古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「隋」皇帝からの「訓令」について(二)

2024年12月24日 | 古代史
 「隋」の「高祖」「楊堅」は(諡「文帝」)は「皇帝」に即位した後すぐにそれまで抑圧されていた仏教を解放し、仏教に依拠して統治の体制を造り上げたとされており、『隋書』の中では「菩薩天子」と称され、また「重興仏法」つまり一度「廃仏」の憂き目にあった仏教を再度盛んにした人物として書かれているわけです。
 それまでの「周朝」(北周)が「儒教的雰囲気」の中にあり、学校教育の中身も「儒教」が中心であったわけですが、「高祖」はその「学校」を縮小したことが知られています。それは仏教重視のあまりであった事がその理由の一つであったものと思われ、そのように仏教に傾倒し、仏教を国教の地位にまで昇らせた彼が「夷蛮」の国において「未開」な土着信仰とそれを元にした政治体制の中にいると考えられた「倭国王」に対して、やはり仏教(特に「南朝」からもたらされた「最新」の仏教)を示しそれを国教とすべしとしたという可能性は高いものと推量します。それが「法華経」であったと思われ、そのため派遣した「隋使」にそれらを講説させたものではないでしょうか。
 これに関しては『二中歴』の「端正」の項に「唐より法華経始めて渡る」という記述がこの「訓令」に関連していると考えられます。

「端政五年己酉 自唐/法華経始渡」(「自唐」以降は小文字で二行書、また「/」は改行を意味します。)

 この「端正」は「五八九年から五九三年」までであったと思われますから、この年次以前に「遣隋使」が派遣され、その「表報使」として「隋」から使者が派遣されたことを如実に示すものといえます。彼が「訓令書」を携え、「倭国王」に対し「統治」の体制を見直すことを強く「指示」したというわけです。そしてその具体的方策として「法華経」が示された(講義された)ものと考えられるものですが、同時に「文帝」が「大興善寺」を都の中心に据えて仏教を国策の中心とするシンボルとしたように、「倭国」においても「国策」としての寺院を「都」に建設するべきという進言(あるいは勧告)をしたものではなかったでしょうか。そのために必要な技術と人材及び物資を「援助」したという可能性が考えられます。 
 既に考察したように「高麗大興王」という存在は実際には「隋帝」を意味するものであり、「高麗大興王」からの援助という黄金も実際には「隋帝」からの援助であったと思われるわけです。そしてその「黄金」が使用されて「丈六仏像」が完成したのが「元興寺」であったというわけですから、この「元興寺」は「隋」における「大興善寺」の役割を負っていたものと考えられます。(この「元興寺」については後述)
 ここで「隋使」が行ったと思われる「講説」を受けて「法華経」に基づく仏教文化が発展するわけであり、「六世紀末」から「阿弥陀信仰」が急速に発展すると云うところにこの「訓令」の影響があったものと思われます。(それは特に「法隆寺」に関することに強く表れているものであり、「玉虫厨子」の裾部分にも「阿弥陀像」が押し出しで描かれているなどのことに現れています。またその「法隆寺」には「瓦」などを初めとして「四天王寺」や「飛鳥寺」などのように「百済」の影響がほとんど感じられず、かえって「隋・唐」の影響があると見られることがあり、それらは深く関連していると考えられます。)
 このような仏教文化の発展には色々な要素があったものと思われますが、この時「文帝」から「訓令」されたことが一つの大きなインパクトになっていると考えられるものです。
 このような趣旨で「隋使」が「講説」を行ったとすると、それが行われた場所(地域)として「倭国王」の所在する場所であり、また「遣隋使」により「俗」として「如意寶珠」があり、「祷祭」が行われているとされた「倭国」の本国である「九州島」において、まず「新・法華経」が講説されたみられることとなるでしょう。すでに述べたように「鐘」についてその木型の作成が行われたのが「筑紫」においてであったものであり、そこで作製された鐘は全て黃鐘調の音階を発するものであって倭国王専用のものであったことが明らかですから、その意味でも隋使が講説をした場所も「筑紫」であったとみられます。
 「九州島」が「倭国」の本国であることは『隋書』の中でも「阿蘇山」を初めとする「九州島」内部の様子の描写が物語っているものであり、そう考えると「倭国」の主要支持勢力も九州島の中に求めるべき事となるでしょう。その筆頭にあげられるのは「海人族」であり、「住吉」「宗像」「安曇」などの諸氏です。(「如意寶珠」は海中の大魚の脳中にあるとされますから、海人族との関係が最も深いものと推量します。)
 そして特にその「法華経」(「堤婆達多品」の補綴されたもの)の内容が「九州」の有力者であった「宗像君」にとってはあたかも自分自身のことを言われたような衝撃を受けたとしてまた不思議はないと思われます。
 その新しい「法華経」の白眉としては「女性」が(でも)「往生」できるとする立場です。その典型的な場面は「女人変成男子」説話です。これは「提婆達多品」にあるもので「文殊私利菩薩」が「海龍王」の元に行き「法華経」を講説したところ「海龍王」の娘が悟りを開いたという説話であり、その際「娘」は「男性」に姿を変えた上で「悟り」を開いたとされます。(これ自体はそれ以前の仏教が抱えていた「女性差別」という欠陥に対するアンチテーゼとしての「男性」への変身であり、「法華経」自体の主張ではないとされます。)
 このような内容は「王権」やその支持勢力の女性達にとって「斬新」であり、興味をかき立てられたことでしょう。「宗像君」の周辺の女性達もまた例外ではなかったと思われ、積極的反応を示したのではないでしょうか。
 実際に「複数」の娘がいたと思われる「宗像君」にとってみればこの「法華経」の内容はまさに自分自身のことであり、「娑竭羅龍王」に自分自身を重ね合わせることはたやすいことであったものと思われます。そのため彼自ら「率先」して「法華経」に帰依したものと思われ、その結果彼の一族も挙って「法華経」の布教・拡大に乗り出すこととなったものと思われます。それはもちろん彼らにとっては「瀬戸内」の制海権を手に入れるという実質的利益を確保する狙いもあったものでしょうけれど、また「倭国王権」の意志に沿ったものであったのが大きいと思われます。
 ところで一般には『法華経』に「提婆達多品」が添付されたのは「六〇一年」に造られたとされる『添品妙法蓮華経』が最初であるとされますが、実際には「六世紀末」の「天台大師智顗」によるものであり、それは「南朝」が「隋」に滅ぼされる以前の(五八九年以前)であったと見られます。
 すでに以前の投稿で言及したように「五八八年」になり、「天台大師」が「光宅寺」で講説した「法華経文句」には「提婆達多品」への言及がありますから、この時点以降「法華経」に「提婆達多品」(及び「普門品偈頌」)が加えられ、「八巻二十八品」となったとされています。それが「隋」に渡ったのは「平陳」(五八九年)以降と思われ、その後派遣された「遣隋使」に対して、この「提婆達多品」が補綴された「法華経」を「隋皇帝」(文帝)が「下賜」したという想定は、「文帝」が仏教の発展に意欲を燃やしていた時点において「夷蛮」の国に対して「経典」を下賜したとした場合大変自然な行為であると思われます。それを示すのが『二中歴』の以下の記事でしょう。

