古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「遣隋使」と「法華義疏」との関連

2024年12月22日 | 古代史
 これは以前投稿したものの祖型となった文ですが、端的に真意を説明しているのでここに投稿します。

 「法華義疏」については従来「聖徳太子」と関連づけて語られていますが、「古田氏」も言われるように(『古代は沈黙せず』駸々堂、ミネルヴァ書房刊)その「法華義疏」の分析からは「天台大師」も「嘉祥大師」もその存在がほぼ確認できないとされます。確認できるのは「南朝」(「梁」)の「法雲法師」です。というより「古田氏」がいみじくも指摘したように「人名(注釈学僧)はすべて、法雲の「法華義記」中に現われるものに限られる」のです。すなわち「梁」の時代以降の人名を見出すことができないように見えます。
 この事はこの「法華義疏」の著者が「南朝」に深く関係した人物であることを推定させるものですが、それはやはり「古田氏」が言うように、この「法華義疏」という書そのものが「天台大師」が登場する以前の段階の法華経についての注釈書であることを示すものです。
 「法華義疏」についていうとその著者は「聖徳太子」ではないのは間違いないと思われ、それらはいずれも「古田氏」の主張が正しいことを示していますが、その論旨の中で「遣隋使」が持ち帰った経典やその「疏」を題材にしているなら「天台大師」や「嘉祥大師」の著作が引用されて然るべきであるのにそれがないのは不審とされ、それも「遣隋使」が実際には「遣唐使」である証拠という文脈で語られていますが、最も説明として矛盾がないのは「天台大師」や「嘉祥大師」の時代よりも「以前の教学」が参考とされているのではないかと言うことであり、それらが「倭国」に流入したのは「隋」が「陳」を滅ぼして「南朝」の「楽」や「仏教」に関する経典や「僧」が「隋」の都へもたらされた時点ではないかということです。
 また氏は「…なぜなら、それ以前は、前代(第一代)の文帝(ぶんてい)の治世であるから、その時期の仏教保護政策を指したのでは、現在の天子(第二代)たる煬帝に対して「菩薩天子」の敬称を呈すべきいわれは存しないからである。…」(『古代は沈黙せず』駸々堂、ミネルヴァ書房刊)とされましたが、この「菩薩天子」や「重興仏法」というのは「大業三年記事」に現れるものであり、氏はこの皇帝を「煬帝」として疑っていないように見えます。しかし、これらは「煬帝」が強く仏教に関連した存在であることを示すものではあるものの、それが「重興仏法」の語に整合しているかというと疑問であると思われるわけです。つまり、いみじくも文中で触れているように、この時の「皇帝」を「煬帝」と見なすと矛盾であることも、「文帝」と見なしたその瞬間に「菩薩天子」の称号も「重興仏法」という用語もまったく違和感のないものになると同時に、彼の時代(特に前半)であるなら、未だ「天台大師」も「嘉祥大師」もその才覚を現しておらず、経典に対する「疏」も書かれていない時期ですから、彼らの文章を引用することも批判することも適わないのは当然とも言えることとなります。このことは、「法華義疏」の元となった「法華義記」と「法華経」が「煬帝」以前に「倭国」にもたらされたものであることを強く示唆するものではないでしょうか。そしてそれは「遣隋使」の派遣された時期に関係してくると言えるでしょう。
 それまで「南朝」の方が仏教は優位であり、優れた教学は「南朝」の側にあったものです。確かに「鳩摩羅什」に始まる「北朝仏教」も大きく発展していましたが、その仏教界にも「南朝」の仏教が「本場」のものという意識があったものです。「平陳」以降「隋」が中国全体を制圧した中で「仏教」についてもその中心が「隋」の都である「洛陽」に移ったものであり、その時点では「南朝」仏教も「洛陽」に多く存在することとなったのです。それは「文帝」の仏教振興策の一環であったと思われ、「南朝」の僧を「洛陽」に多数招聘し、「隋」における仏教振興に「南朝」仏教を介在させて一種の起爆剤としたように見受けられます。そうすると「隋」と国交を樹立した段階で「倭国」に流入した仏教が「南朝系」のものであったとしても不思議ではないこととなるでしょう。この「南朝仏教」優位の状態を前進させたのが「天台大師」であり「嘉祥大師」であったと見られ、彼らにより新しく「北朝」的解釈が施されていったものと思われますが、その様なものを参照したとすれば、「法華義疏」は「北朝」的なものとなっていたはずです。
 もしそう考えなければ「隋」以前に「南朝仏教」が流入したこととなりますが、「南朝」との関係は「梁」からの「授号」が「梁書」に書かれた以外は記録上確認できませんから、「南朝仏教」が「直接」「隋」以前に「倭国」へ伝来していたとは考えにくいこととなります。
 そう考えると「百済」から伝来したという考えもできそうですが、しかし「百済」の仏教は北朝系のものであることが知られており、それは「高麗」を通じて北朝から伝来したものと考えられています。そうであればその時点で「北朝系」の仏典が流入し、それを原資料として「法華義疏」が書かれて当然と思われるわけですが、実際には上にみたように「南朝」に偏っているわけですから、これが「六世紀半ば」という時点付近で「百済」から伝来したものとも考えにくいこととなります。
 そうすると「法華義疏」の原資料となった「法雲」による「法華義記」などの「南朝系」資料の伝来時期としては、「隋」が「中国」を統一し「南朝」の仏教文化が「隋」の首都洛陽に集められた時点付近で「倭国」へ伝来したということ以外に考えにくいこととなるでしょう。そうであれば「遣隋使」の派遣された時期としては「隋初」以外に考えられないということにもなるわけです。 
 また、これが「初期型」法華経に基づく「疏」であるのは、その中に「提婆達多品」が欠落していることからも分かります。「提婆達多品」は「天台大師」によってそれまでの「法華経」に補綴されたものであり、それが「法華義疏」に脱落しているということだけでも、それが「天台」以前のものであるという事が了解できるものと思われます。つまり「法華義疏」の原資料となったものは「天台大師」以前に「倭国」に流入したものであり、それは「隋初」の「遣隋使」によってもたらされたという想定がもっとも考え得るものなのではないでしょうか。
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「天子在東京」について

2024年12月21日 | 古代史
 以下はかなり以前投稿したものですが、最近新たな視点から別の見解に至ったことから再度投稿します。
 新たな視点とは七世紀半ば以降「難波日本国」と「筑紫日本国」の二つの「日本国」が存在していたという最近の見解です。この視点を導入し再度考察してみます。

