古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「治部卿」と「礼式」

2021年06月26日 | 古代史
 以下の記事は以前投稿したものとほぼ同趣旨ですが、最近気がついた点を含めて再度投稿いたします。

 最新の「淡海三船」の著と言われる『懐風藻』の「葛野王」の伝記の欄に、「高市皇子」の死去後、後継者(日嗣)についての審議があったとされる記事があります。そこには以下のように書かれています。

「高市皇子薨じて後、皇太后、王公卿士を禁中に引きて日嗣を立てん事を謀る」

 古代では「日嗣(ひつぎ)」は「皇位」と同じ意味です。「日嗣皇子(御子)」とはまったく事なるものであり、「日嗣ぎ」は皇位そのものです。そして、この記事が「草壁皇子」の死去に伴うものならまだしも、「高市皇子」の死去後に「日嗣」についての「審議」があった、ということ自体が「不審」な事と思われます。それは『書紀』によれば「草壁」の死去から「高市」の死去まで相当な年数が経過しているからです。
るからです。

(六八九年)(三年)四月乙未。皇太子草壁皇子尊薨。

(六九六年)十年…秋七月辛丑朔。…庚戌。後皇子尊薨。(高市皇子)

 この「後皇子尊」が確かに「高市」を指すのであれば、「草壁」死去から実に「七年」が経過していますから、「高市」の死去に伴って「草壁」の後継者を決めるとは到底考えられることではないこととなります。さらに「高市皇子」が「皇太子」でも「天皇」でもなかったとされていることも当然ながら重要です。そのような人物が(たとえ太政大臣であったとしても)死去したとしても、それを理由として「日嗣」について審議する必要があるとは思えません。このことは「高市皇子」と「日嗣」の間に深い関係があったことを示唆するものと思われます。(死去した際には「後皇子尊」と「尊」の字が使用されているのは軽々には考えられません。)
 そもそも、「草壁」は『書紀』によっても「皇太子」のまま死去したこととなっており、即位していないわけですから、『書紀』に即して考えても皇位継承に関する原則には該当するはずがないのです。「直系」云々は「即位」した人物からの継承順についての話であり、「即位」していなければこの原則から外れることとなるのは当然です。(「即位」していない人物からは「皇位継承」ができるはずもないのです)
 また、文中に「皇太后」とありますが、これは通常の理解では「持統女帝」とされていますが、この「皇太后」という表現から考えて、その時点の「天皇」は「皇太后」と称される人物とは異なるのは自明であり、この「皇太后」が「持統」を指す、とすると「持統」はこの時点での「天皇」ではない、という論理進行となります。
 「皇太后」とは『続日本紀』のその他の記事においても前天皇が死去し「新天皇が即位した時点」における前皇后への尊称とされますから、その意味でもこの「皇太后」呼称は「持統」以外の人物が「皇位」にあったということを想定せざるをえないこととなり、そのことと「高市皇子」の死去によって「日嗣ぎ」の審議を行うこととなった、という事を重ねて考えると、「高市皇子」が「日嗣」の座にあったという先の推定は更に補強されると思われます。
 
 この時「葛野王」(「大友皇子」の長子)は「直系」相続を主張したとされています。彼がこの時意見具申しているのは彼は当時「治部卿」であったことと関係していると思われます。このような場合定められた「礼式」に則っているかどうかということを判断するのが「治部」の職掌ですから、彼が意見を述べるのはある意味当然であったと思われます。
 『資治通鑑』によれば「唐」の太宗の時代(貞観年間)「諸王」(太子の兄弟)に対する「礼」が行き過ぎであるという「礼部尚書」の指摘に「太宗」が怒り詰問するシーンがあり、そこで「太宗」が「太子」に何かあれば「諸王」が太子になる可能性があるというと、「礼部尚書」に代わり「魏徴」が次のように反論します。

「…自周以來,皆子孫相繼,不立兄弟,所以絶庶孼之窺窬,塞禍亂之源本,此爲國者所深戒也。…」(『資治通鑑』貞観十二年(戊戌、六三八年)条)

