古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「富本銭」について(二)

2017年07月02日 | 古代史

 「二〇〇七年十一月」に「藤原京」遺跡から「地鎮具」として出土した「富本銭」はそれまで発見されていたものとは異なる種類のものでした。それは「飛鳥池工房」などで造られていたものとは、「厚み」が違う事と(やや厚い)、「アンチモン」を含有していないというのが大きな特徴です。(その代わり「錫」が使用されているようです)
 そもそも「銅鐸」を初めとした「青銅製品」には欠かせない合金材料が「錫」でした。前代より「銅製品」を作るには「錫」との合金が最も伝統的であり、ポピュラーであったものです。その意味では「アンチモン」が「合金材料」として使用されたこと自体が「イレギュラー」であったのではないかと考えられます。
 「アンチモン」は「融点管理」も困難であり、そのことが「鋳上がり不良」が多発する誘因ともなったものと見られ、また「毒性」も「錫」よりはるかに強く、「銅合金材料」として好んで選ぶものとはいえないと思われます。その様なものが合金材料として使用されているというのは、「錫」が「銅」と共に国内には当時産出していなかったと見られることにつながっています。つまり本来の調達ルートに何らかの支障が発生したため、国内に「錫」ないしは「錫」の代替材料を探した結果「アンチモン」を採用したという経過が想定されるものです。そしていずれも入手が困難であった段階では「錫」も「アンチモン」も含まない「純銅」ともいえるものも生産されたものではないかと見られ、かなり試行錯誤が行われていたことが窺えます。
 またデザイン面を考察すると、「富」の字が「うかんむり」ではなく「わかんむり」(冨)になっていることや、その「冨」の中の「口」の上の横棒もないと見られること、さらにはその平均重量が「6.77g」であることが判明しており、これらは「唐」の「開通元寶」(開元通寶とも)と同一の規格で作られたという「富本銭」に関わる常識と相反しています。
 また、一般論的に言うと、貨幣鋳造に当たっては初期よりも後期鋳造品は軽くなる傾向があり(原材料使用量が減少するため原価を下げられるという経済論理からのもの)、採算性の点からも軽量化されるのが普通であるのに対して、この場合では逆に重量化されていることとなってしまいます。
 そもそもこの発見された「富本銭」は「鋳上がり」も余り良いとはいえず、線も繊細ではありませんし、「内画」(中心の四角の部分を巡る内側区画)が大きいため「冨」と「本」がやや扁平になっており、窮屈な印象を与えます。「うかんむり」ではなく「わかんむり」となっていることや、「冨」の中の「横棒」がないのは、スペースがないという制約から来るものとも言えるでしょう。また、「七曜紋」も粒が大きく、各粒間の距離が取れていないためこれも窮屈に見えます。さらに「従来型」の「富本銭」がほぼ「左右対称」になっているのに対して「新型」の場合「冨」の「わかんむり」が非対称デザインとなっており、このため全体としても非対称の印象が強くなっています。「従来型」の「富本銭」の場合「富」の「うかんむり」は左右対称となるように「デフォルメ」されており、これは「デザイン上」の進歩といえると思われます。これら意匠の部分でも「従来型」の「富本銭」と比べて「洗練」されていないように見え、時期的に先行する可能性が示唆されます。
 一般にはこれを「従来型」と同時期あるいはその後期の別の工房の製品と見るようですが、そうであれば「工房」(というより「鋳造所」)ごとに違うデザイン、違う原材料、違う重量であったこととなり、それは「富本銭」が「国家的関与」によって鋳造されたとする考え方と整合しないでしょう。なぜなら当時「重量」は「銭貨」にとり非常に重要なファクターであり、王権が同一ならば同一の貨幣は同重量であるのが自然でありまた当然と思われるからです。これらは明らかにこの「新旧富本銭」の両者の鋳造についてはその「時期」と「状況」が異なることを推定させるものであり、この「新型」の「富本銭」は「従来型」に先行するものである可能性が大きいと考えられます。
 それを推定させるものが、その出土の状況です。この「新型」とされる「富本銭」は発見時「水晶」と共に口の細い「平瓶(ひらか)」状容器に封入されていました。これはいわゆる「地鎮具」であり、「大極殿」の「正門」と思われる場所からの出土でしたから、「宮殿」全体に対する「守護」を願い、「事故」や「天変地異」などに遭わないようにという呪術が込められているものと推定出来ます。
 このような「新都」造営に際しての「地鎮具」に封入されるものとして「特別」なものが用意されるというのは当然あり得ることであり、「王権内部」で代々秘蔵されていたものがここで使用されたと見ることも出来るのではないでしょうか。つまり、これは「新型」なのではなく、「飛鳥池工房」で製造されるものより以前の時期の鋳造品であったと言う事を想定すべきと考えられるわけです。

