古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「富本銭」について(四)

2017年07月02日 | 古代史

 「前期難波宮」の遺跡からは「従来型」の「富本銭」が出土しています。このことは「難波宮殿」に附属していた「大蔵」では「従来型」の「富本銭」が「貯蔵」されていた事を示すと思われ、そのことから少なくとも「七世紀半ば」程度の時期には「従来型」の「富本銭」が製造されていたこととなります。
 そもそも「大蔵」というのは元々「国庫」を意味する用語ですが、特にこの時点では「貨幣」や「金銀」「珠玉等」の「貢上品」を管理するのが職掌であったと推定され、そのようなものが「難波宮」の至近にあったと考えられることとなります。(「無文銀銭」が「難波」から大量出土している意味も同様と考えられます)
 また、「鋳銭司」は「大蔵」の下部組織であり、その「大蔵」が「難波」にあったという事から「鋳銭司」そのものも至近にあったという推測は可能です。(後には各地に作るようですが、この時代には「大蔵」に付随していたと考えるべきでしょう)
 そうすると「初期型」と考えられる「新型」「富本銭」についてはそれらを遡る時期が推定されますが、それは上に見るようにそのデザイン(意匠)が「五銖銭」を意識していること、重量もまた同様であること、その大きさが「隋・唐」の規格(度量衡)に則っていることなどから判るように、「無文銀銭」と同様「隋代」から「初唐」という時期に鋳造が開始されたと見るのが相当であると考えられます。
 この段階で「唐制」への全面的な対応が図られた結果、「無文銀銭」は「小片」が付加され「一両」の約四分の一の「10g」程となり、それと同時或いはやや遅れて「富本銭」は「開通元寶」そのものと同じ「4g」程度となって、大きく異なることとなったと見られます。
 また、このようにして「従来型」「富本銭」と「小片付き無文銀銭」とで重量が異なることとなったのは、互換性を保つために「同重量」にしていたという仮定からの帰結として、この時点付近で「倭国王権」として「公的」に「等価交換」を断念したということを意味すると考えられるでしょう。
 
 ところで、八世紀に入って「和同開珎」が鋳造された際に、その「法定価値」として「銀銭一文=銅銭十文」というものが与えられたとする「森明彦氏」の説(※1)があり、(「浅野雄二氏」の論(※2)においても同様の趣旨の発言があります)これは前記した「松村氏」などにより受け入れられているようですが、「松村氏」によればこの関係は『無文銀銭と富本銭に遡及できる可能性が高く、むしろ逆に、無文銀銭と富本銭の貨幣価値が、和同開珎の貨幣価値を規定した可能性が浮上する。』とされています。つまり「法定価値」として「一対十」が与えられたのは「無文銀銭と富本銭」においてであるとされているわけです。
 「森氏」はそれを「扱いやすさの点から」十進法を元に設定したものと考えられているようですが、これは上でみたように「初期」「無文銀銭」と「初期」「富本銭」の間の「枚数比」であったものであり、それを「無文銀銭」と「富本銭」の規格が変更になって以降も既定の「交換率」として「法定化」(公示)したものと考えられ、これを以降そのまま維持していたことが窺えます。
 また、この事は「貨幣経済」の進歩の程度とも関連していると考えられます。高額取引用の「銀銭」やそれと等価の「銅銭」だけであったとすると「下位」の「補助貨幣」が存在しなかったこととなりますが、それは代わりに「布」ないし「穀」が貨幣の役割を果たしていたからと考えられ、未だ「貨幣経済」という呼称が当たらない時代であったと考えられます。ところが、実勢として「一対十」という「交換率」が存在するようになったとすると、明らかに「銅銭」は「銀銭」の「補助貨幣」としての役割が与えられたこととなるでしょう。この事は「貨幣」というものに「慣れた」人々が、急速に「貨幣経済」へ移行を開始したことを推定させるものです。

