古田史学の会の古賀氏のブログに、「善光寺縁起」に「天下熱病」という文言があり、これと近年「発見」された「王代記」に言う「天下熱病」が同じ歴史事実を示す可能性について「正木裕」さんの「元岡遺跡」からの「四寅剣」についての見解を重ねて考察していることが書かれています。(http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta.html#wa848)これを見て、自分が以前書いたものを改めて思い出しました。
私は以前(二〇一四年二月)に「善光寺」への「聖徳太子」からの願文という存在について、それがなぜ「善光寺」へ向けて出されなければならなかったのかについて考察し、「善光寺」の由来に強く関連しているのが「請観音経」という経文であり、そこには「ヴァイシャーリー治病説話」があることが重要な関係を持っていることを指摘しました。(http://www2.ocn.ne.jp/~jamesmac/body228.html)
「ヴァイシャーリー治病説話」とは「毘舎離(ヴァイシャーリー)国」を襲った「悪病」に罹った「月蓋長者」の「娘」の病気が「阿弥陀如来と観世音菩薩、勢至菩薩」に対する信仰で治癒するという「回復譚」ですが、そのことから「善光寺」には「治病」の効能があると当時考えられていたと見たわけです。
しかしその時点では「請観音経」自体の読み込みが浅く、「金光」年号との関係や「善光寺縁起」に言う「天下熱病」に対する具体的なイメージを持てませんでしたが、今回「古賀氏」の記事を見て改めて考え直すきっかけをいただきました。その結果、この「天下熱病」が「天然痘」の流行を指すものであり、それは「ヴァイシャーリー治病説話」の示す内容とほぼ等しいものであったと見られることに気がつきました。
「ヴァイシャーリー治病説話」では「国中」に「大悪病」がはやり、目が赤くなる等々の症状が羅列されていますが(以下の記事)、これらは「天然痘」の示す症状と考えていいのではないでしょうか。
「時毘舍離國一切人民遇大惡病。一者眼赤如血。二者兩耳出膿。三者鼻中流血。四者舌噤無聲。五者所食之物化爲麁澁。六識閉塞猶如醉人。」
さらに『信濃国善光寺生身如来御事』には以下のような文章があり、そこでは「毘舎離(ヴァイシャーリー)国」では「天下熱病」があり、「人民滅ぶ」とされています。
「ソノ時、国中ニ五種ノ病難ヲコリ、人民ミナホロフ。然間月蓋長者ノウチニイリテ、三千七百人ノ下人ヲヤマス。アマサヘ、七歳ナル如是御前ニ、カノ熱病ウツリヌ。長者大ニ歎テ、十五ニナラハ大王ノ后ニマイラスヘキ。イカニシテ、コノ病ヲナヲシテタスケムト思テ、五天竺ヨリ耆婆ヲ請シテ、薬ヲモテ女ノ疫病ヲイカサムトセラルヽニ、耆婆カ薬モ、術方ソノヤフ叶ナハス、定業ナレハ、チカラヲヨハス。長者ワカ心ニカナハス、仏ヲタノミタテマツリ、五百人ノ長者トモニ、御モトエマイル。仏所ニ往詣シ頭面ニ作シ、五躰ヲ地ニナケタリ。」
「長者申云、釈尊大慈悲ヲタレテ、長者カ申スコトアキラカニキコシメシ候。毘舎離国ニ五種病広発シテ、『天下熱病』人民ホロフ。」
このことから「毘舎離(ヴァイシャーリー)国」でにおける状況とよく似た状況が当時の「倭国」において発生していたものとみられることとなります。つまりこの「請観音経」は特に「天然痘」の流行を念頭に置いた「経文」であり、この「経典」に帰依することによって「天然痘」が治癒するという信仰を得ていたものであったと思われます。
この時の「天下熱病」というものが「天然痘」の流行を意味するものと考えるのは、同様の表現が『書紀』にあることから(ただし「敏達紀」)の類推で判明します。
