このたび18歳以上の男女に選挙権が認められるようになりました。高校三年生の一部はそれに該当します。それがいいことなのかどうかは簡単には言えませんが、成人の規定については変化しないということですから、社会全体にとって大きい影響があるとは見られないでしょう。
ところで、日本では古代から(少なくとも律令制が施行されていた「奈良時代」)成人は満20歳以上とされていましたが、「(幼)小」は「15歳未満」とされ、「15歳」(数えの16歳)になると「大人」の扱いとなりました。(中丁と称したもの)
「凡男女。三歳以下為黄。十六以下為小。廿以下為中。其男廿一為丁。六十一為老。六十六為耆。無夫者。為寡妻妾」(『養老令』(戸令))
たとえば「立太子」つまり「後継者」として選ばれるためには「15歳以上」であることが必要でした。「聖徳太子」も「日本武尊」も「中大兄皇子」も「16歳」(数え年)での活躍が資料に残されています。
「…是時廐戸皇子束髮於額。古俗年少兒年十五六間。束髮於額。十七八間。分爲角子。今亦爲之。…」(推古紀)
「…冬十月丁酉朔己酉、遣日本武尊令?熊襲、時年十六。…」(景行紀)
「(六四一年)十三年冬十月己丑朔…丙午。殯於宮北。是謂百濟大殯。是時東宮開別皇子年十六而誄之」(舒明紀)
また「推古天皇」は「十八歳」になって「結婚」しています。(これも数え年)
「豊御食炊屋姫天皇。天國排開廣庭天皇中女也。橘豊日天皇同母妹也。幼曰額田部皇女。姿色端麗。進止軌制。年十八歳立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后。」(推古即位前紀)
これは「満17歳」以上になったという条件を満たしたことがその前提と思われますが、この年齢基準はその後も残っていたものと思われ、「元服」や「裳着」という習慣として残ったものです。旧民法規定の婚姻可能な年令の下限規定としても「男15歳女17歳」というものがあり、それもこの古代の制度が慣習化したものを規定としたものと思われます。
また「倭国王」(天皇)として即位するには「成人」であることもまた必要でした。「幼少」でない場合、つまり「立太子」していた場合は「皇后」が「成人」までの期間「称制」したものです。(立太子もしていないような場合は『懐風藻』にみられるように群卿諸皇子などの合議によりどうするか決めていたもの)
さらに「初叙」の年齢は25歳とされていたものであり、この年齢に達しなければ「官庁」に出仕することができませんでした。
ところで、20歳以上には「租庸調」や「兵役」の義務がありましたが、20歳以下にはそれはありませんでした。「班田」は幼小であってもであっても与えられましたが、「租」の負担義務は「成人」だけが負っていました。
このような制度は元々原初的なものであり、律令制度施行以前において15歳という年齢が(男子としては)大人になるための境界条件として存在していたものと思われますが、律令制が施行された段階で、それが取り込まれ、「中丁」というものに形を変えて現われたものと推量します。(「隋・唐」の律令の影響と思われます)
この段階以降「15歳以上20歳以下」の人間については「大人の権利」はありながら、「大人の義務」はないという状態となったものです。
このような一種のモラトリウム期間が設けられたことにより、それが人間的成長を促し、「成人」になる準備期間として存在していたと考えられます。つまり、15歳になると、大人としての「権利」は認められ、それを行使するうちに自然と「責任感」がわき起こるという中で「制度」として「義務」が負荷されるという流れとなっているわけです。
現状のように20歳までは大人としての「義務」も「権利」もなく、20歳になったところで「権利」と「義務」が同時に与えられるというのは「準備期間」がなく、戸惑いがあって当然とも思います。古代のシステムはその意味である意味合理的ではないでしょうか。
その意味では「権利」と「義務」が表裏一体という考え方そのものが本当に正しいのかが問われているとも言えます。このような考え方は「市民意識」の成立と関係があり、西欧において「市民」としての「義務」と「権利」が確立していなかった時代に、「市民革命」を行う中で理論化され、構築されたものとも思えますが、それは「完成」された人間に対する「権利」と「義務」でした。
そもそも西欧では「子供」に対してそれが完成されていないという意味で「人間」として扱うという観念が薄かったといわれ、宣教師などが日本を訪れ、子供に「自由」と「権利」が(もちろん完全ではないものの)あることに驚いていたという話もある位ですから、その意味で「子供」に対して人間性あるいは人権というものを承認していたと思われる日本の習慣や制度の方が合理的であったともいえます。
まず「権利」が先に取得・行使される中でその後「義務」が背負わされるという流れは、人間の成長と社会規範とをかみ合わせるという意味でも考慮すべきものとも思えます。その意味では「日本」の古代からの習慣に目をやり、それを踏まえて考えて見るというのも必要なことかもしれません。
