以下は以前投稿したものを微修正したものです。趣旨は変わりありません。
唐の二代皇帝太宗の諱「李世民」は「六四九年」に死去しましたが、生前は「世民」と二字連続するようなもの以外は「諱字」ではありませんでした。しかし、「高宗」即位以降、「世」「民」とも「諱字」となり、「官名」「氏名」などから避けるべきこととされました。そのため「隋代」から存在していた「民部」はこの時点(六四九年)以降「戸部」と改められたものです。
『…尚書省,事無不總。置令、左右僕射各一人,總吏部、禮部、兵部、都官、度支、工部等六曹事,是為八座。屬官左、右丞各一人,都事八人,分司管轄。吏部尚書統吏部侍郎二人,主爵侍郎一人,司勳侍郎二人,考功侍郎一人。禮部尚書統禮部、祠部侍郎各一人,主客、膳部侍郎各二人。兵部尚書統兵部、職方侍郎各二人,駕部、庫部侍郎各一人。都官尚書統都官侍郎二人,刑部、比部侍郎各一人,司門侍郎二人。度支尚書統度支、戸部侍郎各二人,[一]戸部侍郎「 戸部 」當作「民部」,唐人諱改。下同。…』(「隋書/志第二十三/百官下/隋」より)
「…大業元年,遷大理卿,復為西南道大使,巡省風俗。擢拜戸部尚書。[一] 戸部 據本書煬帝紀上當作「民部」,唐人諱改。…」(「隋書/列傳第十六/長孫覽 從子熾 熾弟晟」より)
『…尚書省,事無不總。置令、左右僕射各一人,總吏部、禮部、兵部、都官、度支、工部等六曹事,是為八座。屬官左、右丞各一人,都事八人,分司管轄。吏部尚書統吏部侍郎二人,主爵侍郎一人,司勳侍郎二人,考功侍郎一人。禮部尚書統禮部、祠部侍郎各一人,主客、膳部侍郎各二人。兵部尚書統兵部、職方侍郎各二人,駕部、庫部侍郎各一人。都官尚書統都官侍郎二人,刑部、比部侍郎各一人,司門侍郎二人。度支尚書統度支、戸部侍郎各二人,[一]戸部侍郎「 戸部 」當作「民部」,唐人諱改。下同。…』(「隋書/志第二十三/百官下/隋」より)
「…大業元年,遷大理卿,復為西南道大使,巡省風俗。擢拜戸部尚書。[一] 戸部 據本書煬帝紀上當作「民部」,唐人諱改。…」(「隋書/列傳第十六/長孫覽 從子熾 熾弟晟」より)
その後「戸部」は「度支」「司元(太常伯) 」「地官」と変遷しましたが、結局「戸部」に戻りました。(七〇五年)
しかし、我が国では「民部」は「戸部」等に変えられることなくそのまま使用され続けました。「民部省」や「民部卿」「民部」という呼称が『書紀』にも『続日本紀』にも出てきます。(『持統紀』『天武紀』『天智紀』等)また「養老律令」においても同様に「民部省」等の用例が多数確認できます。
また、「唐」では「世」の字も「代」に変えられたものです。
以下の例では「世」がそのまま「世」と表記されていて、それは「諱」を避けて「代」と表記する例と違うというわけであり、それは「唐」以降変えられたものと解釈しているわけです。
「閏月辛巳,皇太后竇氏崩。丙申,葬章德皇后。 燒當羌寇隴西,殺長吏,遣行征西將軍劉尚、越騎校尉趙世等討破之。越騎校尉趙世等討破之 按:集解引錢大昕說,謂趙憙傳、西羌傳「趙世」並作「趙代」,蓋章懷避唐諱改之,此作「世」,又唐以後人回改。 」(「後漢書/本紀 凡十卷/卷四 孝和孝殤帝紀第四/和帝 劉肈 紀/永元九年 [底本:宋紹興本])
この「代」と表記するものが「李賢」による注が施された『後漢書』であり、これが『書紀』には引用されていないという訳です。(これが引用されるようになるのは「平安時代」であり、その時点までには『李賢注後漢書』が伝来し利用されるようになったと見られます)
そもそも『書紀』には「世」字は頻発しており、枚挙に暇がないほどです。「観世音経」「観世音菩薩」という呼称などの他多数の「世」の例が確認できます。ここでも「世」の字が避けられていないことがわかります。つまりこれらのことは『書紀』の編纂において「李賢」が注を施した『後漢書』を見て書いたというわけではないことを示すものであると同時に『書紀』全体を通じて「唐代」の「諱字」は全く避けられていないと云うことを示します。(ただし、「武則天」時代には「李王朝」から「武王朝」に代わったことを受けて「世」も「民」も諱字とはしなかった事実があります。そのことが反映しているという可能性はあるかもしれません。(ただし上に見たように「民部」が元の「民部」に戻ったというわけでもないわけです)
