既に述べたように私見では「法隆寺」は「元々」「元興寺」であったものであり、それは「隋」から直輸入とでも云うべき形で伝来し創建されたものと見られます。
この「元興寺」の創建は倭国王の勅願寺であったと同時に「隋皇帝」からの直々の下賜によるものではなかったかと考えられ、そのためその「瓦」の「笵」は他の寺院には提供されず、「元興寺」だけで使用されたものと見られます。(「七弦琴」などと同様の現象に思われます)それに対し他の寺院では「同型」のものを「模して」作るしかなかったものと推量されます。
その「他の寺院」の分布というものが「近畿」(特に「飛鳥」)と「筑紫」「肥後」という場所であり、「元興寺」に使用された形式と建設技法が「倭国王権」と関係の深い地域に広がったとみることができるでしょう。そこで「紐付け技法」とそれを駆使した「複弁蓮華紋瓦」が製造されることとなったものと見られます。
またその分布は「隋」の文化が「どこに」もたらされたのか、「遣隋使」はどこから発せられたのかを如実に示しているといえるでしょう。
「遣隋使」が「近畿」から派遣されたなら「筑紫」はともかく「肥後」にそれが現れる理由が全く不明となるでしょう。逆に言うと「遣隋使」は「筑紫」ないしは「肥後」から派遣されたと考えると整合すると言えます。そう考えれば「老司式」と「鴻廬館式」が「藤原宮式」に先行すると考えて当然と言えるでしょう。
既に指摘したように従来の「瓦」編年については「近畿」の寺院が「基準」となっていることは現在多くの「瓦」研究者の(あるいは多くの考古学者の)念頭に染みついてしまっています。しかし、「藤原京」の宮域下層から「溝」が発見され、そこからは「藤原古段階」という「奈良盆地外」(淡路産)の瓦窯で製造された瓦が発見されています。この「藤原京古段階」の瓦はもっぱら「回廊」などに葺かれたとされていますが、その回廊の完成は「七〇二年」以降ではなかったかと推定されており、「観世音寺」の工事進捗を促す「元明の詔」が出された年次との関係が指摘されています。それはこの「回廊」に使用された瓦と「観世音寺」の瓦(老司Ⅰ式)の「後期タイプ」とは同一様式(兄弟関係)とする見解も現れてきていることからもいえることです。
「観世音寺」はその創建について「六六〇年代後半」を推定させる史料が複数確認されているものの、その直後(多分「薩夜麻」が帰国した時点付近で)、建設が止められたものと思われます。つまり、この段階では全体完成にはほど遠かったと見られ、「金堂」等の全ての建物に「瓦」を載せるまで工事が進捗していなかった可能性が高いと思われます。そして、そのまま長期間に亘り工事が中断あるいは放棄されていたと見られますが、それが「七世紀末」から「八世紀」にかけ、工事が再開されたものであり、そう考えると「藤原京回廊」と「観世音寺」の工事再開がほぼ同時であるのは不自然ではありません。
しかし、上に述べたように「老司」式瓦は「筑紫」の瓦窯で焼かれたものであり、それが「筑紫」の技術に拠っているのは当然です。この技術がオリジナルであり、これが遅れて「近畿」あるいはその周辺の地域の瓦窯に伝わり、それが「藤原宮」に使用される事となったと考えるべきでしょう。
また「観世音寺」の工事再開に伴って使用された瓦である「老司Ⅰ式『後期』型」は「老司Ⅱ式」の影響から造られたとする主張もあり、そうであれば「観世音寺」の工事再開の前に「大宰府政庁Ⅱ期」が造られたこととなります。その場合「必然的に」「藤原宮大極殿」の完成以前に「大宰府政庁」はできていたこととならざるを得ません。
従来の考え方でも「老司Ⅰ式」と「老司Ⅱ式」の間は「十~十五年」程度の時間差が考えられており、そのことから「太宰府政庁」が瓦葺きとなったのは「六八〇~六九〇年」付近と推定されます。
「地域」を異にすることによる「時間差」を考慮すると、「藤原宮大極殿」のかなり以前に「大宰府政庁第Ⅱ期」が造られたことを想定するべき事となり、「六八〇年代」であるとしても不自然ではなくなります。つまり、一部で言われ始めているように「藤原宮式」瓦に「先行」して「老司Ⅱ式」や「鴻廬館式」瓦が製造された可能性があるのです。
ところで「本薬師寺」の瓦の中には「藤原京古段階」の「瓦」の「笵」を利用しているものがある事が判明しています。つまり、「薬師寺」の完成以前に「藤原京古瓦」が焼かれていることが推定できます。「本薬師寺」の完成については「門前」の「幡」を挿すための「木枠」の年代測定が行われ「六八八年」という結果が出されています。
つまり、明らかにこの「瓦」はそれ以前には焼かれ、屋根の上に乗せられたものであり、それと「藤原京古瓦」とがほぼ同一時期であることが推定されるものであり、これは「第二次藤原京」の完成時期に大きなヒントを与えるものであると考えられます。
(この年代推定は先に述べた「移築」と若干矛盾するかのようですが、そう即断はできません。なぜなら「移築」では「全ての部材」が運ばれる訳ではなく、破損などで新材に取り替えられる例がかなり多いからです。この場合、「幡」を指すための「木枠」は下方が地中にあったものであり、「腐食」などで再利用できなかったという可能性は高いと思われます。)
(この項の作成日 2012/10/08、最終更新 2014/10/25)旧ホームページ記事を転載