 また、「東山道」の周辺である「長野」「群馬」などの地に多く「従来型」の「富本銭」が見られますが、このことは「七世紀前半」から「難波朝廷」時代までに「古代官道」である「東山道」の整備が大きく進捗したと考えられる事と関連しているものと推量します。
 従来「富本銭」が「近畿王権」に関係があるかのような議論があった訳であり、それは「西日本」からの出土が見られないことにその主因があったと思われますが、「倭国政権」はこの「富本銭」を「東国」という地に対して「局地的」「局所的」に意識的に投下・流通させ、逆にそこから「無文銀銭」など「資本」を回収し、幾分かでも差額を手にしようとしたものではないでしょうか。
 ところで、『続日本紀』には「和銅年間」の記事として「諸国」から徴発した「役夫及運脚者」などが帰郷する際に「郡稲」を別置し、それに対して「銭貨」を以て交換することを命じている文章があります。

「(和銅)五年(七一二年)冬十月丁酉朔乙丑条」「詔曰。諸國役夫及運脚者。還郷之日。粮食乏少。無由得達。宜割郡稻別貯便地隨役夫到任令交易。又令行旅人必齎錢爲資。因息重擔之勞。亦知用錢之便。」
 
 ここで見るように彼らは労働の対価として「銭貨」を受け取っており、これは「和同銅銭」らしいことが推測されますが、このような「賃金」として「銅銭」を利用するというのは「王権」としてはこの時が初めてではなかったのではないでしょうか。つまり、「東山道」工事等の際にも「銅銭」が「賃金」として渡されたと言う事も充分考えられるものであり、それを受け取った「役夫及運脚者」が彼らの国において使用したと言う事の表れとして、東山道界隈で「富本銭」が多く見られると言うことなのではないかと推察されます。(またここでは「銭」を用いるのが「便利」であることを知らしめる意義もあったように書かれており、「貨幣」制度に慣れさせようという工夫が感じられますが、それが「八世紀」に入ってからと言うのは少なからず「遅い」ものと思われ、実体としては「富本銭」の登場時点で同様のことは行われていたのではないかと推量されます)

 ところで、「崇福寺」の塔心礎から「金銅」「銀」「金」「瑠璃」の四壺に納められた「地鎮具」が発掘され、その中に「無文銀銭」が存在していました。これは明らかに「呪術」的意味があったと見られますが、上に見る「藤原京」から出土した「地鎮具」には「無文銀銭」ではなく、「新型」の「富本銭」が埋納されていたわけです。その理由として最も考えられるのは、「無文銀銭」も「従来型」の「富本銭」も、「王権」の手持ちのものは既に「鋳つぶされてしまっていた」からとも考えられます。僅かに秘蔵されていた「初期型」の「富本銭」がこの時の「地鎮具」として活用されたものではないでしょうか。
 既に考察したように当初鋳造された「富本銭」は「王権」にとって特に「意義」深いものであったと思われます。それはこの「初期」の「富本銭」が、「銭文」というものが選定され、「国家」としてのプロジェクトとして「官司」を整えながら鋳造された初めての「貨幣」であったものと考えられるからです。
 当時の「九州倭国王権」はこの「貨幣発行」を「国家」として推進したものであり、流通を開始した「銀銭」に対して互換性を保つように重量なども考えて鋳造したものです。その意義は高く、以降この「初期」型「富本銭」は「王権」の中で「宝物」として秘蔵されたのではないかと考えられます。
 それに対し「無文銀銭」はすでに述べたように「銀銭(一分銀)」として出来上がったものが国内に流入したものであり、また「銀」の地金の価値で通用していたと考えられます。つまり、この「無文銀銭」そのものについては、「倭国王権」の意思も威厳もそこに内包されてるいとは言えないこととなり、「市井」の人間にとっても、「無文銀銭」の存在と「倭国王権」が直接結びつくようなこともなかったと思われます。
 「富本銭」の場合は、そのデザイン等にも「王権」の確固たる意志が感じられますから、「利歌彌多仏利」以降の「大義名分」を継承した王権にとって「無文銀銭」より重要で必須の「威信財」であったと思われます。
 それは「藤原宮」の「地鎮具」として「富本銭」が埋められていたことにつながるものです。この「地鎮具」が発見された「藤原京」を建設しそこへ遷都した「倭国王権」は、「利歌彌多仏利」の手になると考えられる「元興寺」を「飛鳥」へ移築して「法隆寺」としたほか、その「元興寺」(「法隆寺」)と同じレイアウトの建築様式の寺院を「飛鳥」の地に複数建設するなど、「利歌彌多仏利」への傾倒を強めていたように見えます。その「地鎮具」の中に「富本銭」(特に「初期型」)を選ぶこととなった理由も同様に「利歌彌多仏利」に対する傾倒ないし信仰が重要な部分を占めているのではないかと考えられるものです。

