古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「壬申の乱」と「難波小郡」

2017年04月12日 | 古代史

 「壬申の乱」収束時に「大伴吹負」が「(難波)以西の国司」達から「官鑰騨鈴傳印」つまり「税倉」等の鍵や「官道」使用に必要な「鈴」や「印」などを押収していますが、それがわざわざ「大阪」を越えた「難波小郡」で行われたことに意味があるでしょう。

「辛亥。將軍吹負既定倭地。便越大坂往難波。以餘別將軍等各自三道。進至于山前屯河南。即將軍吹負留難波小郡。而仰以西諸國司等。令進官鑰騨鈴傳印。」(天武紀)壬申(六七二年)の条

 ここで彼ら「西国」の国司達が「難波小郡」におり、その彼らが「官鑰騨鈴傳印」を持っていたということは、彼らが何らかの理由で「難波以西」の地から派遣されてきていたものか、あるいは「難波小郡」から西国へ派遣されていたものが帰国した時点のことであったという可能性もあります。ただ多くの「国司達」が「難波小郡」にいたらしいことを考えると、帰国したというより「派遣」されてここに集まっていたと考えるべきではないでしょうか。
 また彼らがこの「壬申の乱」に直接関わっていたということではなさそうなことが読み取れます。ただし「大伴吹負」に素直に「鍵」「鈴」等を渡しているらしいことを考えると、当初から「大海人」の勢力の側としての存在であったと考える方が正しいのかもしれません。

 確かにもともと「難波」には「小郡」というものがあったことが『書紀』(以下の記事)に書かれています。これは言ってみれば「出張所」のような役目を持つ「王権」に直結する「出先機関」であったと思われますが(これはこの当時「近江京」に全ての政府中枢機関があったわけではなく、「近江朝廷」の権能が限定的であったことを示すものといえます)、またそこに「律令」で規定される「官道」使用に関する統制機構の存在やそこで発揮される権能の所在が看取でき、「難波」の西方の諸国の「税」に関するものや「屯倉」に保管されている物品の所有が誰に帰するものかという事情などについて興味あるものです。つまり、この記事からは「難波以西」の諸国は「租」や「調」など国家に納入すべきものの集約場所として「難波小郡」が有ったことが推定出来るわけです。それは上に見るように「王権」の出先期間として存在していたという「小郡」の本来の機能を充分感じさせるものです。そして彼等が上京する際に必要だったものが「税倉」(屯倉)の「鍵」(鑰)であり、「官道」使用に必要な「騨鈴」であったというわけです。
 しかし、当然のこととしてすでに「宮」となっていたはずの「小郡」がこの時点でまだあったというのは「矛盾」としかいえず、甚だ疑わしいといえるでしょう。「難波小郡」は上に見るように「六四七年」以前にしか存在しないのですから、この「壬申の乱」記事そのものが(少なくともその一部は)時代を大きく遡上するものであったこととなるわけです。 

 またこの時は「天智」が亡くなり、「山陵」の造営中でしたから、彼らがの派遣目的として最も考えられるのは「天智」の葬儀への出席と「新倭国王」への祝意を表する「表敬訪問」を兼ねたものではなかったでしょうか。「鍵」唐所有していたのはこれを新王権に献上することで忠誠と服従を誓う儀式様なものがあったことが推定出来ます。しかし、以下に示すように「六四七年」以降「小郡」ではなくなってしまったわけです。

 「六四七年」(常色元 大化三)年 「春正月戊子朔…是歳。『壞小郡而營宮。』天皇處『小郡宮』而定禮法。其制曰。凡有位者。要於寅時。南門之外左右羅列。候日初出。就庭再拜。乃侍于廳。若晩參者。不得入侍。臨到午時聽鍾而罷。其撃鍾吏者垂赤巾於前。其鍾臺者起於中庭。」

 そのような経緯の後突然「倭京」「古京」という呼称と共に「難波小郡」という表記が登場するわけです。「難波小郡」が「宮」となったことは、そこで「官人」達の行動基準として「禮制」が定められていたという記事からも明らかです。それを見ても明らかなように「宮」という存在は「王権」の常時的居所としての存在であり、それまでの「小郡」という「下級官人」達の拠点として、限定された機能しかなかった存在とは隔絶したものとなっていたと推察されるわけです。

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倭京と古京(二)

2017年04月12日 | 古代史

 この「倭京」に対して、同じ「壬申の乱」の記事中に「古京」というものも出てきます。

「壬辰。將軍吹負屯于乃樂山上。時荒田尾直赤麻呂啓將軍曰。古京是本營處也。宜固守。將軍從之。則遣赤麻呂。忌部首子人。令戍古京。於是。赤麻呂等詣古京而解取道路橋板。作楯堅於京邊衢以守之。」

 この「古京」については『日本後紀』の中の「嵯峨天皇」の「詔」の中でも「平城古京」という表現が使用されているように、「新京」である「平安京」と対比して使用されているものであり、「古京」とは「遷都」する前の「京」を意味する用語であることが判ります。
 さらに「古京」に関しては以下のように「壬申の乱」記事中に表されています。

