古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「『遣隋使』はなかった」か?(再々再度かな-3)

2024年01月21日 | 古代史
前回からの続きです

「『遣隋使』はなかった」か?(三) ―古田氏の指摘した事項についての検討―

「要旨」
 前稿では「寶命」問題を中心に考察しましたが、ここでは氏が「遣隋使」ではなく「遣唐使」であると推論した部分についてさらに考察し、『書紀』編者の「唐」への傾倒はかなり強く、「唐」「大唐」という表記に統一することにより「隋」王朝はなかったこととされてしまったらしいこと、「豊章」(扶余豊)の来倭の年次については確かに「ずれて」いるという可能性はあるものの、『隋書』の範囲を超えた年次まで同様に年次移動が行われたとは考えられず、「遣隋使」記事に直結しないと考えられること、「呉国」表記は「南朝」を表すと見るべきであり、「隋初」の時期が真の時期として推定できること、『推古紀』記事の国書には「国交開始」を示す文言が存在するものの「唐初」よりは「南朝」(「梁」)との通交以来のことと考えて「隋代」がもっともふさわしいと思われること、『元興寺縁起』に書かれた「裴世清」等の来倭記事はその肩書きなどの考察から「隋初」のことと考えられること、以上を考察します。

Ⅰ.「唐」「大唐」という表記について
 『書紀』の地の文には「隋」という国名は一切現れません。書かれているのは「大唐」、ないしは「唐」です。また「唐使」であり「唐客」であり「唐帝」です。「隋代」であるはずの年次記事についても全て「唐」と書かれています。このような『書紀』の記述に対して古田氏はそれが実際の「唐」の時代のことであり、「遣唐使」であり「唐使」であるからそこに「唐」「大唐」とあるのだと論証されています。そこでの主張はまことに明解ですが、他の理解も成立する余地がないとはいえないと思われます。それは『書紀』編者が「隋」という表記を「忌避」していたのではないかと考えられる事です。
 古田氏も触れているように「隋」という国名及び「煬帝」という人名はただ一度だけ「高麗」から使者が来て「隋」を打ち負かしたと述べる部分だけに現れます。

「高麗遣使貢方物。因以言。隋煬帝興卅萬衆攻我。返之爲我所破。故貢獻俘虜貞公。普通二人。及鼓吹弩抛石之類十物并土物駱駝一疋。」(『推古紀』「廿六年(六一八年)秋八月癸酉朔条」より)

 これによれば「隋」と「煬帝」は「高麗」を攻めたものの逆に「破られた」とされており、ここでは「隋」と「煬帝」は「立場」を失わさせられています。このような場面にしか「隋」や「煬帝」が出てこないと言うことは、『書紀』は「隋」「煬帝」に対し「良い印象」を抱いていないからであることは間違いありませんが、それは「唐」との関係を主たるものとする立場からのものであったと思われます。つまり、「隋」に対しては「友好的」な取扱いとはせず、「貶める」あるいは「なかったこととする」という編集方針であったものと思われるのです。つまり「隋」と「倭国」に存在していた「関係」は基本的には「伏せる」という編集方針であったものではないでしょうか。それは『書紀』編集時点における「唐」との関係から来る「追従」であったともいえるかもしれません。つまり「唐」の持つ大義名分を「過去」に延長した結果、「隋」という国名が「地の文」として現れる事がなくなったとも言えるでしょう。それは「唐」に「おもねった」結果であるともいえます。
 「隋」は「唐」からは嫌われていましたし、その「隋」と友好関係を持とうとしたあるいは持った過去があることをできれば隠したいという思惑があったと考えられるのです。
 これを『書紀』編集時点においての国名表記とする向きもあるようですが、「隋代」以前には使用されていないことから、そのような考え方は成立せず、あくまでも「隋」を「消去」するためのものであると思われます。それはこの『書紀』が「唐」の「目に触れる」という機会があった可能性があるからです。
 『書紀』は「唐」の「目」を意識して書かれているというのは有名な話であり、だからこそ(古田氏の説とは逆に)「事実」を曲げてまで隠そうとしたのではないでしょうか。そう考えると一概にこれが「唐」の時代のことであったからという理解だけが成立可能とはいえないと思われます。

Ⅱ「呉国」問題等について
 『推古紀』の「推古十七年」に「呉国」に派遣されたという「百済僧」達が「肥後」に流れ着いたという記事があります。
(註1)この記事について古田氏は、「初唐」の時期の「江南付近」に起きていた混乱の中で「百済」の使者が入国できなかったとしているわけであり、さらにその混乱の中に「呉」という国が当時存在していた事を挙げて、これが「唐」の高祖からの国書である傍証としています。
 これについては「江南」地方が当時混乱の中にあったことは確かであり、また「呉国」も存在していましたが、この「呉国」は「武徳二年」に「李子通」という人物が「皇帝」を名のり「国号」を「呉」と号したとされているものです。しかし、これは僅か二年間の短命政権であったものであり、しかも彼はそれまでの「陳王朝」やそれ以前の王朝の関係者でもなく「皇帝」を名乗るどのような「大義名分」もない人物であり、いわば(悪く言うと)「山賊」のような人物が興した国であるわけですから、この「呉」が短命に終わるのも道理であるわけです。この「呉」がそのような「泡沫」的な国であったとした場合、そこに「百済王」が遣使するという状況そのものが甚だ考えにくいといえます。それを考えると傍証とするには無理があるのではないでしょうか。(古田氏は「江南」から「長安」へ行くという理解をしていますが、『書紀』にはそのような記述はありません。そこには明確に「百濟王命以遣於呉國」とされており、この「呉国」が最終目的地であることを示しています)
 ところで、『書紀』内では「呉国」という表現は全て「南朝」に対してのものであり、それは「書紀編者」が「唐」の大義名分に全面的に同意・共鳴していることを示すものですが、それらの例から帰納して考えるとここに見える「呉国」も「南朝」を指すと考えるべきこととなります。しかし、もしそうであるとすると、これが「初唐」の頃であったとした場合「隋」成立とそれに伴う「南朝」の滅亡という「六世紀末」の時勢の推移を「百済」が知らなかったか、全く無視していたと言うこととなってしまうと思われますが、それはあり得ないといえるでしょう。なぜなら「南朝(陳)」が滅びた際に(五八九年)「隋皇帝」に対し「陳」が平らげられたことを賀す使者を派遣している事実があるからです。(註2)
 それによれば「〔身+冉〕牟羅國」(これは今の済州島か)に漂着した「隋」の「戦船」(軍艦)が「百済」を経由して帰国した際に「使者」を同行させ、その「使者」が「平陳」を賀す表を奉ったとされているのです。つまり「百済王」は「南朝」が亡ぼされたことを知っているわけですから、「初唐」の時期に「南朝」に遣使する、というのは「あり得ない」こととなるでしょう。このことから、「百済」が「呉国」へ使者を派遣したとすると「南朝」がまだ存在していて「隋」との戦乱の中にあった時期、つまり「五八九年以前」のことと想定せざるを得ないこととなります。

