③「国号変更」について
朝鮮の史書である『三国史記』の『新羅本紀』には「六七〇年」という年に「倭国自ら国号を更えて日本と号す。日の出ずる所に近し。故に名と為すと」と書かれています。この「国号変更」については以下のように考えられます。ただし彼の朝廷以外にこの時期他に朝廷がなかったのなら、「国号変更」となりますが、他にあったならその朝廷とは並立していたことになり、「創号」となります。
彼の朝廷(近江朝廷)以外にはこの時期「朝廷」はなかったのでしょうか。それは「壬申の乱」の実情がこれに示唆を与えているようです。
この「壬申」の乱は「東国」の勢力が反乱軍の主体のように言われることがあります。しかし、この反乱に参加した豪族の内訳を見るとそうとも言えないことがわかります。
この反乱で「近江朝廷」側(つまり「日本国」側)についたのは「蘇我」「物部」「大伴」など古代からの氏族が中心となっていますが、反近江朝廷側(つまり「反日本国」側)は「高市皇子」がおり(彼は「宗像の君」の子供です)「大分の君」、「筑紫太宰」という肩書きの「栗隈王」、彼の息子という「美濃の君」、さらに、吉備太宰という肩書きの「当摩の君」があり、伊勢国司という三宅連、上毛野君、丹比君、対馬国守、難波吉士、出雲臣、三輪君など、九州から瀬戸内、近畿、東国など広範囲に渡っていることがわかります。「宗像」の勢力と「安曇」の勢力が非常に友好的な関係にあるのは周知であり、当然これに「安曇勢力」が加わって、強固なものになったと考えられます。さらにこの勢力に「唐」軍に捕虜となっていた「筑紫の君薩夜麻」が合流したと考えられます。
「筑紫の君薩夜麻」という人物は、「六六二年」の白村江の戦いで唐軍の捕虜になっていたものが(捕虜になった時点では記載がありません)、六七一年(実は六七〇年)に唐の軍隊の先兵として帰国したのが初出です。「筑紫の君薩夜麻」は数千人に及ぶ唐の軍の「先触れ」として筑紫に帰国してきたのです。そして「壬申の乱」という戦いは彼が帰国していくばくもなく発生することとなるわけですから、彼がこの乱に非常に関係が深いと思われるのは当然であり、「反日本国」側の有力人物であったことの証左と考えられるものです。
彼が加わった結果としての「反日本国」勢力が、特に「西海道」に強い勢力範囲があったわけであり、このような広範囲の勢力をまとめることは短期間でははなはだ困難なことと考えられ、「以前から」これらは「一定の勢力範囲」に所属していたものと推測されるものであり、これは「別の朝廷」の存在が強く示唆されるものです。特に九州は「筑紫」「安曇」「宗像」「大分」等が反近江朝廷側に入っている形となり、これらの中心的位置を占めていたのではないかと思われます。それに関しては「近江朝廷」から派遣された「佐伯連男」と「樟使主磐手」は「筑紫」と「吉備」について以前から「大皇弟」に付き従っていたとされており、そもそも西日本は「大皇弟」という人物の勢力範囲であったこととなりますが、そのことと「筑紫君薩夜麻」の勢力範囲が重なっているように見えるのは偶然ではないと思われます。
「…且遣佐伯連男於筑紫。遣樟使主盤磐手於吉備國。並悉令興兵。仍謂男與磐手曰。其筑紫大宰栗隅王與吉備國守當摩公廣嶋二人。元有隷大皇弟。…」
これらのことから考えて天智天皇は「国号変更」と言うより「西日本」側の勢力とは「別に」「朝廷」を開き、「国号」を「創始」したと考えるべきかもしれません。
『書紀』では「大海人」対「大友」に構図が「矮小化」されていますが、実際は「天智」が独立して「別個の朝廷」を開き、「大友皇子」がそれを継承した、ということであると推測されます。
「天智」は「日本国天皇」を自称していたものとみられるわけですが、『釈日本紀』によれば、「日本」という国号は(自ら名乗ったというより)唐から「号」された(名づけられた)ものとされています。どの段階で「号」されたかというのは「唐の武徳年中(つまり太宗の治世)」になって派遣された遣唐使が「国名変更」を申し出、受理されたとされていますが、さらにそれ以前にも「隋朝」に対し「倭」から「日本」へという国名変更を願い出たものの、同時に「天子」を自称するという挙に出たためそれを咎められることとなった影響で認められなかったとみられます。
