古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

古田武彦氏の訃報に接して

2015年10月16日 | 古代史
古田武彦氏がお亡くなりになられました。謹んで哀悼の意を表します。
「古田史学の会」の古賀代表からメールをいただきました。ついに…という思いです。

このブログはその表題でもわかる通り古田武彦氏の研究に共鳴し、古田武彦氏の提唱した多元史観に立脚して自分の知るところ、思うところを縷々記してきています。(そのつもりです)また私自身「古田史学の会」の現役の会員でもあります。

私のように一介の市井の人間が古代史などという領域に足を踏み込むこととなったのもすべて古田氏の影響によるものであり、その意味で研究上の師でもあり、また人生の師でもあったといえます。
今そのような人物の死の報に接して感慨深いものがあります。

思えば今から40年ほど前、まだ学生の頃に古田氏の著書『「邪馬台国」はなかった』に出会い、感動というよりその論理に「合点」がいったことを覚えています。その後仕事が忙しく御本を読む機会も減っていましたが、その後20年ほど経ってから改めて氏の著書を多数買い揃え熱心に読みふける日が続きました。
 読み進むうちにほかの学者、研究者の見解や研究の過程を知りたくなり、おりしもデジタル時代、インターネット時代に入り、多くの論文等がデジタルで閲覧可能となったため、これを利用して既存の研究者の見解やそれに至る論証の過程を知ることができるようになりました。そうすると、それら既存研究の中に古田氏の考え方の補強となるべきものが多数あることに気が付いたのです。それらは先入観や固定された研究姿勢に拘束され、既存の説の補強に使われていたものですが、それらを取り払ってみると実際には古田氏の考え方のほうをより正確に事実を説明できる性質のものであると考えられるものでした。

 また古田氏は精力的に多方面に研究の材を取り、熱心に私たちにいろいろな学説を提示しつづけていましたが、一個人のパフォーマンスにはやはりおのずと限界があり、束となって研究を行っている既存説があたかも有力な説であるかのような印象を与えることとなっていました。それを見て自分にも古田氏と多元史観へのアシストとして何かできないかと思いがつのり(かなり大胆ですが)、ついに自分でも書き始めたというわけです。そのスタンスとしては古田氏が触れていないこと、古田氏の網から漏れているものを拾い上げるという精神ではじめたものです。
 その方法としては「インターネット」を利用することであり、当初「ホームページ」を立ち上げ、多くのことを書き連ねていましたが、中に自分ながらかなり重要と思われる発見(というよりせいぜい思い付きに近いものですが)があり、この発表の機会を得るために「古田史学の会」の会員となり、論文として投稿するようになったものです。
 インターネットに載せるという意味と論文にして発表するという意味はやってみると全く違うものであり、論理進行やその根拠物(論文など)の提示などを精緻に行う必要があることが、研究を加速させるとともに精度を上げる重要なステップとなりました。
 残念ながらそれらは古田氏の目に留まるものではなかったとみられ、生前に何らかのコメントを頂けることはなりませんでした。
 最新のものとして書いたものには従来の古田氏の説とはやや異なる記述も含まれており、それは「師の説にななずみそ」という「本居宣長」の言葉を座右の銘としていたという古田氏の批判を是非いただきたいと思っていたものですが、はなはだ遺憾ながらそれもかなわぬこととなりました。
 
 思えば当方が迷路に入り行く先に迷った時にふと視線を上げると遠くに古田氏が灯台のように光り輝いているのが目に入り、安心感とともにどちらに行くべきかの判断材料を与えていただいていたものです。
 古田氏は亡くなられましたが、これからもきっとその存在は消えることなく、私たちの行く先を照らし続けることでしょう。
 真の古代史を白日の下にさらけ出し、多くの人の目に明らかなものとするために微力ではありますが、これからも自分のできることを続けていきたいと思います。
 改めて古田氏のご冥福をお祈りいたします。
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