Ⅲ.「国交開始」を意味する文言について
 このように「呉国記事」がその本来の年次である「隋初」から移動されているとすると、それに先立つように並べられて書かれている「裴世清」来倭記事についても「隋代初期」の頃のことを記したものという「疑い」が生じることとなります。それは彼が持参したという「唐帝」からという「国書」に「国交」の最初であることを示唆する文言があることでも知られます。
 そこには「知皇介居海表 撫寧民庶。境内安樂 風俗融和。…」という文章があり、これによれば「皇帝」はこの時の「使者」によって「皇」が「海表」に「介居」していることなどを「初めて知った」と言うことと理解できます。
 これに対して「唐」の「高祖」が「高句麗」の「王」に出した国書を見るとそこに「差」があるのがわかります。
 『推古紀』の国書では先に見たように「『知』皇介居表撫寧民庶…」と「知」が前置されていますが、「高麗」への「唐」の高祖の書では「王『既』統攝遼左 世居藩服 思稟正朔 遠循職貢」とされ「既」という語が使われています。つまり「倭国」の状況については今「知った」ものであるのに対して「高麗」との関係については以前から構築されていたものであり、「既」にわかっているという意味と理解できます。
 「唐」の「高祖」(李淵)は「隋皇帝」下の将軍であったわけですから、「遣隋使」があったとする限り「倭国」との交渉については彼と「唐王朝」にとっては既知の事実であったこととなります。そう考えると、この『推古紀』の「唐皇帝」からの国書が彼が出したものであれば当然「高句麗」への国書と同等の表現が使用されるべきと思われ、この『推古紀』の国書の文言は明らかに不審であり、ふさわしくないこととなります。
 また返書として「倭国王」が出したものの中に「久憶方解」という表現があることでもそれが国交樹立時点としてふさわしいといえます。この表現は「中国王朝」との交渉が長い空白の末にやっと回復したことを指すものと考えられ、「久」という語の意義から考えて「唐」ではなく、「隋」がより適合すると言えます。
 「唐」では「隋」以来と言うこととなりますから(最終的な遣隋使派遣の時期を『隋書煬帝紀』によって「大業六年」と考えた場合)「唐初」まで十数年にしかなりませんが、これを「隋」とすると「南朝」の「梁」(あるいはそれ以前の「武」の時代である「南朝劉宋」か)に遣使して以来となりますから、圧倒的にこちらの方が長いブランクとなり、その語義としてふさわしいと言えるでしょう。

Ⅳ.「扶余豊」の来倭の年次について
 古田氏はこの『推古紀』記事が実際には「初唐」の時期のものである「傍証」として以下の『舒明紀』にある「百済」の「義慈王」が「王子」である「豐章(扶余豊)」を「質」として「倭国」に派遣したという記事(以下のもの)に疑いを持たれ、これを十年以上繰り下げた「六四一年付近」へと移動させて理解され、それは「遣隋使」記事と同じ「ずれ方」であるとして、「遣隋使」が実際には「遣唐使」であるという論の補強とされました。

「百濟王義慈入王子豐章爲質。」(『舒明紀』「(舒明)三年(六三一年)三月庚申朔条」より)