「敏達紀」「(五八五年)十四年…辛亥。蘇我大臣患疾。問於卜者。卜者對言。祟於父時所祭佛神之心也。大臣即遣子弟奏其占状。詔曰。宜依卜者之言。祭祠父神。大臣奉詔禮拜石像。乞延壽命。是時國行疫疾。民死者衆。
三月丁巳朔。…天皇思建任那。差坂田耳子王爲使。屬此之時。天皇與大連卒患於瘡。故不果遣。詔橘豐日皇子曰。不可違背考天皇勅。可勤修乎任那之政也。又發瘡死者充盈於國。其患瘡者言。身如被燒被打被摧。啼泣而死。老少竊相謂曰。是燒佛像之罪矣。」
ここには「又發瘡死者充盈於國。其患瘡者言。身如被燒被打被摧。」とあり、「瘡」の患者は「身を焼かれる如く」と表現されていますから、高熱を発するものと思われますが、実際に「天然痘」に冒された場合40℃という高熱が出るとされますから記述には客観性があると思われます。
この「天然痘」は当時すでに「朝鮮半島」で流行していたと推定されており、そこからもたらされたものと見られます。
当時は特に「百済」とは人を含めた文物の往来が頻繁であったことが推定され、そのような中で「病原菌」がもたらされたものと考えられます。それが「仏教」伝来と時期として重なっているのは偶然ではなく、半島においてもこの「熱病」が大流行し、それに対し「薬」なども全く効かないという状況の中で「仏教」にその救済を求めたものであり、それが倭国に渡来して「善光寺」に「生身如来」としておさまることとなった理由ともされるものです。
またこの「請観音経」の「ヴァイシャーリー治病説話」では「月蓋長者」の「一心称名」に応じて「阿弥陀如来観音勢至」という三尊が「毘舎離(ヴァイシャーリー)国」に現出しその光で国中を照らし、金色に染まったと書かれていることにも気がつきました。
「二中歴」などでは「金光元年」の干支は「庚寅」とされますが、これは「五七〇年」と考えられています。この「金光」という年号は『請観音経』の中にその由来を示す記述があります。
『請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪經』(No.1043 難提譯)in Vol. 20 「時世尊告長者言。去此不遠正12主西方。有佛世尊名無量壽。彼有菩薩名觀世音及大勢至。恒以大悲憐愍一切救濟苦厄。汝今應當五體投地向彼作禮。燒香散華繋念數息。令心不散經十念頃。爲衆生故當請彼佛及二菩薩。説是語時於佛光中。得見西方無量壽佛并二菩薩。如來神力佛及菩薩倶到此國。往毘舍離住城門?。佛二菩薩與諸大衆放大光明。照毘舍離皆作金色。」
つまり「世尊」(釈迦)が「長者」に説いている間に仏光中に無量寿仏及び観音と勢至の二菩薩が西方に見え、「如来」の「神力」により「毘舍離国」に至って「城門」まで来ると、「諸大衆」に「光明」を放ち、その光により「毘舍離国」は全て金色に染まったとされています。
また「縁起」の中にもほぼ同内容の文章があります。
「善光寺縁起」「…、于時西方極楽世界阿弥陀如来知食月蓋之所念、応十念声、促六十万億那由他恒河沙由旬相好、示一尺五寸聖容、左御手結刀釼印、右御手作施無畏印、須臾之間現月蓋長者西楼門、『放十二大光照毘舎離城、皆変金色界道』、山河石壁更無所障碍、彼弥陀光明余仏光明所不能及、何況於天魔鬼神。故諸行疫神当此光明如毒箭入カ胸、身心熱悩而方々逃去。…」
ここでも「阿弥陀如来」は「一尺五寸」の「聖容」となり、「強い光」を放ち「毘舎離城」は全て「金色」となったとされています。
これらは「請観音経」の伝来と「金光」という年号の間に深い関係があることを示すものであり、この時点で「百済」から「天然痘」に対する唯一の策としての「請観音経」という経典が伝来したことを示すと思われます。それにちなんで「改元」されたものと考えることができるのではないでしょうか。