 『書紀』の「斉明紀」に「伊吉博徳」という人物の「遣唐使」として派遣された際の「日記風」の記録が引用されています。そこに「東京」という表現が出てきます。

「(斉明)五年(六五九年)…秋七月丙子朔戊寅。遣小錦下坂合部連石布。大仙下津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。九月十三日。行到百濟南畔之嶋。々名毋分明。以十四日寅時。二船相從放出大海。十五日日入之時。石布連船横遭逆風。漂到南海之嶋。々名爾加委。仍爲嶋人所滅。便東漢長直阿利麻。坂合部連稻積等五人。盜乘嶋人之船。逃到括州。々縣官人送到洛陽之京。十六日夜半之時。吉祥連船行到越州會稽縣須岸山。東北風。々太急。廿二日行到餘姚縣。所乘大船及諸調度之物留着彼處。潤十月一日。行到越州之底。十月十五日乘騨入京。廿九日。馳到『東京』。天子在『東京』。…」(斉明紀)

 この「東京」とは「洛陽」を指す表現です。この表現は「後漢」が「洛陽」を都として以来連綿として続いていたものですが、「隋代」に「煬帝」によって「東都」と改称されたとされます。

「(大業)五年春正月丙子,改東京為東都。…」(『隋書』/帝紀 凡五卷/卷三 帝紀第三/煬帝 楊廣 上)

 これによれば「洛陽」は「煬帝」によって「東都」と改称されたものであり、それは「大業五年」のことであったこととなります。更にこの「東都」はその後も継続して使用され、「唐代」(七四二年)に「玄宗皇帝」によって「東京」と旧名に戻されるまで一三〇年余りに亘って使用されていたものです。

「(天寶元年)二月…丙申…莊子號為南華真人,文子號為通玄真人,列子號為沖?真人,庚桑子號為洞?真人。其四子所著書改為真經。崇玄學置博士、助教各一員,學生一百人。桃林縣改為靈寶縣。改侍中為左相,中書令為右相,左右丞相依舊為僕射,又黄門侍郎為門下侍郎。東都為東京,北都為北京,天下諸州改為郡,刺史改為太守。…」(『舊唐書』/本紀第九/玄宗 李隆基 下)

 このような中で「高宗」の代の「唐」に派遣された「伊吉博徳」は「洛陽」に対して「東京」という呼称を使用しているのです。つまり「伊吉博徳」の常識として「洛陽」は「東京」であったものであり、「東都」という名称に対する認識がなかったこととなります。
 彼の知識と教養はそれまでの「隋」「唐」との交流の中で形成されたと見るべきですから、「煬帝」が「東都」と改称した「大業五年」以降の「洛陽」に対する知識がなかったこととなってしまいます。ところが『隋書』では「大業六年」に「倭国」からの使者が朝貢に訪れたことが書かれています。

「(大業五年)十一月丙子,車駕幸 東都。」
「六年春正月癸亥朔,旦,有盜數十人,皆素冠練衣,焚香持華,自稱彌勒佛,入自建國門。監門者皆稽首。既而奪衞士仗,將為亂。齊王?遇而斬之。於是都下大索,與相連坐 者千餘家。丁丑,角抵大戲於端門街,天下奇伎異藝畢集,終月而罷。帝數微服往觀之。 己丑,倭國遣使貢方物。
」(『隋書』/帝紀 凡五卷/卷三 帝紀第三/煬帝 楊廣 上)

 このように「大業六年正月」に「倭国」から使者が訪れたように書かれていますが、その前年の十一月から「煬帝」は「東都」に所在しており(冬至の儀式を行っていたのではないか思われます)、「倭国」からの使者も「東都」であるところの「洛陽」を訪れたものと考えるべきでしょう。そうであるならその後の「遣唐使」である「伊吉博徳」が「東都」といわず「東京」と称していることは矛盾ということとなります。
 この時「鴻臚寺」は「副都」である「洛陽」にも存在していました。当然首都である「大興城」にもあり「倭国」からの使者は「洛陽」ではなく(それ以前の遣隋使同様)「大興城」に至ったと見る事もできるかもしれませんが、仮にそうであったとしても「洛陽」が「東都」と呼称が変更になったという情報を得なかったとすると不審と云うべきでしょう。しかも日付から考えても「正月」のお祝いに各国からの使者が来ていたはずですから、彼らが「煬帝」のいた「洛陽」ではなく「長安」(大興城)に行っていたとすると不審極まるものであり、倭国からの使者も当然「洛陽」つまり「東都」を訪れたはずであると思われることとなります。いわゆる「元會之儀」も「洛陽」で行われたであろうと見るべきですから、夷蛮の国も含め諸国の使者達が「洛陽」にいたはずであるというのは確かでしょう。しかも上に見るように、この時の「倭国」からの使者記事の直前に、「瑞門外」において「天下奇伎異藝」つまりあらゆる地方からのあらゆる雑伎についてのカーニバルとでもいうべきものが開催されたらしいことが書かれています。

(再掲)「…丁丑,角抵大戲於『端門街』,天下奇伎異藝畢集,終月而罷。帝數微服往觀之。…」

 この「瑞門」は洛陽の宮城の南端にある門を指す語で有り、これが洛陽での出来事であることが明示されています。またこのような催し物が当の皇帝である「煬帝」が見るべきものであったと思われると同時にも元日の祝賀に集まっていた各国からの使者達に見せる予定のものとして開催されたことは疑えず、その中に「倭国」からの使者も加わっていたであろうことも疑えません。そのことは同じ『隋書』の「禮義」の部分にも書かれています。

始齊武平中,有魚龍爛漫、俳優、朱儒、山車、巨象、拔井、種瓜、殺馬、剝驢等,奇怪異端,百有餘物,名為百戲。周時,鄭譯有寵於宣帝,奏徵齊散樂人,並會京師為之。蓋秦角始齊武平中,有魚龍爛漫、俳優、朱儒、山車、巨象、拔井、種瓜、殺馬、剝驢等,奇怪異端,百有餘物,名為百戲。周時,鄭譯有寵於宣帝,奏徵齊散樂人,並會京師為之。始齊武平中,有魚龍爛漫、俳優、朱儒、山車、巨象、拔井、種瓜、殺馬、剝驢等,奇怪異端,百有餘物,名為百戲。周時,鄭譯有寵於宣帝,奏徵齊散樂人,並會京師為之。蓋秦角