実際には『推古紀』の「国書」の内容から見て(「倭皇」という表記が見られる)「日本国」という国名変更は承認されなかったものの、「天皇」自称は一旦認められたものと思われますが、その後の「遣使」の際の「天子」称号の迂闊な使用から「宣諭」されるという失態を犯した段以降、元の「倭国王」に差し戻されていたものではないでしょうか。
その後「唐朝」になり「太宗」の元に「使者」を派遣した際に再度「日本国」「天皇」号を認めるよう請願し一旦認められたものと思われますが、返答使として派遣された「高表仁」とのトラブルによって、またもや「倭国王」に戻されたと推察され、この後国交が途絶えた後「高宗」即位後「新羅」を通じて「起居」を通じるようになり、「白雉年間」に派遣された連年の遣唐使時点(後の方)以降「日本国」「天皇」号を認められるに至っていたもののようです。
この件に関しては、「隋代」以来の経緯を踏まえた「天智」(というより「倭王権」)が、「天子」自称はせず(「伊吉博徳」の遣唐使派遣記録では「唐皇帝」を「天子」と称しており、自らを「天子」とする立場にはおいていないのは確かです。)、しかも「伊吉博徳」の書をみるとこの時「日本国」という自称を「高宗」は受け入れていた模様ですが、それは倭国側が「新羅を通じて起居を通じる」(六四八年)という記事が唐側史料にあるところから見て、「高表仁」の一件について「謝罪」したからではなかったと考えられるでしょう。それを「唐」が受け入れた結果「日本国」という呼称変更とともに「天皇」自称を認めていたと思われるのです。つまり「唐」の「天子」(皇帝)に対し「天皇」という位取りはそれほど僭越とは言えないため、これを「唐朝」として認めていたものと思われ、これが「天智末年」まで続いていたと思われるわけです。
朝鮮の史書である『三国史記』の『新羅本紀』には「六七〇年」という年に「倭国自ら国号を更えて日本と号す。日の出ずる所に近し。故に名と為すと」と書かれています。この「国号変更」については以下のように考えられます。ただし彼の朝廷以外にこの時期他に朝廷がなかったのなら、「国号変更」となりますが、他にあったならその朝廷とは並立していたことになり、「創号」となります。
彼の朝廷(近江朝廷)以外にはこの時期「朝廷」はなかったのでしょうか。それは「壬申の乱」の実情がこれに示唆を与えているようです。
この「壬申」の乱は「東国」の勢力が反乱軍の主体のように言われることがあります。しかし、この反乱に参加した豪族の内訳を見るとそうとも言えないことがわかります。
この反乱で「近江朝廷」側(つまり「日本国」側)についたのは「蘇我」「物部」「大伴」など古代からの氏族が中心となっていますが、反近江朝廷側(つまり「反日本国」側)は「高市皇子」がおり(彼は「宗像の君」の子供です)「大分の君」、「筑紫太宰」という肩書きの「栗隈王」、彼の息子という「美濃の君」、さらに、吉備太宰という肩書きの「当摩の君」があり、伊勢国司という三宅連、上毛野君、丹比君、対馬国守、難波吉士、出雲臣、三輪君など、九州から瀬戸内、近畿、東国など広範囲に渡っていることがわかります。「宗像」の勢力と「安曇」の勢力が非常に友好的な関係にあるのは周知であり、当然これに「安曇勢力」が加わって、強固なものになったと考えられます。さらにこの勢力に「唐」軍に捕虜となっていた「筑紫の君薩夜麻」が合流したと考えられます。
「筑紫の君薩夜麻」という人物は、「六六二年」の白村江の戦いで唐軍の捕虜になっていたものが(捕虜になった時点では記載がありません)、六七一年(実は六七〇年)に唐の軍隊の先兵として帰国したのが初出です。「筑紫の君薩夜麻」は数千人に及ぶ唐の軍の「先触れ」として筑紫に帰国してきたのです。そして「壬申の乱」という戦いは彼が帰国していくばくもなく発生することとなるわけですから、彼がこの乱に非常に関係が深いと思われるのは当然であり、「反日本国」側の有力人物であったことの証左と考えられるものです。