ところで、日本では古代から(少なくとも律令制が施行されていた「奈良時代」)成人は満20歳以上とされていましたが、「(幼)小」は「15歳未満」とされ、「15歳」(数えの16歳)になると「大人」の扱いとなりました。(中丁と称したもの)
「凡男女。三歳以下為黄。十六以下為小。廿以下為中。其男廿一為丁。六十一為老。六十六為耆。無夫者。為寡妻妾」(『養老令』(戸令))
たとえば「立太子」つまり「後継者」として選ばれるためには「15歳以上」であることが必要でした。「聖徳太子」も「日本武尊」も「中大兄皇子」も「16歳」(数え年)での活躍が資料に残されています。
「…是時廐戸皇子束髮於額。古俗年少兒年十五六間。束髮於額。十七八間。分爲角子。今亦爲之。…」(推古紀)
「…冬十月丁酉朔己酉、遣日本武尊令?熊襲、時年十六。…」(景行紀)
「(六四一年)十三年冬十月己丑朔…丙午。殯於宮北。是謂百濟大殯。是時東宮開別皇子年十六而誄之」(舒明紀)
また「推古天皇」は「十八歳」になって「結婚」しています。(これも数え年)
「豊御食炊屋姫天皇。天國排開廣庭天皇中女也。橘豊日天皇同母妹也。幼曰額田部皇女。姿色端麗。進止軌制。年十八歳立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后。」(推古即位前紀)
これは「満17歳」以上になったという条件を満たしたことがその前提と思われますが、この年齢基準はその後も残っていたものと思われ、「元服」や「裳着」という習慣として残ったものです。旧民法規定の婚姻可能な年令の下限規定としても「男15歳女17歳」というものがあり、それもこの古代の制度が慣習化したものを規定としたものと思われます。
また「倭国王」(天皇)として即位するには「成人」であることもまた必要でした。「幼少」でない場合、つまり「立太子」していた場合は「皇后」が「成人」までの期間「称制」したものです。(立太子もしていないような場合は『懐風藻』にみられるように群卿諸皇子などの合議によりどうするか決めていたもの)
さらに「初叙」の年齢は25歳とされていたものであり、この年齢に達しなければ「官庁」に出仕することができませんでした。
ところで、20歳以上には「租庸調」や「兵役」の義務がありましたが、20歳以下にはそれはありませんでした。「班田」は幼小であってもであっても与えられましたが、「租」の負担義務は「成人」だけが負っていました。
このような制度は元々原初的なものであり、律令制度施行以前において15歳という年齢が(男子としては)大人になるための境界条件として存在していたものと思われますが、律令制が施行された段階で、それが取り込まれ、「中丁」というものに形を変えて現われたものと推量します。(「隋・唐」の律令の影響と思われます)
この段階以降「15歳以上20歳以下」の人間については「大人の権利」はありながら、「大人の義務」はないという状態となったものです。
このような一種のモラトリウム期間が設けられたことにより、それが人間的成長を促し、「成人」になる準備期間として存在していたと考えられます。つまり、15歳になると、大人としての「権利」は認められ、それを行使するうちに自然と「責任感」がわき起こるという中で「制度」として「義務」が負荷されるという流れとなっているわけです。
現状のように20歳までは大人としての「義務」も「権利」もなく、20歳になったところで「権利」と「義務」が同時に与えられるというのは「準備期間」がなく、戸惑いがあって当然とも思います。古代のシステムはその意味である意味合理的ではないでしょうか。
その意味では「権利」と「義務」が表裏一体という考え方そのものが本当に正しいのかが問われているとも言えます。このような考え方は「市民意識」の成立と関係があり、西欧において「市民」としての「義務」と「権利」が確立していなかった時代に、「市民革命」を行う中で理論化され、構築されたものとも思えますが、それは「完成」された人間に対する「権利」と「義務」でした。
そもそも西欧では「子供」に対してそれが完成されていないという意味で「人間」として扱うという観念が薄かったといわれ、宣教師などが日本を訪れ、子供に「自由」と「権利」が(もちろん完全ではないものの)あることに驚いていたという話もある位ですから、その意味で「子供」に対して人間性あるいは人権というものを承認していたと思われる日本の習慣や制度の方が合理的であったともいえます。
まず「権利」が先に取得・行使される中でその後「義務」が背負わされるという流れは、人間の成長と社会規範とをかみ合わせるという意味でも考慮すべきものとも思えます。その意味では「日本」の古代からの習慣に目をやり、それを踏まえて考えて見るというのも必要なことかもしれません。