古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『推古紀』の国書の文言について

2017年10月04日 | 古代史

 『推古紀』に「裴世清」が持参したという「国書」の内容が書かれています。それを見てみると、「…朕欽承寶命 臨仰區宇。思弘徳化 覃被含靈。愛育之情 無隔遐迩。…」というように自らの政治的姿勢とでもいうべきものを表す言葉が並んでいる部分があります。このうち「寶命」について古田氏は「初代皇帝」のみが使用しうる性質の文言とされ、そこから「唐の高祖」がこの「詔」を書いた本人であると論証したわけですが、この「寶命」以外の文言について考えてみると、これらは一見決まり文句であり、型どおりのものであるようですが、「隋高祖(楊堅)」「煬帝」「唐高祖(李淵)」の三者について、「詔」として彼らが出したものの中に個々の語句の使用例を渉猟してみたものをここに記します。(当然ですが、この『推古紀』の国書は対象から除いています。)結果は以下の通りとなり、個人ごとに使用頻度がかなり異なることがわかります。

 ・『欽承』:これは「煬帝」に一例あり、さらに『列伝』にも「煬帝」の書の内容として「二例」確認できます。「楊堅」、「李淵」とも見られません。
(以下「煬帝」の例)
「…六月辛巳,獵於連谷。丁亥,詔曰:…朕獲奉祖宗,『欽承』景業,永惟嚴配,思隆大典。…」(『隋書/帝紀第三/煬帝 楊廣 上/大業三年』より)

・『臨仰』:三者とも確認できません。他の皇帝においても全く使用例がなく、特殊用例と思われます。

・『區宇』:これは特に「楊堅」において多く見られます(九例)。これは「世界」を表わす語であり、「魏晋」以来久しぶりに中国「統一」を果たした意識が使用させるのではないかと思われます。さらに臣下からの「楊堅」に向けた上表などにも例が多数確認できます。他に「煬帝」に「二例」ありますが「李淵」については例が見られません。(ただし「太宗」が「父」である「李淵」に対して述べた中に一例あります。)
(以下「楊堅」の代表的な例)
「…十一月己酉,發使巡省風俗,因下詔曰:「朕君臨『區宇』,深思治術,欲使生人從化,以德代刑,求草?之善,旌閭里之行。…」(『隋書/帝紀第一/高祖 楊堅 上/開皇三年』より)

・『思弘』:「楊堅」に二例、「煬帝」に一例はありますが「李淵」の例は確認できません。(これも「太宗」に一例有ります)
(以下「楊堅」の一例)
「六月…乙丑,詔曰:「儒學之道,訓教生人,識父子君臣之義,知尊卑長幼之序,升之於朝,任之以職,故能贊理時務,弘益風範。朕撫臨天下,『思弘』德教,延集學徒,崇建庠序,開進仕之路,佇賢雋之人。…」(『隋書/帝紀第二/高祖 楊堅 下/仁壽元年』より)

・『徳化』:これも「楊堅」に二例、「煬帝」に一例ありますが、「李淵」の使用例はありません。(「楊堅」には上の例の中にもあるように「徳教」という用語も二例有り、これが仏教と関連している可能性があることも注意すべきであり、それは「徳化」にもいえることかもしれません。)
(「楊堅」の一例)
「…初帝既受周禪,恐黎元未愜,多說符瑞以耀之。其或造作而進者,不可勝計。仁壽元年冬至祠南郊,置昊天上帝及五方天帝位,並于壇上,如封禪禮。板曰:維仁壽元年,歲次作噩,嗣天子臣堅,敢昭告于昊天上帝。璇璣運行,大明南至。臣蒙上天恩造,羣靈降福,撫臨率土,安養兆人。顧惟虛薄,『德化』未暢,夙夜憂懼,不敢荒怠。天地靈祇,降錫休瑞,鏡發區宇,昭彰耳目。…」(『隋書/志第一/禮儀一/南北郊』より)
 