「端政五己酉(自唐法華経始渡)」

 これによれば「唐」(これは「隋」を指す)から「法華経」が「始めて」渡ったとされ、これが「天台大師」により「提婆達多品」が補綴された「法華経」であると見られます。この「元年」である「己酉」は「五八九年」と思われ、「端正年間」としてはそこから「五九四年」までを指すものですが、「法華経」の伝来がそのいずれの年であるかは不明ではあるものの、少なくともこの年次付近に「遣隋使」が送られていたらしいことが推察されるものです。
 通説ではそれが「倭国」に伝来したのは一般にははるか後代の「九世紀」とされておりこの「六世紀末」から「七世紀」という時代には「流布」していなかったとされます。しかし「一般への流布」とは別次元のこととして「隋帝」から「倭国王」への「訓令」として直接伝えられたとする仮定はそのような通説と矛盾するものではありません。むしろこう理解した方が「龍女伝説」に対する解釈として適切であるように思います。
 つまりこの『提婆達多品』が補綴された『法華経』の伝来が「隋」との交渉の結果であり「開皇年間」であったとみるべきとすると、「厳島神社」などの「創建年次」が「五九三年」とされている事はまさに整合すると言えるでしょう。
 「厳島神社」はその社伝で、創建について「推古天皇」の時(端正五年、五九三)に「宗像三女神」を祭ったと書かれていますが、また『聖徳太子伝』にも「端正五年十一月十二日ニ厳島大明神始テ顕玉ヘリ」とあります。さらに、『平家物語』等にも「厳島神社」については「娑竭羅龍王の娘」と「神功皇后」と結びつけられた中で創建が語られており、その内容は仏教との関連が強いものです。
 さらに「謡曲」の「白楽天」をみると以下のようにあります。

 「住吉現じ給へば/\。伊勢石清水賀茂春日。鹿島三島諏訪熱田。安芸の厳島の明神は。娑竭羅竜王の第三の姫宮にて。海上に浮んで海青楽を舞ひ給へば。八大竜王は。八りんの曲を奏し。空海に翔りつゝ。舞ひ遊ぶ小忌衣の。手風神風に。吹きもどされて。唐船は。こゝより。漢土に帰りけり。実に有難や。神と君。実に有難や。神の君が代の動かぬ国ぞ久しき動かぬ国ぞ久しき。」

 これによれば「厳島神社」だけではなく、「伊勢石清水賀茂春日。鹿島三島諏訪熱田」という多数の神社の「明神」は「娑竭羅竜王の第三の姫宮」というように考えられていたのがわかります。
 この「娑竭羅竜王の第三の姫宮」については、「法華経」第十二部「提婆達多品」の中に書かれており、それによれば「文殊菩薩」が竜宮に行き「法華経」を説いたところ八歳の竜女が悟りを開いた、と言うものです。その竜宮の主である「娑竭羅龍王」には八人娘がいて、この悟りを開いたという竜女はその三番目である、ということになっています。この伝承が「厳島神社」の創建伝承に現れるわけであり、神社の創建伝承に「法華経」が関与しているという一種不可思議なこととなっているのです。  
 つまり、これらの寺院の創建の年というのは、「遣隋使」(ないしは「隋使」)が「提婆達多品」の添付された「法華経」を持ち来たったその年であったのではないかとさえ考えられる事となります。もし「伝承」が後代に「造られた」(創作された)とするなら『書紀』の記述を踏まえるのは自然であり、それに沿った形で「伝承」を形作るものと思われ、『書紀』と食い違う、あるいは『書紀』の記述と反する「伝承」が造られたとすると甚だ不自然でしょう。その意味で「端正年間」という表現も含めて「厳島創建伝承」には『書紀』の影は見えないとみるべきであり、その意味で「独自資料」という性格があったとみるべきです。「伝承」だからという理由だけで否定し去ることは出来ないものと思われます。
 こうして「厳島神社」「伊豫三島神社」など「瀬戸内」の西側まで「宗像三姉妹」を核とした「法華経」が伝搬したものと思われます。
 この時点以前にすでに「市杵島姫」を初めとする「宗像三姉妹」に対する信仰は、特に海人族において篤かったものと思われますが、それが「法華経」という外来のものに結びつくことで伝搬力が増したという世界もあったのではないでしょうか。つまり「堤婆達多品」が添付された形で「隋」から伝わったと思われる「法華経」が、「宗像三姉妹」により受容され、在地信仰と一体化した形での強い伝搬(いわば「神仏混交」の発生といえるでしょうか)がこのとき発生したものであり、それ以前の「百済」からの純粋仏教とは異なる性質を持っていたものです。
 これら「宗像族」による「法華経」信仰とその拡大は「倭国王権」の意志に適うものであり、強く歓迎されたものと思われます。
 このように「訓令」により「統治体制」と「宗教」について改革が行われることとなったと思われるわけですが、さらにそれが現れているのが「前方後円墳」における祭祀の停止であり、「薄葬令」の施行であったと思われます。
 この「前方後円墳」で行われていた祭祀の中身は不明ですが、明らかに仏教以前に属するものであり、それと「兄弟統治」と解される「統治体制」が「古典的」と称すべき同じ時代の位相に部類するのは理解できるものです。
 「祭政一致」と云われるように「統治」と「祭祀」とは不可分のものであり、「訓令」により「統治」の根拠を仏教とすべしとされたなら、古来からの「祭祀」についても改革されるべき事となるのは当然であり、そのような「祭祀」が必須であったと思われる「前方後円墳」そのものの築造停止というものも国内諸氏に求められたものと思われます。
 「薄葬令」は「七世紀半ば」に出されたとすると遺跡などとの齟齬が大きく、これは「六世紀末」あるいは「七世紀初め」に出されたと理解するべきものであると思われ、これが「隋」の皇帝からの「訓令」の影響あるいは効果によるものであったと見る事ができると考えられるものです。
 ところで、既に述べたように「小野妹子」が「百済」国内で「国書」を盗まれたというのは「虚偽」であると考えられるわけですが、この「盗まれた国書」というものがこの「訓令書」であったというような理解があるようです。しかし、それもやはり従えません。「訓令書」についてもそれが「文書」という形態を取っていた場合は「国書」に準じた扱いであったと思われ、「隋使」が終始所持・保有していたと考えられます。「皇帝」の「勅使」としての重大性を考えるとそのような「訓令書」についても当然「隋使」が「肌身離さず」所持して当然であり、また「訓令」は本来「皇帝」が「倭国王」に対して直接行うものですが、遠距離のため皇帝の代理として「隋使」が「倭国」を訪れ「倭国王」に対し「訓令」することとなるわけですから、その瞬間まで「訓令書」が他の誰かの手に渡るはずがないこととなるでしょう。いずれにしても「小野妹子」の主張は真実ではなく、それは「文帝」が激怒した結果「使者」が「国書」を持参しなかった「言い訳」であったと判断できるでしょう。(ただしこの「訓令書」が「国書」と同一であったという可能性もあります。つまり「国書」の末尾に「訓令」が書き加えられていたという体裁であった可能性もあると思われるからです。その場合『推古紀』の国書には「続き」があったということとなるものと思われますが、詳細は不明です。)
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「隋」皇帝からの「訓令」について(一)

