一月の初めに函館の町名の由来について書きましたが
雑誌を読んでたら、この前載せた以外の町名がありました。
少し紹介しますね
東川町
函館西別院の僧侶、堀川乗願が治水工事の一環として
高砂通り周辺に亀田川の流れを変えた。
この川の東側に出来た町が東川町です。
西側には西川町も有りましたが、現在は地名は残っていません。
日之出町
読んで字の如く、日の出が良く見える場所なのでこの名前が
ついたそうです。ちなみに、それ以前は砂山町と言っていた
ようです。石川啄木も砂山の歌を沢山詠んでいるそうです。
人見町
人見勝太郎が町名の由来です。
榎本武揚と一緒に函館にやってきて、松前奉行を務めたそうです。
後に、明治政府からも重く用いられ茨城県令〔知事〕も務めたようです。
弁天町
函館でもっとも古い町名の一つです。
今の厳島神社の場所に弁天堂が有ったそうです。
津軽藩や南部藩の漁師が、春から夏にかけ函館近海で漁をした時
亀田八幡宮の神主が出張してきて、豊漁を祈願したのが始まりだと
言われています。弁天堂は300年も前の記録にも残っているそうです。
駒場町
駒場町の駒は馬のことです。
競馬場があるからこの名前がつきました。
函館の競馬の歴史は古く、明治29年現在の競馬場に移転する前から
市中で頻繁に行われたそうです。
的場町
明治40年頃迄、旧陸軍の射撃場があったそうです。
当時、射撃場を射的場と呼んだところから的場町と名づけられました。
梁川町
榎本武揚の書の号、梁川〔りょうせん〕を訓読みしてつけられたようです。
もう一説、亀田川にかかる湯の川橋と中の橋の間に柳橋があり
これに因んで付けたとも言われていますが、後者の説は無理が有るように
思います。
千代台町
亀田地区は昔アイヌ語で『シコツ』と呼ばれていたそうです。
シコツが死骨に通じ縁起が悪いということで、単純に長寿の代表、縁起物の
亀から亀田とつけたそうです。その亀田に続いてる岡で、鶴は千年・亀は万年
の千年の鶴から千代を使い千代ヶ岡と呼ばれたそうです。岡と台はどちらも
高いところという意味なので、千代台と呼ばれるようになりました。
本当に色んな由来があるのですね
雑誌を読んでたら、この前載せた以外の町名がありました。
少し紹介しますね
東川町
函館西別院の僧侶、堀川乗願が治水工事の一環として
高砂通り周辺に亀田川の流れを変えた。
この川の東側に出来た町が東川町です。
西側には西川町も有りましたが、現在は地名は残っていません。
日之出町
読んで字の如く、日の出が良く見える場所なのでこの名前が
ついたそうです。ちなみに、それ以前は砂山町と言っていた
ようです。石川啄木も砂山の歌を沢山詠んでいるそうです。
人見町
人見勝太郎が町名の由来です。
榎本武揚と一緒に函館にやってきて、松前奉行を務めたそうです。
後に、明治政府からも重く用いられ茨城県令〔知事〕も務めたようです。
弁天町
函館でもっとも古い町名の一つです。
今の厳島神社の場所に弁天堂が有ったそうです。
津軽藩や南部藩の漁師が、春から夏にかけ函館近海で漁をした時
亀田八幡宮の神主が出張してきて、豊漁を祈願したのが始まりだと
言われています。弁天堂は300年も前の記録にも残っているそうです。
駒場町
駒場町の駒は馬のことです。
競馬場があるからこの名前がつきました。
函館の競馬の歴史は古く、明治29年現在の競馬場に移転する前から
市中で頻繁に行われたそうです。
的場町
明治40年頃迄、旧陸軍の射撃場があったそうです。
当時、射撃場を射的場と呼んだところから的場町と名づけられました。
梁川町
榎本武揚の書の号、梁川〔りょうせん〕を訓読みしてつけられたようです。
もう一説、亀田川にかかる湯の川橋と中の橋の間に柳橋があり
これに因んで付けたとも言われていますが、後者の説は無理が有るように
思います。
千代台町
亀田地区は昔アイヌ語で『シコツ』と呼ばれていたそうです。
シコツが死骨に通じ縁起が悪いということで、単純に長寿の代表、縁起物の
亀から亀田とつけたそうです。その亀田に続いてる岡で、鶴は千年・亀は万年
の千年の鶴から千代を使い千代ヶ岡と呼ばれたそうです。岡と台はどちらも
高いところという意味なので、千代台と呼ばれるようになりました。
本当に色んな由来があるのですね
函館の街の名前の由来は歴史を感じます。
松川町の町名の元になった松川氏が
基盤になる町という意味で本町と名付けた
ようです。
大縄町がちょっと分かりませんが?
今度、機会があったら調べてみますね。
年に数回競馬場に行きますが、まさかコースが
飛行機の滑走路だったとは??驚きです。
柏野に広がる柏の木が人影に見えたことが町名の由来です。昭和6年に設定されました。
函館区大字亀田村字であった柏野は、昭和6年に柏木町等に分割された。柏の木があったのが町名の由来。