 確かに、「義慈王」が「百済国王」となったのは「六四一年」であり、それから考えると「扶余豊」が「質」とされたのは「義慈王」がまだ「皇太子」時代のこととなりますから不審といえばその通りです。人質はそれなりに位の高い人物でなければならず、現国王の「孫」というのでは相当な数いたでしょうから「質」としての価値はそう高くないこととなるでしょう。そもそも相手国から見てある程度「質」を差しだした国の政治的行動範囲を制約するほどの近親の人物でなければ「質」としての意味がないと思われます。そう考えると、「義慈」が「百済王」となった時期(六四一年)という段階以降に「倭国」へ「人質」を差しだしたと仮定した方が合理的であると言えるのは理解できます。その場合であれば「新百済王」としての「倭国重視」というその後の大動乱につながる政治的スタンスも良く理解できることとなるでしょう。そう考えると「百済王子豐章爲質」という記事は「義慈王」即位時点付近の記事という可能性も考えられることとなります。そして、その場合は「十~十二年ほど」の年次移動が行なわれているという可能性があることは確かであると推測できます。その意味では古田氏の見解については首肯できる部分はあるものの、問題はその「ずれ方」がどの程度まで遡及するものかということではないでしょうか。
 それは「隋代」と「唐代」というように時代区分が違うことでもわかるように年次として大きく離れていることもからも、そのような「義慈王」記事と「遣隋使」記事とを同一に扱うことの難しさを示しています。『書紀』の記事移動があったとしてもそれは『隋書』の網羅する年代に留まるのではないかという可能性があるからです。
 (すでに述べたように)『書紀』が『隋書』を見て書かれたとすると、それから続く「唐代」の時期の記事には参照すべき「中国資料」が存在していないこととなります。(「六四八年」以降は「起居が通じた」とされますから、それなりに参照資料があったでしょうけれど、それ以前については参照すべき資料がないということとならざるを得ません)
 それに対し上に見たように『書紀』の「隋代」の記事は『隋書』に「合わせる」ために年次を変更して書かれていると考えられますが、そのことはそのような「年次移動」が「初唐」の時代まで及ぶとは思われないことを示します。
 『書紀』編者はあくまでも『隋書』の中の「倭国関係」記事との対応だけを考えたものと見るのが相当ですから、『隋書』の記述範囲を超えた年次の記事はそもそも「合わせる」という必要性がないこととなり、もし年次移動があったとしても『推古紀』にみられるものと同じ年数の移動があるとは考える必要がないこととなります。
 つまり「扶余豊」の「質」の記事が本来の年次ではないところに書かれていたとしても、それが「隋代」まで影響が及ぶものなのか、関連しているのかについては不明であり、傍証とは出来ないと思われるわけです。

Ⅴ.『元興寺縁起』の「隋使」来倭記事について
 先の推定は「元興寺」の「丈六仏像」の光背に書かれた「裴世清」の来倭についての文章の考察からも裏付けられると思われます。
(以下「丈六仏像」の光背銘文を抜粋)

「…歳次戊辰大隨國使主鴻艫寺掌客裴世清 使副尚書祠部主事遍光高等來奉之。…」

 ここには「副使」として「遍光高」という人名が書かれています。このような「裴世清」以外の人名のデータは『書紀』にはなく、これらは『書紀』と異なる原資料に依拠したものと思われ、『書紀』の「二次資料」というような単純な捉え方はできないことを示します。(ただし「歳次」は『書紀』の記述(編年)に依っていると考えられますが)
 また、その「副使」とされる「遍光高」の肩書きとして、「尚書祠部」という表記が現れています。この職名は一般には「北周以前」に多く現れるものであり、一般には「北周」以降は「尚書禮部」へと替わったとされています。しかし史料によれば「隋初」にも「尚書祠部」は登場しているようです。

「…昌衡字子均。父道虔,魏尚書僕射。昌衡小字龍子,…。『開皇初,拜尚書祠部』侍郎。高祖嘗大集羣下,令自陳功績,人皆競進,昌衡獨無所言。…」(『隋書/列傳第二十二/盧思道 從父兄昌衡/勞生論』より)

 ここでは「開皇初,拜尚書祠部侍郎」とありますから、「隋」の「高祖」の治世の期間であるのは確かであり、その時点では「尚書祠部」が存在していたことを示すものです。
 「隋」は「北周」から「禅譲」されたにも関わらず「周制」は一部しか継承せず、「北斉」の制度にほぼ依っているとされますが、その「北斉」にも「尚書祠部」は存在していました。「隋」はこれを継承したものと思われるわけです。その後「開皇中」に「祠部」が拡大され「禮部」の一部へと編成替えになったもようです。

「…元康子善藏,溫雅有鑒裁,武平末假儀同三司、給事黃門侍郎。『隋開皇中,尚書禮部侍郎。』大業初,卒於彭城郡贊治。…」(『北齊書/列傳第十六/陳元康』より)

 ここでは「開皇中」とされますから「高祖」段階で既に「尚書禮部」という表記が一般的になっていたと見られます。(実際の出現例も同様の傾向を示し、「尚書祠部」の出現例の多くが「隋」以前であり、「尚書禮部」の例は多くが「隋」以降となっています)
 つまり「尚書祠部」という職名の存在期間としては「七世紀」以前の「高祖」の治世期間が推定され、このことから「元興寺縁起」に書かれた「遍光高」の来倭は「六世紀代」の「開皇年中」、しかもその前半であるという推定が可能であることとなります。
 またそれは「鴻臚寺掌客」という官職名にも現れていると思われます。上に見るように『元興寺縁起』では(『書紀』でも)「裴世清」は「鴻臚寺掌客」という官職名であることが示されていますが、この「鴻臚寺掌客」が「鴻臚寺典客署掌客」という正式な官職名の縮約であったとすると、これは「隋」の始めに「高祖」により制定された官制にあるものであり、その意味からは「隋代初期」という時期がもっともふさわしいともいえるでしょう。
 そうであれば、『書紀』にある(しかも皇帝からの国書の文中に存在する)「鴻臚寺掌客」というものは、「派遣」時点における彼の本来の「職掌」そのものであると考えざるを得ないわけであり、その意味からも「倭国」に国書を持参した際の「裴世清」は「文林郎」ではなかったと見るしかないこととなります。つまり、「隋代初期」に「鴻臚寺掌客」であったものが次の来倭時点では「文林郎」となったと考えるとスムースではないでしょうか。その場合「官位」の矛盾は起きません。
 つまり『元興寺縁起』の文からは「唐」の時代に来倭したとするより「隋代初期」に来倭したと考える方が書かれている「冠位」の変遷からも無理がないと思われます。
 次稿では「隋書」に記された「大業三年」記事について考察します。
(以下さらに続く)