コメント

「富本銭」について(一)

2017年07月02日 | 古代史

  既に「無文銀銭」については「阿毎多利思北孤」あるいは「利歌彌多仏利」の時に導入されたものであり、特に「高額」取引に利用されたと考えた訳ですが、その直後「銅銭」が製造されることとなったとみられます。それが「富本銭」であったものです。
 「富本銭」は「飛鳥池」の埋め立て工事に伴って行なわれた発掘作業によって「工房」跡と共に鋳型や半完成品も含め大量に出土したことで注目されました。
 この「富本銭」というものは以前は「お呪い」などに使用される「厭勝銭」であって、実際には貨幣としては使用されていなかったと考えられていました。しかし「飛鳥池遺跡」は明らかに当時の「貨幣鋳造所」の遺跡と考えられ、また長野県や群馬県からも出土が確認されており、これまでに五六〇枚以上という相当多数の枚数見つかっていることからも「実際に使用されていた」ものと考えるべきでしょう。
  この「富本銭」については「従来」から、「いつ、誰により、どのような意図で作られたものか。また、それはなぜ廃絶されたのか。さらに、『無文銀銭』との関係や、後の『和同銭』との関係はどのようなものであったか」という疑問が提出されていました。
 「無文銀銭」もそうですがこの「富本銭」についても全く『書紀』『続日本紀』に登場しません。しかし、「飛鳥池遺跡」などからの「富本銭」の出土状況は「国家」としての「富本銭鋳造」事業であったことを示しています。にもかかわらず、『書紀』にも『続日本紀』にも影も形も見えていません。『続日本紀』には「鋳銭司」設置記事はありますが、そこでどのような貨幣を鋳造していたのか等重要な内容が欠けています。このことは「評制」や「国宰」など同様「隠蔽」されていることを示すものですが、それは即座にその隠蔽の「意図」も同様であったと推測できることを示すものです。つまり、『書紀』や『続日本紀』のこの「沈黙」は、「富本銭」や「無文銀銭」が「他の王朝」に関わるものであり、「九州倭国王権」に直接つながる性質を持っていることを示すものと言えるでしょう。

 この「富本銭」に続いて鋳造されたとされる「古和同銅銭」では、その成分分析が行われいずれも多量の「アンチモン」を含んでおり、この二つがかなり近似していることが指摘されています。
 「古和同銅銭」というのは「和同開珎」の初期鋳造品をいいますが(「文字」の形や「鋳造」の具合がその後の「和同開珎」(新和同)と異なっている)、この「古和同銅銭」の原材料の産地(銅と鉛)として候補が挙がっている内の一つが「豊前」(大分県)の「香春岳」の銅山であり、特に「放射性同位体」の比率が近似しているとされます。(ただし、この「香春岳」の銅山がいつ頃開かれたかは史料がなく不明ですが)
 また「アンチモン」は「伊予」の「市の川アンチモン鉱山」(現在は廃鉱)からの算出ではなかったかと推測されています。
 このように「古和同銅銭」は「富本銭」と成分が共通しているわけですから、「富本銭」もその主要な原材料の生産地が「豊前」の国などであったと考える事ができると思われます。
 それと関連しているのが「和銅年間」に「大宰府」から「銅銭」が献上された記事です。

