ日誌

釣り・釣りの思い出・釣り界のこと・ボヤキ.etc

釣り界の変革

2009-03-17 21:04:12 | 釣り界の歴史
全関西磯釣連盟から袂を分かち、西日本磯釣協議会として発足に動かれたのは関西磯釣クラブの中西暢氏を中心にした京都磯釣クラブの木村誠三氏、西淀磯釣クラブの梅木睦夫氏、堺磯釣クラブの百百久氏らのメンバーでした。

そして、昭和53年、四国の故・尾藤石朋氏が初代の議長に選ばれて以後、中国地方の故・河野正夫氏、京都の故・梶川幸三郎氏、岡山の故・小畑清嗣氏、四国の故・藤田恵三氏と続きました。

6代目に大阪の故・梅木睦夫氏、7代目が広島の故・俵弥寿夫氏、四国の山田一郎氏、神戸の故・西川重男氏、10代目が、山口の伊藤博之氏、和歌山の故・島慶一郎氏、四国の大森茂氏、出雲の町田幸雄氏、と1年交代で続きました。

14代目の京都の故・木村誠三氏からは2年交代となり、岡山の大森昭典氏、大阪の故・吉岡輝二氏、四国の松浦勇氏、兵庫の小林修二氏、大阪の塩見孝夫氏、四国の西岡康敬氏、中国の高橋和巳氏、そして平成20年、21年は京都の柳富雄氏がなっておられます。(以上、事務局の小谷氏より資料をお借りしました)

私は全関西磯連当時、中西氏と一緒にサイパンに釣行したように覚えていますし
木村誠三氏は、日本釣連盟連絡協議会の方々と気楽会という釣りクラブを通じて一緒に奄美大島や種子島などに釣りにも行きましたが、昨年(平成20年)に残念ながらお亡くなりになりました。

西日本磯釣協議会のメンバーに続き、全関西磯釣連盟から退会した和歌山県釣連盟初代会長の志賀吉秀氏は、同じ和歌山の島慶一郎氏に負けず劣らずのグレ釣り名人といわれました(著書/新しいグレ釣り)。

その志賀氏とともに日本釣連盟連絡協議会を立ち上げた、大阪府釣連盟の初代会長新竹柳太郎氏、福滋岐釣連盟(後の滋賀県釣連盟)の初代会長曽我栄弥造氏。

そして、兵庫の藤澤淳一郎氏(著書/磯釣り)は兵庫県釣連盟の初代会長として、また昭和61年に設立された日本釣連盟連絡協議会の初代議長としても活躍されましたが、いずれの方も次の世に旅立たれました。

これらの磯釣りの会とは別に、釣技を上げるために色々な釣りの競技を指導されてこられたJFT(全日本釣技術振興評議会)の佐古田修一氏も、昨年(平成20年)に旅立たれて、磯釣りの一時代を築き挙げた私の知っている主だった方の大半は亡くなられました。(佐古田氏の事はまた後ほど)。
 
関西の磯釣りの歴史を飾る人びととして、多くの有名な方がおられます。
大阪磯釣クラブ発足からの亀山素光氏、国会議員にもなられた中村鋭一氏、
手塚山学園顧問の浅越一彦氏、全日本釣技術振興評議会の佐古田修一氏、
拓山会の山本記久氏、香川県釣り団体協議会会長の松原剛氏、
愛媛県釣り団体協議会会長の黒田耕蔵氏、廣島の戸田直光氏、
OACの中村稔氏、戸波俊二氏と、名前を挙げたらきりがありません。

先の2団体とは別に、昭和52年、四国の香川県で松原剛氏が全関西を退会されて
「四国磯釣団体連合会」を立ち上げています。

私自身、連盟の変革の時期に、改革派の一人として間違って巻き込まれてしまったのですが、これは私が日ごろから理事会できつい意見を言っていたための、私自身不測の至りと思って素直に受けとめました。

その後、私は関係なかったと当時の連盟会長から謝られたのですが、そのタイミングすでに失われていました、その時、私は新竹氏に誘われて大阪府釣連盟の立ち上げに走っていました。

私が首謀者と間違われたのは単純なことで、当時、藤澤氏、志賀氏、新竹氏のメンバーが私の家の近くで協議をされていて、そこから「全関西を非難する文章」が出され、その発信した住所が私の住所近くだったためで、他の方と一緒に除名のハガキを出したとのことでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