 これをみると「隋代」以前から「百戯」と称される「雑伎」を行うもの達が「正月」に都に集合していたものであり、「煬帝」になってからその規模が拡大されたらしいことがしられます。その時点で「毎歳正月,萬國來朝,留至十五日,於端門外,建國門内,綿亘八里,列為戲場。百官起棚夾路,從昏達旦,以縱觀之。」と「萬國来朝」という表現から、当然「倭国」からの使者も含まれていたと見るべきこととなり、その「使者」は必ず「東都」と改称された「洛陽」を訪れていたこととなります。(上に見える倭国からの使者の訪れた日付である「己丑」は二十七日になりますが「百戯」は「終月」つまり「三十日」まで行われたとされますから当然これを見ていたであろうと思われることとなります)
 『書紀』の信憑性とは別の次元のこととして『伊吉博徳書』は考える必要があり、この『伊吉博徳書』は伝聞ではなく彼自身が見聞した実体験に基づいている点などを考えると信憑性としては高いものと推量されますから、その意味で「東京」と書かれている意味はかなり重大であると思われます。このことは以前考察したように一見「倭国」からの使者はまだ「東京」と称していた時代以外には「洛陽」を訪れていないという可能性に考えが至ることとなるわけですが、今回「博徳」達が「(難波)日本国」からの使者であるという視点を新たに得てみると、彼らは以前「外交」に関する権能を全く持っていなかったのですから、「洛陽」について「東都」と改称されていたという知識を持っていなかったとして不思議ではないことに気がつきました。
 上に見るように「伊吉博徳」以前の「遣隋使」は「東都」と改称して以降の「洛陽」を訪れているとされるわけですから、その時点で「洛陽」が「東京」から「東都」と改称されたという情報を入手できたはずです。つまり「日本国」として「遣唐使」を送る以前については外交知識がなく、また「日本国」としての「遣唐使」以降は「長安」にしか行っていないこととなります。このことから「洛陽」を「東京」と呼称している(誤解している)こととなると言えそうです。
 「白雉四年」の「日本国」としての遣唐使は「長安」に行ったものと思われ(「博徳」達も一旦「長安」に行っている)、『旧唐書』を見てもこの時「高宗」が「洛陽」に行ったという記事がありません。
 そもそも「唐代」以前の「倭国」からの使者は「北朝」の都である「長安」には行ったことがなく、経験があるのはずっと以前の「魏晋朝」時代の「卑弥呼」や「壹與」の頃に「洛陽」を訪れたものでした。「五世紀」の「倭の五王」は「南朝」の都「建康」へ行ったものであり、「洛陽」についての知識は「長安」に比べて豊富であったと思われるわけです。つまり「洛陽」が「東京」から「東都」と改称されたということは「倭国」として把握していたものであり、それは「遣隋使」が「洛陽」を訪れていたことと関係しており、それを「知識」として帰国していたものです。それを「倭国」つまり「筑紫日本国」の宮廷内官人は教養として共有していたものと思われるわけです。しかし「伊吉博徳」は「難波日本国」の立場で「唐」に向かったわけであり、その知識を共有する立場になかったものと思われ、そのため「洛陽」について「東京」と呼称したという流れが考えられるわけです。
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「伊吉博徳」の官位について(改訂版)

2024年12月20日 | 古代史
 以前「伊吉博徳」の冠位の停滞について書きました。その記事を訂正して改めて提示します。訂正の主な点は「伊吉博徳」の政治的立場についての見解の変更です。以前は彼を旧倭国の関係者と看做していましたが、今回改めて検討した結果「難波日本国」の関係者であったが故に「天武(つまり薩夜麻王権)の元では冷遇されていたことが理由で昇進がなかったと見解を変更することとします。それは「難波日本国」(これは「唐」から見て「日本国」とされていた)と「筑紫日本国」(これが「唐」から見て「倭国」とされていたもの)という二つの「日本国」が存在していたという最近の研究成果を反映したものです。

 以前「貧窮問答歌」について考察しました。そこで「山上憶良」が「遣唐使」段階で「无位」であったのは「旧王権」に忠誠を示した結果であるとしました。その際「比較」として「伊吉博徳」について触れたわけですが、そこでも述べたように彼の「官位」の変遷については明らかな「停滞」があります。その点について述べてみます。

 「伊吉博徳」という人物が『斉明紀』に出てきます。彼は遣唐使団の一員として「六五九年」に派遣され、その時の一部始終を記録した「書」が『書紀』に引用されていることで知られています。そこに参加した時点の「官位」は不明です。(可能性としては「无位(無位)」であったかもしれません。) 
「白村江の戦い」後の「六六四年」に当時「百済」を占領していた唐軍の将である「劉仁願」の配下の人物である「郭務宋」が「表函」を提出した際の応対に「壱岐史博徳」の名前が見えています。彼はこのとき「筑紫太宰の辞」と称して「郭務悰」と対応しています。

「六六四年」「(天智三年)夏五月戊申朔甲子(一七日)、百済の鎮将劉仁願、朝散大夫郭務悰等を遣して、表函と献物を進る。」

さらに、この記事については『善隣国宝記』が引用する『海外国記』という書物に経緯がかなり詳しく載っています。

「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務悰等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於別館。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有将軍牒書一函并献物。乃授牒書一函於智弁等、而奏上。但献物宗*看而不将也。
 九月、大山中津守連吉祥・『大乙中伊岐史博徳』・僧智弁等、称筑紫太宰辞、実是勅旨、告客等。今見客等来状者、非是天子使人、百済鎮将私使。亦復所賚文牒、送上執事私辞。是以使人(不)得入国、書亦不上朝廷。故客等自事者、略以言辞奏上耳。
 一二月、博徳授客等牒書一函。函上著鎮西将軍。日本鎮西筑紫大将軍牒在百済国大唐行軍總*管。使人朝散大夫郭務悰等至。披覧来牒、尋省意趣、既非天子使、又無天子書。唯是總*管使、乃為執事牒。牒又私意、唯須口奏、人非公使、不令入京云々。」

 この記事を見ると、「郭務悰」については唐皇帝からの「正式」な使者ではないし、「書」も皇帝のからのものではない(「表」つまり「国書」ではない)と言うことで、受け取りと「倭国王」との面会を「拒否」しています。この時対応した人物として「伊岐史博徳」の名前が出ています。
 そしてその翌年に「劉徳高」や「郭務悰」などの唐国からの使者が「筑紫」に来た際に、彼らの帰還に併せて「守君大石等」が唐国に派遣されていますが、(六六七年になって)彼らの帰国を「劉仁願」の使者「司馬法聡」が「筑紫都督府」に送ってきた際の「返送使」として「司馬法聡」を送り返す役で「伊吉連博德」が登場したというわけです。

「(六六七年)六年…十一月丁巳朔乙丑。百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。
己巳。司馬法聰等罷歸。以『小山下伊吉連博徳』。大乙下笠臣諸石爲送使。」