2024年12月23日 | 古代史
 以下も以前投稿したものですがあちらこちら見てもほぼ触れられることのないポイントのようですから、改めて問題として提起することします。

従来あまり重要視されていないと思われることに、派遣された倭国からの使者が国内における政治体制を紹介したところ、「高祖」から「無義理」とされ「訓令」によりこれを「改めさせた」という一件(『隋書俀国伝』における「開皇二十年記事」)があります。

「…使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:此太無義理。於是『訓令』改之。」

 ここで言う「義理」については以下の『隋書』の使用例から帰納して、現在でいう「道理」にほぼ等しいものと思われます。

「劉曠,不知何許人也。性謹厚,?以誠恕應物。開皇初,為平?令,單騎之官。人有諍訟者,輒丁寧曉以『義理』,不加繩劾,各自引咎而去。…」(「隋書/列傳第三十八/循吏/劉曠」)

「元善,河南洛陽人也。…開皇初,拜?史侍郎,上?望之曰:「人倫儀表也。」凡有敷奏,詞氣抑揚,觀者屬目。陳使袁雅來聘,上令善就館受書,雅出門不拜。善論舊事有拜之儀,雅不能對,遂拜,成禮而去。後遷國子祭酒。上嘗親臨釋奠,命善講孝經。於是敷陳『義理』,兼之以諷諫。上大悅曰:「聞江陽之?,更起朕心。」賚絹百匹,衣一襲」(「隋書/列傳第四十/儒林/元善)

「華陽王楷妃者,河南元氏之女也。父巖,性明敏,有氣幹。仁壽中,為?門侍郎,封龍涸縣公。煬帝嗣位,坐與柳述連事,除名為民,徙南海。後會赦,還長安。有人譖巖逃歸,收而殺之。妃有姿色,性婉順,初以選為妃。未幾而楷被幽廢,妃事楷踰謹,?見楷有憂懼之色,輒陳『義理』以慰諭之,楷甚敬焉。…」(「隋書/列傳第四十五/列女/華陽王楷妃」)

 いずれも「道理」を示しそれにより「説得」あるいは「教諭」しているものと見られます。これらの例から考えて「高祖」は「倭国王」の統治の体制として「道理」がないつまり「筋道」として間違っていると見たものと思われますが、それは「天」と「日」の関係を兄弟とし、その「天」を自分自身に見立てている点にあったでしょう。
 中国的観点としては「天」とは「天帝」であり、「皇帝」に対応するものでした。ですから「倭国王」が「天」に自分自身を見立てているとすると「皇帝」と同格となってしまうわけです。もちろん「倭国」側にはその様な「対等」を表現する意図は(この段階では)なく「古代」から続く「天」(これは「夜」を意味するか)と「日」に対する意識を「統治」の実際に置き換えて表現しただけであったと思われ、それに何か問題があるとは考えていなかったものでしょう。これについては「高祖」は国交開始時点の段階であり、また絶域の夷蛮のこととして「訓令」により改めさせることに留めたものと推量されます。では、ここで行われた「訓令」とはいったいどのような内容を持っていたものでしょう。
 そもそも「訓令」とは「漢和辞典」(角川『新字源』)によれば「上級官庁が下級官庁に対して出す、法令の解釈や事務の方針などを示す命令」とあります。ここでは「隋帝」から「倭国王」に対して出された「倭国」の統治制度や方法についての改善命令を意味するものと思われます。
 「中国」の史書にはそれほど「訓令」の出現例が多くはありませんが、例えば『後漢書』を見るとそこに以下の例があります。

「建初七年,…明年,遷廬江太守。先是百姓不知牛耕,致地力有餘而食常不足。郡界有楚相孫叔敖所起芍陂稻田。景乃驅率吏民,修起蕪廢,教用犂耕,由是墾闢倍多,境?豐給。遂銘石刻誓,令民知常禁。又『訓令蠶織』,為作法制,皆著于?亭,廬江傳其文辭。卒於官。」 (「後漢書/列傳 凡八十卷/卷七十六 循吏列傳第六十六/王景)

 ここでは「廬江太守」となった「王景」という人物が「廬江」の民に対して「養蚕をして絹織物を造るよう」「訓令」したというのですから、彼らに生活の糧を与えたものであり、これは厳しい態度で接する意義ではなく、何も知らない者に対して易しく教える呈の内容と察せられます。
 また『旧唐書』の例も同様の意義が認められます。

