前の記事では『推古紀』の国書の内容について「寶命」以外の用語について検討したわけですが、ではその「寶命」についてはどうでしょうか。
古田氏は「寶命」は「天命」と同じであり「新王朝」の「初代皇帝」にのみ使用しうるものという指摘をしたわけですが、以前の論ではその点について考察し、その論は「成立しない」という結論を得ていました。( http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/0fe367f7d379c0e9e0bea6d88bac48ea、http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/9a4ba8f3140ff054149fde9c2c097529、http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/f66eeca2c64b1d1e7cf8bfb0172f1a5b )、
今回再度その例とその語義について確認している際に「煬帝」と「唐太宗」の使用例について別の考え方があることに思い至りました。
そこでは「寶命」は古田氏が言うような「新王朝」の「初代皇帝」だけに使用可能な語ではないという傍証として「煬帝」と「唐太宗」の二人についての使用例を挙げたのですが、その例が『大正新脩大蔵経』の中にあるものであり、その文脈として「出家」(得度)と関係あることに気がついたのです。
以前考察した際には「寶」のつく語には「皇帝」に関する事と「釈迦」に関する事と二種類あると見ていました。(いずれも「至上」「至高」という共通の意義があると思われる)それは今でも変わりありませんが、この二人の例は「皇帝」に関わるものではなく後者の「釈迦」に関するものではないかと思われるようになったのです。
(煬帝の例)
「大業三年正月二十八日。菩薩戒弟子皇帝。總持稽首和南十方。一切諸佛十方一切尊法十方一切賢聖 竊以妙靈不測。感報之理遂通。因果相資。機應之徒無爽。是以初心爰發。振動波旬之宮。一念所臻。咫尺道場之地。雖則聚沙蓋鮮。實覆匱於耆山。水滴已微。乃濫觴於法海。弟子階緣宿殖。嗣膺『寶命』臨御區宇。寧濟蒼生。而德化弗弘刑罰未止。萬方有罪寔當憂責。百姓不足用增塵累。夙夜戰兢如臨淵谷。是以歸心種覺。必冀慈愍。謹於率土之內。建立勝緣。州別請僧七日行道。仍總度一千人出家。…」(大正新脩大藏經/史傳部四/二一〇三/廣弘明集卷二十八/啟福篇第八/序/梁簡文謝敕齎袈裟啟三首/隋煬帝行道度人天下敕)
(太宗の例)
「門下三乘結轍濟度為先。八正歸依慈悲為主。流智慧之海。膏潤群生。翦煩惱之林。津梁品物。任真體道理叶至仁。妙果勝因事符積善。朕欽若金輪恭膺『寶命』。至德之訓無遠不思。大聖之規無幽不察。欲使人免蓋纏家登仁壽。冥緣顯應大庇含靈。五福著於洪範。三災終於世界。比因喪亂僧徒減少。華臺寶塔窺戶無人。紺髮青蓮櫛風沐雨。眷言彫毀良用憮然。其天下諸州有寺之處宜令度人為僧尼。總數以三千為限。…」(大正新脩大藏經/史傳部四/二一〇三/廣弘明集卷二十八/啟福篇第八/序/梁簡文謝敕齎袈裟啟三首/唐太宗度僧於天下詔)
この二例はいずれも「仏教」との強い関連の中で「寶命」を使用しており、この「寶」が「皇帝」ではなく「釈迦」に関する事例として述べられたものではないかと考えられるわけです。ただし「煬帝」の例は「嗣膺」という前皇帝からの継承を示唆する用語が使用されていますから、「二代皇帝」であることを強調する意義という可能性もありますが、「太宗」の場合はそのような用語がなく、これは「仏陀(釈迦)」の教えを念頭においた用語法という可能性があります。
この例は「寶命」が「先朝」あるいは「前皇帝」からの禅譲を示す意義があるとした傍証とはならないのかもしれません。つまり別の事情により「寶命」という語を使用したという可能性があるからであり、さらに検討が必要です。
(ただし、すでに指摘したように「寶命」が「禅譲」の際に使用される性質があるという点は変わらないと思われ、論旨に大きな変更があるというわけではありません)