古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「磐井の乱」の真偽(一)

2015年07月26日 | 古代史
 既に見たように『魏志倭人伝』においては「戸」は「魏」と同様の「戸籍」の存在が前提の用語であると考えられるわけですが、その「実態」としてはどのような単位を指すものか、つまり「戸」が何を意味するものかというのは、従来からかなり論議になっています。
 この「戸」を「親族」のような集団として理解すると、当時の人口として多すぎると言うことも言われます。逆にそれ以降の人口推定から考えると、かなりの減少となってしまうという可能性が指摘されており、それはそもそも『倭人伝』時点の人口推計が多すぎるというのが理由の一端であるともいわれる訳です。従来は「戸」を「家族」として考えており、五~十人程度の人がその中に含まれるとしていました。しかし、それでは多すぎるのではないかという訳です。
 この議論の内容をよく見ると、「倭国」の領域が「九州島」と「本州西半部」だけであるとすると、「戸」は「人」と一致すると考えられるのに対して、「近畿」も含むものとすると「戸」は「家族」あるいはそれ以上とする方が整合するというものです。つまり、「倭国」の範囲をどこまで取るかによって「戸」の意味が変化すると言うこととなります。
 しかし、既に考察したように「戸」と「家」の関係から「家」の数と「戸数」はほぼ等しいと考えられることとなり、「戸」と「人」とが一致するとは考えられないこととなりました。このことは「家」に居住する標準的家庭の家族構成がそのまま「口数」(人口)になるということと思われます。
 漢代には(『漢書地理志』の記載から)「一戸」あたりの口数は五人程度と考えられますが、「魏晋朝期」でもそれと大きく異ならないと思われます。このことから「卑弥呼」の「邪馬壹国」が制圧していた領域としては「近畿」を除く「西日本全体」ぐらいを想定すべき事となるでしょう。

 ところで『倭人伝』には総戸数の表示がありません。これは「倭国」王権が把握していなかったか、あるいは情報の開示を行わなかったかいずれかと思われますが、試みに総戸数を計算してみます。(「家」=「戸」と考える、また「餘」という表現を全て「一」と一旦理解した場合)
 戸数表記がある「一大國」(「有三千許家。」)、「末盧國」(「有四千餘戸」)、「伊都國」(「有千餘戸」)、「奴國」(「有二萬餘戸」)、「不彌國」(「有千餘家」)、「投馬國」(「可五萬餘戸」)、「邪馬壹國」(「可七萬餘戸」)の戸数をすべて合計すると、「十五万二千三百戸」となります。これに「戸数」が示されていない「他の諸国」(二十一国)を加えると(一国千五百戸程度と考えて)「十八万三千八百戸」となります。「遠絶」の国の戸数を仮に「倍」に考えても大体「二十万戸」という数字が得られます。
 しかし、これと食い違うのが『隋書俀国伝』に示された「戸可十萬」という数字です。これではおよそ「半減」している事となってしまいます。(「邪馬壹国」だけでも「七万余戸」というのですから、『隋書俀国伝』の「倭国」の総戸数を大きく上回るのも当然です。

 また、『隋書俀国伝』では「…經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。…又經十餘國、達於海岸。」としていますから、これが「倭国」の境界であるとすると「対馬」「壱岐」を加えても「二十国」を超えないものと推定されますが、それに対し『倭人伝』においては「女王」の統治範囲の国数として「略載」可能な「七国」と、「遠絶」しているためそれが不可能な「二十一国」の計「二十八国」で構成されているとされますから、国数として大きく上回っています。結局「戸数」も「国数」もほぼ『隋書たい国伝』付近では「半減」していると考えざるを得ないこととなります。
 このように「戸数」も「国数」も大きく減少しているとすると、それは即座に「倭国」の領域そのものが減少したことを示唆します。しかし「遣隋使」が派遣される「六世紀末」以前、「五世紀」の「倭の五王」時代には「拡張政策」がとられたと見られ、倭国領域が増大したはずであるのに、逆に減少しているとすれば何が起きたのでしょうか。
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「太宰」の「率」について

