古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

朔旦冬至と伊勢神宮

2025年01月25日 | 古代史
 伊勢神宮の「式年遷宮」は二〇一三年に行われており、それまで二十年に一度遷宮が行われ続けてきたと理解されています。確かに『皇太神宮雑記帳』などを見ると「二十年に一度」という文言が確認できますが、実体は少々異なります。記録(『太神宮諸雑事記』)を見ると鎌倉時代までは実は「十九年に一度」の遷宮であったのです。この「十九年」という年数は明らかに「太陰暦」における「朔旦冬至」から次の「朔旦冬至」までの期間(これは「章」と称されていたもの)を示すものです。
  「朔旦冬至」という現象は旧暦十一月一日の日の出の時刻に冬至となるというものであり、このような「天体の運動」に関する事も「皇帝」の支配下にあるという中国の伝統的考え方によって「皇帝」の権威を示すものとされていました。加えて、その「章」の期間である「十九年」(太陽暦と太陰暦の日数が同じになる年数を言う)という年数が「皇帝」の治世と絡めて考えられていたものであり、新しい「章」の始まりはその皇帝の「治世」がまた改めて始まるということを示すものとされ重要視されていたものです。
 『書紀』の「六五九年」の年次に「伊吉博徳」が参加した「遣唐使」記事があり、そこに彼が書いた「記録」からの引用と思われる文章には「唐」の「宮中」(洛陽)で「冬至之會」が行われていたことが書かれています。この年は確かに「朔旦冬至」の年であったことから、この「冬至之會」もかなり大々的に行われたものと見られ、「伊吉博徳」等の「遣唐使」もこの「冬至之會」への参加を目的として派遣されたものと見られます。(前述)
 「伊吉博徳書」からの引用では「所朝諸蕃之中。倭客最勝。」とありますが、この「諸蕃」とは「化外」にあたる周辺諸国を意味する呼称ですから、この時宮中にかなりの遠方からの客が集まっていたものですが、域外諸国まで集まっているということは「唐王権」から「招集」がかけられていたという可能性を想定することが妥当であることを証するものでしょう。域内諸国は例年「正朔」つまり暦の頒布を受けるためにこの冬至である十一月一日には集まっていたはずですが、この時は彼ら以外にも絶域の諸国も含め招集されていたものと思われるわけです。
 遠方の夷蛮の国々が参列していることは王権にとって支配・統治の有効性をアピールするまたとない機会ですから、このようなビッグイベントには必ず参加するべしと言う号令がかかったものと推量します。そう考えると、当時の「倭国」においても同様に「朔旦冬至」に政治的意義を与えていたとみることもできるでしょう。つまりこの「伊勢神宮」の式年遷宮の年数が当初十九年に一度であったということは、単に「伊勢神宮」にとってというだけではなく「倭国王権」にとって重要であったことを意味するものと思われるのです。
 ところで「式年遷宮」の当初の形が「十九年」に一度であったということは、この「暦」における「章」の期間が意識されていたことは確実であると思われますが、そうであれば単に「十九年」という年数だけではなく、「朔旦冬至」の年次が意識され盛り込まれていなければならないはずです。
 「章」は「朔旦冬至」で始まり、次の「章」の始まりである「朔旦冬至」までが一区切りであるわけです。しかし「式年遷宮」の確実な最初の年次は「持統四年」とされており、これは「六九〇年」と考えられていますから、どのような暦を考えても「朔旦冬至」の年ではありません。またそれ以降の「遷宮」も同様に「朔旦冬至」とは異なる年次に行われているように見えます。これは不審といえるものではないでしょうか。
(以下『神道史大辞典』(吉川弘文館)による「式年遷宮」の記録)

① 持統四年(六九〇)/② 和銅二年(七〇九) 十九年/③ 天平元年(七二九) 二十年/④ 天平十九年(七四七) 十八年/⑤ 天平神護二年(七六六) 十九年/⑥ 延暦四年(七八五) 十九年/⑦ 弘仁元年(八一〇) 二十五年/⑧ 天長六年(八二九) 十九年/⑨ 嘉祥二年(八四九) 二十年/⑩ 貞観十年(八六八) 十九年/⑪ 仁和二年(八八六) 十八年/⑫ 延喜五年(九〇五) 十九年