(註)
1.「筑紫大宰奏上言。百濟僧道欣。惠彌爲首一十人。俗人七十五人。泊于肥後國葦北津。是時。遣難波吉士徳摩呂。船史龍以問之曰。何來也。對曰。百濟王命以遣於呉國。其國有亂不入。更返於本郷。忽逢暴風漂蕩海中。然有大幸而泊于聖帝之邊境。以歡喜。」(『推古紀』「十七年(六〇九年)夏四月丁酉朔庚子条」より)
2.「…平陳之歲,有一戰船漂至海東〔身+冉〕牟羅國,其船得還,經于百濟,昌資送之甚厚,并遣使奉表賀平陳。…」(『隋書/列傳 第四十六/東夷/百濟』より)



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「『遣隋使』はなかった」か?再々再度かな-2

2024年01月21日 | 古代史
以下前回の続きです。

「『遣隋使』はなかった」か?(二) ―「寶命」問題を中心に ―

「要旨」
 ここでは「寶命」問題について検討し、「寶命」が「初代」にだけ使用されるあるいは特異な即位の際に使用されるという古田氏の意見は成立しがたいこと、「寶命」は「前皇帝」との関連で使用されるものであり、「二代目」でも、あるいは通常の即位であっても使用される用語であること、「南北朝」以降は「禅譲」された「新王朝」の「初代皇帝」において(「前皇帝」の関係として)多く使用された実績のある用語であり、「天命」とは明らかに異なる意味として使用されていること、国書中の他の文言についても「唐」の「高祖」の使用例と合致しない語が多数に上ること、そのことから国書そのものの年代として「隋代」が想定されること、以上を考察します。

Ⅰ.「寶命」問題について
 古田氏はこの「遣隋使」問題において、この用語が書かれた国書が「隋」の「二代皇帝」である「煬帝」のからのものであるはずがないと論証されました。なぜならこの用語は「天命」と同じ意味であり、それをより「強調した」形のものとされたのです。確かに「辞書類」には「天からの命」という語義があることが書かれています。もし、この「寶命」が「天命」と同じとすれば、この用語は「革命」思想につながっているものであり、「天子」(皇帝)が天の意志を十分に臣下(人民)に伝えられず、その任に堪えないようなときは「革命」により、別の人間が「天子」(皇帝)として差し向けられる、という意味の用語として理解できます。そして、「煬帝」にはそのようないわば「言い訳」とも言える用語を使用する動機がないというのです。そして、この「寶命」という用語を使用する動機を持っているのは「唐」の高祖であるとされ、この国書記事は十年以上過去に移動させられているという論となったものです。
 しかし、これらは「天命」という用語と「寶命」という用語が同義であるという前提でした。しかし、実際の使用例をみてみると「寶命」には別の意義もあると思われるのです。
 「寶」の語について辞書には『「天子」に関するものを尊んで言う』という用法も確認できます。実際に「寶」のつく語の使用例を確認してみると、「天子」(皇帝)に関する例が非常に多く見られます。例えば、「寶輿」は神仏・天子などの乗物の意ですし、「寶業」は天子・皇帝の事業、治世を意味するものです。また「寶暦」は「寶算」と共に天子の年齢を指す場合もありますが、その天子が作成した(作成させた)「暦」そのものを指すという場合もあります。また「寶座」「寶祚」とは天子・皇帝の「座」や「位」を意味するものです。これら数々の「寶」のつく語は「至高の(最高の)」という意味があり、それが仏教に関する事であれば「仏陀」に関する事として使用され、政治的な世界では「皇帝」に関わるものとして各史書等に現れていると思われます。これらの「寶業」「寶歴」等の語は「煬帝」の「詔」など彼に関することにも使用例が多くあります。この事から「寶命」にも「(前)皇帝に関わるもの」という語義があったと考えるのは自然です。それを示すように「煬帝」と「唐」の「太宗」にも実際には使用例が(「史書」ではないものの)確認できます。
(「煬帝」の使用例)

「大業三年正月二十八日。菩薩戒弟子皇帝總持稽首和南十方。一切諸佛十方一切尊法十方一切賢聖 …水滴已微。乃濫觴於法海。弟子階?宿殖。『嗣膺寶命臨御區宇』。寧濟蒼生。而德化弗弘刑罰未止。…」 (『大正新脩大藏經/廣弘明集卷二十八/?福篇第八/序/隋煬帝行道度人天下敕』より)
(太宗の例)
「(癸巳)《貞観》七年。…十一月。詔曰。三乘結轍濟度為先。八正歸依慈悲為主。流智慧之海膏澤群生。剪煩惱之林津梁品物。任真體道理叶至仁。妙果勝因事符積善。『朕欽若金輪恭膺寶命』。至德之訓無遠不思。大聖之規無幽不察。…」 (『大正新脩大藏經//佛祖?代通載二十二卷/卷十一/太宗詔度僧尼建寺』より)