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「富本銭」について(三)

2017年07月02日 | 古代史

 すでに「無文銀銭」については「当初」「五銖銭」と互換性を持たせるために「6.7g」程度の重量として設定されたものと想定しました。さらにその後「唐」で新たに作られた「開通元寶」と互換性を持たせるために「応急的に」「小片」が付加されることとなったとみたものですが、その段階で約10g程度の重量となったものと見られます。このような「無文銀銭」の流れから推定して、「6.7g」の重量を持つ「新種」の「富本銭」は「開通元寶」の鋳造前かあるいは「唐」の「開通元寶」鋳造という「情報が伝わっていない時点」での製造ではないのかと考えられるところです。
 従来型の「富本銭」は「唐」の「開通元寶」とほとんど同じ規格(大きさ、重さ)で作られており、「唐」の影響を強く受けていると考えられておりますが、実際には表記が「富本」と二文字であり、最新の「唐制」というよりも、漢代より長期間継続して使用された「五銖銭」の影響の方が大きいとされています。「富本」という用語も、「五銖銭を復興するべき」という「後漢代」の武将の上申からの引用と考えられているようですが、そのように「富本」という言葉と「五銖銭」との間に関係があるとすると「五銖銭」と「富本銭」との間に重量として共通基準がある方が整合的であるわけですが、実際には従来型の「富本銭」は(飛鳥池工房のものを含め)「4g」程度であり、これは「五銖銭」ではなく「開通元寶」に重量基準が合っていることとなります。しかし、デザインは「五銖銭」に対応しながら重量は「開通元寶」に対応しているというのは実際には「矛盾」といえます。それに対し、この「新種」の「富本銭」ではまさに「五銖銭」との間に重量基準が設定されていることが明確であり、その意味で「矛盾」はなくなります。(一対二の整数比となります)
 しかし、「五銖銭」は「隋代」に使用されたのを最後として、それ以降「初唐」時期に「開通元寶」が鋳造されてからはその役割を終えたものと理解されています。その意味からはこの「新種」の「富本銭」の当初製造時期がかなり早いと推定する必要があります。
 その後「唐」で「開通元寶」の鋳造が始まり「五銖銭」が終焉を迎えたことを知った「倭国」は、「無文銀銭」に「小片」を付加させて重量調節をしたものと思われますが、またそれと同時に「銅銭」(従来型「富本銭」)も鋳造開始したものと思料します。つまり「無文銀銭」に小片が付加された時期と「従来型」「富本銭」の鋳造時期はほぼ同時と考えられるでしょう。問題はその時期です。

 「前期難波宮」の遺跡からは「従来型」の「富本銭」が出土していますから、「難波宮殿」に附属していた「大蔵」では「従来型」「富本銭」が「貯蔵」されていたものと思われ、このことは早ければ「七世紀半ば」程度の時期には「従来型」の「富本銭」が製造されていたこととなりますから、「新型」の「富本銭」はさらにそれを遡る時期を想定すべき事となります。すでに述べた論理からは「初唐」以降であることは間違いないと思われ、これらのことから「七世紀第二四半期」と言う概括的な年次範囲が得られます。可能性としては「高表仁の来倭時」が有力視されます。この年次については別途検討した結果「六四一年」という年次が推定されています。この時「遣隋使」達が同伴して帰国した事が『法苑珠林』に書かれています。

「倭国は此の洲外の大海の中に在り。会稽を距てること万余里。隋の大業の初、彼の国の官人、会丞、此に来りて学問す。内外博知。唐の貞観五年に至り、本国の道俗七人と共に方に倭国に還る。…」

