古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「年代歴」の冒頭の「年始」について

2024年05月31日 | 古代史
 『二中歴』の「年代歴」の冒頭には「年始五百六十九年内、三十九年無号不記支干、其間結縄刻木、以成政」とあります。それに続いて「継体五年元丁酉」から始まり、「大化六年乙未」に終る年譜が記されています。
 ここで「無号」といっているのは「年号」のことと思われますが、「年始」の「年」は「年号」ではありません。つまり、「年始」を「年号が始まった年」と解釈するのは正しくないわけです。(論理上も成立しません)これは、ある時点から「年」を数え始めた、ということであり、その最初の三十九年間は「年号」はなく「干支」もなかった、ただ「結縄刻木」していただけだった、というわけです。(この事から「結縄」あるいは「刻木」のいずれかが「暦」の役割をしていたことが窺えます。)
 そして、その後に「継体元丁酉」から始まる「年代歴」が接続されるわけですが、ここでは「継体」という年号と「丁酉」という「干支」が表記されているわけですから、その前段から意味が連続していることとなります。この時以来(それまでなかった)「年号」と「干支」併用し始めたということとなるのは当然でしょう。
 (これについては以前「年始」を古田氏の見解をなぞる形で「紀元前」に求める記述をしていましたが、『二中歴』のこの部分を正視すると「無号不記干支」の終わりと「継体元丁酉」が接続されているという(当然ともいえる)知見を得たため、この「継体元丁酉」という年次の「三十九年前」に「年始」を定めるべきというように見解を変更しました。これは「丸山晋司氏」の見解と結果的に同じとなります。)
 この「年代歴」冒頭部分は当然その直後の「年号群」につながっていますから、意味的にも連続していないと不審といえます。前段の文章が後段と「没交渉」とは考えられませんから、「意味内容」として連続しているとみるのは不自然ではありません。
 たとえば、この「年始」を「大宝建元」のことと理解するなら(これは故・中村幸夫氏の論)、この部分から「年代歴」中程の「大化」年号の後に書かれている「已上百八十四年~」という部分まで「飛ぶ」こととなります。しかし、それは読み方として「恣意的」に過ぎるでしょうし、また古田氏等のようにこれを紀元前まで遡上させた場合(※1)そこから数えて「三十九年」以降「継体」までの間のことに全く言及していないこととなりそれもまた不審と思われます。
 更に古田説によれば、この当初の「三十九年」以降「結縄刻木」がなくなったとするなら、民衆は「太陰暦」を理解し使用していたこととなりますが(「結縄刻木」は「暦」の役割も果たしていたはずですから)、もしそうなら『魏志』(というより引用された『魏略』)に「正歳四節を知らず」と書かれることはなかったでしょう。この記事からみて「卑弥呼」時点では「太陰暦」が一般化していないことは明らかですから「結縄刻木」は存続していたとみるべきであり、それは古田氏の理解とは食い違うものです。またそれは同じ『二中歴』の「明要」の箇所に「結縄刻木」が止められたという記事があることとも齟齬します。これは当然それ以前に「結縄刻木」が行われていたことを示すものであり、それもまた古田氏の理解とは食い違っているといえるでしょう。(「細注」が間違っているとするなら別途証明が必要と考えます。)
 また、これについては当初の「三十九年」が「二倍年暦」としての表記であるという考え方もありますが、そうは受け取れません。そうであるなら「年始五百六十九年」さえも「二倍年暦」であることになるはずです。(三十九年はその中に包含されているのですから)しかし誰もそのような議論はしていません。
 古田氏は「継体元年」である「五一七年」から「五百六十九年」遡上した「紀元前五十二年」を「年始」としているわけですが、『二中歴』によれば「結縄刻木」は「明要元年」まで行われていたものであり、その時点まで「二倍年暦」であったとすると、「紀元前五十二年」から「五四二年」まで全て「二倍年暦」であるということとなり、そうであるなら「年始五百六十九年」という数字全体が「二倍年暦」であることとなってしまいます。もしこれを「二倍年暦」であるとすると、「五百六十九年」ではなく、実際には「二百八十年」ほどとなってしまいます。「継体元年」から「二百八十年」遡上すると「二三七年」となり、これは「卑弥呼」の治世の真ん中になります。こう考えて「年始」を「卑弥呼」の時代に置くというならそれも一考かも知れませんが、現在のところそのような見解はないようです。(そもそもこれでは「紀元前」に年始が来ません。)
 これについてはこれらの年数は「一倍年暦」時代に書かれたものであり、すでに「換算」が終えられた段階の記述と考えるのが正しいと思われます。つまりこの「年代歴」の冒頭部分では「年始」からの年数に関していわば『二中歴』作者の公式見解とでもいうべきものが書かれていると思われ、その中の「五百六十九年」や「三十九年」は「生」の数字ではなく、彼の立場ですでに整理されたものと思われ、「二倍年暦」などがもしあってもそれを太陰暦に変換した上で述べているのではないかと推察するわけです。
 結局自国年号を使用開始した時点(『二中歴』の記事を「六十年」遡上した年次として修正して考えると「四五七年」)から遡る年数として「三十九」という数字が書かれていると判断できるものであり、これを計算すると「年始」とは「四一八年」となります。この時点を「起点」として「年を数え始めた」というわけですが、これは既に見たように仏教の伝来とされる年次とまさに一致します。
 つまりこの時点で仏教の流入と共に「年」を数え始めたというわけであり、それは『「仏教伝来」からの年数』を把握する意味もあったのではないかとも思われます。つまり「倭国」における「年」の意識は元々仏教に結びつけられたものであったという可能性があると思われるわけです。そしてそれはその後「年号」に仏教関係のものが著しく多いこととなって現れたといえるのではないでしょうか。
 そして、『二中歴』でその基準年とされているのが「四一八+五六九=九八七年」であったということであり、この『二中歴』の「年代歴」記事は元々「十世紀」の終わりに書かれていたものを下敷にしたという可能性が高いと考えられることとなるでしょう。
 このように現行『二中歴』に先行する史料があったと考えるのはこれも「丸山晋司氏」にも通じるものですが(※2)、彼の場合はその徴証となる史料が見いだせないとして故・中村氏から反論が寄せられていました。(※3)しかし、この場合「徴証」といえるものは同じ『二中歴』の中の「都督歴」ではないかと思われるのです。

(※1)古田武彦「独創の海――合本『市民の古代』によせて」合本『市民の古代』(新泉社)第一巻(第1集~第4集)所収
(※2)丸山晋司『古代逸年号の謎 古写本「九州年号」の原像を求めて』
(※3)誌上論争「二中歴年代歴」市民の古代研究「二十二、二十四、二十五号」昭和六十二~六十三年

(この項の作成日 2011/01/26、最終更新 2017/07/23)
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