釣り界の開拓者・忘れてならぬ恩人

2009-03-16 21:03:05 | 釣り界の歴史
昭和58年、汚くなった大阪湾を復活させチヌを増やすことを試みた2人の方がおられます。大阪湾は、昔は「茅渟の海」と呼ばれたほどきれいな海だったのです。

ウキメーカーのヒロミ産業の故・広瀬正巳社長と、全関西の副会長で泉佐野磯釣クラブ会長の故・河崎教秀さんが資金を出し合い、チヌの稚魚放流を始めました。

その後、大阪府釣り団体協議会と日本釣り振興会に引き継がれ、現在もチヌの稚魚放流は続けられております。今は50センチを超えるチヌが数多く釣れるようになってきました。

大阪府釣り団体協議会では、一年を通じてどれだけ大きな魚が大阪湾で釣れているかという証明として魚拓大会を行っています。

チヌの部門では60センチを超えるものも珍しくなくなってきました。ちなみにスズキの部門では1メーター近いものが釣れています。

この魚拓大会は、大阪府民釣り大会として例年行われているフイッシングショーの会場で、優勝した釣り人に知事からの表彰状をいただいています。

この稚魚放流は昨年で26回目を数えました。偉大なお二人の方のお陰だと思っています。

毎年フイッシングショーの会場で、大阪府釣り団体協議会のメンバーが、この放流のための募金をお願いしています。

こうして、チヌの放流を続けてきたからこそ、50センチを超えるサイズがよく釣れるようになってきたのです。チヌの放流はもう要らないと言う声さえ聞こえてきそうです。

私たちの大阪府釣り団体協議会に所属している茅渟関西連合の落とし込み大会には、遠く東京や名古屋からの参加者もいるというぐらい、大阪湾のチヌ釣りは有名になりました。

これだけの人が来る大阪湾を大阪市は釣り禁止にしょうとしています。
これは、ある釣り人が起こした事故のためなのですが、知らない方のために簡単に説明します。

平成19年の夏、北港の舞州で釣りをしていた京都の方が転落され、溺れて亡くなり、その方の両親が大阪市と大阪府と渡船屋の三者を裁判として訴えたのです。

それぞれの管理責任を問う形の裁判で、三者に対して500万円の請求をしましたが、あまりに低い金額なので、嫌がらせなのかという意見もありました。

他方、そのぐらいの金額なら出しても良いから告訴を取り下げてれないかとの意見もあり。大阪市からは、振り上げた手を下ろしてほしいという声もありました。

現在は、5人(注1)の大阪市が選んだ「港湾施設の立入禁止区域の指定に係る検討会・委員」のメンバーによって、7月まで検討し、そこで得た結論により決定するというところまで話が進んでいます。

ただ、このメンバーの中には渡船屋、釣り具業者、エサ屋など、生活に密着した人が入っておらず、釣り人代表が1人いるだけです。このような人選を平気でしている大阪市では、公平な意見を聞くことはできないでしょう。

私たち釣り人は、大阪市には裁判で勝ってもらいたいと思っていますし、釣り人として大阪市側に立って証言もしたく思っています。

それは、釣り人一人一人が自己責任の上で釣りをするという原則からであることと、ゴミを出さずにいつまでも美しい海を守りたいからです。、

※注1、(5人のメンバー)

 弁護士(万里法律事務所)/浦田満理(女)
 大阪港運協会 専務理事/加藤邦夫(男)
 大阪市地域女性団体協議会副会長/中野正子(女)
 大阪大学大学院高等司法研究科教授/野呂 充(男)
 全日本釣り団体協議会専務理事/来田仁成(男)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

釣り界の開拓者たち・続き

2009-03-15 17:55:41 | 釣り界の歴史
昭和52年の総会時、全関西磯釣連盟は550の団体と3万人に及ぶ会員となっていました。

2月に行われたこの総会で、三木会長は自分の病状を公表し連盟の先行きを案じて、運営のまとめ役を兵庫の藤澤淳一郎氏に、そして全釣協に対する連盟代表を兵庫の中西暢氏に託されました。