 そもそも「煬帝」と「太宗」は別にいた「皇太子」を廃した後に自分が「太子」となって即位しています。これを「異例」と言えば「異例」と言えるかも知れませんが、彼ら自身は前皇帝の息子(皇子)であり、別に一介の武将が成り上がったわけではありませんし、また「本来なれるはずがない」というような位置にいたわけではありません。つまり「皇太子」ではなかったものの、彼らにも「皇帝」の地位の継承能力と資格は充分備わっていたと考えられます。その意味では特に異例というわけではないでしょう。
 彼らが「寶命」という語を使用しているということは、「天命」と違って「寶命」という用語の使用は「初代」に限らないということを意味します。それは即座に古田氏がいうような、『書紀』に出てくる「隋皇帝」からの「国書」というものが「煬帝」からのものではないとは即断できなくなる性質のものと思われます。
 ところで、「中国」の歴代王朝の史書に「天命」と「寶命」の使用例を探すと圧倒的に「天命」が多いことに気がつきます。「寶命」はかなり希少な例と言えるでしょう。さらに「寶命」は「南北朝」以降に多く見られるようになりますが、それ以前には出現例がほぼありません。「天命」と「寶命」がもし同義であるとするともっと「寶命」の使用例が早期にしかも多量にあっても良いように思えます。さらに「寶命」は「煬帝」や「太宗」のように「初代」以外の皇帝にも確認できますが、「天命」の場合、明らかに「初代」以外の使用例がありません。(ただし後代になるとその峻別がされなくなるようであり、誰でも「天命」を使用するような雰囲気が出てきたようです)
 このような出現例をみてみると、「寶命」と「天命」はこの当時異なる意義があったものであり、「寶命」はその「寶」という語の持つ意味から考えて「前皇帝」との関係を特に強調したい場合に使用されたものではないでしょうか。
 「二代皇帝」は「初代」が開いた「王朝」を継承したわけですが、政権基盤がまだ「不安定」である場合が多く、その場合「初代」の持つ権威を自分の権威と重ねるという行為が必要となるというケースもあったものと思われます。「初代」の持つ大義名分を正統に継承しているというアピールが「二代政権」の正統性を証明するものとして特に必要であったものであり、そのため(「煬帝」や「太宗」のように)「寶命」が使用されるケースもあったものと思われます。
 また、これと同様の論理構造は「禅譲」を受けて「新王朝」を開いた場合においても発生したものと思われます。
 「新王朝」においても自らの政権基盤の安定のためには「旧勢力」である「前王朝」の「皇帝」からの権威の継承ということを明確にする必要があったと見られます。このような「寶命」という用語が使用されるケースは、「天」からの「命」ではないという点で「革命」とは異なるものの、「禅譲」を受けた「新王朝」の「初代皇帝」が使用する用語としてはよりふさわしいといえるものだったのではないでしょうか。それは国内外の「諸勢力」に対する「大義名分」としてより「説得的」であると言うところが重要なのではないかと推測されます。
 これに対し「天命」の例は「禅譲」という形式ではないことが明白な例ばかりです。
 たとえば(後代の例ですが)「北宋」が「金」に「華北」を奪われた後建国された「南宋」の皇帝に奉られた「詩文」に以下のようなものが見出せます。

「恭膺天命之曲,太蔟宮 我祖受命,恭膺于天。爰作玉寶,載祗載虔。申錫無疆,神聖有傳。昭茲興運,於萬斯年。」(『宋史/志第九十二/樂十四 樂章八/冊立皇后/嘉定十五年皇帝受「恭膺天命之寶」三首』より)

 「南宋」を建国した人物は「北宋」が滅亡した際の「皇帝」の弟であり、彼が「江南」の地に改めて「南宋」を建国したものですが、この場合明らかに「禅譲」ではないわけであり、その彼について「我祖」と書かれ、また「皇帝受恭膺天命」と書かれているのは、まさに「天」以外には彼を皇帝にすべしとした「権威」「権力」「王朝」がなかったことを示しますから、「受命」があったとするしかないわけです。
 彼の「皇帝即位」は当然のことながら、はなはだ「異例」のことであり、「北宋」が亡ぼされるというような状況がなかったら、彼が即位するというようなことにはならなかったはずですから、周囲からみて彼に対し「受命」があったと見るのはある意味当然でもあり、そのような人物に対しては「天命」が使用され、「寶命」は使用されていないのは重要です。
 以上のことから、「寶命」という用語の存在がこの「国書」が「初代皇帝」からのもの、特に「唐」の「高祖」からのものとする証拠とは断定できなくなったものです。

Ⅱ.国書中に使用されている文言について
 上に「寶命」という用語について特に考察したわけですが、この国書中に使用されている他の語群について史書に検索してみると「隋代」に多く見られるものであり、「唐」の高祖(李淵)の語とするにはかなり無理があることが判明します。
 『推古紀』に書かれた「裴世清」が持参したという「国書」を見てみると、「…朕欽承寶命 臨仰區宇。思弘徳化 覃被含靈。愛育之情 無隔遐邇。…」というように自らの政治的姿勢とでもいうべきものを表す言葉が並んでいる部分があります。これらは一見決まり文句であり、型どおりのものであるようにも見受けられますが、「隋」の「高祖」(楊堅)及び「煬帝」、さらに「唐」の「高祖」(李淵)の三者について、彼らが「詔」として出したものの中に使用例を渉猟してみると以下の通りとなり、個人ごとに使用頻度がかなり異なることがわかります。(当然ですが、この『推古紀』の国書は対象から除いています。)

 『欽承』:これは「煬帝」に一例あり、さらに『列伝』にも「煬帝」の書の内容として「二例」確認できます。「楊堅」、「李淵」とも見られません。
(以下「煬帝」の例)

「…六月辛巳,獵於連谷。丁亥,詔曰:…朕獲奉祖宗,『欽承』景業,永惟嚴配,思隆大典。…」(『隋書/帝紀第三/煬帝 楊廣 上/大業三年』より)

 『臨仰』:三者とも確認できません。他の皇帝においても全く使用例がなく、特殊用例と思われます。
 『區宇』:これは特に「楊堅」において多く見られます(九例)。これは「世界」を表わす語であり、「魏晋」以来久しぶりに中国「統一」を果たした意識が使用させるのではないかと思われます。さらに臣下からの「楊堅」に向けた上表などにも例が多数確認できます。他に「煬帝」に「二例」ありますが「李淵」については例が見られません。(ただし「太宗」が「父」である「李淵」に対して述べた中に一例出て来ます。)
(以下「楊堅」の代表的な例)「…十一月己酉,發使巡省風俗,因下詔曰:「朕君臨『區宇』,深思治術,欲使生人從化,以德代刑,求草?之善,旌閭里之行。…」(『隋書/帝紀第一/高祖 楊堅 上/開皇三年』より)

