古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「倭の五王」の統治領域

2020年02月16日 | 古代史
 以下は以前書いたものを再度考察し、若干変更したものです。

 倭の五王(この場合「武」)は南朝劉宋に宛てた上表文の中で、以下のように言っています。
「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。王道融泰にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。」
 この中の「東」と「西」については説が各種あるようですが、明らかに「南朝皇帝」の目から見てのものではありません。この中で「南朝皇帝」の視点からの記述(用語)として使用されているのは「衆夷」と「毛人」という用語だけです。
 ここでいう「衆夷」とは主に「西海道」の領域を指すと考えられ、「毛人」は中国地方及び四国の半分程度の領域を指すと思われます。近畿以東(関東までを含む)の地域を指すとは考えにくいと思われることとなりました。そう考える理由の主なものは「武」の上表文に書かれた「国数」です。
 「東」については「五十五国」、「西」については「六十六国」と書かれていますが、「海北」は「半島」のことを指すと見るべきですから、列島内では計「百二十一国」ということとなります。(『三国志東夷伝』によれば「馬韓」で「凡五十餘國」、「辰韓」と「弁辰」で「弁、辰韓合二十四國」とされますから、トータルで八十国程度となり、「九十五国」という表現とは確かに異なりますが、時代の差を考えるとそれほど違わないともいえます。)つまりここでいう「国」は「三世紀」の頃の「国」とその領域があまり異ならないという可能性を示すものであり、明らかに後の「令制国」のような「広域行政体」としての広さはないものと思われます。
 せいぜい後の「郡」程度であり、これを『和名抄』の「郡数」と比較すると「百二十一国」という領域は「九州」を中心として考えた場合「九州地方北半部」と「中国、四国」の半分程度までしか届きません。つまりここまでが「倭国」の中心領域であり、その遠方(以東)は「附庸国」であったと見るべきこととなるでしょう。(この直接統治領域の広さは『隋書俀国伝』に書かれた「百二十」いるという「軍尼」が治めている領域とほぼ同じとなります)
 それら「附庸国」に対して「征」する、「服」させる、「平」らげる等の直接的な軍事行動は取らなかったと思われ、せいぜい「使者」を派遣し「告諭」「宣諭」というような口頭による「威圧」的な内容ではなかったかと思われます。
 ちなみにこの時の「武」の本拠地が「近畿」にないと判断されるのもやはりその「国数」です。もし彼が「近畿」から周辺諸国を征服行動を行っていたとすると「西」とされる領域の「国数」が66では少なすぎるのです。
 仮にこの「西」に「近畿」が含まれないとしても「中国地方」は明らかにその中に入るでしょうけれど、この領域の「国数」だけで「100」を超えてしまいます。
 『和名抄』の「郡数」で見てみると「中国地方」は「長門・周防・安芸・備前・美作・備中・備後・石見・出雲・伯耆・因幡・隠岐・播磨」を合計すると「109」となってしまいますから整合しません。これら全ての領域を征服したのではないとしても、その西側の「西海道」を入れないわけにはいかないでしょう。なぜなら「海北」があるからです。
 「海北」つまり「半島」については「九十五国」としていますが、その足下である「西海道」が統治下の国数に入っていないはずがないからです。これらを考慮すると「西」の国数が圧倒的に少ないのです。仮に「海北」へのあしががりとなる場所が「西海道」ではないとした場合、そもそも「海北」という言葉が似つかわしくなくなりますし、「西海道」を統治下に入れずに「半島」へ向かうという行動原理が不明といえます。
 この「国数」のバランスから考えても「九州」に「武」の中心があったと見なければ「国数」の説明がつかないのです。 
 ただし、無理にこじつければ、「吉備」を一国として数え「長門・周防・安芸・吉備・播磨」のように日本海側を除外すると『和名抄』の郡数として「52」となり、そこそこ整合します。さらに「筑紫」「豊」「肥」も各々「一国」としてカウントした場合のみ「55」という数字が現れます。しかしこれを「合う」といえるのかが問題となるでしょう。
 この計算の前提は「吉備」「筑紫」「豊」「肥」が一つの「国」であったという前提が正しい必要がありますが、少なくともこれらの地域を統一的に支配する権力者の登場が必要であり、さらに「近畿」の権力者とは「無関係」にこのような強い権力者が現れる必要があります。でなければこれらの地域の中間地点が「小国」のままである理由が不明となります。つまり「近畿」からの影響力が「飛び飛び」に現れるという不可思議なこととなってしまう理由を説明できないのです。このようなご都合主義的な説明を考えなければならない時点で既に論理として破綻しているといえるでしょう。
 確かにこの「筑紫」「豊」「肥」「吉備」はかなり古くから後の「令制国」と同様「広域行政体」として機能していたと思われます。「磐井」の時点で既にそうであったわけですから、「倭の五王」時点でもそうであったという可能性はあります。しかしもしそうであったとしても「筑紫」「豊」「肥」が隣接していることを考えてもこれらの「国」などの地域をまとめられる上部権力はこの地域以外に存在してはいなかったとみるべきであり、それは「近畿」の権力者とは別個に存在していたと見るべきことを示すものです。これらのことから「武」の上表文に書かれた内容が「近畿」の王権が主張したものとは言えないものであり、やはり「筑紫」など「九州北半部」に拠点があった権力者が書いたものと見るのが相当と思われます。

(この項の作成日 2011/01/12、最終更新 2019/10/12)(旧ホームページより転記したものを改定)
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「天子」自称の理由

