於一の父、忠剛は何とか藩からの処分を免れました
当時は貧困の恨みが、藩主・島津斉興や側室・お由羅
に向かっていたのです
とりわけ調所広郷には風当たりが相当強かったでしょうね。
呪詛により島津斉彬の子供が四人も亡くなるとは、偶然を
通り越しています。
おそらく毒殺されたに間違いないでしょうね
斉彬擁立派がいきり立つのも仕方ありません
質素倹約と年貢の取立てと密貿易で500万両の借金を
返したのですから、調所広郷は島津の英雄と言っても
過言ではないのです
実際500万両を返済した訳ではないようですが、その
からくりは後で書こうと思っています
それにしても、破綻寸前の薩摩藩を立ち直らせた調所
広郷、今で言う財政改革を成し遂げたのですから只者
ではないのです
しかし、財政再建の後が大変でしたね。
この改革の影で苦しめられた人々の怨念が残ってしま
ったのです
その恨みを一心に背負って調所は毒をあおり死んで逝
くのです。
薩摩藩の為なのか?藩主島津斉興の為なのか?今とな
っては分かりませんが…
西郷吉之助・大久保正助に代表される下級武士や農民
の恨みは半端ではなかったでしょうね
しかし、この調所広郷の財政改革があったからこそ、
後に明治維新を成し遂げることが出来たのです。
藩の財政が逼迫している状態では何も出来ません。
ましてや薩摩は遠隔地
京都や江戸に行く事一つとっても、かなりの財政負担
になるのです。
軍事的に見ても西洋の兵器を購入するなど幕末をリー
ドする薩摩藩の礎を作ったのは間違いなく調所広郷で
しょうね
逆説的に考えると、広郷の財政改革のお陰で明治政府
が誕生したとも言えるのです。
ちょっとこじ付けが過ぎますかね
そう云う意味では調所広郷は一代の英雄なのです。
少なくとも僕は確信しています
それでは
年収10万両ちょっとの薩摩藩がどうして借金を返せた
のでしょうか??
一口に500万両と云っても、薩摩藩の年収の50年分にあ
たるのですから並大抵の借金ではありませんよね
財政破綻もいいとこなのです。
無利子としても一年に2万両返済して250年も掛かって
しまうのですから殆ど返済不可能だった訳です
しかし、ここからが調所広郷の真骨頂です!!
『借金は返すから証文を持って来て下さい』と公言す
るのです。
勿論、全国からお金を貸していた商人達が殺到します。
『お金を返しますので証文を返して下さい』と言うの
です。
そして彼らの前でその証文を燃やしたといいます。
商人たちはさぞかし驚いたでしょうね!!
その後、各々に新しい証文を渡したというのです。
商人たちは新しい証文を見て二度びっくり
『借金は必ず返します、250年払いで』
徳川幕府でさえ300年続いたと言うのに、借金の250年
払いなんて聞いた事がありません
踏み倒しもいいとこですよね。
詰め寄る商人たちに調所はこうも言ったそうです。
『文句のある人はどうぞ私を切って下さい』と
まさか商人が武士を斬れませんよね。
前証文も灰になってしまったので、商人たちはどうす
る事も出来ないのです
唯一困るのは、これから借金が出来ないということな
のですが、調所は農政・財政・軍事の改革も推し進め
亡くなった時には50万両ものお金が残ったといいます
勿論、その影で死んで行った人や苦しめられた人もか
なりいた筈です
やはり改革には犠牲が付き物なのでしょうか??
いつの時代も苦しめられるのは弱者ばかりなのが気に
なりますが…
何れにしても一代の英雄「調所広郷」、とても興味深
い人間です
当時は貧困の恨みが、藩主・島津斉興や側室・お由羅
に向かっていたのです
とりわけ調所広郷には風当たりが相当強かったでしょうね。
呪詛により島津斉彬の子供が四人も亡くなるとは、偶然を
通り越しています。
おそらく毒殺されたに間違いないでしょうね
斉彬擁立派がいきり立つのも仕方ありません
質素倹約と年貢の取立てと密貿易で500万両の借金を
返したのですから、調所広郷は島津の英雄と言っても
過言ではないのです
実際500万両を返済した訳ではないようですが、その
からくりは後で書こうと思っています
それにしても、破綻寸前の薩摩藩を立ち直らせた調所
広郷、今で言う財政改革を成し遂げたのですから只者
ではないのです
しかし、財政再建の後が大変でしたね。
この改革の影で苦しめられた人々の怨念が残ってしま
ったのです
その恨みを一心に背負って調所は毒をあおり死んで逝
くのです。
薩摩藩の為なのか?藩主島津斉興の為なのか?今とな
っては分かりませんが…
西郷吉之助・大久保正助に代表される下級武士や農民
の恨みは半端ではなかったでしょうね
しかし、この調所広郷の財政改革があったからこそ、
後に明治維新を成し遂げることが出来たのです。
藩の財政が逼迫している状態では何も出来ません。
ましてや薩摩は遠隔地
京都や江戸に行く事一つとっても、かなりの財政負担
になるのです。
軍事的に見ても西洋の兵器を購入するなど幕末をリー
ドする薩摩藩の礎を作ったのは間違いなく調所広郷で
しょうね
逆説的に考えると、広郷の財政改革のお陰で明治政府
が誕生したとも言えるのです。
ちょっとこじ付けが過ぎますかね
そう云う意味では調所広郷は一代の英雄なのです。
少なくとも僕は確信しています
それでは
年収10万両ちょっとの薩摩藩がどうして借金を返せた
のでしょうか??
一口に500万両と云っても、薩摩藩の年収の50年分にあ
たるのですから並大抵の借金ではありませんよね
財政破綻もいいとこなのです。
無利子としても一年に2万両返済して250年も掛かって
しまうのですから殆ど返済不可能だった訳です
しかし、ここからが調所広郷の真骨頂です!!
『借金は返すから証文を持って来て下さい』と公言す
るのです。
勿論、全国からお金を貸していた商人達が殺到します。
『お金を返しますので証文を返して下さい』と言うの
です。
そして彼らの前でその証文を燃やしたといいます。
商人たちはさぞかし驚いたでしょうね!!
その後、各々に新しい証文を渡したというのです。
商人たちは新しい証文を見て二度びっくり
『借金は必ず返します、250年払いで』
徳川幕府でさえ300年続いたと言うのに、借金の250年
払いなんて聞いた事がありません
踏み倒しもいいとこですよね。
詰め寄る商人たちに調所はこうも言ったそうです。
『文句のある人はどうぞ私を切って下さい』と
まさか商人が武士を斬れませんよね。
前証文も灰になってしまったので、商人たちはどうす
る事も出来ないのです
唯一困るのは、これから借金が出来ないということな
のですが、調所は農政・財政・軍事の改革も推し進め
亡くなった時には50万両ものお金が残ったといいます
勿論、その影で死んで行った人や苦しめられた人もか
なりいた筈です
やはり改革には犠牲が付き物なのでしょうか??
いつの時代も苦しめられるのは弱者ばかりなのが気に
なりますが…
何れにしても一代の英雄「調所広郷」、とても興味深
い人間です