 『思弘』:「楊堅」に二例、「煬帝」に一例はありますが「李淵」の例は確認できません。(これも「太宗」に一例有ります)(以下「楊堅」の例)
「六月…乙丑,詔曰:「儒學之道,訓教生人,識父子君臣之義,知尊卑長幼之序,升之於朝,任之以職,故能贊理時務,弘益風範。朕撫臨天下,『思弘』德教,延集學徒,崇建庠序,開進仕之路,佇賢雋之人。…」(『隋書/帝紀第二/高祖 楊堅 下/仁壽元年』より)

 『徳化』:これも「楊堅」に二例、「煬帝」に一例ありますが、「李淵」の使用例はありません。
(楊堅の一例)「…初帝既受周禪,…仁壽元年冬至祠南郊,置昊天上帝及五方天帝位,並于壇上,如封禪禮。板曰:維仁壽元年,?次作?,嗣天子臣堅,敢昭告于昊天上帝。??運行,大明南至。臣蒙上天恩造,羣靈降福,撫臨率土,安養兆人。顧惟?薄,『德化』未暢,夙夜憂懼,不敢荒怠。…」(『隋書/志第一/禮儀一/南北郊』より)

 『覃被』:「煬帝」に一例ありますが、「楊堅」「李淵」とも用例がありません。
(以下「煬帝」の例)「(冬十月)乙酉,詔曰:「博陵昔為定州,地居衝要,先皇?試所基,王化斯遠,故以道冠?風,義高姚邑。朕巡撫氓庶,爰屆茲邦,瞻望郊廛,緬懷敬止,思所以宣播德澤, 『覃被』下人,崇紀顯號,式光令緒。…」(『隋書/帝紀第四/煬帝 楊廣 下/大業九年』より)

 『含靈』:「楊堅」に一例あり。「煬帝」「李淵」とも用例がありません。
(以下「楊堅」の例)
「王伽,河間章武人也。開皇末,為齊州行參軍,初無足稱。…上聞而驚異之,召見與語,稱善久之。於是悉召流人,并令攜負妻子?入,賜宴於殿庭而赦之。乃下詔曰:「凡在有生,『含靈』禀性,咸知好惡,並識是非。…」(『隋書/列傳 第三十八/循吏/王伽』より)

 『愛育』:「楊堅」に一例(高麗への書)、「李淵」にも一例(百済への書)あり。いずれも「夷蛮」の国に対する書の中にあることから、「大国」としての意識が言わせるものでしょう。
(楊堅の例)
「…開皇初,頻有使入朝。…十七年,上賜湯璽書曰:朕受天命,『愛育』率土,委王海隅,宣揚朝化,欲使圓首方足各遂其心。…」(『隋書/列傳第四十六/東夷/高麗』より)

 『無隔』:『煬帝紀』に二例ありますが、うち一例は「裴世矩」(裴矩)からの上表分の中に見えるものであり、「煬帝」の直接の「詔」としては一例です。「楊堅」「李淵」とも用例はありません。
「…其餘臣人歸朝奉順,咸加慰撫,各安生業,隨才任用,『無隔』夷夏。營壘所次,務在整肅,芻蕘有禁,秋毫勿犯,布以恩宥,?以禍福。…」(『隋書/帝紀第四/煬帝 楊廣 下/大業八年』より)

 『遐邇』:「楊堅」に「六例」確認できます。「煬帝」には似た意味の『遐遠』は一例あるもののそのものずばりはありません。他に「開皇十六年」に「有神雀降於含章闥,高祖召百官賜?,告以此瑞。」という事象があった際に「許善心」によって作られた「神雀頌」の中に「緜區浹宇,遐至邇安」という形で一例確認できます。さらに「薛道衡」による「上高祖文皇帝頌」の中に一例見られます。これらは「文帝」本人の言葉ではありませんが、いずれも「楊堅」を賞賛する言葉として使用されていることに注目すべきでしょう。それに対し「李淵」の使用例としては『全唐文』(註)にはいくつか存在するのが確認できるものの「史書」の中にはありません。
 以上の結果を表にするとこのようになります。(ただし「◎」は用例が複数見られるもの、「○」は一つ確認できるもの、「×」は用例がみられないことを示します)
文帝 煬帝 李淵
欽承 × ○ ×
臨仰 × × ×
區宇 ◎ ○ ×
思弘 ○ ○ ×
徳化 ○ ○ ×
覃被 × ○ ×
含靈 ○ × ×
愛育 ○ × ○
無隔 × ○ ×
遐邇 ◎ × ×
 上の結果から見てこの国書の用例と合致するものが最も少ないのは「李淵」つまり「唐」の「高祖」であることがわかります。この『推古紀』の国書が彼の出したものであるとすると、彼にとって非常に希な用語法がこの「倭国」への書だけに使用されたという事となると思われ、それは明らかに不自然といえるでしょう。また「隋帝」二人の例が多いことからも、これらの用例は「隋代」のものとして考える方が自然と思われることとなります。
(以下続く)

(註)
『全唐文』とは「清代」に編纂された「唐代」の文章集であり、「皇帝」の「詔勅」なども含まれているとされます。ただし後代編纂でもあり、若干根拠・出典が曖昧なものも含まれているようです。
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「遣隋使はなかった」か?(再々再度かな)

2024年01月21日 | 古代史
この頃研究も進まず、過去の論を見ているだけではありますが、やはり、何度でも言わずにいられないという気分になり、いくつか並べてみることとします。