 この「式年遷宮」が「章」と関係しているというのは諸氏によって指摘されていますが、その意味として「十九年」という「章」の期間が一種の「エネルギーサイクル」であり、その一サイクルを「霊的エネルギー」の有効期間と見ている見解が多数です。しかし「章」が中国においては「朔旦冬至」から次の「朔旦冬至」までとしていることを踏まえると、「倭国」においてもそれを踏襲しなかったとすると不審であり、最初の「遷宮」とされる「持統」以降「朔旦冬至」ではない年に「式年遷宮」を行っているというのは「不合理」であり、そのような理論とは整合しない事態となっているといえます。
 「唐」では「武徳二年」(六一九年)に「戊寅元暦」が「唐」の正式な暦となりました。この時点以降「倭国」は「遣唐使」を派遣しており、この「戊寅元暦」を学んでいたものと思われます。
 「倭国王」の権威を示す意味からも(「章」の持つ意義から考えて)この「朔旦冬至」となる年次を選んで何らかのイベントが行われたと見るべきであり、それが「式年遷宮」であったものと推定され、本来的にいえばどこかの「朔旦冬至」の年に「式年遷宮」の第一回が行われたと見るべきこととなります。その意味では「朔旦冬至」の年次群の中では特に「六四〇年」という年次が注目されます。なぜならこの年次はその「冬至」の日の干支が「甲子」であるという「甲子朔旦冬至」という非常に稀なものであったからです。(「甲子朔旦冬至」には二種類有りその年が「甲子」であるという場合と、その冬至の日が「甲子」であるという場合です。六四〇年は後者です。)
 「甲子」は「暦」の(六十個ある干支の組み合わせの順列においての)「始まり」であり、そのことから「皇帝」の「治世」の始まりと関連して考えられ、特別な意味合いを持たされていたのです。そう考えれば(少なくとも「唐」においては)この年次において「冬至之會」を(六五九年と同様)行っていたものと考えるべきでしょう。これについては『旧唐書』『新唐書』とも「有事於南郊」、「有事于圓丘」という表現で「冬至」の「祭天」そのものの実施は書かれているものの、国家的イベントとして諸国から使者を招請したとは書かれていません。

「(貞観)十四年十一月甲子,有事于南郊。」(新唐書)

「(貞観)十四年十一月甲子朔,日南至,有事于圓丘。」(旧唐書)

 一見「冬至之會」に関する大きな催しがあったとは見られないわけですが、それは「六五九年」の「冬至之會」についても同様であり、「東都」への移動については記事があるもののその目的や諸国からの招請などはやはり記事がありません。
 しかし「伊吉博徳」の記録からこの時「冬至之會」がかなり大々的イベントとして行われていたことが明らかとなっているわけですから、「太宗」時代の「朔旦冬至」についても同様にビッグイベントとして行われたと見るのは不自然ではありません。(ただしこの時は「洛陽」ではなく「長安」で行われたと見られます。)
 ただし『資治通鑑』によればこの時の「十一月朔」の干支は実際には「甲子」ではなくその一つ前の「癸亥」であったとされており、それを「人為的」に「冬至」の干支である「甲子」に合わせたとされています。

(貞観十四年(庚子、六四〇))「十一月,甲子朔,冬至,上祀南郊。時戊寅暦以癸亥爲朔,宣義郎李淳風表稱:「古暦分日起於子半,今歳甲子朔冬至,而故太史令傅仁均減餘稍多,子初爲朔,遂差三刻,用乖天正,請更加考定。」衆議以仁均定朔微差,淳風推校精密,請如淳風議,從之。」

 この文章からは元々の「戊寅元暦」では朔が「癸亥」であったが、「冬至」が「甲子」であったので、これに合わせたという趣旨と思われます。現在残っている「戊寅元暦」のデータで計算すると「十一月朔」は「甲子」となりますが、これは後に「データ」を修正したためらしく、この「六四〇年」段階では「甲子」ではなかったらしいことが読み取れます。このような人為的な「朔干支」の改変を行った理由としては「甲子朔旦冬至」という希有な日を創出する意義があったものと思われ、「冬至」の儀式をより意義のあるものとしようという意識が見受けられるものです。
 「六五九年」の遣唐使が一旦「長安」に向かったのも「前回」の「冬至之會」が「長安」で行われたからということが理由としてあったという可能性もあるでしょう。単に「首都」に向かったというよりは前回の経験を踏まえて「長安」に目的地を定めたものではないでしょうか。しかし「顕慶二年」に「洛陽」は「煬帝」以来の「東都」とされ、格段に扱いが高くなったものであり、しきりに「高宗」と「武后」は「洛陽」へ行幸するようになります。さらに「顕慶三年」には「禮制」が改定され、推測によればその中で「冬至」の「祭天」は「東都」である「洛陽」の南郊で行うこととなったものと見られます。(ただし「顕慶礼」はその後逸失しているため不明です。)
 これは「洛陽」の郊外で「祭天」を行っていた「周」の時代に戻る意義があったと見られ、「武后」がその後「唐」を改め「周」と国名を変更する素地ともなったと見られます。