 この中の「大業の初」といい「貞観五年」の帰国とされていますが、これは『隋書』に沿った記述と思われますが、そもそもその『隋書』に信頼がおけないとするとそれが「六三一年」とは断定できないこととなります。いずれにしても彼等が「開通元寶」に関する情報を持ち帰ったという可能性を想定するのは無理がないと思われます。
 つまり、この時点で「無文銀銭」と「富本銭」は「一対一」の重量ではなくなったこととなります。元々はどちらも「6.7g」程度であったものが、この時点で「無文銀銭」は「小片」が付加されて「10g」程度となり、「富本銭」は「開通元寶」そのものと同じ「4g」程度と大きく異なることとなったと見られ、このことはこの時点付近で「倭国王権」として「等価交換」を断念したという可能性もあると思われます。つまりこの時点で「富本銭」は「無文銀銭」の下位貨幣として「補助貨幣」的役割をするようになったのではないでしょうか。(取引の主役はまだ「無文銀銭」であったということです。)

 また、「富本銭」に使用されている「七曜紋」についてもそれが「陰陽五行」を表すという解釈がされますが(松村氏の説)、それは「天武朝」の製造を想定していることからの「予断」ともいえると思われます。つまり「天武」が「道教」などに傾倒していると言うことを想定(前提)しての解釈であるわけですが、デザインとして「中心」に一つ、「周囲」に六個の「珠紋」というのはつまり「一+六」であり、陰陽五行となれば明らかに「二+五」ですから、食い違っているといえるでしょう。これについては「上下」が「陰陽」で「中心」が「土」であるという解釈をしているようですが、それは非常に「苦しい」解釈といえるでしょう。確かに「方向」としては「土」は「中心」の意義がありますが、それは「水平」にデザインされたものの「東西南北」が明示できる場合であると思われ、例えば「建物」などの場合には建物の四隅に「火水木金」を配置し、中心に「土」とする場合がありますが、「貨幣」の場合には「方向」も固定されているわけではありませんから、「五行」で方向を表すと考えるのは適切ではないと思えます。
 また「五行」は「火水木金土」という五つの要素が「循環」することによって万物が生成されるという思想ですから、その意味では「円周上」に配されてこそ「五行」を意味するといえると思われますが、そうでないとするとこの「七曜紋」は「陰陽五行」を意味するものとは考えにくいこととなります。
 他に考えられるのは「北斗七星」を意味するという可能性ですが、その場合「北斗」の柄杓の形のままに並んでいる可能性が高く(「四天王寺」や「法隆寺」に伝わる「七星剣」などがそう)、やや意味合いが異なると言えると思われます。
 結局「陰陽五行」あるいは「北斗」など「道教」に関わるものが表されているのではないものと考えられ、「天武」と結びつくものは実はないこととなります。

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「富本銭」について(二)