 この時点で「史」から「連」になっていることがわかりますが、また官位も「大乙中」から「小山下」に昇格しており、これは二十六階中十八位であり二階級特進となります。それはこの時の「唐使」との対応などに活躍したことが認められたものと思われます。
 それ以前(六五九年)に「遣唐使」として派遣されそれから八年後には「小山下」という官位に就いているわけですが、更にその後『持統紀』に「大津皇子」の謀反に連座したという記事があります。

「(六八六年)朱鳥元年九月戊戌朔丙午。天渟中原瀛眞人天皇崩。皇后臨朝稱制。
冬十月戊辰朔己巳。皇子大津謀反發覺。逮捕皇子大津。并捕爲皇子大津所■誤直廣肆八口朝臣音橿。『小山下壹伎連博徳』。與大舍人中臣朝臣臣麻呂。巨勢朝臣多益須。新羅沙門行心及帳内砺杵道作等卅餘人。
…丙申。詔曰。皇子大津謀反■誤吏民帳内不得已。今皇子大津已滅。從者當坐皇子大津者皆赦之。但砺杵道作流伊豆。又詔曰。新羅沙門行心。與皇子大津謀反。朕不忍加法。徙飛騨國伽藍。」

 これを見ると「伊吉博徳」と同一人物と思われる「壹伎連博徳」の官位が「小山下」とされ、十九年経過していても全く官位が加増されていないことに気がつきます。通常よほど不手際や失策などがない限り四年程度の期間を経ると一階程度の上昇があって然るべきですから、彼の場合は不審といえるでしょう。
 たとえば「當摩眞人國見」の場合を見てみると、「直大参」から「直大壱」まで十三年で上昇しています。

(六八六年)朱鳥元年…
九月戊戌朔辛丑。親王以下逮于諸臣。悉集川原寺。爲天皇病誓願云々。
丙午。天皇病遂不差。崩于正宮。
戊申。始發哭。則起殯宮於南庭。
辛酉。殯于南庭即發哀。當是時。大津皇子謀反於皇太子。
甲子。平旦。諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。次淨大肆伊勢王誄諸王事。次直大參縣犬養宿禰大伴惣誄宮内事。次淨廣肆河内王誄左右大舍人事。次『直大參』當摩眞人國見誄左右兵衞事。次直大肆釆女朝臣筑羅誄内命婦事。次直廣肆紀朝臣眞人誄膳職事。

(六九七年)十一年…
二月丁卯朔甲午。以『直廣壹』當麻眞人國見爲東宮大傅。直廣參路眞人跡見爲春宮大夫。直大肆巨勢朝臣粟持爲亮。

(六九九年)三年…
冬十月…
辛丑。遣淨廣肆衣縫王。『直大壹』當麻眞人國見。直廣參土師宿祢根麻呂。直大肆田中朝臣法麻呂。判官四人。主典二人。大工二人於越智山陵。淨廣肆大石王。直大貳粟田朝臣眞人。直廣參土師宿祢馬手。直廣肆小治田朝臣當麻。判官四人。主典二人。大工二人於山科山陵。並分功修造焉。

 この間の位階数は四段階であり(直大参-直廣弐-直大弐-直廣壹-直大壹)それであれば十三年という年数はそれほど不審ではありません。このような官位の加増の程度と比べると「伊吉博徳」の十九年間の官位の停滞は、海外使者の送使という重要任務を果たしていることを考えると疑問が出る所です。しかも官位が上昇していないのは実際にはこの期間を超えているのです。それは「六九五年」に「遣新羅使」として派遣された際の官位に現れており、そこでは「務大貳(弐)」とされていますが、この官位も「小山下」とほぼ同じレベルのものなのです。

「(六九五年)九年…
秋七月丙午朔…
辛未。賜擬遣新羅使直廣肆小野朝臣毛野。『務大貳』伊吉連博徳等物。各有差。」

 ただしこの間「大津皇子謀反」という事件に「連座」するという失態を犯していますから(「赦免」はされたものの)、そのために昇格が遅れたとも考えられる部分はありますが、その後「新羅」への使者という重責を担っていることもあり、朝廷内では「外交のベテラン」としての地位が失われたわけではないことがわかります。しかしそれでも「六六七年」から「六九五年」までの合計「二十八年間」全く官位が上昇していないこととなり、これはかなり異常な事態と言うべきではないでしょうか。しかもその後今度は「急上昇」ともでも言うべき「官位」の増加が記録されています。
 彼はこの『持統紀』の遣新羅使としての任務帰朝後「律令」の撰定という国家的任務に従事し褒賞を得ており、その段階で「從五位下」という位階であったことが知られています。

(七〇一年)大寳元年…
八月…癸夘。遣三品刑部親王。正三位藤原朝臣不比等。從四位下下毛野朝臣古麻呂。從五位下伊吉連博徳。伊余部連馬養撰定律令。於是始成。大略以淨御原朝庭爲准正。仍賜祿有差。

「小山下」と「務大貳」はほぼ同レベル(七位クラス)と思われますから、「従五位下」という官位までには「十一段階」ほどの上昇が必要です。これはその期間である「六年」という年数を考えると、今度は逆に異常な出世と言うべきでしょう。
 同じ「遣新羅使」として一緒に派遣された「小野朝臣毛野」の場合、この派遣の際に「直廣肆」であったものが死去した際には「従三位」という官位に上がっています。彼の場合は「十九年」に「八段階」ほどの上昇となり、「遣新羅使」という重責を担った後に多少の位階上昇が「褒賞」として与えられたとみれば自然なものといえます。しかし「伊吉博徳」の場合はそれと比べても急激な位階の上昇といえるでしょう。このことはそれ以前の長期の「停滞」が何か重要な意味を持っていることを想起させます。

 そもそも「伊吉氏(壱伎氏)」は「天武紀」において「史」姓から「連」姓への(他の多くの氏族と共に)改姓されています。

「(六八三年)十二年…
冬十月乙卯朔己未。三宅吉士。草壁吉士。伯耆造。船史。『壹伎史。』娑羅羅馬飼造。菟野馬飼造。吉野首。紀酒人直。釆女造。阿直史。高市縣主。磯城縣主。鏡作造。并十四氏。賜姓曰連。」

 確かに「壬申の乱」記事において「壱伎史韓国」という人物が「近江朝廷」の側の武将として活躍しており、その点「連姓」を賜与された年次とは齟齬していません。しかし「博徳」の場合は「改姓」年次である「六八三年」以前の「六七六年」という時点ですでに「連」が付与されて記述されています。

