古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「鎮懐石」の重量と大きさから単位系を推測する

2015年03月13日 | 古代史
 いわゆる「魏晋朝短里」は中国の「魏晋朝」だけでなく、古代の日本の国内でも使用されていたと考えられています。
 たとえば「万葉集」の中に「短里」が存在しているという指摘が、「古田氏」の研究(「よみがえる卑弥呼」駸々堂)によってなされています。

(万葉集八一三番、八一四歌の序詞)
「筑前國怡土郡深江村子負原 臨海丘上有二石 大者長一尺二寸六分 圍一尺八寸六分 重十八斤五兩 小者長一尺一寸 圍一尺八寸 重十六斤十兩 並皆堕圓状如鷄子 其美好者不可勝論 所謂径尺璧是也 …」
(左注)「右事傳言那珂伊知郷蓑嶋人建部牛麻呂是也」

 ここに書かれた「序詞」は「左注」では地元の人物とされる「建部牛麻呂」が書いたものとされています。(歌は「山上憶良」の作であるようです。)この中に「短里」と思しき表現が出てきます。
 この「鎮懐石」が祭られていたという「丘」は以前「鎮懐石八幡宮」が鎮座していたという「深江町」の高台を指すと考えられますが、上の「序詞」の表現からもそれは「古代官道」沿いにあったと考えられ、「駅舎」からの距離表示は正確であると思われます。
 ここに出てくる「深江駅家」というのは現在の「糸島市二丈深江」にあったものとされており、また「鎮懐石八幡宮」は同様に「深江町内」にあったと見られるわけですから、それらの距離は、ほんの目と鼻の先と云うこととなり、「二十里ばかり」というのが「長里」で理解できるものではないことは明白です。
 つまり「地元」の人間である「建部牛麻呂」は「短里」を使用していたと見られるわけですが、このように「里」という「測地系」の単位に関して、それが「短里系」であるとすると、同様に「短里系」のシステムの「一環」として理解すべきではないかと考えられるのが、この「序詞」に書かれている「鎮懐石」のサイズと重量です。

 確かに「寸-尺-丈」や「斤-両」などの単位系と「歩-里」とは異なる体系ですが、「里」が「魏晋朝」のものであるとすると、「尺」も同様である可能性があると思われます。
 ここではその大きさとしては二つの石のうち「大きい方」が「径一尺二寸六分」、「囲一尺八寸六分」とされています。また「楕円」という表現や「状(かたち)鶏子の如し」という表現からも、「半長径」が「六寸三分」、「半短径」が「三寸」程度の楕円体にほど近い形状と理解できるでしょう。また「小さい方」については同様に「径一尺一寸」、「囲一尺八寸」とされていますから、「半長径」が「五寸五分」「半短径」が「二寸九分」の楕円体であると推定できるでしょう。もちろん共に理想的な「楕円体」であるはずもありませんが、表現からはかなり「滑らか」な印象を受けますから、「角張ったところ」がないということと考えられ、そうであれば「楕円体」と想定して無理なものではないと言えると思われます。また「楕円型」の形状とするために表面はかなり磨かれているようであり、それが「其美好者不可勝論」や「所謂径尺璧是也」という表現になっていると思われますが、一般に「璧」が「円盤状」とされることを考えると、ここで使用されている「璧」という語は比喩として余り適切ではないように思われ、あくまでもその表面の輝きや美しさに限って語ったものと考えられます。)
 ここに記されている「寸法」から推定される「重量」と、「重量」として記載されているものの比較をすることで、「単位系」としてどのようなものがこの「鎮懐石」に使用されているのかが推定できると思われます。つまり「体積」を算出してそれに比重を掛けることで推定重量が算出されますから、それを実際の重量として書かれているものと比較するわけです。

 「岩石」の比重はその組成や起源によって1.5程度から3をやや超えるぐらいまで幅がありますが、代表的な例として「璧」という形容から、これを「軟玉」と考えて比重を「3」程度にとる場合と、「九州」に多い「阿蘇熔結凝灰岩」のような「堆積岩」の場合の値として標準的な「2」程度とする場合の二つのケースを想定し各々体積と比重から求めた推定重量と重量として表示されている値の推定値とを比べてみることとします。(もっとも「堆積岩」の場合は磨いても「璧」のように輝くほどにはならないと思われ、ここでは「軟玉」である可能性の方が高いとは思われます。)
(ここで楕円体の体積[S]は[S=4/3πabc」(ただしa:長半径、b:短半径1、c:短半径2であらわされ、このばあいb=cです)と表されるものとします。なおa=b=cの場合は球の体積に一致します。)
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