このようなケースがどのような理由によるか想定すると、「参照」されていたのは「李賢」が「注」を施す以前の『後漢書』か、あるいは『後漢書』によく似た文章を持つ別の「書」(『東観漢紀』など)であったと考えるわけですが、それがどちらであってもそれが「倭国」に伝来したのはかなり早い時期を想定しなければなりません。
たとえば「范曄」が表した『後漢書』についていえば『隋書経籍志』に既に『後漢書』が含まれており、(当然「李賢」の注が施されたものではない)『書紀』編纂時点で『隋書』を参照していたのは確かですから、その時点で『後漢書』も参照していたと考えても不思議はないわけです。『隋書』伝来時点(これがいつかは不明ですが、『書紀』編纂時点よりは以前であることは間違いありません)で『後漢書』だけは伝来しなかったとも考えにくいものであることは確かです。
また『東観漢紀』という史書は「范曄」が『後漢書』を書く段階で参考にしたと見られる書ですから、その『後漢書』が伝来していたなら当然『東観漢紀』も伝来していたと思われることとなります。そしてそれは「李賢」が注を施す「高宗」の代以前のこととならざるを得ません。『日本国見在書目録』にも「范曄」の『後漢書』が記されていますから、かなり早い段階で入手していたのは間違いないでしょう。
これについては「類書」の使用が有力視されており、『後漢書』や『東観漢紀』などから集められた文章で構成された『華林遍略』という類書からの引用が考えられていますが(これも『隋書経籍志』にも『日本国見在書目録』にも記されている書物です)、これであっても「南朝」(梁)の時代のものであり、その伝来がかなり早かったと想定しなければならないのは同様です。
「李賢」が注を施した『後漢書』が注目されたのは「開元年間」のこととされていますが、当然「李賢」在命時には重要視されていたものであり(「則天武后」以降無視ないし否定されていたものです)、それが「倭国」に伝来していたとして不思議はないわけですが、実際にはそれは『書紀』の編纂には使用されなかったわけです。
これは『書紀』編纂に何が使用されたかという問題と共に当時の倭国王権の意識がどこにあるかが問われるべきものと思われます。
「諱字」が避けられていない史料によって『書紀』を書いたということと、『書紀』編者がそもそも「諱字」を意識していなかったと見られることは軌を一にする出来事と考えられます。依拠した「史書」に「諱字」があった場合、「諱字」の存在を知っていたなら書き換えて当然のはずが、そうしていないのは「諱字」を知らなかったか、あるいは「無視」ないしは情報が「視野に入っていなかった」かではないでしょうか。しかし、知らなかったというのは本来は考えにくいわけです。それは『書紀』の編纂に「唐人」が関わっていたと云う説があるからです。(森博達氏の議論)
彼らは「百済を救う役」の際に「捕虜」となった「唐人」であるとされますが、それは「六六〇年代」のことであり、「顕慶二年」(六五七年)にはすでに「世」と「民」を諱字とするという高宗の「詔」が出ているわけですから、彼らがそれを知らなかったとは考えられないでしょう。それは彼らが「朝廷内」にその居場所を見つけたことにも通じています。そのことは彼らが一介の兵士ではなく「唐」本国から派遣されていた官僚であった可能性が高いことを示すものですが、もし彼らがそのような身分であったならら当然「諱字」について承知していたはずですから、彼等が編纂に携わったなら避けるべき「諱字」が実際には使用されている理由が不明となります。
これについて整合的説明をしようとすると、「李世民」の「諱字」が避けられていないのは、「高宗」が「通達」を出す以前の史料によって『書紀』が編纂されているからと考えられることとなるでしょう。