「『遣隋使』はなかった」か?(一) ―「宣諭」という語の解釈を中心に ―

「要旨」
 ここでは「宣諭」という用語の意義から考えて「無礼」な国書を咎める内容の指示、あるいは強い指導とでも言うべきものが「倭国」に施されたと見られること、それは「隋」から見ると「許されない」性質のものであったために行なわれたものであり、国書の持つ本来の意義から考えて、このような「無礼」な国に対して「友好的な」内容の国書などは出されるはずがないこと、さらに「文林郎」という職掌は国書提出の任にないこと、以上から『推古紀』の「国書記事」と『隋書俀国伝』の「大業三年」記事とは大きく齟齬するものであり、同一の事象に関することではないということを改めて述べるものです。

Ⅰ.「宣諭」という用語について
 古田武彦氏はその著書(及び講演など)で『推古紀』の「遣隋使」記事について、それが実際には「遣唐使」であり、「国書」は「唐の高祖」からのものであるという指摘をしました。(註1)それは『隋書』の「大業三年」及びその「明年」とされる記事と、『書紀』の「推古十五年、十六年」記事とが同一事象を指すという、従来の常識であり立脚点ともなっていたものを覆したという点で画期的であったと思われます。実際には『書紀』編纂者が『隋書』を見ていたという可能性が高いわけですから、この二つが一致する事が即座にこれが「史実である」という証明に直結しないのは本来当然であったわけです。
 古田氏は『隋書俀国伝』の「大業十三年記事」と『推古紀』の記事とは食い違うと言う事を指摘されたわけですが、さらにそのことを別の部分に着目して述べてみようと思います。それは「宣諭」という用語です。
 『隋書俀国伝』の「大業三年(六〇七年)記事」によれば、「倭国」から「使者」が派遣されたその翌年(六〇八年)「皇帝」は「裴世清」を使者として「俀国(倭国)」に派遣したとされ、「俀国王」に面会した「裴世清」は以下のように話したとされます。
「…清答曰 皇帝德並二儀澤流四海、以王慕化故遣行人來此『宣諭』。」(『隋書/俀国伝)
 この中では「宣諭」という用語が使用されています。この「宣諭」というのは「皇帝」の言葉を「口頭」で伝えることにより「教え諭す」意です。つまり、この「大業三年」の「隋使」(裴世清)の派遣は、その前年に行われた「倭国」からの遣唐使が持参したという国書があまりに「無礼」であったため、それを「宣諭」するために行われたとみられるわけです。(上に見るように「清答曰」とされ、「口頭」で「宣」しています。)
 この前年の「遣唐使」がかの有名な「日出ずる国の天子…」という有名な国書を提出したとされているわけです。
(以下『隋書俀国伝』の当該部分)
「大業三年其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰 聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法。其國書曰 日出處天子致書日沒處天子無恙云云。帝覽之不悅謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者勿復以聞。」
 このように「倭国」からの国書に対して「皇帝」(煬帝)は「蠻夷書有無禮者、勿復以聞」と「無礼」であるとして「不快」の念を示したとされています。
 この「不快」の原因については「天子」が複数存在しているような記述にあるとするのが一般的です。それは「隋皇帝」にしてみれば「身の程を知らない」言辞であると考えられたものと思われ、そのような「隋皇帝」の「大義名分」を犯すような言辞に対して憤ったものであると理解できます。(いわば「帝」を「僭称」したものと理解された可能性さえあります。)
 『隋書』の記事配列においても「無禮」という言葉に対応するように「宣諭」が置かれていると見るべきでしょう。つまり、「隋皇帝」に対して「無礼」を働いたこととなるわけですから、そのことをいわば「説教」するために「裴世清」は派遣されたものと見られることとなり、ここで言う「宣諭」にはそのような意義があったものと思われます。
 『隋書』や『旧唐書』他の資料を検索すると複数の「宣諭」の使用例が確認できますが、それらはいずれも「戦い」や「反乱」などが起きた際あるいは「夷蛮」の地域などに派遣された使者(「節度使」など)の行動として記され、「宣諭」が行なわれるという事自体が既にかなり「穏やかではない」状況がそこにあることを示すものです。たとえば『隋書』には以下のような記述があり、これは「突厥」内部の「可汗」同士の争いの際に双方から援軍要請があり、その際に使者を派遣して「宣諭」したとされ、その結果「為陳利害,遂各解兵」とされています。

 「…其後突厥達頭可汗與都藍可汗相攻,各遣使請援。上使平持節『宣諭』,令其和解,賜縑三百匹,良馬一匹而遣之。平至突厥所,為陳利害,遂各解兵。可汗贈平馬二百匹。及還,平進所得馬,上盡以賜之。」(『隋書/列傳第十一/長孫平』より)

 また同じく『隋書』には以下のような記事もあり、「煬帝」が「高句麗」へ遠征した際の逸話として「城」を敵軍に囲まれる状況の中で「賊」(敵)側に対して「閻毗」という人物に「宣諭」させたとされます。

 「…及征遼東,以本官領武賁郎將,典宿衞。時眾軍圍遼東城,帝令毗詣城下『宣諭』,賊弓弩亂發,所乘馬中流矢,毗顏色不變,辭氣抑揚,卒事而去。…」(『隋書/列傳第三十三/閻毗』より)

 これらも含め「宣諭」という語が使用されるのは「戦場」が舞台であることが多く、このような用語が「倭国」に対して使用されているということは、ある程度の「緊張」状態が「隋」と「倭国」の間に発生していたことを示すものであり、そのような状況は『書紀』に書かれた国書の内容として、穏やかな国交の状態を表す内容とは明らかに「齟齬」するものです。