「二月戊辰朔…丙子,上觀雜伎樂於麟德殿,歡甚,顧謂給事中丁公著曰:「此聞外間公卿士庶時為歡宴,蓋時和民安,甚慰予心。」公著對曰:「誠有此事。然臣之愚見,風俗如此,亦不足嘉。百司庶務,漸恐勞煩聖慮。」上曰:「何至於是?」對曰:「夫賓宴之禮,務達誠敬,不繼以淫。故詩人美『樂且有儀』,譏其?舞。前代名士,良辰宴聚,或清談賦詩,投壺雅歌,以杯酌獻酬,不至於亂。國家自天寶已後,風俗奢靡,宴席以諠譁?湎為樂。而居重位、秉大權者,優雜倨肆於公吏之間,曾無愧恥。公私相效,漸以成俗,由是物務多廢。獨聖心求理,安得不勞宸慮乎!陛下宜頒『訓令』,禁其過差,則天下幸甚。」時上荒于酒樂,公著因對諷之,頗深嘉納。」(「舊唐書/本紀 凡二十卷/卷十六 本紀第十六/穆宗 李恆/長慶元年)

 ここでは「天寶」年間(玄宗皇帝の治世期間)以降「風俗」が「奢靡」(過度な贅沢)になり「宴席」において「ただ騒がしく」したりまた「音楽」に没頭するなどの様子が目に余るとし、そのような状況を「皇帝」が「訓令」してその行き過ぎを停めることができれば「天下」にとって幸いであると「諫言」したというわけです。
 また以下の例では「隋」の高祖の言葉として、「弘風訓俗,導德齊禮」することで「四海」つまり「夷蛮の地」を「五戎」つまり「武器」に拠らず「修めた」としています。

「閏月…己丑,詔曰:「禮之為用,時義大矣。?琮蒼璧,降天地之神,粢盛牲食,展宗廟之敬,正父子君臣之序,明婚姻喪紀之節。故道德仁義,非禮不成,安上治人,莫善於禮。自區宇亂離,緜?年代,王道衰而變風作,微言?而大義乖,與代推移,其弊日甚。至於四時郊祀之節文,五服麻葛之隆殺,是非異?,?駁殊塗,致使聖教凋訛,輕重無準。朕祗承天命,撫臨生人,當洗滌之時,屬干戈之代。克定禍亂,先運武功,刪正彝典,日不暇給。『今四海乂安,五戎勿用,理宜弘風訓俗,導德齊禮,綴往聖之舊章,興先王之茂則。』…」(「隋書/帝紀 凡五卷/卷二 帝紀第二/高祖 楊堅 下/仁壽二年)

 この例では「俗」を「訓」したとするわけであり、そこでは一般論として「綴往聖之舊章,興先王之茂則。」というようなことが行われたとされますが、当然各国ごとに個別の事情があったわけであり、対応もまた個々の国で異なったものとなったでしょう。「倭国」の場合は「兄弟統治」と思しきものが「遣隋使」から語られたことで、「統治」の方法と体制という重要な部分について「前近代的」と判断されたものと思われ、そのため派遣された「隋使」の役割として「国交」を始めた段階における通常の儀礼行為を行うことに加え、「統治」に関して「旧」を改め「新」を伝授するという具体的な方策を示すことであったと思われます。
 ここでは「倭国王」は「天」に自らを擬していたわけですが、それはそれ以前の倭国体制と信仰や思想に関係があると思われ、「非仏教的」雰囲気が「倭国内」にあったことの反映でありまた結果であると思われます。確かに「倭国王」は「跏趺座」していたとされこれは「瞑想」に入るために「修行僧」などのとるべき姿勢であったと思われますから、「倭国王」自身は「仏教的」な雰囲気の中にいたことは確かですが、「統治」の体制として「天」と「日」の関係など「倭国」の独自性があらわれていたものです。それは「高祖」の「常識」としての「統治体制」とはかけ離れたものであったものであり、そのためこれを「訓令」によって「改めさせる」こととなったものと思われるわけですが、それは「統治」における「倭国」独自の宗教的部分を消し去る点に主眼があったものと推量します。
 そもそも「改めさせる」というものと「止めさせる」というものとは異なる意味を持つものですから、単に「倭国王」の旧来の「統治形態」を止めさせただけではなく「新しい方法」を指示・伝授したと考えるのは相当です。
 「高祖」は自分自身がそうであったように「政治の根本に仏教を据える」こと(仏教治国策)が必要と考えたものと思われ、そのために「最新の仏教知識」を東夷の国である「倭国」に伝えようとしたものではなかったでしょうか。そのため派遣された「隋使」(これは「裴世清」等と思われる)は「倭国王」に対して「訓令書」を読み上げることとなったものと思われますが、その内容は「倭国」の伝統に依拠したような体制は速やかに停止・廃棄し新体制に移行すべしという「隋」の「高祖」の方針が伝えられたものと思われ、その新体制というのが仏教を「国教」とするというものであったと思われるわけです。
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「大興王」と「隋」の高祖

2024年12月22日 | 古代史
 ここに出てくる「大興」という用語については、この時代「隋」に関してのみ使用されているものです。

「大隋?者。我皇帝受命四天護持三寶。承符五運宅此九州。故誕育之初神光耀室。君臨已後靈應競臻。所以天兆龜文水浮五色。地開泉醴山響萬年。…謀新去故如農望秋。龍首之山川原秀麗。卉物滋阜宜建都邑。定鼎之基永固。無窮之業在茲。因即城曰『大興城』。殿曰 『大興殿』。門曰 『大興門』。縣曰 『大興縣』。園曰 『大興園』。寺曰 『大興善寺』。三寶慈化自是『大興』。萬國仁風?斯重闡。伽藍欝?兼綺錯於城隍。幡蓋騰飛更莊嚴於國界。法堂佛殿既等天宮。震旦神州還同淨土。…」(『大正新脩大藏經/第四十九卷 史傳部一/二○三四 歴代三寶紀十五卷/卷十二』)

 ここで見るように「城」「殿」「門」「県」「園」「寺院」などあらゆるものに「大興」という名がつけられたとされます。つまり、「大興」という語は「隋」(特に「高祖」)に関する専門用語ともいえるのです。
 たとえば「北周」の時代、まだ「高祖」(楊堅)が「北周」の皇帝配下の武将であった際に「大興」郡に「封じられた」とされています。