・『覃被』:「煬帝」に一例ありますが、「楊堅」「李淵」とも用例がありません。
(以下「煬帝」の例)
「(冬十月)乙酉,詔曰「博陵昔為定州,地居衝要,先皇歷試所基,王化斯遠,故以道冠豳風,義高姚邑。朕巡撫氓庶,爰屆茲邦,瞻望郊廛,緬懷敬止,思所以宣播德澤,『覃被』下人,崇紀顯號,式光令緒。可改博陵為高陽郡。赦境內死罪已下。給復一年」。…」(『隋書/帝紀第四/煬帝 楊廣 下/大業九年』より)

・『含靈』:「楊堅」に一例あり。「煬帝」「李淵」とも用例がありません。
(以下「楊堅」の例)
「王伽,河間章武人也。開皇末,為齊州行參軍,初無足稱。…上聞而驚異之,召見與語,稱善久之。於是悉召流人,并令攜負妻子俱入,賜宴於殿庭而赦之。乃下詔曰:「凡在有生,『含靈』禀性,咸知好惡,並識是非。若臨以至誠,明加勸導,則俗必從化,人皆遷善。往以海內亂離,德教廢絕,官人無慈愛之心,兆庶懷姦詐之意,所以獄訟不息,澆薄難治。朕受命上天,安養萬姓,思遵聖法,以德化人,朝夕孜孜,意在於此。…」(『隋書/列傳 第三十八/循吏/王伽』より)

・『愛育』:「楊堅」に一例(高麗への書)、「李淵」にも一例(百済への書)あり。これは「夷蛮」の国に対する大国としての意識が言わせるものでしょう。
(「楊堅」の例)
「…開皇初,頻有使入朝。…十七年,上賜湯璽書曰:朕受天命,『愛育』率土,委王海隅,宣揚朝化,欲使圓首方足各遂其心。…」(『隋書/列傳第四十六/東夷/高麗』より)

・『無隔』:『煬帝紀』に二例ありますが、うち一例は「裴世矩」(裴矩)からの上表分の中に見えるものであり、「煬帝」の直接の「詔」としては一例です。「楊堅」「李淵」とも用例はありません。
「…其餘臣人歸朝奉順,咸加慰撫,各安生業,隨才任用,『無隔』夷夏。營壘所次,務在整肅,芻蕘有禁,秋毫勿犯,布以恩宥,?以禍福。…」(『隋書/帝紀第四/煬帝 楊廣 下/大業八年』より)

・『遐邇』:「楊堅」に「六例」確認できます。「煬帝」には似た意味の『遐遠』は一例あるもののそのものずばりはありません。他に「開皇十六年」に「有神雀降於含章闥,高祖召百官賜醼,告以此瑞。」という事象があった際に「許善心」によって作られた「神雀頌」の中に「緜區浹宇,遐至邇安」という形で一例確認できます。さらに「薛道衡」による「上高祖文皇帝頌」の中に一例見られます。これらは「楊堅」本人の言葉ではありませんが、いずれも「楊堅」を賞賛する言葉として使用されていることに注目すべきでしょう。それに対し「李淵」の使用例は確認できません。

 以上の結果を表にするとこのようになります。(ただし「◎」は用例が複数見られるもの、「○」は一つないし少数確認できるもの、「×」は用例がみられないことを示します)
 
  文帝 煬帝 李淵
欽承  × ○ ×
臨仰  × × ×
區宇  ◎ ○ ×
思弘  ◎ ○ ×
徳化  ◎ ○ ×
覃被  × ○ ×
含靈  ○ × ×
愛育  ○ × ○
無隔  × ○ ×
遐邇  ◎ × ×

 上の結果から見てこの国書の用例と合致するものが最も少ないのは「李淵」つまり「唐高祖」です。この『推古紀』の国書が彼の出したものであるとすると、彼にとって非常に希な用語法がこの「倭国」への書だけに使用されたという事となると思われ、それは明らかに不自然であるといえるでしょう。古田氏は「寶命」から「唐高祖」であるとしたわけですが、それ以外の文言からはちょうど逆の結果となってしまうわけです。
 「隋帝」二人の例が多いことから考えて、これらの用例は「隋代」のものとして考える方が自然と思われることとなるでしょう。

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