秀吉亡き後、自身で最高権力者になれない武将達は次の天下人を
求めていたのです
長い物には巻かれろ!!ではないですが、この時点でも家康こそが次
の天下人だと殆どの武将は思っていた筈です
俄か作りの五大老・五奉行の合議制など上手く機能する筈がない事
は亡くなった秀吉自身が一番理解していたのかも知れません
秀吉は五大老・五奉行制度に一縷の望みを託しただけなのではない
のでしょうか??
頼みにしていた上杉・毛利も動かず孤立する三成、細川忠興を自ら
が説得に向かいますが、土産に持って行った干し柿を見て「人の心
が分からぬのか?馬鹿にするのも大概にせい!!」とかえって怒らせ
る始末
宇喜多秀家、小早川秀秋を除く殆どの武将は家康に走った今、もう
打つ手がありません
吉継が言っていた様に今は刀を納め時期を待つのが得策ですが、熱
くなった三成にはすぐには無理なようですね
話は逸れますが…
三成が関ケ原で負け、処刑される前に食べたのも干し柿でした
三成は干し柿が大好きなのでしょうかね
ところで…
三成の重臣、猛将島左近が登場しました
秀吉が言ったとされる「三成に過ぎたるものがふたつあり。島の左近
に沢山の城。」
4万石だった知行の半分・2万石で召し抱えたとされているのが島左近
です
実際には半分の知行を与える筈がありませんので、かなり誇張した話で
すね。
もし?本当だとすればどちらが主君なのか分からなくなります
それほど優れた武将だと言いたいのでしょうが…
関ケ原での左近ですが…
通説では小早川秀秋が裏切ると最前線で奮戦
西軍総崩れが明確になると黒田長政の軍勢に突撃、銃撃により
死亡したと伝えられています
しかし、左近の遺体は見つかっておらず戦場から逃走、逃げ延
びたとも言われているのです
眉唾物ですが、京都・立本寺に左近の墓があります。
没年1632年6月26日…
本当だとすれば関ケ原から32年後に亡くなった事になりますよ
ね
当時としては天寿を全うした事になります。
左近は関ケ原の後、ひっそりと身を隠し生きていたのでしょう
か
生きていれたとすれば何故?大坂の陣に参陣しなかったのでし
ょうか??
左近ほどの武将なら居ても楯も居られなかった筈です
夏・冬の大坂の陣で名前が出て来ないという事は、左近が関ケ原
で戦場の露となったのは間違いなさそうですね
何れにしても島左近、謎の多い武将です
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