古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「伊吉博徳」の「官位」の停滞について(補足)

2017年10月10日 | 古代史

 先日「伊吉博徳」の官位について書きましたが、その時書き漏らしたことがありますので追加します。それは「伊吉博徳」が「小山下」になる以前に「大乙中」という位階を得ていたことが『善隣国宝記』が引用する『海外国記』に書かれていた事ことです。

「白村江の戦い」後の「六六四年」に当時「百済」を占領していた唐軍の将である「劉仁願」の配下の人物である「郭務宋」が「表函」を提出した際の応対に「壱岐史博徳」の名前が見えています。彼はこのとき「筑紫太宰の辞」と称して「郭務宋」と対応しています。

「六六四年」「(天智三年)夏五月戊申朔甲子(一七日)、百済の鎮将劉仁願、朝散大夫郭務宗*等を遣して、表函と献物を進る。」

さらに、この記事については『善隣国宝記』が引用する『海外国記』という書物に経緯がかなり詳しく載っています。

「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務宗*等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於別館。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有将軍牒書一函并献物。乃授牒書一函於智弁等、而奏上。但献物宗*看而不将也。
 九月、大山中津守連吉祥・『大乙中伊岐史博徳』・僧智弁等、称筑紫太宰辞、実是勅旨、告客等。今見客等来状者、非是天子使人、百済鎮将私使。亦復所賚文牒、送上執事私辞。是以使人(不)得入国、書亦不上朝廷。故客等自事者、略以言辞奏上耳。
 一二月、博徳授客等牒書一函。函上著鎮西将軍。日本鎮西筑紫大将軍牒在百済国大唐行軍總*管。使人朝散大夫郭務宗*等至。披覧来牒、尋省意趣、既非天子使、又無天子書。唯是總*管使、乃為執事牒。牒又私意、唯須口奏、人非公使、不令入京云々。」

 この記事を見ると、「郭務宋」については唐皇帝からの「正式」な使者ではないし、「表」(手紙)も皇帝のからのものではない(「国書」ではない)と言うことで、受け取りと「倭国王」との面会を「拒否」しています。この時対応した人物として「伊岐史博徳」の名前が出ています。
 そしてその翌年に「劉徳高」や「郭務宋」などの唐国からの使者が「筑紫」に来た際に、彼らの帰還に併せて「守君大石等」が唐国に派遣されていますが、(六六七年になって)彼らの帰国を「劉仁願」の使者「司馬法聡」が「筑紫都督府」に送ってきた際の「返送使」として「司馬法聡」を送り返す役で「伊吉連博德」が登場したというわけです。

「六六七年」「(天智天皇六年)十一月己巳(十三日)司馬法聰等罷歸。以『小山下伊吉連博徳』。大乙下笠臣諸石爲送使。」

 この時点で「史」から「連」になっていることがわかりますが、また官位も「大乙中」から「小山下」に昇格しており、これは二十六階中十八位であり二階級特進となります。それはこの時の「唐使」との対応などに活躍したことが認められたものと思われます。しかしその後突然「位階」の上昇がなくなるというわけであり、この時点以降昇進が止まったように見えるわけです。それはちょうど「薩夜麻帰国」「壬申の乱」「近江朝廷の滅亡」という中で「伊吉氏」自体がその政治的位置がハッキリしなかった(というより「天武」-「薩夜麻」側につかなかった)ことが響いているように見えます。
 「伊吉博徳」自体は「壬申の乱」には登場しませんが、彼の一族と思われる「壹伎史韓國」は「近江朝廷軍」の一員として登場します。このことは「伊吉博徳」も「近江朝廷軍」に属していたという可能性を感じさせるものであり、そうであるなら「位階」がその後かなり時間が経過するまで上昇しなかったことも説明がつきそうです。またそのような政治的立場であるなら「大津皇子」の「謀反事件」に連座したのもわかるような気がします。
 このとき「大津皇子」をそそのかしたという事で「新羅僧」が捕らえられ追放されますが、そのようなことは「伊吉氏」自体が「新羅」と深い関係があったことを示唆するものといえます。その後「遣新羅使」に任命されているのもそれが関係しているのかもしれません。

 

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