2015年07月25日 | 古代史
「太宰率」という職掌が「筑紫」にあったとされます。この「太宰」の「率」という職掌について考えると、確かに「太宰」そのものは南朝に由来する官職であり、また「南朝」と国交を通じた中で導入されたものと思われますが、「太宰率」となるとそれは「南朝」には存在しない官職でした。
 また後の『令義解』の中の「官位令」には官職が順次書かれていますが、そこでは「大宰帥」はありますが、「大宰率」はなく、「後代」には「率」という官職については消失してしまっていたものと思われます。
 しかし元々官職名などは「音」で発音することを前提に表記されていたと思われます。それは『書紀』が「漢語」として書かれていることや『大宝令』など律令も全て「漢文」で書かれていることに現われています。つまり国家の制度というものは「中国」に倣ったものであり、「官職」を「漢語」で発音するというのが当初の基本であったはずと思われるわけです。そう考えると、「訓」が与えられるようになるのは「後代」のことであり、その「訓」が与えられる段階では既に使用されなくなっていた「率」の発音については、それが使用されていた段階では「訓」はなく「音」しかなかったと考えるのが正しいと思われることとなります。その場合、その「音」とは「漢音」なのか「呉音」なのかというと、当然「呉音」であったと見るべきこととなるでしょう。「漢音」が流入し使用されるようになるのは「八世紀」以降であり、その時点では「率」は使用されなくなり「帥」に取って代わられているわけです。そのような歴史的経緯を考えても当初「呉音」として国内に流入したものと見ざるを得ないと思われることとなります。
 そもそも『書紀』における「率」の初出は「天智紀」です。

「(天智)七年(六六八年)…秋七月。高麗從越之路遣使進調。風浪高故不得歸。以栗前王拜『筑紫率』。」

 ここでは「筑紫率」と出てきますが、これは「筑紫太宰率」の縮約型であると思われ、このことから「率」は古典的な使用法であることとなり、「漢音」使用という状況が「八世紀」以降のものであることを考えると、この「率」が「呉音」であったと考えるのは当然ということとなるでしょう。つまり「筑紫太宰率」は「ちくしだざいの『そち』」と読まれていたものであることとなります。(「率」は「漢音」では「りつ」あるいは「そつ」であり、「呉音」では「そち」です。)

 このように他の官職名と「(筑紫)太宰率」はその成立時期も事情も異なると考えられることとなります。そう考えれば、「率」という官職は「律令制」のはるか以前から存在していたものであり、それはもちろん「隋・唐」の影響ではなく(「隋・唐」にも「率」という官職はありませんから)それを遡る時期に導入されたこととなるでしょう。しかもそれを遡る時期の「南北朝期」にも「太宰」はあっても「太宰率」はなかったわけですから、「率」についてはさらにそれを遡上する必要があることとなります。
 以上のことは、「率」という官職名に関連があるものとして考えられるものが「魏晋朝」にまで遡ることを示すものであり、そこで思い起こされるのが『倭人伝』に記された「一大率」であり、「魏朝」から授与されたという「率善校尉」や「率善中郎将」という官職です。

 これらの「率」が「そち」と発音されるものであったと考えるのは「魏晋朝」の発音が現在の「日本呉音」に最も近いという研究成果から明らかであり、「卑弥呼」の段階で「率」という語が付く官職があり、しかもそれは「そち」と発音されていたということとなるでしょう。その「一大率」が「博多湾岸」にその本拠を持っていたと私見では考えたわけですが、それが「太宰率」につながり、「太宰府」につながるとすると、そのような推定に合理性があることとなります。
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血液型と性格

2015年07月25日 | 科学一般
 血液型占いというのがあります。これに対し「非科学的」という評判があります。占いであるとすれば非科学的なのは当然であるということになりますが、何らの根拠もないのでしょうか。そうは思えません。なぜなら「血液型」が複数あるには理由があるはずであり、それは人類の進化に関係があると思われるからです。