「…年十四,京兆尹薛善辟為功曹。十五,以太祖勳授散騎常侍、車騎大將軍、儀同三司,封成紀縣公。十六,遷驃騎大將軍,加開府。周太祖見而嘆曰:「此兒風骨,不似代間人!」明帝即位,授右小宮伯,進封『大興郡公』。…」(『隋書/帝紀第一/高祖 楊堅』より)

 また『隋書』の別の部分にも同様のことが書かれています。

「京兆郡開皇三年,置雍州。…大業三年,改州為郡,故名焉。置尹。統縣二十二,?三十萬八千四百九十九。大興 開皇三年置。後周于舊郡置縣曰萬年,《…高祖龍潛,『封號大興』,故至是改焉。》」(『隋書/志第二十四/地理上/雍州/京兆郡』より)

 ここでは「京兆郡」の下部組織としての「県」の設置の経緯などが述べられていますが、「大興」は筆頭に挙げられ、その記述に対する「注」として、「高祖」(文帝)が「北周」の時代、「龍潛」つまりまだ世に埋もれているときに「萬年」郡に封じられ、その地を「大興」と「号した」とされていますから、その時点で「大興郡公」となったわけですが、これは「大興王」という呼称の「原型」ともいえるものではないでしょうか。また、このことが後年「受禅」の後「大興」という「県」を設ける理由となったと見られ、彼はこの「大興」という語と地域について特別な感情を持っていたものと思われます。それは「楊広」(後の「煬帝」)を皇太子にする際の「文帝」の「詔」にも現れています。

「…(開皇)八年冬,大舉伐陳,以上為行軍元帥。及陳平,執陳湘州刺史施文慶、散騎常侍沈客卿、市令陽慧朗、刑法監徐析。尚書都令史?慧,以其邪佞,有害於民,斬之右闕下,以謝三?。於是封府庫,資財無所取,天下稱賢。進位太尉,賜輅車、乘馬,袞冕之服,玄珪、白璧各一。復拜并州總管。俄而江南高智慧等相聚作亂,徙上為揚州總管,鎮江都,??一朝。高祖之祠太山也,領武候大將軍。明年,歸藩。後數載,突厥寇邊,復為行軍元帥,出靈武,無虜而還。及太子勇廢,立上為皇太子。是月,當受冊。高祖曰:「吾以『大興公成帝業』。」令上出舍 大興縣。…」(『隋書/帝紀第三/煬帝 楊廣 上』より)

 ここでは「大興」の地において「帝業」を開始したという意味のことが書かれており、「皇帝」となった現在に至る中でこの「大興県」という場所が彼にとって特別な場所であったことが推察されます。
 また「北宋」の「志磐」が表した『仏祖統紀』という書物の中でも「文帝」については以下のように「大興」を城とした王とされています。

「…西天竺沙門闍提斯那來上言。天竺獲石碑■説。東方震旦國名大隋。城名大興。王名堅意。建立三寶。…」(『仏祖統紀』(大正新脩大蔵経)より)

 この「王」の名として書かれている「堅」とは「楊堅」つまり「隋」の高祖である「文帝」を意味しますから、彼が「大興城」に居する「王」として(「天竺」から見て)「大興王」と呼称されていたとして不自然ではないこととなります。
 また、同じ『元興寺伽藍縁起』には完成までに要した「黄金」の量として「金七百五十九両」とも書かれています。その一部がこの「高麗大興王」からの「三百二十両」であったとすると、残り(四百三十九両)はどの地域からの助成ないし貢上であったものが不明とならざるを得ません。
 この当時国内からは「金」が産生されていないと考えられますから、必然的に「高麗」以外の「百済」「新羅」「加羅」からのものと考えざるを得ませんが、「新羅」「百済」からはそれほど多くの金が算出していたという記録は見られません。
 『隋書東夷伝』の「冠」や「衣服」などの装飾に関する記事を見ても、「高麗」には「金銀」とあるものの、「百済」には「銀」に関するものはあっても「金」はなく、「新羅」に至っては「金」も「銀」も全く触れられていません。(「加羅」は「伝」自体が立てられていません)
 しかし、七世紀に入ってからの「倭国」と「新羅」との交渉記事には多く「金」(銀も)の存在が書かれており、そのことからこの「六世紀末」から「七世紀初め」という時代に「新羅」ではすでに「金」は産出されていたという可能性も考えられますが、この「三百二十両」を「高麗」からと考えるとそれより多い「四百両以上」の金を「新羅」「百済」「加羅」などから調達しなければならなくなりますから、そのようなことが可能であったかはかなり疑問と思われることとなるでしょう。
 しかしこの「三百二十両」が「隋」からのものと見ることができれば、残りを「高麗」をはじめとする半島諸国からのものと考えることにはそれほど無理はないのではないでしょうか。
 以上のことから、実際にはここに「大興王」とあるのは「隋」の「高祖」を意味する「暗号」あるいは「異名」のようなものではなかったと思われます。
 これが「高祖」であるとすると、「重興仏教」と偉業を讃えられる彼ですから、夷蛮の国が「仏像」を作るとしたなら、それに「助成」するというのはあり得ることと思えますし、その「黄金三百二十両」という量も「隋皇帝」ならそれほど苦にもならないものでしょう。(軍功を挙げた将軍などにたびたび多量の黄金を下賜している記録があります)
 そう考えると、「大興王」とは「隋」の「高祖」を指すものであり、「高麗」からという書き方は「隋」からと読み替える必要があると思われますが、その場合ここでは「隋」という国名が出されていないこととなります。それについては『書紀』ではそれ以外の記事においても「唐」「大唐」というように「隋代」でありながら、一切「隋」という国名を出していないことと関係していると言えるでしょう。つまり「隋」から「助成」を受けて「丈六仏」を完成させたということを(特に「唐に対して」)隠蔽しようとしていたのではないかと推察されるわけです。
 この時「隋」の高祖(文帝)が「黄金」を助成したと推定されるわけですが、それと関連していると考えられるのが「開皇二十年」記事の中にある「兄弟統治」とおぼしき表現に対して、これを「無義理」とし「訓令」によってこれを改めさせた、という記事です。
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「高麗國大興王」とは誰か

2024年12月22日 | 古代史
これは以前投稿したものですが、改めてここに再度投稿し、問題を提起したいと思います。

 『推古紀』と「元興寺縁起」の双方に「高麗」の「大興王」という人物が出てきます。それによれば彼はこの「仏像」の「黄金三百両」ないし「三百二十両」を「助成」したとされています。