ところで『書紀』が参照したと思われる『隋書』の『俀国伝』が含まれている「列伝」の成立は「唐代」の「六三六年」ですから、当然『書紀』の編集はこの時点付近以降で行われたこととなります。
上に見た「六五七年」の「「世」と「民」を諱字とする」という通達以前であるという推定と重ねて考えると、「六四〇年付近」がもっとも『隋書』のもたらされた時代として措定可能でしょう。私見ではこの時「高表仁」が派遣されたと見ていますが、この来倭の際にはもちろん「高表仁」だけが来たわけではありません。(記事でも「高表仁等」と表現されています)
しかし、我が国では「民部」は「戸部」等に変えられることなくそのまま使用され続けました。「民部省」や「民部卿」「民部」という呼称が『書紀』にも『続日本紀』にも出てきます。(『持統紀』『天武紀』『天智紀』等)また「養老律令」においても同様に「民部省」等の用例が多数確認できます。
また、「唐」では「世」の字も「代」に変えられたものです。
以下の例では「世」がそのまま「世」と表記されていて、それは「諱」を避けて「代」と表記する例と違うというわけであり、それは「唐」以降変えられたものと解釈しているわけです。
「閏月辛巳,皇太后竇氏崩。丙申,葬章德皇后。 燒當羌寇隴西,殺長吏,遣行征西將軍劉尚、越騎校尉趙世等討破之。越騎校尉趙世等討破之 按:集解引錢大昕說,謂趙憙傳、西羌傳「趙世」並作「趙代」,蓋章懷避唐諱改之,此作「世」,又唐以後人回改。 」(「後漢書/本紀 凡十卷/卷四 孝和孝殤帝紀第四/和帝 劉肈 紀/永元九年 [底本:宋紹興本])
この「代」と表記するものが「李賢」による注が施された『後漢書』であり、これが『書紀』には引用されていないという訳です。(これが引用されるようになるのは「平安時代」であり、その時点までには『李賢注後漢書』が伝来し利用されるようになったと見られます)
そもそも『書紀』には「世」字は頻発しており、枚挙に暇がないほどです。「観世音経」「観世音菩薩」という呼称などの他多数の「世」の例が確認できます。ここでも「世」の字が避けられていないことがわかります。つまりこれらのことは『書紀』の編纂において「李賢」が注を施した『後漢書』を見て書いたというわけではないことを示すものであると同時に『書紀』全体を通じて「唐代」の「諱字」は全く避けられていないと云うことを示します。(ただし、「武則天」時代には「李王朝」から「武王朝」に代わったことを受けて「世」も「民」も諱字とはしなかった事実があります。そのことが反映しているという可能性はあるかもしれません。(ただし上に見たように「民部」が元の「民部」に戻ったというわけでもないわけです)
このようなケースがどのような理由によるか想定すると、「参照」されていたのは「李賢」が「注」を施す以前の『後漢書』か、あるいは『後漢書』によく似た文章を持つ別の「書」(『東観漢紀』など)であったと考えるわけですが、それがどちらであってもそれが「倭国」に伝来したのはかなり早い時期を想定しなければなりません。
たとえば「范曄」が表した『後漢書』についていえば『隋書経籍志』に既に『後漢書』が含まれており、(当然「李賢」の注が施されたものではない)『書紀』編纂時点で『隋書』を参照していたのは確かですから、その時点で『後漢書』も参照していたと考えても不思議はないわけです。『隋書』伝来時点(これがいつかは不明ですが、『書紀』編纂時点よりは以前であることは間違いありません)で『後漢書』だけは伝来しなかったとも考えにくいものであることは確かです。
また『東観漢紀』という史書は「范曄」が『後漢書』を書く段階で参考にしたと見られる書ですから、その『後漢書』が伝来していたなら当然『東観漢紀』も伝来していたと思われることとなります。そしてそれは「李賢」が注を施す「高宗」の代以前のこととならざるを得ません。『日本国見在書目録』にも「范曄」の『後漢書』が記されていますから、かなり早い段階で入手していたのは間違いないでしょう。