(再掲)
「(六六七年)六年…十一月丁巳朔乙丑。百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。
己巳。司馬法聰等罷歸。以『小山下伊吉連博徳』。大乙下笠臣諸石爲送使。」

 しかし、ここで「伊吉博徳」と一緒に派遣されている「笠臣諸石」についてはその後行われた「八色の姓」制度により「臣」から「朝臣」へと改姓されていますが、この「六六七年」という時点での「姓」としては齟齬がありません。

「(六八四年)十三年…
十一月戊申朔。大三輪君。大春日臣。阿倍臣。巨勢臣。膳臣。紀臣。波多臣。物部連。平群臣。雀部臣。中臣連。大宅臣。栗田臣。石川臣。櫻井臣。采女臣。田中臣。小墾田臣。穗積臣。山背臣。鴨君。小野臣。川邊臣。櫟井臣。柿本臣。輕部臣。若櫻部臣。岸田臣。高向臣。完人臣。來目臣。犬上君。上毛野君。角臣。星川臣。多臣。胸方君。車持君。綾君。下道臣。伊賀臣。阿閇臣。林臣。波彌臣。下毛野君。佐味君。道守臣。大野君。坂本臣。池田君。玉手臣。『笠臣』。凡五十二氏賜姓曰朝臣。」

 なぜ「博徳」の場合「改姓」に先立つ時点ですでに「連」姓となっているのでしょうか。なぜ位階の上昇が不自然なのでしょうか。
 これについては「山上憶良」の位階上昇と比較するとわかりやすいかもしれません。彼も「遣唐使」として派遣された段階で「無位」であったものが「従五位下」まで位階が上昇し「東宮侍従」等要職を歴任した後「筑前国守」として赴任している実態があります。

「大寶元年(七〇一年)春正月乙亥朔丁酉条」「以守民部尚書直大貳粟田朝臣眞人。爲遣唐執節使。左大辨直廣參高橋朝臣笠間爲大使。右兵衛率直廣肆坂合部宿祢大分爲副使。參河守務大肆許勢朝臣祖父爲大位。刑部判事進大壹鴨朝臣吉備麻呂爲中位。山代國相樂郡令追廣肆掃守宿祢阿賀流爲小位。進大參錦部連道麻呂爲大録。進大肆白猪史阿麻留。无位山於億良爲少録。」

「(和銅七年)(七一四年)春正月壬戌。二品長親王。舍人親王。新田部親王。三品志貴親王益封各二百戸。從三位長屋王一百戸。封租全給。其食封田租全給封主。自此始矣。
甲子。授正四位下多治比眞人池守從三位。无位河内王從四位下。无位櫻井王。大伴王。佐爲王並從五位下。從四位下大神朝臣安麻呂從四位上。正五位上石川朝臣石足。石川朝臣難波麻呂。忌部宿祢子首。正五位下阿倍朝臣首名。從五位上阿倍朝臣爾閇並從四位下。從五位上船連甚勝正五位下。正六位上春日椋首老。正六位下引田朝臣眞人。小治田朝臣豊足。『山上臣憶良。』荊義善。吉宜。息長眞人臣足。高向朝臣大足。從六位上大伴宿祢山守。菅生朝臣國益。太宅朝臣大國。從六位下粟田朝臣人上。津嶋朝臣眞鎌。波多眞人餘射。正七位上津守連道並從五位下。」

「(靈龜)二年(七一六年)…
夏四月…
壬申。以從四位下大野王爲彈正尹。從五位上坂本朝臣阿曾麻呂爲參河守。從五位下高向朝臣大足爲下総守。從五位下榎井朝臣廣國爲丹波守。『從五位下山上臣憶良爲伯耆守。』正五位下船連秦勝爲出雲守。從五位下巨勢朝臣安麻呂爲備後守。從五位下當麻眞人大名爲伊豫守。」

「(養老)五年(七二一年)春正月戊申朔…
庚午。詔從五位上佐爲王。從五位下伊部王。正五位上紀朝臣男人。日下部宿祢老。從五位上山田史三方。從五位下山上臣憶良。朝來直賀須夜。紀朝臣清人。正六位上越智直廣江。船連大魚。山口忌寸田主。正六位下樂浪河内。從六位下大宅朝臣兼麻呂。正七位上土師宿祢百村。從七位下塩家連吉麻呂。刀利宣令等。退朝之後。令侍東宮焉。」

