『続日本紀』に「豊後」と「伊豫」の間に『国之境』があり、そこに『戍』が置かれていたことが書かれた記事があります。(以下のもの)
(靈龜)二年(七一六年)…夏四月…
壬申。以從四位下大野王爲彈正尹。從五位上坂本朝臣阿曾麻呂爲參河守。從五位下高向朝臣大足爲下総守。從五位下榎井朝臣廣國爲丹波守。從五位下山上臣憶良爲伯耆守。正五位下船連秦勝爲出雲守。從五位下巨勢朝臣安麻呂爲備後守。從五位下當麻眞人大名爲伊豫守。
五月…辛夘。…大宰府言。豊後伊豫二國之界。從來置戍不許往還。但高下尊卑。不須無別。宜五位以上差使往還不在禁限。又薩摩大隅二國貢隼人。已經八歳。道路遥隔。去來不便。或父母老疾。或妻子單貧。請限六年相替。並許之。
上の霊亀二年記事では豊後と伊豫の間に「國之境」があり、そこには「戍」が置かれていたというわけですが、これが「大宰府」からの報告であることを考慮すると当然「戍」は「大宰府」側に存在していたとみるべきであり、「豊後」に置かれていたとみるべきでしょう。このことから「大宰府」では「四国」(伊豫)からの侵入を強く警戒していたことが窺えます。
ところで、この記事の以前と以後の両方で「改元」に伴う恩赦記事があり、そこに「山沢亡命」者に対する出頭命令が出ています。
(七〇八年)和銅元年春正月乙巳。武藏國秩父郡獻和銅。詔曰。現神御宇倭根子天皇詔旨勅命乎。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。高天原由天降坐志。天皇御世乎始而中今尓至麻■尓。天皇御世御世天豆日嗣高御座尓坐而治賜慈賜來食國天下之業止奈母。隨神所念行佐久止詔命乎衆聞宣。如是治賜慈賜來留天豆日嗣之業。今皇朕御世尓當而坐者。天地之心乎勞弥重弥辱弥恐弥坐尓聞看食國中乃東方武藏國尓。自然作成和銅出在止奏而獻焉。此物者天坐神地坐祗乃相于豆奈比奉福波倍奉事尓依而。顯久出多留寳尓在羅之止奈母。神随所念行須。是以天地之神乃顯奉瑞寳尓依而御世年號改賜換賜波久止詔命乎衆聞宣。故改慶雲五年而和銅元年爲而御世年號止定賜。是以天下尓慶命詔久。冠位上可賜人々治賜。大赦天下。自和銅元年正月十一日昧爽以前大辟罪已下。罪无輕重。已發覺未發覺。繋囚見徒。咸赦除之。其犯八虐。故殺人。謀殺人已殺。賊盜。常赦所不免者。不在赦限。『亡命山澤。挾藏禁書。百日不首。復罪如初。』
養老元年(七一七年)…十一月…
癸丑。天皇臨軒。詔曰。朕以今年九月。到美濃國不破行宮。留連數日。因覽當耆郡多度山美泉。自盥手面。皮膚如滑。亦洗痛處。無不除愈。在朕之躬。甚有其驗。又就而飮浴之者。或白髪反黒。或頽髪更生。或闇目如明。自餘痼疾。咸皆平愈。昔聞。後漢光武時。醴泉出。飮之者。痼疾皆愈。符瑞書曰。醴泉者美泉。可以養老。盖水之精也。寔惟。美泉即合大瑞。朕雖庸虚。何違天■。可大赦天下。改靈龜三年。爲養老元年。天下老人年八十已上。授位一階。若至五位。不在授限。百歳已上者。賜■三疋。綿三屯。布四端。粟二石。九十已上者。■二疋。綿二屯。布三端。粟一斛五斗。八十已上者。■一疋。綿一屯。布二端。粟一石。僧尼亦准此例。孝子順孫。義夫節婦。表其門閭。終身勿事。鰥寡■獨疾病之徒。不能自存者。量加賑恤。仍令長官親自慰問。加給湯藥。『亡命山澤。挾藏兵器。百日不首。復罪如初。』又美濃國司及當耆郡司等。加位一階。又復當耆郡來年調庸。餘郡庸。賜百官人物各有差。女官亦同。
ここで「亡命」しているとされる人々は「富永長三氏」の指摘(「憶良と亡命の民 -嘉摩郡三部作を読む」市民の古代第15集)によれば、新日本王権に反旗を翻していた人たちであり、旧倭国領域に特に王権交代に不満を持つ人々がかなり潜伏していたことが推定されます。
