「公文」には「年号」を使用するべしというルールが「大宝」以前にはなかったと推察したわけですが、それと関係していると思えるのが「白鳳・朱雀」という年号について「聖武天皇」が「詔」の中で「年代玄遠」としていることです。
(神龜元年(七二四年))冬十月丁亥朔。治部省奏言。勘検京及諸國僧尼名籍。或入道元由。披陳不明。或名存綱帳。還落官籍。或形貌誌黶。既不相當。惣一千一百廿二人。准量格式。合給公驗。不知處分。伏聽天裁。詔報日。白鳳以來。朱雀以前。年代玄遠。尋問難明。亦所司記注。多有粗略。一定見名。仍給公驗。
これを見ると担当官僚の奏上には「綱帳にはあるが、官籍にはない」という言い方がされています。その「官籍」については『書紀』(「天武紀」)に「寺院」が「国家」の管理下に入ったことを示す記事があります。
「(天武)八年(六七九年)夏四月辛亥朔乙卯条」「詔曰。商量諸有食封寺所由。而可加加之。可除除之。是日。定諸寺名也。」
ここに「寺封」記事があることさらに「寺名」を「定めた」という記事があることから、「諸寺」が「国家」の管理下に入ったを示します。「寺封」の額(量)は国家にとっての重要度などが重視されて決められると思われますが、一方抱えている「僧尼」の人数なども反映されていると思われ、そうであれば「僧尼」に対する「公験」もこの時点以降(国家により)行われるようになったと見るのが相当です。つまりこの時「僧尼」達も「国家」の管理下に入ったと見られるわけですが、すでにそれ以前に出家した人達は「綱帳」つまり「寺院」の側で保管していた記録に載っていただけで、「官籍」に載ってはいなかったこととなるでしょう。
「綱帳」は営々と続く出家の記録であり、僧尼になることを奨励した時期のものと思われます。その後「官」による管理下に置かれるようになりますが、それ以前は「王権」から積極的に奨励されていたものです。その「綱帳」には年号付きで記録が残されていたものではないでしょうか。
「綱帳」は「公文」ではなく、また「阿毎多利思北孤」以降「王権」と密接な関係があったものです。あるいは「仏教」関係の事案は「年号」付きで記録されていたのかもしれません。(『日本帝皇年代記』なども「仏教」関係者の記録と思われますが、「倭国年号」で紀年されています。)
但しこの段階では「倭国王権」の元であり、いずれにしろ「聖武」の王権(そこに至る王権)には手の出せない範囲のことであったものです。(これは「白鳳」年間のこととなります)
しかしこのような国家により「公験」を授ける行為は六八四年に発生した「白鳳地震」により停止せざるを得なくなったものと推量します。
「白鳳地震」では特に「近畿」地方に多大な被害を生じさせたものであり、寺社の類で倒壊したものなど人命・財産に強い影響があったものです。当然「浮浪者」なども多く発生したものと思われますが、このような段階で「僧尼」になって「負債」を免れようとするものが急増したものではないでしょうか。しかし国家の側はそれらに対して「公験」を授与するなどの行使を行わなかった(行えなかった)ものであり、これ以降「僧尼」と「寺社」に対する管理・監督が曖昧となってしまったものと推察されます。
この状態はかなり継続したものであり(そもそもこの地震被害が「倭国王権」から「新日本国王権」へと権力が移動する契機、というより少なくとも理由のひとつとなったとも考えられます)、「倭国」から「新日本国」へと「王権」の移動があった際に「僧尼」に対する許認可権も「新王朝側」へ移動したと見られるものの、「新王権」にもまだそれを執り行う能力がその段階では不足していたものであり、それが整ったのが「聖武」の時代になってからのことではなかったでしょうか。それを示すのが「公験」を授けるという記事です。
「(和銅)四年(七二〇年)春正月甲寅朔。…丁巳。始授僧尼公驗。」
これを見ると明らかに「始めて」という文言が使用されており、「公験を授ける」という権利の行使がここで始めて『新日本王権』により実行されるということになったことを示します。逆に言うとこの時点では「僧尼」に対する「公験」授与の根拠は「綱帳」側にだけ依存していたこととなります。ところがそのような「僧尼」の中に「白鳳以来」「朱雀以前」、つまり「白鳳」という年号を施行可能な「権威」つまり「前王朝」による管理下で「公験」を受けていた僧尼達の申し立てが含まれていたものであり、これをそのまま認めるのか、否定するのかが問われたと思われる訳ですが、そのとき「治部省」の役人はこの件をわざわざ天皇にまで裁可を仰ぐこととしたものです。その理由は「白鳳」「朱雀」という年号が出たからだと思われます。このような「前王朝」が関係している案件は最重要なものであり、一介の官僚が決定できる性質のものではなかったものでしょう。そして「聖武」はこの件について「白鳳」「朱雀」という「前王朝」に関する決定を回避し、一旦「リセット」する形で問題の解決を図ろうとしたものと思われます。そのようなものをそのまま全て「認める」としても「認めない」としてもこの段階で以前国内に相当数いたであろう前王朝の関係者及び傾倒者に何らかの「シグナル」を送ることにつながりかねず、不安定要因を増大させることとなってしまう危惧を抱いたからであろうと思われます。 そしてこの段階でそのような不安定要因は「九州」の内部に残存していたものであり、それはこの三年後の七二七年になってやっと「九州地方」の「庚午年籍」が「聖武」側に渡ったということからも推察できるものです。 この「戸籍」が「聖武」の側の手に入ったことでいわば「最後」の砦が落ちたわけであり、それ以前の段階ではまだクリチカルな政治状況があったというべきでしょう。「白鳳」「朱雀」という「年号」を「玄遠」として処理した「詔報」はそれを示すものと思われるものです。