(再掲)
「(推古)十三年(六〇五年)夏四月辛酉朔。天皇詔皇太子。大臣及諸王。諸臣。共同發誓願。以始造銅繍丈六佛像各一躯。乃命鞍作鳥爲造佛之工。是時。『高麗國大興王』聞日本國天皇造佛像。貢上黄金三百兩。」


「…十三年歳次乙丑四月八日戊辰 以銅二萬三千斤 金七百五十九兩 敬造尺迦丈六像 銅繍二?并挾侍 『高麗大興王』方睦大倭 尊重三寳 遙以隨喜 黄金三百廿兩助成大福 同心結縁 願以茲福力 登遐諸皇遍及含識 有信心不絶 面奉諸佛 共登菩提之岸 速成正覺 歳次戊辰大隨國使主鴻艫寺掌客裴世清 使副尚書祠部主事遍光高等來奉之 明年己巳四月八日甲辰 畢竟坐於元興寺…」(『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』)

 この「高麗國大興王」というのが誰を指すのかは、この年次から考えると「櫻陽王」以外いないとされますが、彼にはそのような名があったとはどこにも書かれていません。『三国史記』『隋書』その他の史料を見ても「元」という「字(あざな)」以外は何も書かれていません。これについては「岩波」の「大系」の注でも「櫻陽王の生時の呼名と思われる」とされるものの、その根拠は特に示されず、ただ「元興寺丈六銘にもある」とだけ書かれています。
 そもそも「高麗王」について「大興」というような呼称が付加されている例は他にありません。
 「高麗」の「王」について『書紀』では以下の例が確認できます。

(応神紀)「廿八年秋九月。『高麗王』遣使朝貢。因以上表。其表曰。『高麗王』教日本國也。時太子菟道稚郎子讀其表。怒之責高麗之使。以表状無禮。則破其表。」

(応神紀)「卅七年春二月戊午朔。遣阿知使主。都加使主於呉。令求縫工女。爰阿知使主等。渡高麗國欲逹于呉。則至高麗。更不知道路。乞知道者於高麗。『高麗王』乃副久禮波。久禮志二人爲導者。由是得通呉。呉王於是與工女兄媛。弟媛。呉織。穴織。四婦女。」

(雄略紀)「八年春二月。遣身狹村主青。桧隈民使博徳使於呉國。…由是『高麗王』遣精兵一百人。守新羅。有頃高麗軍士一人取假歸國。…遣使馳告國人曰。人殺家内所養鷄之雄者。國人知意。盡殺國内所有高麗人。惟有遣高麗一人。乘間得脱逃入其國。皆具爲説之。『高麗王』即發軍兵。屯聚筑足流城。或本云。都久斯岐城。遂歌■興樂。於是。新羅王夜聞高麗軍四面歌■。知賊盡入新羅地。乃使人於任那王曰。『高麗王』征伐我國。…。」

(雄略紀)「廿年冬。『高麗王』大發軍兵。伐盡百濟。爰有少許遺衆。聚居倉下。兵粮既盡。憂泣茲深。於是高麗諸將言於王曰。百濟心許非常。臣毎見之。不覺自失。恐更蔓生。請遂除之。王曰。不可矣。寡人聞。百濟國者。爲日本國之官家。所由來遠久矣。又其王入仕天皇。四隣之所共識也。遂止之。…。」

(欽明紀)「(五五三年)十四年…冬十月庚寅朔己西。百濟王子餘昌明王子。威徳王也。悉發國中兵。向高麗國。築百合野塞眠食軍士。是夕觀覽。鉅野墳腴。平原濔■。人跡罕見。犬聲蔑聞。俄而脩忽之際。聞鼓吹之聲。餘昌乃大驚打鼓相應。通夜固守。凌晨起見。曠野之中覆如青山。旌旗充滿。會明有着頚鎧者一騎挿鐃者鐃字未詳。二騎。珥豹尾者二騎并五騎。連轡到來問曰。小兒等言。於吾野中客人有在。何得不迎禮也。今欲早知。與吾可以禮問答者姓名年位。餘昌對曰。姓是同姓。位是杆率。年廿九矣。百濟反問。亦如前法而對答焉。遂乃立標而合戰。於是。百濟以鉾。刺堕高麗勇士於馬斬首。仍刺擧頭於鉾末。還入示衆。高麗軍將憤怒益甚。是時百濟歡叫之聲可裂天地。復其偏將打鼓疾闘。追却『高麗王』於東聖山之上。」

(欽明紀)「(五六二年)廿三年八月。天皇遣大將軍大伴連狹手彦。領兵數萬伐于高麗。狹手彦乃用百濟計。打破高麗。其王踰墻而逃。狹手彦遂乘勝以入宮。盡得珍寶■賂。七織帳。鐵屋還來。舊本云。鐵屋在高麗西高樓上。織帳張於『高麗王』内寢。以七織帳奉獻於天皇。以甲二領。金餝刀二口。銅鏤鍾三口。五色幡二竿。美女媛媛名也。并其從女吾田子。送於蘇我稻目宿禰大臣。於是。大臣遂納二女以爲妻居輕曲殿。鐵屋在長安寺。是寺不知在何國。一本云。十一年大伴狹手彦連共百濟國駈却『高麗王陽香』於比津留都。」

(推古紀)「(六一〇年)十八年春三月。『高麗王』貢上僧曇徴。法定。曇徴知五經。且能作彩色及紙墨。并造碾磑。盖造碾磑始于是時歟。」

(推古紀)「(六二五年)卅三年春正月壬申朔戊寅。『高麗王』貢僧惠潅。仍任僧正。」

(天武紀)「(六八二年)十一年六月壬戌朔。『高麗王』遣下部助有卦婁毛切。大古昴加。貢方物。則新羅遣大那末金釋起。送高麗使人於筑紫。」

 これらの例を見ると「黄金」を助成したという「高麗大興王」という表現は『書紀』の中ではかなり特異なものであることがわかります。
 上の諸例の中では「欽明紀」の「高麗王陽香」という呼称が目に付きますが、これは「陽原王陽崗」と同一人物と解されるものであり、その表現法は「王」の呼称(称号)の後に「名前」が入っている形となっており、「高麗大興王」という表記とは明らかに異なるものです。この「大興王」は「名前」ではなく明らかに「称号」であることを考慮すると、該当すると思われる「高麗王」が「嬰櫻王」という称号をすでに持っていることと矛盾するわけであり、また他に同様の形式で称号を付加された例がないことからもこの「大興王」という呼称とその人物については甚だ不審といえるものです。
 また『三国史記』(高句麗本紀)を見ても同様であり、「嬰陽王」に「大興王」というような「異称」「別称」は確認できません。わずかに「大元」という「諱」が異称として書かれていますが、これはあくまで「諱」であり、公的な場所で使用されるとは考えられません。