「和銅三年(七一〇年)春正月壬子朔丙寅条」「大宰府獻銅錢。」

 この記事は非常にシンプルではありますが、「大宰府」から献上されたという意味の中に、「鋳造」もこの「大宰府下」であったと考えられること、時代状況としてこれが「古和銅銅銭」であった事が推定されますが、上に述べたように現在発見されている「古和銅」の場合その成分が「富本銭」に酷似していると考えられることなどから、この「大宰府」近辺では以前から「富本銭」を鋳造していたのではないかと考えられる余地が生まれます。この事からも「富本銭」と「九州倭国王権」との間に深い関係があると推察できると思われます。

 「富本銭」と鋳造用の鋳型などが発見された「飛鳥池遺跡」では、その後の調査により「富本銭」と同じ場所(層)から木簡が出土しましたが、そこには「丁亥」と書かれておりこれは「六八七年」を意味すると考えられています。このことから「奈文研」(奈良文化財研究所)の見解では、「富本銭」の製造時期としてはこの年次付近であり、これを大きく遡上するものではないと考えているようです。しかし、その「層序」から考えて、製造年の範囲の一端を示すものではあるものの、その「上限」や「下限」の時期を限定するものではないと思われます。
 この層と同じレベルあるいは「下」と考えられる層(つまり古い層)からは旧「飛鳥寺」(「法興寺」…これは私見によれば本来「元興寺」とは「別寺院」と考えられます)の「禅院」の瓦と同じ瓦が出ています。
 この禅院は一般には「道昭」が「唐」から帰国後建てたものとされています。その年次は『類聚国史』によれば「六八二年」とされていますが、『三大実録』によれば「六六二年」と書かれていて、両者で食い違っています。
 「道昭」については帰国の年次が(なぜか)『書紀』に明記されていませんが、「道昭」が「師事」した「三蔵法師玄奘」は「六六四年」に亡くなっており、「道昭」の帰国は彼の存命中とされますから「六六四年」より以前であることは間違いありません。また彼は「遣唐使団」の一員として「白雉年間」に「唐」に渡ったとされていますから、その派遣年次である「六五三年」よりは以前ではないと思われます。これに関しては「斉明七年」、つまり「六六一年」帰国という説が有力のようです。
 また、『続日本紀』には「道昭」が亡くなった際の記事として以下のように書かれています。

「『続日本紀』文武四年(七〇〇年)三月十日条」
「於元興寺東南隅、別建禅院而住焉、……於後周遊天下、……凡十有余載、有勅請還、還住禅院坐禅如故、……後遷都平城也、和尚及弟子等奏聞、徙建禅院於新京、今平城右京禅院是也」

 つまり、帰って来てから『元興寺』に「禅院」を作り、その後天下を「周遊」したとされ、その後十数年間の「周遊」の後、「禅院」に「還ってきた」と言うわけです。これによれば「禅院」の建築は彼が帰国して直後のこととなり、「六六二年」という「三大実録」の記述の信用性が高いもののようです。
 しかしこの『続日本紀』に書かれている「元興寺」が「飛鳥寺」なのかは異論があるところであり、「飛鳥池遺跡」の遺跡がこの『続日本紀』にいう「元興寺」なのかは疑問です。私見では『書紀』『続日本紀』に「元興寺」とある記述は実際には「法隆寺」に関わるものであり、「飛鳥寺」(法興寺)とは別寺院と考えています。そのことを踏まえると「道昭」の帰国年次が「六六二年」であり、また帰国後「元興寺」に禅院を設けたというのが事実してもこの「飛鳥池遺跡」から出土したこの「瓦」がその「禅院」と同一かは疑問が出る所です。つまり「瓦」から年代を特定することは実際には困難でしょう。