彼が加わった結果としての「反日本国」勢力が、特に「西海道」に強い勢力範囲があったわけであり、このような広範囲の勢力をまとめることは短期間でははなはだ困難なことと考えられ、「以前から」これらは「一定の勢力範囲」に所属していたものと推測されるものであり、これは「別の朝廷」の存在が強く示唆されるものです。特に九州は「筑紫」「安曇」「宗像」「大分」等が反近江朝廷側に入っている形となり、これらの中心的位置を占めていたのではないかと思われます。それに関しては「近江朝廷」から派遣された「佐伯連男」と「樟使主磐手」は「筑紫」と「吉備」について以前から「大皇弟」に付き従っていたとされており、そもそも西日本は「大皇弟」という人物の勢力範囲であったこととなりますが、そのことと「筑紫君薩夜麻」の勢力範囲が重なっているように見えるのは偶然ではないと思われます。
「…且遣佐伯連男於筑紫。遣樟使主盤磐手於吉備國。並悉令興兵。仍謂男與磐手曰。其筑紫大宰栗隅王與吉備國守當摩公廣嶋二人。元有隷大皇弟。…」
これらのことから考えて天智天皇は「国号変更」と言うより「西日本」側の勢力とは「別に」「朝廷」を開き、「国号」を「創始」したと考えるべきかもしれません。
『書紀』では「大海人」対「大友」に構図が「矮小化」されていますが、実際は「天智」が独立して「別個の朝廷」を開き、「大友皇子」がそれを継承した、ということであると推測されます。
「天智」は「日本国天皇」を自称していたものとみられるわけですが、『釈日本紀』によれば、「日本」という国号は(自ら名乗ったというより)唐から「号」された(名づけられた)ものとされています。どの段階で「号」されたかというのは「唐の武徳年中(つまり太宗の治世)」になって派遣された遣唐使が「国名変更」を申し出、受理されたとされていますが、さらにそれ以前にも「隋朝」に対し「倭」から「日本」へという国名変更を願い出たものの、同時に「天子」を自称するという挙に出たためそれを咎められることとなった影響で認められなかったとみられます。
実際には『推古紀』の「国書」の内容から見て(「倭皇」という表記が見られる)「日本国」という国名変更は承認されなかったものの、「天皇」自称は一旦認められたものと思われますが、その後の「遣使」の際の「天子」称号の迂闊な使用から「宣諭」されるという失態を犯した段以降、元の「倭国王」に差し戻されていたものではないでしょうか。
その後「唐朝」になり「太宗」の元に「使者」を派遣した際に再度「日本国」「天皇」号を認めるよう請願し一旦認められたものと思われますが、返答使として派遣された「高表仁」とのトラブルによって、またもや「倭国王」に戻されたと推察され、この後国交が途絶えた後「高宗」即位後「新羅」を通じて「起居」を通じるようになり、「白雉年間」に派遣された連年の遣唐使時点(後の方)以降「日本国」「天皇」号を認められるに至っていたもののようです。
この件に関しては、「隋代」以来の経緯を踏まえた「天智」(というより「倭王権」)が、「天子」自称はせず(「伊吉博徳」の遣唐使派遣記録では「唐皇帝」を「天子」と称しており、自らを「天子」とする立場にはおいていないのは確かです。)、しかも「伊吉博徳」の書をみるとこの時「日本国」という自称を「高宗」は受け入れていた模様ですが、それは倭国側が「新羅を通じて起居を通じる」(六四八年)という記事が唐側史料にあるところから見て、「高表仁」の一件について「謝罪」したからではなかったと考えられるでしょう。それを「唐」が受け入れた結果「日本国」という呼称変更とともに「天皇」自称を認めていたと思われるのです。つまり「唐」の「天子」(皇帝)に対し「天皇」という位取りはそれほど僭越とは言えないため、これを「唐朝」として認めていたものと思われ、これが「天智末年」まで続いていたと思われるわけです。