「嬰陽王 一云平陽 諱元 一云『大元』 平原王長子也三國史記」(『三国史記』卷第二十高句麗本紀第八 嬰陽王)

 以下歴代の王の「別称」(あるいは「諱」)と思われるものを書き出しますが、いずれにも「大興」というような名称は確認できません。

「文咨明王 一云明治好王 諱羅雲 長壽王之孫」(三國史記 卷第十九 高句麗本紀第七 文咨明王)

「安臧王 諱興安 文咨明王之長子」(同 安臧)

「安原王 諱寶延 安臧王之弟也」(同 安原)

「陽原王 或云陽崗上好王 諱平成 安原王長子」(同 陽原王)

「平原王 或云平崗上好王 諱陽成 隋唐書作湯 陽原王長子」(同 平原王)

  ほぼ同時代あるいはそれに先行する時代の王について調べた結果以上のように「大興」というような別称を持っている王は存在していないのです。ではこの「大興王」とは一体誰のことでしょうか。
 また「高麗王」がこのように「黄金」を寄進する理由も不明であると思われます。
 この年次の少し前に「櫻陽王」(元)は「隋」の「高祖」(文帝)から「叱責」を受けています。それは隋」が「陳」を征服した時点で次に矛先が回るのは「自分たち」であるという恐怖から、「国境」を封鎖し、武力を蓄える戦術をとったからです。これを「文帝」に咎められたわけですが、一般にはこの「元興寺」に対する援助は「倭国」に対して「連係」して「隋」に対抗する意味であり、また「隋」と「倭国」の接近を阻止しようとするものであったようにも理解されているようです。しかし、そのような「軍事」的な目的であれば、「麗済同盟」のようなもっと純粋な軍事的結合関係を構築すればよいわけであり、仏教を介在とした関係の構築というのは、「隋」の圧力に対抗するという目的のためにはかなり迂遠な方法であると思われます。
 そもそも仏教は「隋」の国教のようなものですから、仏教を介して「倭国」と接近するというのは「隋」と倭国」に「割り込む」方法論としては成算が見いだしにくいものではないでしょうか。(たとえば仏教に対抗して、「道教」的世界観を共有する様な方法をアプローチする方がまだしも効果的と思われます)
 またこの時点付近の「高麗王」がそれほど仏教に熱心であったという記録もありません。「高麗」から僧が派遣されているのが事実としても、それと「黄金三百二十両」とはバランスしないものではないでしょうか。
 また、この当時「高麗」と「倭国」の関係がそれほど強固なものであったとも考えにくいと思われます。
 『隋書』の「開皇二十年」記事には「百済」と「新羅」については「恒に往来」とされているものの、「高麗」との間については何も触れられていません。これは「倭国」からの使者に対して「皇帝」から下問があり、それへの返答をまとめたものと思われますから、「倭国」と関係の深い国として「高麗」が入っていないのは「隋」による「推理」や「憶測」ではなく、事実であったと考えられますから、そのような中で「黄金」が大量に「助成」されるというのは非常に考えにくいものです。
 「半島諸国」の中でこの当時「黄金」を算出していたのは「高麗」だけであったらしいことは確かですから、この時の「黄金」が「高麗」の産という可能性もあることは一概に否定できませんが、「高麗王」が「黄金」を「倭国」に助成する「必然性」が理解しにくいことは事実と思われます。
 そもそも「高麗」は「北朝」と関係が近しいわけですから(地理的な部分はもちろん大きいと思われますが)仏教的な部分でも「倭国」より先進的であったとして不思議はないものの、この時の「高麗王」の行為は「見返り」ともいうべきものが見られないように思えます。つまりこの時「高麗王」が「黄金」(他に「僧」なども)を「助成」したという行為は、ほとんど「下賜」に近いのではないかと思われるのです。しかしそれほど「倭国」と「高麗」の関係が一方的なものであったとは考えにくいものであり、まして国交があったかも不明な関係の両国においてこのような行為があり得るのかというのは大変疑わしいと思われます。
 また、「大興」という意義が「大いに興す」という事ならば、例えば「広開土王」のように「国土を広げた王」というような実績がこの「嬰陽王」の時代にあったかというとそれも疑問です。彼の時代に領土が広がったとか、大きく繁栄したというようなことも史料による限り何も確認できません。
 また「高句麗」の地に「大興山」(山地)がある(あった)ことは事実ですが、そのように国内の地名などをその「称号」としている王が他に見あたらないことや、『三国史記』には「大興山」についての記事が全く見られないという事実からも、この時の「櫻陽王」と「大興山」との関連も全く不明であると思われ、「大興王」が「大興」という山の名前と関係があるとはいえないこととなるでしょう。
 つまり、これらのことは「大興王」というのが誰を指すのか、それは本当に「高麗王」なのか、強く疑問の発生するところであると思われます。
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「倭国」の「軍楽隊」と「裴世清」

2024年12月22日 | 古代史
「裴世清」の来倭記事を『書紀』に見ると以下のような流れとなっています。

「(六〇八年)十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。下客十二人。從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成。召大唐客裴世清等。爲唐客更造新舘於難波高麗舘之上。
六月壬寅朔丙辰。客等泊于難波津。是日。以餝船卅艘迎客等于江口。安置新舘。於是。以中臣宮地連摩呂。大河内直糠手船史王平爲掌客。爰妹子臣奏之曰。臣參還之時。唐帝以書授臣。然經過百濟國之日。百濟人探以掠取。是以不得上。於是羣臣議之曰。夫使人雖死之不失旨。是使矣。何怠之失大國之書哉。則坐流刑。時天皇勅之曰。妹子雖有失書之罪。輙不可罪。其大國客等聞之亦不良。乃赦之不坐也。
秋八月辛丑朔癸卯。唐客入京。是日。遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢。額田部連比羅夫以告禮辭焉。」