 この「憶良」の位階上昇とよく似ている気がするのです。
 「山上憶良」の場合には元「倭国」つまり「筑紫日本国」の官僚であったものが(地震の影響の評価をするための使者として諸国に派遣されたもののひとりであったと推定しています)、一旦新日本王権への態度などから「冷遇」されていたと考えたわけですが、「伊吉博徳」の場合には少々異なる事情があったとみられます。例えば「連」姓を以前から名乗っているわけですがこれは「難波日本国」からの下賜であったと見るべきものです。
 「伊吉博徳」は「日本国」からの「遣唐使」として帰国後「朝倉朝廷」から「寵命」を受けられなかったと『書紀』に書かれていますが、これは「朝倉朝廷」というものが「百済を救う役」終了後の「筑紫日本国」の代行としての朝廷であった可能性があり、「薩夜麻」捕囚後の「筑紫日本国」の「留守居役」としてのものであった可能性があります、とすれば彼らに「褒賞」としての「官位」の増加などが与えられることはなかったと思われ、その後の昇進にブレーキがかかるひとつの理由であった可能性があります。
 「伊吉博徳」達の遣唐使団は「倭国」つまり「筑紫日本国」と一緒に(あるいは合同として)行動しており、イニシアチブは「筑紫日本国」側にあったとみられ、彼らが選んだルートで唐へ向かったとみられます。「筑紫日本国」は「新羅」との関係が悪化しており、「新羅」を経由するルート(「北路」と称する)ではなく「東シナ海」を横断するルートを選んでいます。そして「洛陽」において「唐」官憲の尋問を受けた中で「倭種韓智興の供人西漢大麻呂」から「讒言」されたことから彼ら「両日本国」の使者は各々「洛陽」と「長安」に別々に幽閉され、その間に「百済」滅亡という事態が発生したわけです。帰国後の「朝倉朝廷」はいわば「臨時」の朝廷であり、緊急事態に対応するために急遽仕立てられたものと思われます。彼らは「薩夜麻」率いる「筑紫朝廷」と基本的に同じ立場であり、「博徳」達とは異なる立場であったものであり、「難波日本国」としての彼等に対して厳しい態度であったのも当然と思われるわけです。
 「博徳」の昇進が停滞している時期はちょうど「薩夜麻」帰国以降に当たっており、「薩夜麻」帰国時点ではすでに「難波日本国」が列島全体に対して統治行為を行っていたと思われ、その出先としての「筑紫」に置かれた「都督府」高官として彼は存在していたと見られる訳ですから、その彼に対してその後の「薩夜麻王権」から冷遇措置があったとして不思議ではありません。(ちなみに彼と一緒に遣唐使として派遣された「津守連吉祥」も「都督府」高官として存在しています)
 彼は「壬申の乱」では記事中に戦いに参加してるようには書かれていませんが、彼の同族と思える「壹伎史韓國」は「近江方」として参加ししているようで、大坂に陣があったように書かれています。
 少なくとも彼も「難波日本国」としての「遣唐使」であったとみられますから、本来「近江方」であるはずですが、理由は不明ですが戦いには参加していないように見えます。推定される理由として彼はこの戦いが発生する時点でまだ「筑紫」にいたため戦いに参加できなかったという可能性があり、当時筑紫大宰として存在していたという「栗隈王」が彼の行動を制限していたということも考えられます。
 「唐」においても「都督府」には最終的には「現地」の有力者を「都督」とするという原則があったようですから、一時的に「難波日本国」の高官としての「蘇我赤兄」が「筑紫大宰」であったようですが、それも在地有力者としての「栗隈王」に変わっていたものと思われます。その時点でいわば「目付役」として「博徳」が「筑紫」にそのまま残っていたという可能性があると思われます。
 「博徳」は「唐」が「薩夜麻」を再度列島全体の統治者としようとしていたことは承知しており、それが「唐」の意志である以上反対することはしなかったとも考えられ、「唐」の意志が実行されるよう「薩夜麻」をサポートしていたものではなかったでしょうか。ただし軍事行動には、それが戦乱となると双方に傷が残ることから反対していたと思われ、それを双方が振り切ってた戦いに発展したことを憂いていたものであり、どちらかの立場に立つことをしなかったものと思われます。
 「栗隈王」は「大海人」つまり「薩夜麻」と懇意であったという趣旨の記事が『書紀』にありますから、「乱」発生時点での立場は「薩夜麻」寄であったものであり、その意味でも「博徳」は「筑紫」から動くことができなかったと考えます。
 いずれにせよ、彼は「難波日本国」の人間であり、このような理由から「薩夜麻」が再度最高権力者となった時点以降疎まれていたという可能性があります。「大伴部博麻」がなかなか帰国できなかったのと同様に彼もなかなか昇進できなかったということではなかったでしょうか。
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いわゆる「唐」による「驥尾政策」の有無について

2024年12月15日 | 古代史
今回の講演でもいくつかの論者は「唐」による「驥尾政策」つまり「筑紫」他に「都督府」が置かれ、「唐」による政治が行われたと考えていることを表明していました。特に「中村修也」先生は「近畿にも都督府が置かれた」ということを表明されていました。
 講演の際には当方はこの件について深く考えたことがなく、意見表明しませんでしたが、おぼろげに「驥尾政策」はなかったと考えていたものです。
 今回もう少し検討を加えた結果、その感覚は強化され、明確に「驥尾政策」はなかったと考えるようになっています。
 彼らは「筑紫都督府」という『書紀』に書かれた存在がそれを表すものだと考えているようですが、私はそうは思いません。
 確かに「都督府」や「都護府」が置かれるのは「戦争当事国」の首都である例がほとんどです。その意味で「筑紫」が「倭国」の首都であるという議論があることも承知していますが、別の意味でその点については賛成します。(後ほど触れます)
 しかし「都督府」等が置かれるのはあくまでもその当事国自体が「戦闘領域」となった経緯があるのが前提であり、その意味で倭国が戦争当事国でなかったとは断言できないものの、少なくとも「戦闘領域」ではなかったものであり、そのような場所に「都督府」が設置された例がないことを考えると、この時「筑紫」に「都督府」を「唐」が設置するとは考えられないといえます。
 また「熊津都督府」が一時孤立した例を考えても「遠隔地」に「都督府」を設置して万が一この時の「百済」のように当事国の国内勢力が「唐」に対して反旗を翻す事態を想定すると、援軍を送る手段とそれに要する時間の困難さを考えるとこのような遠隔地に都督府を設置するとは考えにくいといえます。
 「唐代」(太宗の時代)に反旗を翻した「高昌国」を討った際、「太宗」は「高昌国」を「府県制」に置こうとしましたが側近の「魏徴」に以下のように反対されたとされます。

「(貞観)十四年(庚子、六四〇)秋八月庚午」「作襄城宮於汝州西山。立德,立本之兄也。…上欲以高昌爲州縣,魏徴諫曰:「陛下初即位,文泰夫婦首來朝,其後稍驕倨,故王誅加之。罪止文泰可矣,宜撫其百姓,存其社稷,復立其子,則威德被於遐荒,四夷皆悅服矣。今若利其土地以爲州縣,則常須千餘人鎭守,數年一易,往來死者什有三四,供辧衣資,違離親戚,十年之後,隴右虚耗矣。陛下終不得高昌撮粟尺帛以佐中國,所謂散有用以事無用。臣未見其可。…」(『資治通鑑』巻百九十五による)

 ここでは「高昌国」に対して「唐」の「府県制」を適用しようという「太宗」の考えに対して「魏徴」が、「高昌国」の鎮守には常に千人以上の兵が必要であり、また頻繁に交替させる必要があるなど軍事的負担が大きすぎるとして反対しています。これは基本として「遠距離」であることが最大の原因であり、「高昌王」がここは「唐」の支配領域から遠く、その間に砂漠があるなど地の利を誇っていたこと(以下の記事)を間接的に認めるものです。