 人類がアフリカにその始源があるのはすでに明らかですが、その時点では元々「O型」しかいなかったとされます。つまり「O型」は最も古い血液型であるわけです。その後人類が世界各地に拡散するうちに「A型」と「B型」が発生し、さらにその後「AB型」が生み出されたものです。このような新たな血液型の発生は、いわば「突然変異」であり、それは「環境」の変化が促したものと思われるわけです。

 そもそも「アフリカ」から各地へと移動していったわけですが、それは生活の環境が異なることになり、その際が突然変異を促したと見られるわけです。生活環境が変わると、たとえば紫外線量や気温、湿度、雨量あるいは放射線量など外的要因も当然変わることとなります。さらに、食料、つまり何を食べるかが変わります。人間の身体は食べたもので出来ているわけですから、食料が異なれば身体を作る材料が異なることとなります。その結果「身体」が変わるということとなります。
 外的要因と併せ、皮膚の色、目の色、頭髪、身長、骨格、内臓(たとえば腸の長さなど)などが変わります。「腸内細菌」の種類なども変わるでしょう。当然それは血液型にも及んで当然ということとなります。つまり、皮膚や頭髪の色などの変化に合理性があるとするならば「血液型」の変化も同様である可能性が高いと思われるわけです。
 ところで、このような理由で「身体」が変わったとすると、「心」も変わったという可能性があるでしょう。現在「心」というのは「身体」と同様「物質」の相互作用として現れるものという評価がされており、「環境」や「食料」などで「心」つまり、思考法や行動様式も変わったと見ることが出来るわけです。そして「体」と「心」の両方に変化があったとすると、身体の変化の一つの指標である「血液型」と心の変化の指標としての思考様式とが、深く関係していると見ることにもまた合理性があることとなります。(ただし、骨髄移植などで「血液型」が変化することがありますが、それが直接「思考様式」などに変化をもたらすとは思えません。「血液型」は「思考様式」を示す「指標」ではあっても、「思考様式」を「血液型」が造っているわけではないと思われるからです。)
 これらの人体形質の変化は環境によるとするなら同じような環境の人間は共通した思考様式、行動様式を持っていることとなるでしょう。つまり、ある地域に住む人々についての集団としての行動様式は深く関係していることとなります。それは民族性あるいは国民性などと呼ばれることとなります。

 外国では一つの国が一つの血液型という場合は珍しくありません。つまり「血液型」の分布には地域的な偏りがあるというわけです。しかし、日本列島は他の地域や国家と違い多血液民族国家です。複数の時期に複数の地域から人々が流入したものであり、その混合具合によって現在の人口比(A型が4割、O型が3割、B型が2割、AB型が1割)となっているとみられます。
 一見かなり混合が進み「均質化」されているかのようですが、地域分布を見るとまだかなり偏りがある状態です。つまり、「O型」は太平洋岸に多く、A型は西日本を中心とした内陸に多い、またB型は東北日本と九州以南に固まっているなどの地域的傾向が認められ、それは各血液型を持った人々の移動の様子を今に残しているようです。
 これらのそれぞれの血液型を持った人々は、元々流入する以前の地域における行動様式などをそのまま列島内に持ち込んだと見られますが、列島という狭い領域内で混合、均一がが進行中であると思われます。ただし、現在時点では「均質化」が未だ進行途上であるように見えるわけであり、完全に均されているというわけではないこととなります。
 個人レベルで見てみると、その個体の遺伝子は表面に現れる特定の血液型に代表される要素が優勢であり、他の血液型遺伝子要素も劣勢的なものとして併せ持っているのは当然ですが、影響的には希薄となっているでしょう。
 つまり、その意味では血液型と深く結びついている思考様式などにまだまだ強く個人レベルでも支配されている可能性が高いと推量されます。つまり「血液型」によって「思考様式」や「行動様式」などが異なる可能性は現段階ではまだ高いといえるでしょう。その意味で「個人」を対象として「性格」などを考える場合、「血液型」は指標として使える範囲といえるのではないでしょうか。
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