Ⅱ.国書の意義
 『隋書』によればこの時使者として「外務官僚」ではない「文林郎」という職掌の「裴世清」が派遣されたものですが、それは上に見たように、このような「無礼」を働いた国に対しては「正式」な「外務官僚」などが派遣されるはずがなかったことを示していますが、また、そのような場合には国書などを持参することなどもなかったと考えられる事にもなります。それは「倭国」の示した「無礼さ」に応じた措置であったとみられるものです。
 つまり国書とは「正式」なものであり、フォーマルなものですから、これを持参するのは「外務官僚」か「特命全権」として派遣される「高位の官人」(それは「高表仁」のようなケースが相当すると思われます)に限られると思われ、そうでない場合(「文林郎」などの官職の場合)には国書が持参されるというような事はなかったであろうと考えられるわけです。
 しかし、『書紀』によれば(以下の記事)あたかもこの時国書がもたらされたように書かれており、しかもその中では「皇帝」は「倭国」からの国書で示された「無礼さ」に対して批判・非難の類いを一切行っていません。
(以下『推古紀』の「裴世清」来倭記事の抜粋)

「…皇帝問倭皇。使人長吏大禮蘓因高等至具懷。朕欽承寶命臨仰區宇。思弘徳化覃被含靈。愛育之情無隔遐邇。知皇介居表撫寧民庶。境内安樂。風俗融和。深氣至誠。達脩朝貢。丹款之美。朕有嘉焉。稍暄比如常也。故遣鴻臚寺掌客裴世清等。稍宣徃意。并送物如別。…」(『(推古)十六年(六〇八年)秋八月辛丑朔壬子条』より)

 ここでは「達脩朝貢。丹款之美。朕有嘉焉」とされ、型どおりではあるものの「友好的」な言辞を弄してさえいます。『隋書』に言うような「諭す」様な文面も全くなく、『隋書』の内容と大きく齟齬していることが分かります。
 『隋書』によればあくまでも、口頭で「宣諭」するというレベルの外交を展開したわけであり、だからこそ「鴻廬寺掌客」のような下級ながら正式な外務官僚ではなく「文林郎」という本来「外交」とは何の関係もないような(しかし「皇帝」に近侍していたと思われる)職掌の人間を充てた理由であると思われます。(『書紀』では「鴻臚寺掌客」が国書を持参したとされていますから役柄としては整合しています。これを「文林郎」に「鴻臚寺掌客」を「兼務」させる事で国書持参を可能にしたとするなら、そもそも最初から「鴻臚寺掌客」を派遣すればいいだけの話ですから無理な考え方であると思われます)
 「隋」など、歴代中国の外交の要点は「権威」の誇示であり、「大義名分」の誇示であったと思われます。つまり自分たちが「四夷」の頂点にいる「皇帝」の国であるという主張(中華思想)を周囲に認めさせることであったと思われ、そうであれば「倭国王」が行った「対等性の主張」などは「言語道断」であり、それは笑って済ませられる性質のものではなかったはずです。このことからもこの「裴世清」記事と『隋書俀国伝』に示された「大業三年記事」とは整合しないものと思われるわけです。
 では古田氏の言うように「十年以上」下った「初唐」の時期のことであったのでしょうか。ところがそうとは言い切れない部分があると思われるのです。なぜならこの時の「倭国王」からの国書の中身は外交儀礼を「無視」したあるいはそのことに対して「無知」であったものと考えられるわけであり、そのような「倭国」に対する「マイナスイメージ」は「唐王朝」にも引き継がれたものと推量されるからです。
 もし仮に『書紀』に書かれた「使者と国書」が「唐」からのものであったとすると、「唐」は「隋代」に「無礼な国」というレッテルが貼られた「倭国」に対して「国書」を提出し、しかもその中で「友好的言辞」を書きしたためたこととなります。しかし、それは「あり得ない」こととなるのではないでしょうか。「隋」の皇帝が貼った「無礼な国」というレッテルは、「隋」を襲った「唐」においても同様の認識ではなかったかと考えられるものです。
 確かに「王朝」は交替していますが、「倭国」からの国書は「隋」の皇帝だけというわけではなく皇帝一般に対する権威全体を否定していると言えるものですから、「唐王朝」にとっても許容の範囲を超えていたものでしょう。そうであれば特に「倭国」に対して寛容でなければならない事情はなかったと思われます。
 「高麗」へは「唐」成立後すぐに使者を派遣し、国書を持参させたわけですが、それは「高麗」が「唐」の「前王朝」である「隋」の攻撃を跳ね返し、「隋」滅亡のきっかけを作ったものであり、、また「国境」を接しているわけですから、「強国」として意識せざるを得ないものがあったからと思われます。さらに「唐王朝」は「隋」と「高麗」の間で行われた戦いで捕虜になった人たちの相互交換を行う必要があったものであり、その意味でも「高麗」へのアプローチは急ぐ必要があったでしょう。
 またこの「高麗」への国書は『旧唐書高麗伝』によれば「武徳五年」(六二二年)のこととされています。それに対し古田氏はこの『推古紀』の国書記事について、「十二年ずれ」である可能性を論じていますが、それに従えば「六二〇年」に「裴世清」が国書を持参したこととなり、「高麗」よりも先に「使者」が送られたこととなりますが、今見たようにそれほど「倭国」の優先順位が高かったとは思われないことを考えると不審といえるでしょう。
 「倭国」は「高麗」と違い「遠絶」の地域であることや両国間の問題の深刻さのレベルの違いなどがあったものであり、それを考えると「唐」成立後「倭国」との間に本格的な国交回復を急ぐべき事情や必要性は(少なくとも「唐」の側には)なかったものと考えられるわけです。
(以下続く)

(註)
一.古田武彦「古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝(第四章「推古朝の対唐外交」)」朝日新聞社一九八五年によります。さらに同趣旨のものとして「古田武彦講演録一『日本書紀』の史料批判 遣隋使はなかった」市民の古代・古田武彦とともに第三集 古田武彦を囲む会編一九八一年があります。
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