この旧倭国領域(特に「直轄領域」)については以前検討したことがあり、『隋書』の記事と『和名抄』との比較から「九州島」と「四国」及び「中国」地方の半分程度までが該当する可能性を指摘しておきました。その意味で「伊豫」地域に旧倭国王権派の勢力がかなり存在していたこと、彼らはある程度の軍事力を有していたであろうことが推定できるものです。そのことは「伊豫軍印」という存在(これは「旧制軍団」に与えられたものと思われ、倭国王権の元のものと思われます)や、その後の「伊豫総領」(これも「旧倭国王権」により任命されていたものか)という存在からもここにある程度の「軍事力」があったことは明らかであり、その意味で新日本王権からは警戒されていたことも十分考えられます。
確かに、薩摩・多ねが「反乱」を起こした際に、「唱更國司」(これは反乱の地である「薩摩」の国司たち)から「国内要害の地」には「柵」を建て「戍」をして守らせる、という言上がなされ、それが許可されたという記事がありますが、「要害の地」は特に「薩摩」だけというわけではなく、この時「伊豫」と「豊後」の間も同様に「要害の地」と考えられていたものと思われ、ここには「戍」が置かれたものと推定できるでしょう。
(「柵」のほうが規模が大きい)
(七〇二年)二年…
冬十月乙未朔。…
丁酉。先是。征薩摩隼人時。祷祈大宰所部神九處。實頼神威遂平荒賊。爰奉幣帛以賽其祷焉。唱更國司等今薩摩國也。『言。於國内要害之地。建柵置戍守之。』許焉。…
さらに関連していると思われるのが、この「國之境」記事に続いて「薩摩大隅」の「隼人」について、大宰府に連れてこられてから八年経過しているという記事があることです。
つまり彼らは戦いがおよそ集結したと思われる「七〇二年」付近から七年ほど経過した段階で、「貢」つまり「貢物」として(いわば「官」として)大宰府へ移動させられたこととなります。このような状況は旧倭国領域の制圧と統治が一定の割合で進行していることを示唆するものですが、他方それが完全ではない可能性も当然あるわけであり、それを示すものがこの前後の「投降」の呼びかけであったと思われるわけです。つまりこの「投降」の呼びかけの対象は「九州」の内部だけではなく、その周辺地域に及んでいたと考えるべきでしょう。
このような状況がその後進展・緩和された結果「戍」を通過する人物についての制限が緩和され、また「隼人」の交替期限を短縮するということになったものであり、それはそのまま「投降者」がかなり増加したことを示すものと思われることとなります。
「伊豫」地域には以下に見るように「守」が適宜任命されており、統治が緩んでいたようには見えませんが、この領域の旧倭国王権支持者たちは粘り強く抵抗していたものと思われ、「戍」による守衛が有効であった期間が長く続き、武装解除完了まで「16年」を要したものと思われるわけです。
「統制」が効き始めたと新日本王権が判断したことから「国境」の警備が簡素化され交通が以前より円滑になったものと思われるわけです。
(七〇三年(大宝三年))八月辛酉。以『從五位上百濟王良虞爲伊豫守。』
(七〇八年)(和銅元年)三月…
丙午…『從五位上久米朝臣尾張麻呂爲伊豫守。』
(七〇九年)(和銅二年)十一月甲寅。以從三位長屋王爲宮内卿。從五位上田口朝臣益人爲右兵衛率。從五位下高向朝臣色夫智爲山背守。從五位下平羣朝臣安麻呂爲上野守。從五位下金上元爲伯耆守。『正五位下阿倍朝臣廣庭爲伊豫守。』
(七一四年)冬十月乙夘朔。…
丁夘。以從四位下石川朝臣難波麻呂爲常陸守。『從五位上巨勢朝臣兒祖父爲伊豫守。』從五位下津嶋朝臣眞鎌爲伊勢守。從五位上平群朝臣安麻呂爲尾張守。從五位下佐伯宿祢沙弥麻呂爲信濃守。從五位下大宅朝臣大國爲上野守。從五位下津守連通爲美作守。
(靈龜)二年(七一六年)
夏四月…
壬申。以從四位下大野王爲彈正尹。從五位上坂本朝臣阿曾麻呂爲參河守。從五位下高向朝臣大足爲下総守。從五位下榎井朝臣廣國爲丹波守。從五位下山上臣憶良爲伯耆守。正五位下船連秦勝爲出雲守。從五位下巨勢朝臣安麻呂爲備後守。『從五位下當麻眞人大名爲伊豫守。』