2017年07月02日 | 古代史

 「二〇〇七年十一月」に「藤原京」遺跡から「地鎮具」として出土した「富本銭」はそれまで発見されていたものとは異なる種類のものでした。それは「飛鳥池工房」などで造られていたものとは、「厚み」が違う事と(やや厚い)、「アンチモン」を含有していないというのが大きな特徴です。(その代わり「錫」が使用されているようです)
 そもそも「銅鐸」を初めとした「青銅製品」には欠かせない合金材料が「錫」でした。前代より「銅製品」を作るには「錫」との合金が最も伝統的であり、ポピュラーであったものです。その意味では「アンチモン」が「合金材料」として使用されたこと自体が「イレギュラー」であったのではないかと考えられます。
 「アンチモン」は「融点管理」も困難であり、そのことが「鋳上がり不良」が多発する誘因ともなったものと見られ、また「毒性」も「錫」よりはるかに強く、「銅合金材料」として好んで選ぶものとはいえないと思われます。その様なものが合金材料として使用されているというのは、「錫」が「銅」と共に国内には当時産出していなかったと見られることにつながっています。つまり本来の調達ルートに何らかの支障が発生したため、国内に「錫」ないしは「錫」の代替材料を探した結果「アンチモン」を採用したという経過が想定されるものです。そしていずれも入手が困難であった段階では「錫」も「アンチモン」も含まない「純銅」ともいえるものも生産されたものではないかと見られ、かなり試行錯誤が行われていたことが窺えます。
 またデザイン面を考察すると、「富」の字が「うかんむり」ではなく「わかんむり」(冨)になっていることや、その「冨」の中の「口」の上の横棒もないと見られること、さらにはその平均重量が「6.77g」であることが判明しており、これらは「唐」の「開通元寶」(開元通寶とも)と同一の規格で作られたという「富本銭」に関わる常識と相反しています。
 また、一般論的に言うと、貨幣鋳造に当たっては初期よりも後期鋳造品は軽くなる傾向があり(原材料使用量が減少するため原価を下げられるという経済論理からのもの)、採算性の点からも軽量化されるのが普通であるのに対して、この場合では逆に重量化されていることとなってしまいます。
 そもそもこの発見された「富本銭」は「鋳上がり」も余り良いとはいえず、線も繊細ではありませんし、「内画」(中心の四角の部分を巡る内側区画)が大きいため「冨」と「本」がやや扁平になっており、窮屈な印象を与えます。「うかんむり」ではなく「わかんむり」となっていることや、「冨」の中の「横棒」がないのは、スペースがないという制約から来るものとも言えるでしょう。また、「七曜紋」も粒が大きく、各粒間の距離が取れていないためこれも窮屈に見えます。さらに「従来型」の「富本銭」がほぼ「左右対称」になっているのに対して「新型」の場合「冨」の「わかんむり」が非対称デザインとなっており、このため全体としても非対称の印象が強くなっています。「従来型」の「富本銭」の場合「富」の「うかんむり」は左右対称となるように「デフォルメ」されており、これは「デザイン上」の進歩といえると思われます。これら意匠の部分でも「従来型」の「富本銭」と比べて「洗練」されていないように見え、時期的に先行する可能性が示唆されます。
 一般にはこれを「従来型」と同時期あるいはその後期の別の工房の製品と見るようですが、そうであれば「工房」(というより「鋳造所」)ごとに違うデザイン、違う原材料、違う重量であったこととなり、それは「富本銭」が「国家的関与」によって鋳造されたとする考え方と整合しないでしょう。なぜなら当時「重量」は「銭貨」にとり非常に重要なファクターであり、王権が同一ならば同一の貨幣は同重量であるのが自然でありまた当然と思われるからです。これらは明らかにこの「新旧富本銭」の両者の鋳造についてはその「時期」と「状況」が異なることを推定させるものであり、この「新型」の「富本銭」は「従来型」に先行するものである可能性が大きいと考えられます。
 それを推定させるものが、その出土の状況です。この「新型」とされる「富本銭」は発見時「水晶」と共に口の細い「平瓶(ひらか)」状容器に封入されていました。これはいわゆる「地鎮具」であり、「大極殿」の「正門」と思われる場所からの出土でしたから、「宮殿」全体に対する「守護」を願い、「事故」や「天変地異」などに遭わないようにという呪術が込められているものと推定出来ます。
 このような「新都」造営に際しての「地鎮具」に封入されるものとして「特別」なものが用意されるというのは当然あり得ることであり、「王権内部」で代々秘蔵されていたものがここで使用されたと見ることも出来るのではないでしょうか。つまり、これは「新型」なのではなく、「飛鳥池工房」で製造されるものより以前の時期の鋳造品であったと言う事を想定すべきと考えられるわけです。

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「富本銭」について(一)