 これを見ると、餝船(飾り船)三〇艘とあり、また餝騎(飾り馬)七十五疋とありますが、その主体が「軍」であったのは疑えないでしょう。いずれも「倭国王」直属の「兵士」であり、「舎人」のうち「警衛」に特化した者達ではなかったかと思われます。額田部連比羅夫はその長(率)でしょうか。
 これを『隋書』(俀国伝)に見ると以下のように書かれています。

「倭王遣小德阿輩臺,從數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎。後十日,又遣大禮哥多毗,從二百餘騎郊勞。」

 この両者が同一の出来事を指すものとは思われないのはその内容を見ると明らかですが(すでに述べましたが)、それは別としてこの時の歓迎の人々を見ると、「設儀仗」とされていることからも「兵士」を含んでいることは明らかであり、それは「鼓吹を鳴らして」という表現にも表れています。
 『隋書俀国伝』には「倭国」(俀国)の楽器として「鼓」や「吹」があるとは書かれていません。そこには「樂有五弦、琴、笛」としか書かれておらず、これでは「鼓吹を鳴らして」歓迎はできないはずです。これについてもすでに検討しましたがこの『隋書俀国伝』に書かれた記事が第一回目の来訪記事ではないという点にあるでしょう。それ以前に「隋使」(裴世清)は来ており(その時点での官位が「鴻臚寺掌客」であったもの)、その時点において「鼓吹」を持参し「隋使」との交渉時にそれを使用して歓迎するという「隋」の儀礼を教授したものと推察されます。そしてその「鼓吹」を使用しての歓迎は「隋」において「軍」の行うべきこととされ、いわば「軍楽隊」が存在していたことと推察されるわけですが、同様に「倭国」においても「軍」が「鼓吹を鳴らして」歓迎する役割を与えられていたと見られるものです。(※1)その意味でもこの時の「阿輩臺」が率いていた「数百人」の一部は確実に「軍関係者」であり、「兵衛」であったろうと推察されるわけです。ここでいう数百人は「六-七〇〇人」ではなかったかと思われます。それは「釆女」と同様「伊尼翼」の子弟から徴発された人達であり、人数も同様と見られるからです。
 またここで「小徳」という官位の人間が来迎の指揮を執っていますが、倭国には「小徳」を含む「内官」の制度があるとされており、「内官」が「隋」など中国で「王権内部」(というより「京域」ともいうべき地域)における人事階級制を示すものですから、彼も「京師」に所在する立場の人間であったことが推定できます。また、そのことから「京師」がこの段階で存在している事は確実ですが(それはこの記事で「入京」とされていることでも分かりますが)、「阿輩臺」も「京師」に所在する役職であり、ここで書かれた「数百名」が兵士が主体であるなら、それらを率いている彼(阿輩臺)は文字通りその「率」と思われます。
 また「臺」は「楼台・天文台」等の名称と同様の「政府の役所」という意味と思われ、また「倭国王」が「『阿輩』[奚+隹]彌」と自称していることから「阿輩」が「倭国王」に関わるものであることが推定でき、その意味で「阿輩臺」は個人名と言うより「職掌」であって「倭国王」に直結する組織(兵衛)であった可能性があるでしょう。つまり彼は「兵衛率」であったと見られるわけです。
 ところで少なくともこの時点ですでに「京師」を含む「畿内」とその他の地域(畿外)の別なく一律の「制度」として「階級制」があったと見るべきでしょう。(※2)なぜならそれ以前に「倭国」という政府組織そのものは(それほど中央集権的ではなかったにせよ)あったと見られるわけですから、そこに属する者達の「差別化」は指揮命令系統の構築という意味でも絶対に必要だったはずだからです。それを示すのが「平安時代」に「大江匡房」が著したという『江談抄』の中に「物部守屋と聖徳太子合戦のこと」という段があり、その中で「中臣國子」という人物について書かれた部分に以下のことが書かれていることです。

「…太子勝於被戦畢于時以『大錦上小徳官前事奏官兼祭主中臣国子大連公』奉勅使今祈申於天照坐伊勢皇太神宮始リト云フ。」(『江談抄』巻三より)

 また、同様の内容の記録は『皇太神宮諸雑事記』(『続群書類従』所収)などにもあり、これをみると「対物部守屋」の戦い時点以前に「大錦上」という肩書きと「小徳」という階級とが併存している様子が窺えます。このうち「小徳」については『隋書俀国伝』では「内官」に十二等あるとされている中にあり、その「内官」とはすでに見たように「隋」「唐」においては「在京」の官人を指すものでした。そう考えると「遣隋使」が「内官」という用語を使用した裏にはこれらの「隋」における体制が念頭にあったと見られ、これらの十二階の冠位が「隋」においてもそうであったように「京内」の「諸省」の官人に対するものであることが推定できるでしょう。では「京」の外部の人たちには「階級制」はなかったのかと云うこととなるとそれは考えられません。「内官」という表現自体が「外官」の存在を前提にしていると思われ、「外官」に対しても何らかの階級制度があったものと見るべきこととなるでしょう。つまり「大錦上」のような「官位」が本来「内官」「外官」の別に関わらず付与されていたと推定されるものです。
 (ちなみに「内官」という階級的制度は『隋書』の夷蛮伝を渉猟しても当時東夷では「倭国」だけにあったものであり、その意味では「倭国」の統治体制がかなり中央集権化していたことが示唆されます。)

(※1)元京都府立大学学長の渡辺信一郎氏はその著書『中国古代の楽制と国家 日本雅楽の源流』(文理閣 二〇一三年)の中で同趣旨のことを主張されており、それでは「遣隋使」自体が早期に送られていたこととなるとして波紋を呼んでいるようです。(ただしその主張は六〇〇年の遣隋使の実在を主張するもののようですが)
(※2)同様の議論はすでに「大越邦夫氏」によって行われていますが(大越邦生「多元的「冠位十二階」考」(『新・古代学』古田武彦とともに 第四集一九九九年新泉社))、『隋書』に書かれた「内官」の制度と、「冠」をかぶることを制度として定めたと言う事は一見同じことを指しているようですが、その『隋書』の中の現れ方は全く異なる文脈において現れているものであり、そのことはこの二つは全く別のことではないかと思われることを示します。少なくとも『隋書』の中では「隋に至って」から「内官」の制度が始められたというようなことは書かれていないことは重要と考えます。
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