これについては「類書」の使用が有力視されており、『後漢書』や『東観漢紀』などから集められた文章で構成された『華林遍略』という類書からの引用が考えられていますが(これも『隋書経籍志』にも『日本国見在書目録』にも記されている書物です)、これであっても「南朝」(梁)の時代のものであり、その伝来がかなり早かったと想定しなければならないのは同様です。
「李賢」が注を施した『後漢書』が注目されたのは「開元年間」のこととされていますが、当然「李賢」在命時には重要視されていたものであり(「則天武后」以降無視ないし否定されていたものです)、それが「倭国」に伝来していたとして不思議はないわけですが、実際にはそれは『書紀』の編纂には使用されなかったわけです。
これは『書紀』編纂に何が使用されたかという問題と共に当時の倭国王権の意識がどこにあるかが問われるべきものと思われます。
「諱字」が避けられていない史料によって『書紀』を書いたということと、『書紀』編者がそもそも「諱字」を意識していなかったと見られることは軌を一にする出来事と考えられます。依拠した「史書」に「諱字」があった場合、「諱字」の存在を知っていたなら書き換えて当然のはずが、そうしていないのは「諱字」を知らなかったか、あるいは「無視」ないしは情報が「視野に入っていなかった」かではないでしょうか。しかし、知らなかったというのは本来は考えにくいわけです。それは『書紀』の編纂に「唐人」が関わっていたと云う説があるからです。(森博達氏の議論)
彼らは「百済を救う役」の際に「捕虜」となった「唐人」であるとされますが、それは「六六〇年代」のことであり、「顕慶二年」(六五七年)にはすでに「世」と「民」を諱字とするという高宗の「詔」が出ているわけですから、彼らがそれを知らなかったとは考えられないでしょう。それは彼らが「朝廷内」にその居場所を見つけたことにも通じています。そのことは彼らが一介の兵士ではなく「唐」本国から派遣されていた官僚であった可能性が高いことを示すものですが、もし彼らがそのような身分であったならら当然「諱字」について承知していたはずですから、彼等が編纂に携わったなら避けるべき「諱字」が実際には使用されている理由が不明となります。
これについて整合的説明をしようとすると、「李世民」の「諱字」が避けられていないのは、「高宗」が「通達」を出す以前の史料によって『書紀』が編纂されているからと考えられることとなるでしょう。
ところで『書紀』が参照したと思われる『隋書』の『俀国伝』が含まれている「列伝」の成立は「唐代」の「六三六年」ですから、当然『書紀』の編集はこの時点付近以降で行われたこととなります。
上に見た「六五七年」の「「世」と「民」を諱字とする」という通達以前であるという推定と重ねて考えると、「六四〇年付近」がもっとも『隋書』のもたらされた時代として措定可能でしょう。私見ではこの時「高表仁」が派遣されたと見ていますが、この来倭の際にはもちろん「高表仁」だけが来たわけではありません。(記事でも「高表仁等」と表現されています)
この時随行したのが誰で総員が何名であったかは不明であるわけですが、唐代における一般論から云うとこのような海外へ派遣される使節の場合、正使・副使とその各々についての判官、書紀(史生)など(状況によっては「軍関係者」も)総勢十数名はいたはずです。「隋代」の「裴世清」の来倭の際にも十数名が来たとされます。(以下の記事)
「推古十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。『下客十二人。』從妹子臣至於筑紫。」(推古紀)
しかしこの「高表仁」の来倭の際には「高表仁」本人が倭国王子(史料によっては倭国王)と「礼」をめぐって対立したため、激怒した「高表仁」はそのまま「表(国書)」を奉ぜず帰国したとされます。その時全員が「高表仁」と一緒に帰国したのでしょうか。
「高表仁」がその勅命を果たせなかったということは甚だ不名誉なことであり、「失態」といえるでしょう。(史料では「無綏遠之才」と酷評されています)そのため同行した随員の中にはペナルティーを恐れて帰国しなかったものもいたのではないかと想像します。