2020年02月16日 | 古代史
倭国からの遣隋使が「隋皇帝」に差しだした国書に「天子」を自称したという記事があるのは有名です。
(以下『隋書俀国伝』の当該部分)

「大業三年其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰 聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法。其國書曰 『日出處天子致書日沒處天子無恙云云』。帝覽之不悅謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者勿復以聞。」

 このように「倭国」からの国書に対して「皇帝」は「無礼」であるとして「不快」の念を示したとされています。これについてはすでに「天子」が複数存在しているような記述にあるとするのが一般的であり、当方もそれには同意します。明らかに「隋皇帝」は(私見ではこれは高祖(楊堅)と見ていますが)この文言について「皇帝」の「大義名分」を犯すものと理解したと推測します。なぜ「倭国王」(阿毎多利思北孤)はこのような言辞を弄したのでしょうか。巷間言われるような「対等意識」の故でしょうか。これについては私見ではそうとは考えません。「対等意識」と言うより「親近感」からのものではなかったかと見ています。
 なぜ「阿毎多利思北孤」は「天子」を名告ったのか。それは彼がほぼ「革命王朝」であることと関係していると考えます。彼は「隋」の高祖(楊堅)と自分の境遇を照らして「似ている」意識があったのではないでしょうか。
 「隋」の高祖「楊堅」は「北周」から「禅譲」を承けて「隋」朝廷を開いたものですが、彼はそもそも「北周」の王室に連なる人物ではなく、その意味では「革命王朝」と言ってもいいと思われます。それを証するように倭国への国書(推古紀に掲載されているもの)では「寶命」を使用していますが、それ以外の場では「天命」を強調しています。(例えば「高句麗」への国書やそれ以外の「詔」など)
 もちろん「隋」は「革命」によったわけではなく「年号」も「建元」ではなく「改元」(開皇)しており、基本としては禅譲を承けたこととなっていますが、実際には前王朝である「北周」の政治体制や政治の基調はほぼ全て否定しており、彼は全く新しい「隋」という国家を造り上げたものです。特に「宗教」(仏教と道教)について「楊堅」はそれまでの「北周」による「全否定」路線を改め、逆にこれを全面的に開放し、というよりむしろ積極的に宗教(特に仏教)を統治に利用する方向で国の体制を造り上げていったものです。
 これに対し「阿毎多利思北孤」の場合は(推測によれば)「倭国王朝」に連なる系譜(ただし多分「傍流」)であったと思われるものの、当時王権を「物部」にいわば「簒奪」されていた状況があり、彼に至ってこれを奪回したと考えられ、そうであれば「前王朝」とは断絶しているわけであり、ほぼ「革命」と言いうるものであったと思われます。その場合「天」からそのような「命」を承けたと言いうるわけですから、彼は「天子」であると称して不自然ではないこととなります。
 「楊堅」が「天命」を称している状況を見て、彼と同様の立場であると考えた結果「二人の天子」が生じることとなったものと思われる訳であり、それは別に「楊堅」に対抗する意図からではなく、いわば「親近感」の発露ではなかったでしょうか。
 彼は自分を「隋」から遠く離れた「絶域」にあり、また「隋」の臣下として存在しているわけではないのですから、「隋」の「天」の下にはないと考えていたとして不思議ではありません。「列島」は別の「天」の下にあると考えていたものではないでしょうか。この「阿毎多利思北孤」の考え方は実体としてはそれほど不自然ではなかったと思われるものの、「国書」として明記されるとさすがに「不穏当」と考えられたことは容易に想像でき、そのため「夷蛮の書に無礼がある」と判断されるに至ったものと思われます。
 この点については「文林郎」として派遣された「裴世清」に対して「倭国王」つまり「阿毎多利思北孤」が自らを「僻在海隅」つまり海の彼方にぽつんと存在しているという表現があり、やはり「隋」の「天の下」にいるわけではないと言うことを間接的に主張しているのが注目されます。

「既至彼都,其王與清相見,大悅,曰:「我聞海西有大隋,禮義之國,故遣朝貢。我夷人,僻在海隅,不聞禮義,是以稽留境?,不即相見。今故清道飾館,以待大使,冀聞大國惟新之化。」清答曰:「皇帝德並二儀,澤流四海,以王慕化,故遣行人來此宣諭。」(隋書/列傳第四十六 東夷/倭國)

 これに対し「裴世清」も「皇帝の徳」は「四海」に及ぶとして「阿毎多利思北孤」の主張を軽く否定しています。つまり「海の彼方であつても皇帝の天の下である」というわけです。これらは「見解の相違」という中に収斂しそうですが、それでは皇帝の権威が保てないと考えた「隋」の高祖により「宣諭」するという事態となったと見られるわけです。
 いずれにしても「阿毎多利思北孤」が「隋」に使者を送ったのは(裴世清に対する文言にもあるように)「隋」が「禮義之国」だからであり「維新之化」を学びたかったからであると思われ、その点からも「対等意識」があったはずがないといえるでしょう。ひたすら「倭国」を「維新」すること、「禮義之国」にすることを求めていたと見られます。
 結局国際情勢や外交はやはり「クリチカル」なものであり、修辞に巧みでなければ誤解などを生むのはいかにもありうることで、この「阿毎多利思北孤」の場合も「外交辞令」というものに疎かったことが致命的であったといえそうです。それはやはり「半島」や「中国」との国交が非常に長い期間絶えていたという中にその問題のベースとなるものがあったわけであり、その意味では倭国にとって見るとかなり難しい事案であったものと思われます。
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