古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

通りすがりの素人様の問題提起に対して(二)

2018年11月30日 | 古代史

通りすがりの素人様

コメントありがとうございます。

頂いたコメントの中で「唐」からの「新羅」と「倭」の年号強制に対する違いについて書かれていますが、ずっと以前「賀正礼」について書いた中で( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/748756ce83f5c448b28b91146d530f90  )「新羅」は「唐」に軍事援助を要請する代わりに「唐」の制度等を受容せざるを得なかったものであり、「倭国」はそれらを自主的、選択的に受容したと見ました。そのような中に「暦」「年号」があったと見るべきではないかと考えます。

 「倭国」の場合は「南朝」より配下の将軍として称号を得ていますが、「絶域」の域外諸国として「柵封」に準ずる立場であったと思われ、純然たる「柵封国」とは(「唐」における「新羅」と「倭」の違いのように)異なり、「暦」「年号」の受容は「倭国側」の任意の範囲であったものと思われ、結果的に最新技術としての「暦」だけを受容することとなったと見ています。
 また既に触れたように「宗主国」のものではなく「独自年号」の先行使用例として「高句麗」がありました。
 「高句麗」は「北朝」からも「南朝」からも「柵封」されており、しかも「北朝」からの「柵封」が遅れています。逆に言うと彼らにとって重要なものは「北朝」との関係であったと思われます。その証拠に「柵封」を受けるのとほぼ同時期に「南進政策」を展開するようになりますが、それは「北朝」との国境に対する警戒レベルの低下があったと見られます。現に「百済」侵攻後「百済」から訴えを聞いたにも関わらず「北朝」(北魏)はその後も全くこの紛争に関与することなく結果的に「高句麗」の侵攻にお墨付きを与えた形となっています。
 このような流れの中においても「高句麗」は「北魏」の年号を使用せず「独自年号」を使用していました。そのことはこの当時「宗主国」から「年号」の使用強制がなかったことを窺わせます。陸続きで国境を接している「北魏」と「高句麗」の間においてさえそうなのですから、はるか海を隔てている「南朝」(劉宋)と「倭」の間にそのような関係があったとは考えなくて良いのではないかと見たわけです。
 「北魏」や「劉宋」などにおいてもそうですが「改元」は「王(皇帝)」の代替わりや遷都、瑞祥などにその契機があり、そうであればそれらは個々の国々においても同様の事情が存在したわけであり、「改元」するタイミングについて「宗主国」と違って当然と言うこととなります。そのため「基本」としては「年号」は受容すべき制度としてなじまないものではなかったでしょうか。
 「年号」や「暦」などの使用がその王権の絶対性、超越性の確立や確保に有効に機能したことは疑い得ず、その意味からも「倭国」における使用や改元等は「倭国」の事情にもとづく方が有効と思われます。「新王」即位と同時に「改元」するなどにより「新王」への交代が明確になるわけであり、そのことは「新王」支配に有効であったものと思われる訳です。

コメント

通りすがりの素人様の問題提起に対して

2018年11月30日 | 古代史

通りすがりの素人様

コメントへの返答ありがとうございます。
ご指摘の「倭国王」の「改元」能力の有無の問題や、「物部」の「年号発布の可能性」については、かなり重要な指摘を含んでいるものであり、コメント欄に書くにはボリュームがありすぎるので、記事としました。

 ご指摘の点については確かに起こりえた内容と思います。それに関連して以前考察したものを再度読み直し、また考察してみました。それは「倭国への仏教伝来」というタイトルで書いたものです。( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/e5a7414b9f47386371cc3b28eb43e993 から続く一連のもの)
 その中で『二中歴』についてそこに書かれた「干支」は(少なくともその一部、特に前半部部分)は通常理解されているものに対して六十年遡上した年次が真のものではないかと推測しました。そしてそのような「潤色」が行われた原因の一つとして「磐井の乱」の影響を指摘したものです。(以下当時の記事から)

「…以上いくつか例を挙げて考察しましたが、これらから考えて『二中歴』(少なくとも一部)には「年次移動」の可能性が考えられますが、それは『書紀』の年次移動との関連が考えられ、その「原因」となるものについて考えると、「新日本国王朝」への列島代表権力の交替のいきさつが関係していると思われます。
 「新日本国王権」への権力移動の実体は未だ明らかとなっていませんが、逆にそのことから「新日本国王権」はそのような事情を隠蔽しようとしたと見られることとなります。つまり詳細を明らかにしたくなかった事情があったわけであり、そのため「新日本国王権」は「難波朝」の「倭国王」により編纂された『日本紀』を「消し」、またそのため『二中歴』の「原資料」となったもの(これは『百済本紀』の史料ともなったもの)についても改定し「年次」を変更することとなったのではないでしょうか。

