古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

筑紫君「薩夜麻」とは(一)

2018年05月12日 | 古代史

 「筑紫君」「薩夜麻」(薩耶麻とも薩夜馬とも書かれるがいずれも「サチヤマ」と発音されるものと思われる)という人物がいます。この人物は「六六一年」の「百済を救う役」で「唐」軍の捕虜になっていたと考えられ、(これは『書紀』等の倭国側史書に記載されていません)「六七一年」に「唐」の軍隊と同行して帰国したのが初出です。(天智紀にあります)
 
 『書紀』にはその後「六九〇年」(持統四年)九月丁酉(二十三日)に「三十年間」「唐」軍の捕虜になっていた「軍丁筑紫国上陽羊郡大伴部博麻」が「新羅」からの使節に随行して帰還した記事があります。そしてそれに続けて、彼「大伴部博麻」を顕彰する記事があり、その内容は、彼が「六六一年」の「百済を救う役」で捕虜になり、その後同じく捕虜になっていた「筑紫の君薩夜麻」等を解放するために自分の身を売って金に代え旅費とした、という「美談」が書かれているものです。(「唐人の計」を本国に伝達するために国外に出ようとして相談したときの「大伴部博麻」の提案)

「持統四年(六九〇)九月丁酉。大唐學問僧智宗。義徳。淨願。軍丁筑紫國上陽■郡大伴部博麻。從新羅送使大奈末金高訓等。還至筑紫。」

「持統四年(六九〇)冬十月乙丑。詔軍丁筑紫國上陽郡人大伴部博麻曰。於天豐財重日足姫天皇七年救百濟之役。汝爲唐軍見虜。■天命開別天皇三年。土師連富杼。氷連老。筑紫君薩夜麻。弓削連元寶兒四人。思欲奏聞唐人所計。縁無衣粮。憂不能達。於是。博麻謂土師富杼等曰。我欲共汝還向本朝。縁無衣粮。倶不能去。願賣我身以充衣食。富杼等任博麻計得通天朝。汝獨淹滯他界於今卅年矣。朕嘉厥尊朝愛國賣己顯忠。故賜務大肆。并■五匹。緜一十屯。布卅端。稻一千束。水田四町。其水田及至曾孫也。兔三族課役。以顯其功。」

 ここで「薩夜麻」のことを「筑紫の君」と呼んでいることが「キーポイント」となると考えられます。「君」という言い方(称号)は中央王権から見ると、彼らの制度に組み込まれていない、その地方の独立した権力者、という意味であり、「筑紫」の地域が独立した自治地域であり、「薩夜麻」がその「王」であったことを示しています。そして彼は、ここである意味非常に「不名誉」な立場で描かれているわけです。つまり、上の記事を見る限り、部下を「売って」帰国した王、というとらえ方は避けられないと考えられます。

 ところで、「大伴部博麻」が帰還したときの「持統天皇」の詔によると、彼「大伴部博麻」が捕虜になったのは「於天豐財重日足姫天皇七年救百濟之役」つまり「斉明七年の百済を救う役」となっており、「白村江の戦い」ではありません。彼はこの「斉明七年の百済を救う役」の際に倭国から派遣された「遠征軍」の中にいたものであり、この戦いで捕虜になったという事と思われ、彼と同じ場所(場所不明ですが、捕虜を収容する施設でしょうか)に「薩夜麻など他の四人」もいるというわけですから、彼らも「大伴部博麻」と「同時」(斉明七年)に捕虜になったという可能性が示唆されます。つまり、彼らは「白村江の戦い」の以前に「捕囚」の身になっていたと推察されるわけです。
 ところでこの「斉明七年」つまり「六六一年」は「百済」が滅亡した「六六〇年八月」の翌年であり、「鬼室福信」など百済軍の残党が「唐」「新羅」連合軍に対抗して抵抗していた時期です。この年に「倭国」から派遣された「博麻」は戦いの中で「捕虜」となったというわけですが、同じ収容場所に「薩夜麻」等がいるわけですから、彼等も「六六一年」の段階で「捕囚」となったことを示すと考えられます。
 その前年の「斉明六年」(六六〇年)には「百済」からの援軍要請に応え「新羅」へ出撃する命令を出しています。