(靈龜)二年(七一六年)…夏四月…
壬申。以從四位下大野王爲彈正尹。從五位上坂本朝臣阿曾麻呂爲參河守。從五位下高向朝臣大足爲下総守。從五位下榎井朝臣廣國爲丹波守。從五位下山上臣憶良爲伯耆守。正五位下船連秦勝爲出雲守。從五位下巨勢朝臣安麻呂爲備後守。從五位下當麻眞人大名爲伊豫守。
五月…辛夘。…大宰府言。豊後伊豫二國之界。從來置戍不許往還。但高下尊卑。不須無別。宜五位以上差使往還不在禁限。又薩摩大隅二國貢隼人。已經八歳。道路遥隔。去來不便。或父母老疾。或妻子單貧。請限六年相替。並許之。
上の霊亀二年記事では豊後と伊豫の間に「國之境」があり、そこには「戍」が置かれていたというわけですが、これが「大宰府」からの報告であることを考慮すると当然「戍」は「大宰府」側に存在していたとみるべきであり、「豊後」に置かれていたとみるべきでしょう。このことから「大宰府」では「四国」(伊豫)からの侵入を強く警戒していたことが窺えます。
ところで、この記事の以前と以後の両方で「改元」に伴う恩赦記事があり、そこに「山沢亡命」者に対する出頭命令が出ています。
(七〇八年)和銅元年春正月乙巳。武藏國秩父郡獻和銅。詔曰。現神御宇倭根子天皇詔旨勅命乎。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。高天原由天降坐志。天皇御世乎始而中今尓至麻■尓。天皇御世御世天豆日嗣高御座尓坐而治賜慈賜來食國天下之業止奈母。隨神所念行佐久止詔命乎衆聞宣。如是治賜慈賜來留天豆日嗣之業。今皇朕御世尓當而坐者。天地之心乎勞弥重弥辱弥恐弥坐尓聞看食國中乃東方武藏國尓。自然作成和銅出在止奏而獻焉。此物者天坐神地坐祗乃相于豆奈比奉福波倍奉事尓依而。顯久出多留寳尓在羅之止奈母。神随所念行須。是以天地之神乃顯奉瑞寳尓依而御世年號改賜換賜波久止詔命乎衆聞宣。故改慶雲五年而和銅元年爲而御世年號止定賜。是以天下尓慶命詔久。冠位上可賜人々治賜。大赦天下。自和銅元年正月十一日昧爽以前大辟罪已下。罪无輕重。已發覺未發覺。繋囚見徒。咸赦除之。其犯八虐。故殺人。謀殺人已殺。賊盜。常赦所不免者。不在赦限。『亡命山澤。挾藏禁書。百日不首。復罪如初。』
養老元年(七一七年)…十一月…
癸丑。天皇臨軒。詔曰。朕以今年九月。到美濃國不破行宮。留連數日。因覽當耆郡多度山美泉。自盥手面。皮膚如滑。亦洗痛處。無不除愈。在朕之躬。甚有其驗。又就而飮浴之者。或白髪反黒。或頽髪更生。或闇目如明。自餘痼疾。咸皆平愈。昔聞。後漢光武時。醴泉出。飮之者。痼疾皆愈。符瑞書曰。醴泉者美泉。可以養老。盖水之精也。寔惟。美泉即合大瑞。朕雖庸虚。何違天■。可大赦天下。改靈龜三年。爲養老元年。天下老人年八十已上。授位一階。若至五位。不在授限。百歳已上者。賜■三疋。綿三屯。布四端。粟二石。九十已上者。■二疋。綿二屯。布三端。粟一斛五斗。八十已上者。■一疋。綿一屯。布二端。粟一石。僧尼亦准此例。孝子順孫。義夫節婦。表其門閭。終身勿事。鰥寡■獨疾病之徒。不能自存者。量加賑恤。仍令長官親自慰問。加給湯藥。『亡命山澤。挾藏兵器。百日不首。復罪如初。』又美濃國司及當耆郡司等。加位一階。又復當耆郡來年調庸。餘郡庸。賜百官人物各有差。女官亦同。
ここで「亡命」しているとされる人々は「富永長三氏」の指摘(「憶良と亡命の民 -嘉摩郡三部作を読む」市民の古代第15集)によれば、新日本王権に反旗を翻していた人たちであり、旧倭国領域に特に王権交代に不満を持つ人々がかなり潜伏していたことが推定されます。
