Sanmao様(山田様)のブログはいつも刺激を受ける記事であふれていますが、今回は石田泉城氏(「古田史学の会」の友好団体である「古田史学の会・東海」の関係者)の論について書かれており( http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/03/post-88d7.html )、そこでは『魏志倭人伝』に書かれた「投馬国」の位置に関して書かれていました。しかしその内容にやや異議があったことから以下のようなコメントをさせていただきました。
『「石田氏は「そもそも朝鮮半島は斜めに陸行してきた」とし、また「陸行できる場所であれば陸行するはず」としていますが、そうとは決められないと思います。石田氏の論理は半島が「全陸行」であった場合有効と思いますが、実際には一部「水行」です。石田氏及びこれに賛意を示した山田様はこれをどう捉えているのでしょうか。なぜ「全陸行」ではないのかが明確でなければ「水行」とあるから「九州島の内部ではない」とは即断できないと思います。
私見を示すと、「半島」の移動は「本来は全水行」としたかったものの、危険な水域があったため「陸行」せざるを得なかったと見ています。
当時「沿岸航法」を採用する限り、遠距離移動は「水行」が最も適した移動手段であったと思われます。「陸行」するには「道」が必要であり、当時「半島」も「倭」も遠距離移動のための「道」が整備されていたとは思われないからです。
「陸行」の場合野生動物(狼、虎、野犬など)の危険もあり、さらに夜盗などに出会うことも想定する必要があります。悪天候にあっても避難場所があるかどうかさえ判りません。今のように方向指示があるわけでもなく、「陸行」がそれほど安定的な移動手段であったかは疑問です。
『倭人伝』の中には「行くに前を見ず」という表現もあり、「道路整備」がそれほど進んでいなかったらしいことが窺え、「陸行」には障害が多かったのではないでしょうか。ただ半島の場合「西南部」には島が多いことと陸地が複雑な出入りをしており、「沿岸航法」では座礁の危険性があると認識していたものではないでしょうか。そのため「陸行」に切り替えたものと考えています。いわば「やむを得ず」という形ではなかったでしょうか。
このことから「投馬国」の位置についての議論においても、「全水行」だから行き先が「島」であるとは断定できないとみています。たとえ「陸行」で行ける場所であっても「水行」の方が「安全」と判断されたからともいえる余地があるからです。』
これに対して山田様から示された当方のコメントに対する山田氏のコメント「 http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/03/post-88d7.html#comment-142360602 」及びその後掲載された論「 http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/03/2019-4841.html 」)を見て、違和感を感じました。私の論とかなり噛み合っていなかったからです。もちろん「ミスリード」してしまったのは私の方であり、何か誤解のある書き方をしたのかもしれないなと思っています。
当方のコメントの趣旨は「郡治から狗邪韓国までが全陸行ではない」という基本認識から始まっています。文章から見て当初は「水行」しているのは明らかですから「郡治から当初水行」した後「陸行」に移っていることとなりますが、この最初の「水行」の持つ意味は何かというところに着眼したものです。なぜ最初から「陸行」ではないのかというところから「陸行で行けるところであれば陸行したはず」という石田氏の提示した主題と矛盾している実態があることについての言及がないことを指摘したものです。
ということでの当方の論は「投馬国」の位置の問題というより、それを「島」と決めた石田氏の論についてのものであったわけです。しかし山田様の議論を見ていて「私見」がより深まったことは確かであり(それは山田様の論理進行とは異なりますが)、良い機会を与えていただいたことに感謝いたします。
以前から当方は「一大率」が「魏使」の案内役であったこと、「魏使」(あるいは「郡使」)が「卑弥呼」と面会するなどの際に全てを「一大率」がサポートしていたであろうことを推定していました。これに加え今回の議論の中でその「一大率」が「常治」していたという「伊都国」の重要性が更に明らかとなったと見ています。
「東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。 」
ここでは「伊都国」について「郡使往來常所駐」という書き方がされており、このことは「伊都国」がいわば「ベースキャンプ」とでもいうべき位置にあったと思われ、ここは列島内各国へと移動・往来する際の拠点となっていたと考えられますが、それを示すのがその直後に書かれた以下の記事です。