2017年07月02日 | 古代史

  既に「無文銀銭」については「阿毎多利思北孤」あるいは「利歌彌多仏利」の時に導入されたものであり、特に「高額」取引に利用されたと考えた訳ですが、その直後「銅銭」が製造されることとなったとみられます。それが「富本銭」であったものです。
 「富本銭」は「飛鳥池」の埋め立て工事に伴って行なわれた発掘作業によって「工房」跡と共に鋳型や半完成品も含め大量に出土したことで注目されました。
 この「富本銭」というものは以前は「お呪い」などに使用される「厭勝銭」であって、実際には貨幣としては使用されていなかったと考えられていました。しかし「飛鳥池遺跡」は明らかに当時の「貨幣鋳造所」の遺跡と考えられ、また長野県や群馬県からも出土が確認されており、これまでに五六〇枚以上という相当多数の枚数見つかっていることからも「実際に使用されていた」ものと考えるべきでしょう。
  この「富本銭」については「従来」から、「いつ、誰により、どのような意図で作られたものか。また、それはなぜ廃絶されたのか。さらに、『無文銀銭』との関係や、後の『和同銭』との関係はどのようなものであったか」という疑問が提出されていました。
 「無文銀銭」もそうですがこの「富本銭」についても全く『書紀』『続日本紀』に登場しません。しかし、「飛鳥池遺跡」などからの「富本銭」の出土状況は「国家」としての「富本銭鋳造」事業であったことを示しています。にもかかわらず、『書紀』にも『続日本紀』にも影も形も見えていません。『続日本紀』には「鋳銭司」設置記事はありますが、そこでどのような貨幣を鋳造していたのか等重要な内容が欠けています。このことは「評制」や「国宰」など同様「隠蔽」されていることを示すものですが、それは即座にその隠蔽の「意図」も同様であったと推測できることを示すものです。つまり、『書紀』や『続日本紀』のこの「沈黙」は、「富本銭」や「無文銀銭」が「他の王朝」に関わるものであり、「九州倭国王権」に直接つながる性質を持っていることを示すものと言えるでしょう。

 この「富本銭」に続いて鋳造されたとされる「古和同銅銭」では、その成分分析が行われいずれも多量の「アンチモン」を含んでおり、この二つがかなり近似していることが指摘されています。
 「古和同銅銭」というのは「和同開珎」の初期鋳造品をいいますが(「文字」の形や「鋳造」の具合がその後の「和同開珎」(新和同)と異なっている)、この「古和同銅銭」の原材料の産地(銅と鉛)として候補が挙がっている内の一つが「豊前」(大分県)の「香春岳」の銅山であり、特に「放射性同位体」の比率が近似しているとされます。(ただし、この「香春岳」の銅山がいつ頃開かれたかは史料がなく不明ですが)
 また「アンチモン」は「伊予」の「市の川アンチモン鉱山」(現在は廃鉱)からの算出ではなかったかと推測されています。
 このように「古和同銅銭」は「富本銭」と成分が共通しているわけですから、「富本銭」もその主要な原材料の生産地が「豊前」の国などであったと考える事ができると思われます。
 それと関連しているのが「和銅年間」に「大宰府」から「銅銭」が献上された記事です。

「和銅三年(七一〇年)春正月壬子朔丙寅条」「大宰府獻銅錢。」

 この記事は非常にシンプルではありますが、「大宰府」から献上されたという意味の中に、「鋳造」もこの「大宰府下」であったと考えられること、時代状況としてこれが「古和銅銅銭」であった事が推定されますが、上に述べたように現在発見されている「古和銅」の場合その成分が「富本銭」に酷似していると考えられることなどから、この「大宰府」近辺では以前から「富本銭」を鋳造していたのではないかと考えられる余地が生まれます。この事からも「富本銭」と「九州倭国王権」との間に深い関係があると推察できると思われます。

 「富本銭」と鋳造用の鋳型などが発見された「飛鳥池遺跡」では、その後の調査により「富本銭」と同じ場所(層)から木簡が出土しましたが、そこには「丁亥」と書かれておりこれは「六八七年」を意味すると考えられています。このことから「奈文研」(奈良文化財研究所)の見解では、「富本銭」の製造時期としてはこの年次付近であり、これを大きく遡上するものではないと考えているようです。しかし、その「層序」から考えて、製造年の範囲の一端を示すものではあるものの、その「上限」や「下限」の時期を限定するものではないと思われます。
 この層と同じレベルあるいは「下」と考えられる層(つまり古い層)からは旧「飛鳥寺」(「法興寺」…これは私見によれば本来「元興寺」とは「別寺院」と考えられます)の「禅院」の瓦と同じ瓦が出ています。
 この禅院は一般には「道昭」が「唐」から帰国後建てたものとされています。その年次は『類聚国史』によれば「六八二年」とされていますが、『三大実録』によれば「六六二年」と書かれていて、両者で食い違っています。
 「道昭」については帰国の年次が(なぜか)『書紀』に明記されていませんが、「道昭」が「師事」した「三蔵法師玄奘」は「六六四年」に亡くなっており、「道昭」の帰国は彼の存命中とされますから「六六四年」より以前であることは間違いありません。また彼は「遣唐使団」の一員として「白雉年間」に「唐」に渡ったとされていますから、その派遣年次である「六五三年」よりは以前ではないと思われます。これに関しては「斉明七年」、つまり「六六一年」帰国という説が有力のようです。
 また、『続日本紀』には「道昭」が亡くなった際の記事として以下のように書かれています。