そう考えると「厩戸勝鬘」も自分あるいは親しい人が「天然痘」に罹っているらしいことが推察され、その病の治癒を祈願したものと見ることができそうです。だからこそ「信濃」までわざわざ使者を送ることとなったものと推量されるわけです。
私は以前(二〇一四年二月)に「善光寺」への「聖徳太子」からの願文という存在について、それがなぜ「善光寺」へ向けて出されなければならなかったのかについて考察し、「善光寺」の由来に強く関連しているのが「請観音経」という経文であり、そこには「ヴァイシャーリー治病説話」があることが重要な関係を持っていることを指摘しました。(http://www2.ocn.ne.jp/~jamesmac/body228.html)
「ヴァイシャーリー治病説話」とは「毘舎離(ヴァイシャーリー)国」を襲った「悪病」に罹った「月蓋長者」の「娘」の病気が「阿弥陀如来と観世音菩薩、勢至菩薩」に対する信仰で治癒するという「回復譚」ですが、そのことから「善光寺」には「治病」の効能があると当時考えられていたと見たわけです。
しかしその時点では「請観音経」自体の読み込みが浅く、「金光」年号との関係や「善光寺縁起」に言う「天下熱病」に対する具体的なイメージを持てませんでしたが、今回「古賀氏」の記事を見て改めて考え直すきっかけをいただきました。その結果、この「天下熱病」が「天然痘」の流行を指すものであり、それは「ヴァイシャーリー治病説話」の示す内容とほぼ等しいものであったと見られることに気がつきました。
「ヴァイシャーリー治病説話」では「国中」に「大悪病」がはやり、目が赤くなる等々の症状が羅列されていますが(以下の記事)、これらは「天然痘」の示す症状と考えていいのではないでしょうか。
「時毘舍離國一切人民遇大惡病。一者眼赤如血。二者兩耳出膿。三者鼻中流血。四者舌噤無聲。五者所食之物化爲麁澁。六識閉塞猶如醉人。」
さらに『信濃国善光寺生身如来御事』には以下のような文章があり、そこでは「毘舎離(ヴァイシャーリー)国」では「天下熱病」があり、「人民滅ぶ」とされています。
「ソノ時、国中ニ五種ノ病難ヲコリ、人民ミナホロフ。然間月蓋長者ノウチニイリテ、三千七百人ノ下人ヲヤマス。アマサヘ、七歳ナル如是御前ニ、カノ熱病ウツリヌ。長者大ニ歎テ、十五ニナラハ大王ノ后ニマイラスヘキ。イカニシテ、コノ病ヲナヲシテタスケムト思テ、五天竺ヨリ耆婆ヲ請シテ、薬ヲモテ女ノ疫病ヲイカサムトセラルヽニ、耆婆カ薬モ、術方ソノヤフ叶ナハス、定業ナレハ、チカラヲヨハス。長者ワカ心ニカナハス、仏ヲタノミタテマツリ、五百人ノ長者トモニ、御モトエマイル。仏所ニ往詣シ頭面ニ作シ、五躰ヲ地ニナケタリ。」
「長者申云、釈尊大慈悲ヲタレテ、長者カ申スコトアキラカニキコシメシ候。毘舎離国ニ五種病広発シテ、『天下熱病』人民ホロフ。」
このことから「毘舎離(ヴァイシャーリー)国」でにおける状況とよく似た状況が当時の「倭国」において発生していたものとみられることとなります。つまりこの「請観音経」は特に「天然痘」の流行を念頭に置いた「経文」であり、この「経典」に帰依することによって「天然痘」が治癒するという信仰を得ていたものであったと思われます。
この時の「天下熱病」というものが「天然痘」の流行を意味するものと考えるのは、同様の表現が『書紀』にあることから(ただし「敏達紀」)の類推で判明します。
「敏達紀」「(五八五年)十四年…辛亥。蘇我大臣患疾。問於卜者。卜者對言。祟於父時所祭佛神之心也。大臣即遣子弟奏其占状。詔曰。宜依卜者之言。祭祠父神。大臣奉詔禮拜石像。乞延壽命。是時國行疫疾。民死者衆。