 つまり「周以来、子孫が相継いでいたものであり、兄弟が立つことはなかった」というわけです。具体的には「嫡子」つまり「皇后」の子だけに相続の権利があるものであり、「庶子」つまり「第二夫人以下」の子にはそのような権利は元々なかったとされ、そのような人物に対する「礼」としては行き過ぎであるというわけです。
 「唐」における「礼部尚書」に相当するのが「治部卿」であることから考えてここで「葛野王」が発言するのは職務上当然であったわけであり、その発言内容はこの「唐」の例に合致していると言えます。
 ただし「葛野王」が主張している内容は『書紀』をみるとそれ以前に「嫡子」以外への相続が確認できますから、実態とは合っていないと思われるわけですが、これはいわば「建前」論であり、それは「太上皇」にとって受け入れやすいものであったと思われます。(このような「唐」における例は「遣唐使」の派遣などが行われていた中で情報としてもたらされていたものと思われ、それを踏まえて「礼式」(つまり「浄御原令」)が制定されていたものと考えられますから、それを根拠とした発言ではなかったでしょうか)
 この主張は通常「持統」、「草壁」、「文武」という「直系」が正統であると言う発言と解されていますが、文中にはそのようなことは(全く)書かれていません。それは「恣意的」な理解であり、『書紀』からの後付けの論理です。
 このとき誰を「日嗣ぎ」にするかこの審議により決まったものと思われますが、その人物の名前は書かれていません。これは「意図的」なものと考えられ、「あえて」曖昧にしているとしか考えられません。『懐風藻』の作者(淡海三船と推測されています)にとって、このことを正確に書くわけにはいかない事情があったものと思われます。 
 これが「高市」死去後の審議であることから考えてこの文章を「素直に」理解すると、「葛野王」の意見というものは、「亡くなった」「高市」の「兄弟」ではなく、彼の「子供」(嫡子)へ「日嗣」が継承されるべきである、という主張とみるべきでしょう。
 そしてこの主張に「弓削皇子」は異議を唱えようとしたとされ、「葛野王」は彼を叱責して黙らせた、と言うように書かれていますが、「弓削皇子」にしてみれば、「兄弟」である「高市皇子」からの「皇位継承」を狙っていたのかもしれませんが、その道が断たれてしまうこととなりますから、重大問題であり、異議を唱えようとしたものでしょう。
 そもそも「高市皇子」死去時点では「天武」の「皇子」としては「弓削皇子」「舎人皇子」「新田部皇子」「穗積皇子」「忍壁皇子」「磯城皇子」がいます。
 彼らには「全く」皇位継承権がなかった、あるいは「設定」されていなかったと見るべきでしょう。「審議」するに到ったのはあくまでも「嫡子」が幼少であったためであり、「兄弟」の中から誰かを選ぶという選択肢は元々なかったものではなかったでしょうか。
 この「葛野王」の意見は上に見るように「隋・唐」という「中国王朝」における「王朝」継承において「直系相続」であることを基本としていることを念頭に置いたものであり、「治部卿」として当然主張すべき事柄であったと思われます。

 ところで「葛野王」はこの『懐風藻』にあるように「持統」の時代に「浄大肆」で「治部卿」であったと思われると同時に、「大宝元年」に「正四位上」「式部卿」となったことが推定されています。しかしそのことは『書紀』にも『続日本紀』にも全く現れていません。(『公卿補任』にも全く現れません)
「大宝二年」の正月には「大伴安万侶」が式部卿に任命されていますが、それ以前にも「式部」(省)記事はあるものの「式部卿」つまり最高責任者が誰なのかの記事が欠落しています。

(七〇二年)二年春正月己巳朔。…乙酉。以從三位大伴宿祢安麻呂爲式部卿。

 『懐風藻』の記事からはこれ以前に「式部卿」であったように受け取れそうですが、そのことは書かれていないのです。またそれ以前の「文武」の時代にも「持統」の時代にも「治部卿」が誰なのかが書かれていない、というより「治部」自体全く現れません。
 『懐風藻』では「高市皇子」の死去時点で「治部卿」であったとされますが、それも他のどのよう記録にも表れないものです。結局『書紀』『続日本紀』を通じて「葛野王」について書かれているのは「死去」記事だけなのです。

(七〇五年)二年…十二月…丙寅。正四位上葛野王卒。

 「大友皇子」の長子であるということは「天智」を始祖としていただいている新日本王権にとって「葛野王」は無視はできない存在と思われるのに関わらず、その姿が希薄です。これは「葛野王」が「持統」を頂点とする「別の王権」の重要人物となっていたということと関係していると言え、このこともまた「元明」以降の王権から「持統」が忌避されていることの表れとも言えるでしょう。
 すでに私見では「元明」以降の王権から「持統」の王権は「忌避」されている、あるいは「否定」されているとみているわけですが、それをある意味補強するものと考えられるものです。
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