「(貞観)十四年夏五月壬寅」「高昌王文泰聞唐兵起,謂其國人曰:「唐去我七千里,沙磧居其二千里,地無水草,寒風如刀,熱風如燒,安能致大軍乎」」

 これは「倭国」の場合と比較すると「海」と「砂漠」の違いはあるものの、間に地理的障害があり、また遠距離であって軍事的負担が多すぎるという点で共通します。このように「唐」は以前から遠隔地については「驥尾政策」的なことは行っていない現実があり、これを踏まえるとこの時「唐」が「倭国」(筑紫日本国)に対して「驥尾政策」を行ったとは考えにくいと言えるでしょう。そう考えた場合『書紀』に出てくる「筑紫都督府」は誰が設置したのかという点が問題になります。私見ではこの「筑紫都督府」は「唐」ではなく「難波日本国」が設置したと考えます。
 一般に「都督府」が征服した王朝の首都におかれるものと考えると、その権利があるのは「難波日本国」しかないといえます。すでに述べたように「日本国」は当時列島に二つ存在していたものであり、「筑紫」地域が「難波日本国」と別国であり、「百済を救う役」の惨敗により倒れた「筑紫日本国」の首都であると推定できます。
 「筑紫日本国」が「高麗」の援軍に行きほぼ全滅したらしいことを考えると、筑紫地域周辺は彼らによる軍事的勢力はほぼ皆無であった可能性があり、日本国がその空白を埋めるべく軍事的に占拠した可能性があり、その際首都防衛軍の長である「阿倍比羅夫」(大宰府長官とされる)さえも遠征に出動していたのは記録からも明らかですから、「筑紫」にはほぼごく少数の勢力しか残存していなかったと思われ、彼らと「難波日本国」の占領軍との間で戦闘が行われたとして不自然ではないと思われます。
 そして「筑紫」の「軍事的空白」を埋めた形の「難波日本国」はそこに「唐」をまねて「都督府」を設置したとみることができます。
 彼らは自称として「鎮西筑紫大将軍」と称したものと思われ、それが『海外国記』に書かれた「筑紫太宰の言」として記録されたものと思われます。
 「鎮西筑紫大将軍」とは、その語義から言っても明らかに「筑紫都督」を指すものと考えられます。(「都督」は「大将軍」でもあるわけです)またその直前には「筑紫大宰」という名称も現れますが、まず「大宰」が「将軍牒書一函」の内容を確認しているようです。そして、それが「劉仁願」の私信でありまた「私」の使者であるという判断をしたわけですが(実際には「勅旨」とされている)、それを口頭で伝えたのが「九月」のことであり、その段階「以降」については「軍事部門」が担当する、という事になったのではないでしょうか。つまり、ここでは「大宰」と「都督」とが同時に存在している事を示すものと考えられます。
 この「将軍牒書一函」についてはその後、「突っぱねる」事となるわけですから、それに対し彼等(「郭務悰」や「百済禰軍」)が不穏な行動を起こすという可能性もあるわけであり、それらを返却する際には「将軍名」(都督名)でこれを行っていると考えられ、最終的な時点では対外交渉は「軍事部門」に任せたという事と考えられます。
 「都督府記事」はこの三年後のことであり、ここで言う「鎮西筑紫大将軍」というものと強い関連があるものと考えられます。つまり「鎮西」とは「難波日本国」から見て西の地域である「筑紫」を統治している軍事勢力の長としての自称と思われのです。
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「倭国」の中心が「筑紫」であることについて(補論)

2024年12月15日 | 古代史
 すでに「倭国」の領域について『隋書』の記述や『和名抄』の記事、あるいは「高麗」への援軍として参戦し捕虜となった人たちの出身地などの情報から「倭国」との範囲として「筑紫」を中心として「北部九州」と「四国」「中国地方」の半分程度がそうであったと考えたわけですが、そもそも「倭国」というのがどの領域を示すのか、その統治領域の範囲はどれほどかについてはそれを論証したものが見当たらないように思います。
 これについては先の「講演」において「中村修也先生」から「九州王朝」があると先に決めた論は納得できない旨の発言がありました。
 当方は「倭国」とは「筑紫」を中心とした領域であり、だからこそ「倭国」とは「九州王朝」に他ならないと考えているわけですが、それを積極的に論証することはなかなか面倒です。ただしいくつかの状況証拠的なものを集め検討した結果、「筑紫」を中心とした領域が「倭国」と考えられていたものであると推定しているところですが、その一端を紹介します。それは「寺院」に必須の「梵鐘」の存在です。

 「徒然草」には「天王寺」の楽について書かれた段があり、その末尾に「浄金剛院」の鐘について述べられ、それが「黄鐘調」の音階であることが述べられています。

「再掲」(徒然草第二百二十段)
「何事も邊土は賤しく,かたくなゝれども,天王寺の舞樂のみ,都に恥ずといへば,天王寺の伶人の申侍りしは,當寺の樂はよく圖をしらべあはせて, ものゝ音のめでたくとゝのほり侍る事,外よりもすぐれたり。故は,太子の御時の圖今に侍るをはかせとす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。其聲黄鐘調のもなかなり。寒暑に随ひてあがりさがり有べき故に,二月涅槃會より聖靈會までの中間を指南とす。秘蔵の事也。此一調子をもちていつれの聲をもとゝのへ侍るなりと申き。
 凡鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり。西園寺の鐘黄鐘調にいらるべしとて,あまたゝびいかへられけれどもかなはざりけるを、遠國よりたつねだされけり。『浄金剛院の鐘の聲,又黄鐘調也。』」

 研究によれば「妙心寺」の鐘は「観世音寺」の鐘と兄弟(同じ「木型」(鋳型の元となるもの)から作られた)とされています。さらに高さ及び厚みなどの寸法・構造も同じとされますから、当然発する音高も同じとなるはずです。(一般に鐘の音高は「開口部」の断面積に反比例し、開口端の厚みに比例するとされます。)
 実際に二〇一二年に行われた「九州国立博物館」における両鐘の「鳴り合わせ」イベントの際の動画データ(YouTubeで公開されているもの)を音声スペクトル解析ソフト(『WavePad』)で高速フーリエ変換したものを見てみると(もちろんネットから取得したデータと言うことで正確性は欠けますが)、共に同じ129ヘルツ付近に「基音」(最も低い音高)があるように判断できます。ただし、高周波成分については両鐘でやや差があり、それが音色の違いとなっているように思えますが、このような高周波成分は減衰も大きく、遠方まで聞こえるものではありません。低音部はエネルギーも大きいため減衰も少なく遠く野山を越えて聞こえるものですからその部分こそが「梵鐘」の機能として重要であり、それは両鐘で共通しているというわけです。
 実際に「妙心寺鐘」について正確にその音の高さを測定した記録があり、その解析によれば、基音成分として125.2Hz と130.1Hz が計測され、聴感上の基音は「204msec」を周期とする「うなり」(ビート)を伴う周波数127.7Hz の音となるとされますから、これは間違いなく「黄鐘」(こうしょう)に相当するものです。(※)
 つまりこれらの鐘は「天王寺」の鐘が鋳造された時点からかなり後代のものとみられるわけですが、その「基準音」は共に同じというわけです。これが「天王寺」と同時代の製作ならば不自然ではありませんが、はるか後代の「文武朝」であるというところが問題でしょう。
 「天王寺」の「鐘」が鋳造された時代以降、「唐」とは何度も交流があったわけであり、この鐘が鋳造された時期に「唐楽」についての情報が入ってこなかったはずはないと思われるわけですが、にも関わらず「呂才」により改正された「音律」を音階として使用していないことに注目すべきです。
 「糟屋評」には「踏鞴鉄」の工房があったという報告があり、ここで「冶鉄」が行われていたと見られるわけですが、同じ工房で「青銅製品」の鋳造も行っていたとして不思議はありません。そこで「梵鐘」が鋳造されていたとみられるわけですが、この時点で依然として「唐」以前の古音階を発するように鋳造されているのは「不審」であるかも知れませんが、それは「寺院」における「鐘」の存在の示す意味につながるものであったと思われるのです。
 これについては当時のわが国では「寺院」の鐘というものは「黄鐘」の音律に適うべきと言う思想があったと見るべきとも考えられます。それは「鐘」の「音」が「無常」を示す意義があったからです。
 有名な「平家物語」の「序」にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という文章は単なる「無常観」を表現したものではなく、実際に「鐘の声」は「黄鐘」という「音律」に則ったものでなければならなかったということを意味しているのです。それは「黄鐘」という音高が「四季」を表すものであり、またその意味で移り変わりを表すことから仏教的には「無常」観につながっているのです。
 上の「徒然草」においても「凡そ鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり」とあり、「寺院」の「鐘」というものはすべからく「黄鐘調」でなければ「無常の調子」とならず、そうでなければ「祇園精舎の無常院の鐘と同じにならない」というわけです。
 たとえば、『淮南子』には以下のようにあります。