 また、それと併せて考えなければならないのが「五三一年」に起きた「磐井の乱」です。これにより「倭国王」は「筑紫」の地から追われ「肥後」に「蟄居」せざるを得なくなり、「権威」が著しく失墜することとなったと考えられます。これは「物部守屋」が滅ぼされる「五七八年」までの約「六十年間」続くものであり、この間の「年号」は制定されなかったか、記録されなかったものと推察されます。この「汚点」を消すためにも「干支一巡」(六十年)ずらした史料を作成したのではないでしょうか。
 この期間は「近畿」で「阿蘇」の「凝灰岩」を使用した「古墳」が作られなくなるなど、「倭国王」の権威が著しく損なわれた時期であり、「肥後」に押し込められていた「倭国王」にとって「改元」などの行為が可能であったか、かなり疑問でもあります。「葛子」以降の倭国王にとっては「雌伏」の時期であったと考えられます。
 このズレは『二中歴』(及び「現行日本書紀」と『続日本紀』及び『百済本紀』)の原資料となったものについて行われたものであり、先ず第一に「阿毎多利思北孤」の「倭国再統一」という中で「年号群」の「整理」が行われた後、「新日本国」王権により再度書き換えられるという事となったものと思料します。

 「阿毎多利思北孤」ないしはその後継王朝である「利歌彌多仏利」段階では、各種の制度導入と共に『万葉集』『風土記』などの収集と編纂が行なわれたものと見られますが、それらと同時期に「史書」の作成が行われたとして不思議ではないと思われます。それが「原・古事記」とでもいうべきものであったとみられるわけです。
 彼等は『書紀』で「天孫降臨神話」を重要な位置づけとしていることから考えても、そこに使用されている「天降る」という用語の用法から考えても、明らかに「革命王朝」ともいえるものですから、「神話」も含めた「帝王日継」などを「新たに作成」したと考えられます。しかし彼等が「革命王朝」という性格を持っていたとすると、「帝王日継」の中身としては相当「稀薄」なものであった可能性が高く、「倭国本流」の記録ないしは「近畿王権」の記録を借用したという可能性があるでしょう。
 また「物部」に支配されていた「六十年」は屈辱であり、これを「消去」しようとしたという想定も有り得るでしょう。そのような思想で「倭国」の史書が書かれたとすると、その年次や記事内容が『百済本紀』や『二中歴』に反映しているという可能性はかなり高くなると思われるものです。


(この項の作成日 2011/07/16、最終更新 2015/02/15)」

 以上、現在の視点で見ると論旨としてはすこぶる曖昧であり、また不完全と思います。しかし基本的な部分、つまり「年次移動」の可能性については依然として有効と考えているものの、「磐井の乱」時点から「守屋滅亡」時点までの年号群あるいは「細注」について、そのままの移動の可能性を考えているわけではありません。少なくとも「元岡古墳」出土の「四寅剣」の存在から「金光」元年が「五七〇年」であるという点は動かないと思われますから、移動があるとすると「最初」の「継体」から「「金光」以前のどこか」(多分「直前」)までのおよそ「六十年」分についてそっくり「六十年遡上」して考えるのが相当と思っています。つまり「五一七年」付近から「五七〇年付近まで」の六十年間弱が「空白」であったのではないかと思われ、「阿毎多利思北孤」によって「欺瞞」の史書が作成され、それにより正当化が行われ「年号」つまり「権力」の空白が隠蔽されることとなったと思われる訳です。それは「倭国王権」の弱体化あるいは中断によるものですが、その間に「物部」が年号を発布していたとしても不思議ではないと思われるものの、現時点でその可能性があるものが確認できないことから、彼らが「年号」を発布していたとまではいえないとも考えています。
 彼らに「革命王権」という意識があったとすると「受命改制」に則り「建元」つまり「年号」を新しく始める他制度等も新しく作り直すことや改暦など種々の事業を行ったはずですが、それらは全く確認できません。その意味で「物部」はあくまでも「武人」としての本領から「力」により倭王権やそれに同調する筑紫の勢力を押さえ込もうとしていたと見られ、制度など文化的な部分をその統治に組み込むことは考えていなかったものではなかったかと考えています。(つまり「制度」等はそのまま流用するというスタンスか)

 ところで、この「空白期間」つまり「年次移動」されたと見られる期間が「五三一年から五八七年」までではなく「二十年弱」遡上した「五一七年付近」から「五七〇年付近」であるのはなぜかと言うこととなりそうですが、それに関しては後の「遣隋使」記事に対して『書紀』が正規の年次から「ずれていた」件と関係があるという見方もできるのではないでしょうか。
 「遣隋使」の派遣年時は『書紀』に書かれた年次から「二十年ほど」遡上した「開皇年間」の半ば以前と推定しましたが、これは『隋書』に合わせるための「無理」であり、その「無理」がかなり以前の記事にまで影響したということも考えられ、そのため『書紀』(というより「原・書紀」か)とそれに影響されたと思われる史料に同様の年次移動が見られるのではないかと思われ、『二中歴』や「百済系資料」にも同様の年次移動があるのではないかと考えています。

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