「『続日本紀』文武四年(七〇〇年)三月十日条」
「於元興寺東南隅、別建禅院而住焉、……於後周遊天下、……凡十有余載、有勅請還、還住禅院坐禅如故、……後遷都平城也、和尚及弟子等奏聞、徙建禅院於新京、今平城右京禅院是也」

 つまり、帰って来てから『元興寺』に「禅院」を作り、その後天下を「周遊」したとされ、その後十数年間の「周遊」の後、「禅院」に「還ってきた」と言うわけです。これによれば「禅院」の建築は彼が帰国して直後のこととなり、「六六二年」という「三大実録」の記述の信用性が高いもののようです。
 しかしこの『続日本紀』に書かれている「元興寺」が「飛鳥寺」なのかは異論があるところであり、「飛鳥池遺跡」の遺跡がこの『続日本紀』にいう「元興寺」なのかは疑問です。私見では『書紀』『続日本紀』に「元興寺」とある記述は実際には「法隆寺」に関わるものであり、「飛鳥寺」(法興寺)とは別寺院と考えています。そのことを踏まえると「道昭」の帰国年次が「六六二年」であり、また帰国後「元興寺」に禅院を設けたというのが事実してもこの「飛鳥池遺跡」から出土したこの「瓦」がその「禅院」と同一かは疑問が出る所です。つまり「瓦」から年代を特定することは実際には困難でしょう。

 ただし、この「飛鳥池遺跡」での「富本銭」鋳造に際して使用された「鋳型」の材料については、「斉明天皇」の所業として『書紀』が伝える「酒船石」遺跡の「石垣」の石材を再利用して作られていたのではないかという考え方があるようです。
 確かに、発見された「鋳型」の成分鉱物と、「酒船石遺跡」の石垣の成分鉱物が同一であり(「凝灰岩質細粒砂岩」)、これは奈良県天理市付近から産出するものであることが判明しています。この石材は「飛鳥池遺跡」でも「石敷き」の材料として使用されており、この地域で使用される石材として非常に一般的であったことがわかります。
 現在の推定では「石垣」の一部の石材を砕いて鋳型を造ったと考えられており、そうであれば「六六〇年代」の「鋳造」という可能性は否定できません。
 ちなみに、この「斉明」というのが『書紀』に言うように「天智」「天武」の母であるとすると、この時点で「母」の作った石垣を崩すとか、すでに崩れていた石垣を修復せずにそのまま「鋳型」の材料として使用したという事となりますが、もしそれが事実とすれば、この「富本銭」を鋳造させた人物は「斉明」の子供とは思えません。もしも子供なら、母の作った石垣の「補修」を行うことはあっても、「砕いて」別用途に転用するとは思えません。そのような一種「無遠慮」な行動は、明らかにここで「富本銭」の鋳造に関わった人物と「斉明」とは関わりのない人物であったということを意味するものと思われます。この事から、この時「飛鳥池工房」を構築した人物について「天智」でも「天武」でもないこととなり、それは年次から言うと「唐」の捕囚から帰国した「筑紫君薩耶麻」であったと言う可能性が考えられると思われます。
 また、これらのことから一見「六六〇年代」以前は「富本銭」の製造を行なっていなかったように受け取られるかも知れませんが、そうとは断言できません。それはこの「飛鳥池遺跡」で製造されたものではないと考えられる「富本銭」が発見されているからです。

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