昭和52年6月、三木会長が他界される前後から全関西連盟内部において色々な不協和音が出始めました。

三木会長はこのことに大変腹ただしかったようで、連盟の機関紙「いそつり」326号に釣り界百年の計として書いておられます。

昭和53年5月、男女群島の立神で日本釣魚所属の木村俊一氏が、新記録のイシダイ84.5センチを釣られました。

イシダイ一筋の彼は現在、尼崎にてイシダイ専門のプロショップ経営する傍ら石鯛釣技会の会長として活躍中で、このイシダイの剥製が今も彼の店に飾られてあります。

昭和54年には堤野嘉之さんが、鹿児島県トカラ列島の諏訪之瀬島にて超ド級のカッポレ「150センチ」を上げられています。

余談ですが、私はこの年の始めに兄としても慕っていた今は亡き同じ北摂FCの簗瀬氏とテニアン島に行き、ビッグゲームを楽しみました。

三木会長亡き後、大阪磯釣クラブ会長の大内正雄氏が昭和53年から58年まで2代目連盟会長として、変わり行く連盟組織をまとめていかれました。

そして59年から岩田良和氏が3代目連盟会長として2年ほどされましたが、この時期に現在ある西日本磯釣り連合会や、日本釣連盟連絡協議会が全関西から分かれて設立されました。

全関西磯釣連盟はその後、牧田敏郎氏が4代目として昭和61年から平成4年まで活躍されました。

平成5年から15年までの長き間を吉川幾久雄氏が連盟の会長をやられる傍ら、平成16年まで大阪府釣り団体協議会の会長としても大変苦労されました。

平成17年、私は吉川氏からそのバトンを受けました。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

釣り界の開拓者たち

2009-03-13 20:10:44 | 釣り界の歴史
昭和45年3月、釣人の手によっての戦争の爪痕が残るサイパン島に「太平洋の塔」という慰霊碑が建立されました。

この慰霊碑の建立は、当時、三木会長がサイパン島へ釣りに行かれた時に、米軍兵士の慰霊碑は立派に立てられているのに、日本人の碑はあまりにもお粗末だったことが発端でした。

この島で5万人もの人が亡くなったのに・・・との思いから釣り人に呼びかけて有志を募り、募金カンパ等により150万円ものお金が集まりました。

そのお金を基にサイパンのバンザイクリフに拓殖大学の学生さんによる勤労奉仕で慰霊碑が出来上がりました。

そのデザインは自由美術家協会の吉村主税氏によるものです。そしてこの年には、連盟の会員数も1万人を超えたのでした。

昭和46年2月12日に全日本釣り団体協議会が社団法人としての創立総会が大阪府商工会館にて行われました。この日は偶然にも私の33歳の誕生日でした(あまり関係がなかったな?)。会長は原健三郎代議士でした。

昭和51年には釣人の手による魚塚が、串本の潮岬の先端に立てられました。これは今も釣り人の手によって守られていて、日本の釣り場では他に例のない慰霊碑でしょう。

碑文には「一切魚族霊」と花園大学学長で臨済宗妙心寺派専門道場師家である山田無文老師がかかれてあります。

この長い年月に名をなさしめたのは、各地の離島への遠征で有名になった森岡秀泰氏でしょう。男女群島、草垣、銭州、トカラ列島などの未開拓の磯を次々と切り拓いていかれました。

他方、大物釣りで有名な方としては、磯の上に寝泊りしながら一人で大型のクエを狙っておられた天満磯釣クラブ会長の大井厳氏や、OACの堤野嘉之氏、守口荒磯の平岡義親氏、田辺磯クの村上雅英さん、グレ釣りでは和歌山荒磯クラブの島慶一郎氏らが名を名を連ねます。

昭和52年6月、この関西の磯釣り界を20年近く引っ張ってこられた三木会長が他界されました。

その最期に書かれた著書が「釣り三昧」という本でした。この本には人生の半分を釣りに呆けていた男の釣日誌としてかかれています。そして最後に院長に「8月まで生かして置いて下さいよ」と書かれているのですが、6月に残念ながら亡くなられました。

何かまだやりたいことがあったのかなと思っています。この年、会長は71歳、今の私と同じ年なのです。大変苦労されたので、早くに亡くなられたのだと思います。残念なことです。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わてのパソコンの介護人、たのんまっせ~

2009-03-13 12:18:57 | 日々の思い
やっと<その1-2>まで出来たから皆さんに読んでもらうつもりで
メールの住所録をひも解いて打っていたら、どこを押し間違えたのか釣人の欄だけが全部消えてしもた。

わゃくちゃや、どうしたらよいねん、いうて事務局長の酒井氏に電話したけど、
どこかに入ってまっしゃろ、こんど見まっさ、というけど待ってられへん、

このブログ作ってくれた武富さんは夜に仕事するから、今時分まだ寝てる?最中やろし、勝原氏は携帯がつながらないし、どうすんねん。誰か、はよなんとかしてくれんと困るのや、書いても見てくれる人おらんかったら何にもなれへんやんか。
わてのパソコンの介護人、3人ともはよしてや・・・。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする