「古田史学の会」の古賀氏には「二倍年暦」の研究があります。その論の中に「論語」に中に「二倍年暦」がみられるという指摘があり、そのひとつとして「古賀達也の洛中洛外日記」第788話(http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nikki10/nikki788.html)で以下の記事を問題にしています。(旧聞ですが)
「子曰、後生可畏也。焉知来者之不如今也、四十五十而無聞焉、斯亦不足畏也已矣」(『論語』子窂第九)
(子の曰く、後生畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯れ亦た畏るるに足らざるのみ。)
つまり「四十歳五十歳になっても目が出ない人物は恐れるに足らない」というわけですが、古賀氏はそれでは遅すぎるというわけです。平均寿命が短かったであろう古代においてはもっと早く目が出る出ないが問題になるべきであるというわけです。
しかし、この主張は当の「孔子」の生涯を見たときに疑問符が付きます。
「孔子」の生涯を見てみると、彼の名が世に知られるようになったのは四十すぎであったようで、「魯」の官人であった時代を過ぎて「斉」に遊学し見聞を広めた時期以降であったとみられます。
『史記』によれば「魯」から「衛」に呼ばれさらにその後諸国を回ったとされますが、これが「四十代」から「五十代」のこととされていますから、まさにこの年令になって「名前」が大いに売れるようになったと見られるわけです。
それに対し彼の二十代はまだ「魯」で駆け出しの官人として勉強中でしたから衆目が集まっていたはずはありません。
この孔子の言葉は、多分自身の体験を下敷きにしていると思われます。これを「二倍年暦」と考えると、自分自身に対して過度に卑下した表現であると思われますが、そのような発言を彼がしたかどうかはかなり微妙ではないでしょうか。
そもそも古代においても「官」に登用されるには「二十代」も半ばを過ぎなければならないはずですが、そのような登用されてそれほど時間のない段階で天下に名声が聞こえるというようなことがそうそうあるとは思えず、そうでなければたいしたことないというのは断定に過ぎるものでしょう。そう考えると、この言葉の真意は現生と後生の対比としての文章であり、現在それほどでなくとも招来は立派な人物になるかもしれない、ただし四十~五十になっても名が売れていなければ結局たいした人ではなかったということだ、と言う意味に私は受け取りました。つまりここで「二倍年暦」が使用されているのかはかなり疑問と考えられるわけです。
中国における例としてこれは確実というものはなかなか見受けられないわけですが、それは「倭国」に比べ相当以前から「太陰暦」を使用していたためであり、「正歳四節」を正確に把握することが一般の人でも可能となっていたからといえ、その意味で中国における「二倍年暦」の使用例は極度に少ないものと思われ、そのため立証が困難なものともいえるでしょう。
「倭国」の例で考えてみると、「卑弥呼」の時代の「二倍年暦」がありますが(『三國志』において『魏略』から引用された部分)、その後「倭の五王」以降の「二倍年暦」はその性格が異なると見られるものであり、「卑弥呼」の時代の「二倍年暦」は「農事暦」としての「太陽暦」であり、「貸稲」の利息に関わる期間として数えられていたものとみられるのに対して「倭の五王」以降の「二倍年暦」は「月」の運行を数える形での「二倍年暦」であり、「満月」~「新月」、「満月」~「新月」というように通常の一月を前半と後半で別に数えるという内容を持った「二倍年暦」であり、全くその性格を異にするものであったと思われます。(この議論の基礎としては「貝田禎三氏」の研究(※)に拠っています)
いってみれば「卑弥呼」の方は「農民」としてのものであり「後代」の方は「海人」としての「二倍年暦」であったものではないでしょうか。「海人」が「月」の運行を知る必要があるのは「満潮」「干潮」を知るためであり、それによる船の運航や漁に出る時期などを計るのに必須の情報であったと思われるわけです。
(※)貝田禎三『古代天皇長寿の謎』六興出版一九八五年