「癸巳。將軍吹負與近江將大野君果安戰于乃樂山。爲果安所敗。軍卒悉走。將軍吹負僅得脱身。於是。果安追至八口■而視京。毎街竪楯。疑有伏兵。乃稍引還之。」

 つまり「乃樂山」で戦った後、追いかけて「八口」までくると「京」が見え、そこで「堅く守っている」状況が判ったので引き返したと云うことのようです。
 通常「乃樂山」とは「柿本人麻呂」の歌(「…いかさまに思し召せか、青によし奈良山を越え…」)でも判るように、「大和」と北方の域外の領域の「境界線」の役目を果たしていたものであり、「奈良県北部」の「山地」(丘陵)を指すと考えられています。
 そうであるとすると、「大野果安」は「近江側」から南下してきたものであり、それを「大伴吹負」は「境界」領域で迎え撃ったこととなります。
 そもそも「大伴吹負」は「倭京」を制圧していた訳であり(倭京将軍と呼称されている)、また「大野果安」も「倭京」を同様に支配下に置くために前進してきたと考えられます。両陣営とも「倭京」が重要拠点であり、これを自陣営のものにすることが至上命題であったことが判ります。「近江朝廷」側が「使者」を派遣したのも趣旨は同じであり、また「大伴吹負」が「倭京」に「奇計」を用いて制圧したのもこの「倭京」という場所が戦略上欠かすことのできない拠点であったことを示すと言えるでしょう。
 このようにここでは「倭京」をめぐる戦いが行なわれていたはずですが、しかし「大野果安」の軍は「古京」の手前「八口」(これは「八街」と同義と思われます)で引き返しており、その結果「古京」には入れなかったとされています。

 また「古京」について「本營處」と称されていることにも注目です。

「…壬辰。將軍吹負屯于乃樂山上。時荒田尾直赤麻呂啓將軍曰。『古京是本營處也。』宜固守。將軍從之。則遣赤麻呂。忌部首子人。令戍古京。於是。赤麻呂等詣古京而解取道路橋板。作楯堅於京邊衢以守之。…」

 「本営」とは「本陣」と同じく通常「総大将」や「総司令官」の「軍営」を意味するとされますから、通常では「大伴吹負」の拠点という意味で使用されていると考えられているわけですが、それであればさらに「倭京」と「古京」が同一となってしまうこととなります。しかしそれは一見「矛盾」といえるものであり、「遷都」以前の「京」に「留守司」が置かれたこととなってしまいます。

 すでにみたように「留守司」は「京師」から行幸などで「王」や「皇帝」「天皇」などが不在となる場合に置かれる臨時の官職であり、多くが「軍事」に関係する人物が充てられたものですが、そうであれば「倭京」は「現在の京」を指すこととなるわけであり、すでにそれ以前に「近江京」への遷都が行われていたわけですから、本来であれば「近江京」にこそ「留守司」がおかれて然るべき事となるわけですが、実際には「遷都」以前の「古京」に「留守司」がいるという不自然さが発生してしまうわけです。
 「近江京」が「倭京」ではないのは「壬申の乱」記事の「近江京」から「倭京」までという書き方をみてもわかります。

「…或有人奏曰。『自近江京至于倭京。』處處置候。亦命菟道守橋者。遮皇大弟宮舍人運私粮事。…」

 このように「近江京」は「倭京」ではないわけであり、遷都以前の京師に「留守司」が置かれたとすると「矛盾」といえるわけですが、前述したように「倭姫」が「天智」の後継としていわば「称制」していたとして、彼女が「古京」(飛鳥)に戻った上で「高坂王」達を「留守司」とし、その間どこか近くに「新宮」を作り「殯」の儀式を行っていたとしたら、「倭京」に「留守司」がいて不思議ではないこととなります。それが窺える徴証は確かに『書紀』にはみられないわけですが、「敏達」の死去の際、死去当時の「宮」ではなくそれ以前に「宮」であった「百済大井」の地の至近(廣瀬)に「殯」が営まれた前例もあり、それ以前の「宮」つまり「京」に深い関係がある場合は現在の「京」とは違う場所に「殯」を営むこともありうるものともいえるでしょう。その意味で「倭姫」が「古京」に帰還しそこで仮に「政務」をとるような状況があったという可能性は充分考えられるわけですが、そこを「倭京」つまり現在の「京」として扱ったとすると「倭京」と「古京」が一致するという事態もある得るものとなります。そして「倭姫」が至近の「殯宮」に隠ったとすると「留守司」を「倭京」(つまり「古京」)に置いたことも理解できる事となります。しかしそのように理解が正当かどうかは別の話です。そう考えるのは「壬申の乱」の最後に「大伴吹負」が「難波」の「小郡」へ行き「税倉」の鍵などを押収したという記事があるからです。

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