「…若夫情尚分流,?防之仁是棄;澆訛異術,洙泗之風斯泯。是以漢文罷再朞之喪,中興為一郊之祭,隨時之義,不其然歟!而西京元鼎之辰,中興永平之日,疏璧流而延冠帶,?儒門而引諸生,兩京之盛,於斯為美。及山魚登俎,澤豕?經,禮樂恆委,浮華相尚,而郊?之制,綱紀或存。魏氏光宅,憲章斯美。王肅、高堂隆之徒,博通前載,三千條之禮,十七篇之學,各以舊文增損當世,豈所謂致君於堯舜之道焉。世屬雕牆,時逢秕政,周因之典,務多違俗,而遺編殘冊猶有可觀者也。景初元年,營洛陽南委粟山以為圓丘,祀之日以始祖帝舜配,房俎生魚,陶樽玄酒,非?紳為之綱紀,其孰能與於此者哉!」(『晉書』卷十九/志第九/禮上)

 ここでは「魏晋朝」において「堯舜」の禮制に戻り、「洛陽」の南郊の「粟山」を「圓丘」として「日」を祀るとされ、「冬至」などの儀式がここで行われたことを示しています。これを視野に入れて「顕慶礼」では「洛陽」で「冬至之會」を行うこととなったものではないでしょうか。
 このような事情により「高宗」は「閏十月」の末には「洛陽」に移動していたものであり、それを知った「伊吉博徳等」は慌てて「長安」から「洛陽」へ馬に乗って急行してやっと間に合ったというわけです。(「伊吉博徳書」には「…馳到東京。天子在東京。」と書かれています。)
 このように「六五九年」の遣唐使の十九年前にも「蝦夷」を伴った「遣唐使」があったと推定するものであり、「十九年」を隔てて再び「遣唐使」が赴いたというわけですが、それはそもそも「太宗」から「遠距離」であるため「毎年朝貢」の必要がないとされたという記事が関係しているでしょう。

「貞觀五年、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢。」(旧唐書/倭国伝)

 さらに後の時代に日本からの留学僧「円載」からの質問への回答として天台山国清寺の僧侶「維躅」が作成した「唐決集」(開成五年(八四〇年)の中には「日本」からの朝貢は「約二十年に一度」とされていたことが書かれています。

「六月一日天台山僧維?謹献書於/郎中使君〈閣下〉維?言去歳不稔人無聊生皇帝謹擇賢救疾朝端選於衆得郎中以恤之伏惟/郎中天仁神智澤潤台野新張千里之?再活百靈/之命風雨應祈稼穡鮮茂几在品物罔不?服南嶽高僧思大師生日本為王天台教法大行彼国是以/内外経籍一法於唐『約二十年一来朝貢』貞元中僧/?澄来會僧道邃為講義陸使君給判印帰国…」(唐決集)

 通常はこの「約二十年に一度」という頻度については「八世紀」に入って以降派遣された遣唐使について適用されるものと考えられているようですが、私見では「太宗」からの「勅」の中にこの「年数」についての言葉があったものであり、少なくとも「朔旦冬至」の際に行われる「冬至之會」への参加だけはするようにと言う趣旨ではなかったかと考えられます。
 このように「朔旦冬至」の政治的重要性を「倭国王権」が認識していたとすると、「倭国」でも「朔旦冬至」に関連したイベントがあったとして不思議ではなく、それが「伊勢神宮」の「式年遷宮」であったとみることもできると思われます。「倭国」にとってもこの年次が重要であったのは間違いないと思われますが、「式年遷宮」は「天下り」を模したものという意見もあり、そうであれば「六四〇年」という年次が「倭国王権」にとって画期となるものであったという可能性が高いものと思われます。
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