三月丁巳朔。…天皇思建任那。差坂田耳子王爲使。屬此之時。天皇與大連卒患於瘡。故不果遣。詔橘豐日皇子曰。不可違背考天皇勅。可勤修乎任那之政也。又發瘡死者充盈於國。其患瘡者言。身如被燒被打被摧。啼泣而死。老少竊相謂曰。是燒佛像之罪矣。」
ここには「又發瘡死者充盈於國。其患瘡者言。身如被燒被打被摧。」とあり、「瘡」の患者は「身を焼かれる如く」と表現されていますから、高熱を発するものと思われますが、実際に「天然痘」に冒された場合40℃という高熱が出るとされますから記述には客観性があると思われます。
この「天然痘」は当時すでに「朝鮮半島」で流行していたと推定されており、そこからもたらされたものと見られます。
当時は特に「百済」とは人を含めた文物の往来が頻繁であったことが推定され、そのような中で「病原菌」がもたらされたものと考えられます。それが「仏教」伝来と時期として重なっているのは偶然ではなく、半島においてもこの「熱病」が大流行し、それに対し「薬」なども全く効かないという状況の中で「仏教」にその救済を求めたものであり、それが倭国に渡来して「善光寺」に「生身如来」としておさまることとなった理由ともされるものです。
またこの「請観音経」の「ヴァイシャーリー治病説話」では「月蓋長者」の「一心称名」に応じて「阿弥陀如来観音勢至」という三尊が「毘舎離(ヴァイシャーリー)国」に現出しその光で国中を照らし、金色に染まったと書かれていることにも気がつきました。
「二中歴」などでは「金光元年」の干支は「庚寅」とされますが、これは「五七〇年」と考えられています。この「金光」という年号は『請観音経』の中にその由来を示す記述があります。
『請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪經』(No.1043 難提譯)in Vol. 20 「時世尊告長者言。去此不遠正12主西方。有佛世尊名無量壽。彼有菩薩名觀世音及大勢至。恒以大悲憐愍一切救濟苦厄。汝今應當五體投地向彼作禮。燒香散華繋念數息。令心不散經十念頃。爲衆生故當請彼佛及二菩薩。説是語時於佛光中。得見西方無量壽佛并二菩薩。如來神力佛及菩薩倶到此國。往毘舍離住城門?。佛二菩薩與諸大衆放大光明。照毘舍離皆作金色。」
つまり「世尊」(釈迦)が「長者」に説いている間に仏光中に無量寿仏及び観音と勢至の二菩薩が西方に見え、「如来」の「神力」により「毘舍離国」に至って「城門」まで来ると、「諸大衆」に「光明」を放ち、その光により「毘舍離国」は全て金色に染まったとされています。
また「縁起」の中にもほぼ同内容の文章があります。
「善光寺縁起」「…、于時西方極楽世界阿弥陀如来知食月蓋之所念、応十念声、促六十万億那由他恒河沙由旬相好、示一尺五寸聖容、左御手結刀釼印、右御手作施無畏印、須臾之間現月蓋長者西楼門、『放十二大光照毘舎離城、皆変金色界道』、山河石壁更無所障碍、彼弥陀光明余仏光明所不能及、何況於天魔鬼神。故諸行疫神当此光明如毒箭入カ胸、身心熱悩而方々逃去。…」
ここでも「阿弥陀如来」は「一尺五寸」の「聖容」となり、「強い光」を放ち「毘舎離城」は全て「金色」となったとされています。
これらは「請観音経」の伝来と「金光」という年号の間に深い関係があることを示すものであり、この時点で「百済」から「天然痘」に対する唯一の策としての「請観音経」という経典が伝来したことを示すと思われます。それにちなんで「改元」されたものと考えることができるのではないでしょうか。
そう考えると「厩戸勝鬘」も自分あるいは親しい人が「天然痘」に罹っているらしいことが推察され、その病の治癒を祈願したものと見ることができそうです。だからこそ「信濃」までわざわざ使者を送ることとなったものと推量されるわけです。