東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。
これらの記事はいわば「道路」の「方向・距離表示板」の如く「行程」記事が書かれていると考えます。つまり全て「伊都国」からの方向と距離を示していると考えるものです。(但し「邪馬壹国」の「水行十日陸行一月」は「郡より倭に至る」全日数がここに記されているとみるのが自然であり、そうであれば総距離の「万二千余里」とも矛盾しないのは既に明らかです)
つまり上に見るように「伊都国」からの「方向・距離」が書かれている中に「投馬国」についてのものがあるわけであり、その「起点」は当然「伊都国」と見るべきと考えます。
またここに書かれた「邪馬壹国」以外は「邪馬壹国」へ赴いた後に(つまり「帰途」)「伊都国」へ戻りそこから「奴国」「不彌国」「投馬国」へと足を伸ばしたものと推定しています。またそれはもちろん「一大率」の案内の元であり、「投馬国」へ行きそこを視察した後(「伊都国」に戻った後)最終的な帰途についたという行程を想定しています。
また「私見」では、というより大方の意見もそうでしょうが、この行程記事は「魏使」が「印綬」「黄幢」などを擁して「卑弥呼」に会見するために来倭した「弓遵」「張政」などの報告がベースとみています。そうであるなら石田氏が提唱し山田様が賛意を表明したように、「投馬国」がもし「郡治」から二十日間水行した場所にあるという推測が正しいとすると、「投馬国」には「郡治」から誰が案内したのかと考えてしまいます。明らかに「一大率」ではありません。彼らは「対馬国」に至って初めて「魏使」の案内をすることとなったものと考えられ、「郡治」から案内できたとは思われません。
そもそも『倭人伝』の行路記事は「郡より倭に至るには」という書き出しで始まり「女王の都するところ」という記事で結ばれるわけですから、その動線は一本の線でつながっていて当然です。またその動線の中で「対馬国」以降「詳細」が記されるようになるということ及びこれ以降「一大率」が案内役となったと推定できることから考えて、ここに「国境」があったらしいことを考えると、「郡治」から直接「投馬国」へというルートがあったとは考えられないこととなります。それでは「倭王権」があずかり知らぬところで「直接的交渉」が行われている事になってしまいます。あくまでも「外交交渉」の窓口は「対馬国」でありまた「伊都国」であったと思われますから、「投馬国」についての記事は「郡治」からのものではないと考えざるを得ません。
また「今使譯所通三十國」つまり「郡治」との交渉がある国が三十国あるという記事もありますが、「郡使」の「往来」は全て「伊都国」経由であるという記事と関係して考えると、それら「三十国」との交渉も全て「伊都国」を経由していたことを推定させるものであり、その中に「投馬国」もあったという可能性が高いことを考えると、その「投馬国」も「一大率」の検察下にあったこととなりますから「一大率」の目の届かないところでの「郡治」との直接交渉が「投馬国」など「諸国」との間にあったとは思われないこととなります。それは「一大率」の「検察」範囲が「女王国以北」とされていることでも判ります。
「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國 於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」
ここで「一大率」の「検察」する対象範囲が「自女王国以北」とされていますが、この表現は「自女王國以北、其戸數道里可得略載」という文章中の「自女王國以北」と同一ですから、「戸数道里」が記載されている「投馬国」は当然「一大率」の検察対象である「諸国」の中に入っていると理解すべきでしょう。そうであれば「投馬国」への行程も「一大率」が誘導したことは明らかであり、その場合「伊都国」からの動線以外考えられず、「投馬国」の方向指示である「南」という字句は「郡治」を起点としたものとは考えられないこととならざるを得ないものです。
ただし石田氏及び山田氏が特に問題とされた「南至投馬国」という表現と「自女王国以北」という表現の齟齬については現時点で「名案」というほどのものはありません。ただ、上で推察したように「一大率」の「検査対象」の「諸国」の中に「投馬国」があると考えると、「自女王國以北、其戸數道里可得略載」という文章にも「諸国」が隠されていると思われ、この「諸国」の中にも「投馬国」は入っているはずですが、「投馬国」以外は全て「邪馬壹国」の「北」にあることは確かと思われますから「諸国」という概念で括ってしまうと「投馬国」が「伊都国」から見て「南」にあった場合でも、いわば「十把一絡げ」にされてしまったという可能性があり、本来は「投馬国」だけ「実際には南にある」という但し書きをつけなくてはならないものを「煩雑」として省略したのではないかと見ています。
いずれにしましても考察を深める機会を与えて頂いたこと山田様及び石田氏に感謝する次第です。