単なる思い付きを書きます。
たまたま山田氏のブログで「百済」の「嶋王」に関することが書かれており、その中に「昆支君」について「軍君」と書かれているのを見て、その「軍」の「音」が「こん」であることを思い出しました。
「(雄略)五年…
夏四月。百濟加須利君盖鹵王也。飛聞池津媛之所燔殺適稽女郎也。而籌議曰。昔貢女人爲釆女。而既無禮。失我國名。自今以後不合貢女。乃告其弟『軍君崑攴君也』曰。汝宜往日本以事天皇。『軍君』對曰。上君之命不可奉違。願賜君婦而後奉遺。加須利君則以孕婦。既嫁與『軍君』曰。我之孕婦既當産月。若於路産。冀載一船。隨至何處速令送國。遂與辭訣奉遣於朝。
六月丙戌朔。孕婦果如加須利君言。於筑紫各羅嶋産兒。仍名此兒曰嶋君。於是『軍君』即以一船送嶋君於國。是爲武寧王。百濟人呼此嶋曰主嶋也。
秋七月。『軍君』入京。既而有五子。百濟新撰云。辛丑年盖鹵王遣王遣弟昆攴君。向大倭侍天皇。以脩先王之好也。」
「軍」を「ぐん」という「音」として使用するのは現在は普通ですが、これは後代の「慣用音」であり当時は「漢音」も「呉音」も同じく「こん」でした。「軍布」が「昆布」の表音であるらしいこともそれを示します。そう考えれば「軍君」は「昆支君」とほぼ同音であることとなります。つまりこの「軍」は「軍事」関係を示すものではなく(つまり「表意」ではなく)「音」だけを借りたものと思われるわけです。
この「昆支君」と同様に「軍」を使用して呼称される人物が「万葉集」に出てきます。
「万葉集五番歌」「幸讃岐國安益郡之時軍王見山作歌 霞立 長春日乃 晩家流 和豆肝之良受 村肝乃 心乎痛見 奴要子鳥 卜歎居者 珠手次 懸乃宜久 遠神 吾大王乃 行幸能 山越風乃 獨<座> 吾衣手尓 朝夕尓 還比奴礼婆 大夫登 念有我母 草枕 客尓之有者 思遣 鶴寸乎白土 網能浦之 海處女等之 焼塩乃 念曽所焼 吾下情
右檢日本書紀 無幸於讃岐國 亦軍王未詳也 但山上憶良大夫類聚歌林曰 記曰 天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午幸于伊<与>温湯宮[云々] 一<書> 是時 宮前在二樹木 此之二樹斑鳩比米二鳥大集 時勅多挂稲穂而養之 乃作歌[云々] 若疑従此便幸之歟」
ここでも「軍王」が出てきます。これは通常「扶余豊」(余豊樟)のこととされています。しかし読みは「こにきし」とされており、「余豊」とつながりのない名前です。
この「軍」が「軍隊」の「軍」を示すものであるなら、当然「余豊」は「将軍」でなければなりません。しかし『書紀』のどこにも「余豊」が「将軍」であったということは触れられていません。このように「軍」が「軍事」を示すものであるなら、「余豊」という存在と「軍」の関係が明確でないことと矛盾します。とすればこの「軍」は名前を示す「表音」とみる必要があります。それなら「昆支君」である「軍君」と同じということとなってしまいます。つまり「こん」という音が名前に入っている人物を想定する必要がありますが、特に見当たりません。このことから「昆支」自身を指すものではないかという疑いが生じます。
一見両者は全く時代が異なるように思われますが、それは注に示された「山上憶良」の歌集の記述に引っ張られているためであり、そこでも述べられている様に実際にはこの両方の記事は「整合していない」のです。単にその内容は「伊予」と「讃岐」という地域名がたまたま同様の領域を指すものであったために「無理に」引き合いに出されたものであり、関係として成立していないように見えます。(だからこそ「舒明」から「斉明」に至る『書紀』には出てこないと思われるわけです)
「万葉集」の場合その配列は基本的には年法では並んでいるとは言えませんから、前後と違う年代のこととみてもそれほど不自然ではありません。特に一番歌は「雄略」の歌とされているぐらいですから、それと同時代の歌が並んでいるとみることもできるでしょう。
つまりこの「軍王」は「昆支君」を指すのではないかということを述べてとりあえず「思い付き」として提示しておきます。(以降、論が発展するかはわかりません)