通常「使者」には「判官」という「監察」する職掌の人員(監察御史など)が付随するものであり(副使がいれば彼にも同様に判官が付く)、使者の言動に不適当な部分や粗相があった場合、彼らは「唐」の法律に従ってそれを指摘し是正させる役割があったと思われます。
「高表仁」が「表(国書)」を提出せず帰国したということは、このときの判官はそのことを阻止できず、是正できなかったこととなるわけですから、使者以上に責任を問われる可能性があったと思われます。
そのため責を咎められることを恐れた「判官」など関係者の中には「高表仁」と同行して帰国する事を選択せず、倭国王権と折衝をする名目で残留した者がいたということも考えられるでしょう。
「倭国王権」としてもこれはやはり「失態」であり、「対唐政策」の立て直しもしなければならず、「唐人」を政権内部に抱える方がプラスと考えたとしても不思議ではありません。双方の思惑が合致した結果彼らは政権内部で働くこととなったと云うことではないでしょうか。そう考えれば、この時残留した唐人が律令策定に参画したと見れば「諱字」を避けていないのも当然となるでしょう。そしてそれが「續守言」「薩弘恪」の両名ではなかったかと考えられるわけです。
「推古十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。『下客十二人。』從妹子臣至於筑紫。」(推古紀)
しかしこの「高表仁」の来倭の際には「高表仁」本人が倭国王子(史料によっては倭国王)と「礼」をめぐって対立したため、激怒した「高表仁」はそのまま「表(国書)」を奉ぜず帰国したとされます。その時全員が「高表仁」と一緒に帰国したのでしょうか。
「高表仁」がその勅命を果たせなかったということは甚だ不名誉なことであり、「失態」といえるでしょう。(史料では「無綏遠之才」と酷評されています)そのため同行した随員の中にはペナルティーを恐れて帰国しなかったものもいたのではないかと想像します。
通常「使者」には「判官」という「監察」する職掌の人員(監察御史など)が付随するものであり(副使がいれば彼にも同様に判官が付く)、使者の言動に不適当な部分や粗相があった場合、彼らは「唐」の法律に従ってそれを指摘し是正させる役割があったと思われます。
「高表仁」が「表(国書)」を提出せず帰国したということは、このときの判官はそのことを阻止できず、是正できなかったこととなるわけですから、使者以上に責任を問われる可能性があったと思われます。
そのため責を咎められることを恐れた「判官」など関係者の中には「高表仁」と同行して帰国する事を選択せず、倭国王権と折衝をする名目で残留した者がいたということも考えられるでしょう。
「倭国王権」としてもこれはやはり「失態」であり、「対唐政策」の立て直しもしなければならず、「唐人」を政権内部に抱える方がプラスと考えたとしても不思議ではありません。双方の思惑が合致した結果彼らは政権内部で働くこととなったと云うことではないでしょうか。そう考えれば、この時残留した唐人が律令策定に参画したと見れば「諱字」を避けていないのも当然となるでしょう。そしてそれが「續守言」「薩弘恪」の両名ではなかったかと考えられるわけです。
彼らは後に律令策定に参画しているところを見ても、それほど下級の出身であったとは思われず、その彼らが参加したとされる「白村江の戦い」はその「高宗」の「詔」から数年を経ているわけですから、彼等のような唐人がそれを知らなかったはずがないと思われます。にもかかわらず彼らがその編纂に参加したとされる『書紀』で「世・民」という「諱」が避けられていないこととなります。上に見たように可能性としては「世・民」の諱を避けていないのはその様な通達(「詔」)を知らないからであるという可能性が考えられ、その場合、彼ら唐人は「高宗」の「詔」以前から倭国にいたということとなりますから彼らは「戦争捕虜」ではなかったとは考えるべきこととなります。そうであれば戦後も帰国せず政権中枢にいる理由も納得できるでしょう。