「中央土也。其帝黄帝,其佐后土,執繩而制四方。其神爲鎮星。其獸黄龍,其音宮,其日戊己」
「黄鍾爲宮,宮者音之君也」
「甲乙寅卯木也。丙丁巳午火也。『戊己四季土也。』庚辛申酉金也。壬癸亥子水也」
(以上『淮南子』巻三「天文訓」より)

 これらによれば「中央は土」であるとされる他、音は「宮」,日は「戊己」などとされることや「黄鍾」は「宮」であり、その「宮」は音の君とされていること、さらには「中央」を表す「戊己」は「四季の土」であるというわけであり、結局「黄鍾」は「四季」を表すものということとなって、このような「五行説」に基づいて「梵鐘」の音髙は「黄鍾調」でなければならないとしていたものと推察されるわけです。
 そう考えると、「鐘」の構造は「規格化」されていたとも考えられます。「黄鐘」の音高を発する必要があるとすると、あえて構造や厚さを変える必要がないからです。その意味で「糟屋」の工房では同じ鋳型から「鐘」の製造を一手に引き受けていたという可能性もあるでしょう。それを示すように「天武紀」には「筑紫」から「大鐘」が献上されたという記事があります。

「(天武)十一年(六八二年)春正月乙未朔…癸未。筑紫大宰丹比眞人嶋等貢大鐘。」

 このように「妙心寺鐘」にわずかに先行して製作された鐘があったとするわけですから、この「大鐘」も同じ「糟屋」工房で製作されたものであり、同じ「木型」から鋳造されたとみられますから、当然この「大鐘」もまた「黄鐘調」の音高であったと思われる事となります。
 ちなみにこの「大鐘」はどの寺院に使用されたのかというと、この「大鐘」献上の約一年前の六八〇年十一月には「薬師寺」の造営が始められたという記事がありますから、この「大鐘」は「薬師寺」に入るはずのものではなかったかと推定できます。(ただしこれらの記事群には年次移動の可能性はありますが)

「(天武)九年(六八〇年)十一月壬申朔…癸未。皇后體不豫。則爲皇后誓願之。初興藥師寺。仍度一百僧。由是得安平。是日。赦罪。」

 ここでは「貢」ずるとされていますから「王権」に献上されたものであり、この当時「王権」が関与している建築中の寺院はこの「薬師寺」だけのようですから、「筑紫大宰」が献上するとしたらこの「薬師寺」が最も適当と思われます。(ただし現在の「薬師寺」「新薬師寺」双方の「梵鐘」とも「八世紀」の鋳造と考えられていますから、この時の「梵鐘」とは異なると思われ、何らかの理由により失われてしまったと考えられます。)
 さらに言えばこの「黄鐘調」の鐘は全て「勅願寺」(或いは「皇后」「太子」などの「準勅願」とでもいうべき「御願」によるもの)にだけ納められたものではなかったでしょうか。
 このような「黄鐘調」の鐘は、上に見たように「淮南子」では「音之君」とされていますから、実際上も「倭国」では「君」以外には使えなかったという可能性があるでしょう。それはこのような「黄鐘調」の鐘の倭国への伝来について考えた場合、「中国」(隋)からの使者が持参した物品の他に「寺院」とそれに関するものについても相当量の下賜物があったと見られ、その中に「梵鐘」もあったと推定されるからです。
 この時の「隋」からの使者は「文帝」が派遣したものであるのは間違いないところですが、彼は仏教を国教としていましたから、夷蛮の国が仏教に深く帰依するとか寺院を造るという場合にそれに補助しなかったとすると不自然であると思われます。つまり「倭国」においても「隋」の肝いりで寺院が建設されたとみられ、それが「元興寺」であろうというのが私見であるわけですが、その時点で「梵鐘」についても当然「隋」の技術により鋳造されたとみることができると思われ、その音高が「黄鐘調」であったとするのもまた当然であると思われるわけです。(寺院が造られたにも関わらず梵鐘が備わっていなかったとするとそれもまた大変不自然といえるでしょうから。)
 また当然「鐘」を持ってきたというわけではなく、「木型」を作成する技術者が隋使とともに来て、「木型」を作製し(これ知ってみれば「母型」(マザー)であり、そこから銅を流し込む本来の「鋳型」を作製していたものと思われる)梵鐘を作成する技術を伝えたものと思われます。
 そう考えると、この時の「倭国」において「倭国王」以外の家臣や一般人が「黄鐘調」の鐘を製造したり使用したりはできなかったという可能性が高いと推量できます。これらは「隋皇帝」から「倭国王」への贈呈品であり、その意味でもこれら「黄鐘調」の鐘は全て「倭国王」直属の工房で作られていたものとみることができそうであり、それが「筑紫」(糟屋或いはその周辺)で作られていたということになるということからも、当時の倭国の中心が「北部九州」にあったことが推定できるわけですが、「天王寺」の「鐘」もまた「筑紫」で作られたとみられることとなり、少なくとも「天王寺」もまた「倭国王」の勅願であり、それが「難波」にあったというわけですから、その「難波」という地がこの時点で「倭国王」の直轄地域として存在していたことが窺えるものです。
 
(※)明土真也「音高の記号性と『徒然草』第220 段の解釈」(『音楽学』58号二〇一二年十月)


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