たまたま山田氏のブログで「百済」の「嶋王」に関することが書かれており、その中に「昆支君」について「軍君」と書かれているのを見て、その「軍」の「音」が「こん」であることを思い出しました。
「(雄略)五年…
夏四月。百濟加須利君盖鹵王也。飛聞池津媛之所燔殺適稽女郎也。而籌議曰。昔貢女人爲釆女。而既無禮。失我國名。自今以後不合貢女。乃告其弟『軍君崑攴君也』曰。汝宜往日本以事天皇。『軍君』對曰。上君之命不可奉違。願賜君婦而後奉遺。加須利君則以孕婦。既嫁與『軍君』曰。我之孕婦既當産月。若於路産。冀載一船。隨至何處速令送國。遂與辭訣奉遣於朝。
六月丙戌朔。孕婦果如加須利君言。於筑紫各羅嶋産兒。仍名此兒曰嶋君。於是『軍君』即以一船送嶋君於國。是爲武寧王。百濟人呼此嶋曰主嶋也。
秋七月。『軍君』入京。既而有五子。百濟新撰云。辛丑年盖鹵王遣王遣弟昆攴君。向大倭侍天皇。以脩先王之好也。」
「軍」を「ぐん」という「音」として使用するのは現在は普通ですが、これは後代の「慣用音」であり当時は「漢音」も「呉音」も同じく「こん」でした。「軍布」が「昆布」の表音であるらしいこともそれを示します。そう考えれば「軍君」は「昆支君」とほぼ同音であることとなります。つまりこの「軍」は「軍事」関係を示すものではなく(つまり「表意」ではなく)「音」だけを借りたものと思われるわけです。
この「昆支君」と同様に「軍」を使用して呼称される人物が「万葉集」に出てきます。
「万葉集五番歌」「幸讃岐國安益郡之時軍王見山作歌 霞立 長春日乃 晩家流 和豆肝之良受 村肝乃 心乎痛見 奴要子鳥 卜歎居者 珠手次 懸乃宜久 遠神 吾大王乃 行幸能 山越風乃 獨<座> 吾衣手尓 朝夕尓 還比奴礼婆 大夫登 念有我母 草枕 客尓之有者 思遣 鶴寸乎白土 網能浦之 海處女等之 焼塩乃 念曽所焼 吾下情
右檢日本書紀 無幸於讃岐國 亦軍王未詳也 但山上憶良大夫類聚歌林曰 記曰 天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午幸于伊<与>温湯宮[云々] 一<書> 是時 宮前在二樹木 此之二樹斑鳩比米二鳥大集 時勅多挂稲穂而養之 乃作歌[云々] 若疑従此便幸之歟」
ここでも「軍王」が出てきます。これは通常「扶余豊」(余豊樟)のこととされています。しかし読みは「こにきし」とされており、「余豊」とつながりのない名前です。
この「軍」が「軍隊」の「軍」を示すものであるなら、当然「余豊」は「将軍」でなければなりません。しかし『書紀』のどこにも「余豊」が「将軍」であったということは触れられていません。このように「軍」が「軍事」を示すものであるなら、「余豊」という存在と「軍」の関係が明確でないことと矛盾します。とすればこの「軍」は名前を示す「表音」とみる必要があります。それなら「昆支君」である「軍君」と同じということとなってしまいます。つまり「こん」という音が名前に入っている人物を想定する必要がありますが、特に見当たりません。このことから「昆支」自身を指すものではないかという疑いが生じます。
一見両者は全く時代が異なるように思われますが、それは注に示された「山上憶良」の歌集の記述に引っ張られているためであり、そこでも述べられている様に実際にはこの両方の記事は「整合していない」のです。単にその内容は「伊予」と「讃岐」という地域名がたまたま同様の領域を指すものであったために「無理に」引き合いに出されたものであり、関係として成立していないように見えます。(だからこそ「舒明」から「斉明」に至る『書紀』には出てこないと思われるわけです)
「万葉集」の場合その配列は基本的には年法では並んでいるとは言えませんから、前後と違う年代のこととみてもそれほど不自然ではありません。特に一番歌は「雄略」の歌とされているぐらいですから、それと同時代の歌が並んでいるとみることもできるでしょう。
つまりこの「軍王」は「昆支君」を指すのではないかということを述べてとりあえず「思い付き」として提示しておきます。(以降、論が発展するかはわかりません)