以前『魏志倭人伝』の中で「魏使」が「末盧国」経由で入国していた件について書きましたが(http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/19ded18130b5acdcf32dcf51c4e6b123)、
今回「山野草氏」のブログ(http://39228087.at.webry.info/)に「佃収氏」の論として「博多湾」の水深の話が出ていました。それによれば大型の構造船が進入できるほど博多湾は深くはないということを示されており、大変参考となりました。(自分でも色々調べその正しいことを確認しています)そのことにより「末盧国」へと誘導された理由がより明確となったものであり、納得しました。
ただし「論旨」として「一大率」が「北方防衛」という重要任務を背負っていたとみる点には変わりなく、それは「倭」の諸国ではそれほどの「大型船」をまだ利用していなかったであろうと思われ、その意味で「小型船」なら「博多湾」への侵入も可能であったと思われることはいえます。(後の「新羅」人による「海賊」の同様であったと思われます)
上の記事でも書きましたが、平安時代の「博多警固所」の所在地は、それ以前から「大津城」があったとみられる場所であり、それが「卑弥呼」の代の「一大率」からつながるものであり、彼らが警戒していたのは「国内」からの「侵入者」であったという理解は妥当と考えています。
有力な情報ありがとうございます。
今回「山野草氏」のブログ(http://39228087.at.webry.info/)に「佃収氏」の論として「博多湾」の水深の話が出ていました。それによれば大型の構造船が進入できるほど博多湾は深くはないということを示されており、大変参考となりました。(自分でも色々調べその正しいことを確認しています)そのことにより「末盧国」へと誘導された理由がより明確となったものであり、納得しました。
ただし「論旨」として「一大率」が「北方防衛」という重要任務を背負っていたとみる点には変わりなく、それは「倭」の諸国ではそれほどの「大型船」をまだ利用していなかったであろうと思われ、その意味で「小型船」なら「博多湾」への侵入も可能であったと思われることはいえます。(後の「新羅」人による「海賊」の同様であったと思われます)
上の記事でも書きましたが、平安時代の「博多警固所」の所在地は、それ以前から「大津城」があったとみられる場所であり、それが「卑弥呼」の代の「一大率」からつながるものであり、彼らが警戒していたのは「国内」からの「侵入者」であったという理解は妥当と考えています。
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