「(斉明)六年(六六〇年)冬十月…唐人率我螯賊。來蕩搖我疆場。覆我社稷。俘我君臣。百濟王義慈。其妻恩古。其子隆等。其臣佐平千福國。弁成。孫登等。凡五十餘。秋於七月十三日。爲蘇將軍所捉。而送去於唐國。蓋是無故持兵之徴乎。而百流國遥頼天皇護念。更鳩集以成邦。方今謹願。迎百濟國遣侍天朝王子豐璋。將爲國主。云云。詔曰。乞師請救聞之古昔。扶危繼絶。著自恒典。百濟國窮來歸我。以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存■救。遠來表啓。志有難奪可分命將軍百道倶前。雲會雷動。倶集沙喙翦其鯨鯢。■彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。送王子豐璋及妻子與其叔父忠勝等。其正發遣之時。見于七年。或本云。天皇立豐璋爲王。立塞上爲輔。而以禮發遣焉。」

その後軍備の確認をするためとして「難波宮」に行幸しています。

「十二月丁卯朔庚寅。天皇幸于難波宮。天皇方随福信所乞之意。思幸筑紫將遣救軍。而初幸斯備諸軍器。…」

 つまりこれによれば「難波宮」には「軍事」に関する倉庫などがあったとみられ、「軍器」つまり兵器や旗指物などが貯蔵されていたと推定されますが、このことは「難波」が軍事基地として機能していたことを意味します。(そもそもその形状としても「山城的」と思われるわけですから、軍事力に特化した都であるといえるものです。)ただしその軍事力は本来「東方」つまり「近畿王権」を中心とする「諸国」(直轄地ではない)に対してその機能が発揮される性質のものであったと思われる訳ですが、この時期はそれも目的を果たしたこととなっていたものです。その軍事力の展開先として「半島」へと向けられることとなったものであり、「斉明七年」(六六一年)の「八月」にここから出撃したというわけです。(以下の記事)

「(六六一年)七年…八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。或本續此末云。別使大山下狹井連檳榔。小山下秦造田來津守護百濟。」

 この記事では「阿曇比邏夫連」と「阿倍引田比邏夫臣」の二人が軍を率いているようにも見えますが、「或本」の記事としてこの後に「大山下狹井連檳榔。小山下秦造田來津」の二人の軍も同時に出撃したこととなっています。その場合第三軍の将軍が「大山下狹井連檳榔」、副が「小山下秦造田來津」ということとなるものと思われ、「三軍構成」となると思われますが、後の「軍防令」では「三軍」で全体が構成されている場合は「大将軍」一人を置くとされており、ここでもその規定は有効であったと思われますが、それに対して、一見するとここではそれが置かれていないように見えます。

「軍防令二十四 将帥出征条 …各為一軍毎惣三軍大将軍一人。」

 もちろん「軍防令」は『養老令』の一部であり、かなり後代のこととはなりますが、軍に関する規定そのものはこの当時からあったことは確実であり(そうでなければ軍隊として組織立った行動が取れるはずもありません)、この時点でも同様に軍の統括に関する規定があったものとみるべきでしょう。そうであれば「大将軍」がいないというのは不審ですが、「持統天皇」の詔から明らかなように「大伴部博麻」が捕囚となったその場所に「筑紫の君」と呼ばれる「薩夜麻」がいたことは確実ですから、彼がその「大将軍」であったという可能性は高いものと推量します。
 倭国の伝統に則り「王」が「親征」しているとすれば、その「王」が全軍を率いる形となっていたはずであり、彼が「大将軍」として存在していたと見るのが相当ということとなります。


(この項の作成日 2011/01/20、最終更新 2017/12/07)


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