この旧倭国領域(特に「直轄領域」)については以前検討したことがあり、『隋書』の記事と『和名抄』との比較から「九州島」と「四国」及び「中国」地方の半分程度までが該当する可能性を指摘しておきました。その意味で「伊豫」地域に旧倭国王権派の勢力がかなり存在していたこと、彼らはある程度の軍事力を有していたであろうことが推定できるものです。そのことは「伊豫軍印」という存在(これは「旧制軍団」に与えられたものと思われ、倭国王権の元のものと思われます)や、その後の「伊豫総領」(これも「旧倭国王権」により任命されていたものか)という存在からもここにある程度の「軍事力」があったことは明らかであり、その意味で新日本王権からは警戒されていたことも十分考えられます。
確かに、薩摩・多ねが「反乱」を起こした際に、「唱更國司」(これは反乱の地である「薩摩」の国司たち)から「国内要害の地」には「柵」を建て「戍」をして守らせる、という言上がなされ、それが許可されたという記事がありますが、「要害の地」は特に「薩摩」だけというわけではなく、この時「伊豫」と「豊後」の間も同様に「要害の地」と考えられていたものと思われ、ここには「戍」が置かれたものと推定できるでしょう。
(「柵」のほうが規模が大きい)
(七〇二年)二年…
冬十月乙未朔。…
丁酉。先是。征薩摩隼人時。祷祈大宰所部神九處。實頼神威遂平荒賊。爰奉幣帛以賽其祷焉。唱更國司等今薩摩國也。『言。於國内要害之地。建柵置戍守之。』許焉。…
さらに関連していると思われるのが、この「國之境」記事に続いて「薩摩大隅」の「隼人」について、大宰府に連れてこられてから八年経過しているという記事があることです。
つまり彼らは戦いがおよそ集結したと思われる「七〇二年」付近から七年ほど経過した段階で、「貢」つまり「貢物」として(いわば「官」として)大宰府へ移動させられたこととなります。このような状況は旧倭国領域の制圧と統治が一定の割合で進行していることを示唆するものですが、他方それが完全ではない可能性も当然あるわけであり、それを示すものがこの前後の「投降」の呼びかけであったと思われるわけです。つまりこの「投降」の呼びかけの対象は「九州」の内部だけではなく、その周辺地域に及んでいたと考えるべきでしょう。
このような状況がその後進展・緩和された結果「戍」を通過する人物についての制限が緩和され、また「隼人」の交替期限を短縮するということになったものであり、それはそのまま「投降者」がかなり増加したことを示すものと思われることとなります。
「伊豫」地域には以下に見るように「守」が適宜任命されており、統治が緩んでいたようには見えませんが、この領域の旧倭国王権支持者たちは粘り強く抵抗していたものと思われ、「戍」による守衛が有効であった期間が長く続き、武装解除完了まで「16年」を要したものと思われるわけです。
「統制」が効き始めたと新日本王権が判断したことから「国境」の警備が簡素化され交通が以前より円滑になったものと思われるわけです。
(七〇三年(大宝三年))八月辛酉。以『從五位上百濟王良虞爲伊豫守。』
(七〇八年)(和銅元年)三月…
丙午…『從五位上久米朝臣尾張麻呂爲伊豫守。』
(七〇九年)(和銅二年)十一月甲寅。以從三位長屋王爲宮内卿。從五位上田口朝臣益人爲右兵衛率。從五位下高向朝臣色夫智爲山背守。從五位下平羣朝臣安麻呂爲上野守。從五位下金上元爲伯耆守。『正五位下阿倍朝臣廣庭爲伊豫守。』
(七一四年)冬十月乙夘朔。…
丁夘。以從四位下石川朝臣難波麻呂爲常陸守。『從五位上巨勢朝臣兒祖父爲伊豫守。』從五位下津嶋朝臣眞鎌爲伊勢守。從五位上平群朝臣安麻呂爲尾張守。從五位下佐伯宿祢沙弥麻呂爲信濃守。從五位下大宅朝臣大國爲上野守。從五位下津守連通爲美作守。
(靈龜)二年(七一六年)
夏四月…
壬申。以從四位下大野王爲彈正尹。從五位上坂本朝臣阿曾麻呂爲參河守。從五位下高向朝臣大足爲下総守。從五位下榎井朝臣廣國爲丹波守。從五位下山上臣憶良爲伯耆守。正五位下船連秦勝爲出雲守。從五位下巨勢朝臣安麻呂爲備後守。『從五位下當麻眞人大名爲伊豫守。』