 ただし、この「飛鳥池遺跡」での「富本銭」鋳造に際して使用された「鋳型」の材料については、「斉明天皇」の所業として『書紀』が伝える「酒船石」遺跡の「石垣」の石材を再利用して作られていたのではないかという考え方があるようです。
 確かに、発見された「鋳型」の成分鉱物と、「酒船石遺跡」の石垣の成分鉱物が同一であり(「凝灰岩質細粒砂岩」)、これは奈良県天理市付近から産出するものであることが判明しています。この石材は「飛鳥池遺跡」でも「石敷き」の材料として使用されており、この地域で使用される石材として非常に一般的であったことがわかります。
 現在の推定では「石垣」の一部の石材を砕いて鋳型を造ったと考えられており、そうであれば「六六〇年代」の「鋳造」という可能性は否定できません。
 ちなみに、この「斉明」というのが『書紀』に言うように「天智」「天武」の母であるとすると、この時点で「母」の作った石垣を崩すとか、すでに崩れていた石垣を修復せずにそのまま「鋳型」の材料として使用したという事となりますが、もしそれが事実とすれば、この「富本銭」を鋳造させた人物は「斉明」の子供とは思えません。もしも子供なら、母の作った石垣の「補修」を行うことはあっても、「砕いて」別用途に転用するとは思えません。そのような一種「無遠慮」な行動は、明らかにここで「富本銭」の鋳造に関わった人物と「斉明」とは関わりのない人物であったということを意味するものと思われます。この事から、この時「飛鳥池工房」を構築した人物について「天智」でも「天武」でもないこととなり、それは年次から言うと「唐」の捕囚から帰国した「筑紫君薩耶麻」であったと言う可能性が考えられると思われます。
 また、これらのことから一見「六六〇年代」以前は「富本銭」の製造を行なっていなかったように受け取られるかも知れませんが、そうとは断言できません。それはこの「飛鳥池遺跡」で製造されたものではないと考えられる「富本銭」が発見されているからです。

コメント

「王劭」版『隋書』と『書紀』

2017年07月01日 | 古代史

以前「倭国」と「俀国」というタイトルで記事を書きましたが、(http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/e70075a3a7c9d40e7b8052058038abca)そこでは「王劭」という人物が「隋」の「高祖」への過度の傾倒により「無礼」な「倭国」を「俀国」に書き換えたとみたわけですが、さらに最近彼は「宣諭」される以前に交渉のあった「倭国」としての記録を「抹消」したのではないかと考えるようになりました。
 つまりこれは「俀国」と表記することの同一線上にあるものであり、彼が「宣諭」事件以後の「倭国」を「貶す」ことを目的として「俀国」と書き変えたとすると、それ以前の夷蛮の国として隋と交渉する内容としてまだしも受け入れられる時点の記録についても、これを削除(抹消)することにより記述方針の徹底と統一を図ったのではないかと考えるようになったのです。なぜなら『隋書』に「年次移動」がもしあったとしても「推古紀」の「国書記事」と整合する内容の交渉記録が『隋書』中に見られないのは不審だからです。それが見られないのはその『隋書』の参照原資料としての『王劭版隋書』の段階ですでに「なかった」からであり、それは意図的に「抹消」されていたからではなかったかと考えられるのです。
 彼は中書舎人として「起居注」に直接携わっていた人物ですから、「起居注」にあったはずの記録を書き漏らすとは考えにくく、また「国書」のやりとりなどが「起居注」に書かれなかったとは考えられず、そのことから「倭国関連記事」は「抹消」されたと考えられるのです。
 これに対し「推古紀」の国書記事では逆に「宣諭」されるに至った記事の類が見られません。これは明らかに国家の体面が汚されたとみての抹消(或いは無視)であり、そのような「不体裁」な記事をそのまま書き残すことはできなかったと考えれば、それは「王劭」の『隋書』と同様の方針による改竄であったこととなります。
 互いに自王朝に不利なことを抹消し逆に残すべきと考えたことだけを残したこととなるわけですが、加えて「隋」の秘府には「大業起居注」がなかったということから『隋書』編纂が困難を極めついには「仁寿年間」までしかなかった「王劭」の『隋書』を大々的にフィーチュアした結果、「大業年間記事」について実際の年次とは異なる年次に記事が置かれたらしいことが推察され、さらにさらに『書紀』が『隋書』を脇に置いてみながら編纂されたらしく、この両者がいわば「合体」したことにより「大業三年」の宣諭記事と「推古紀」の国書記事が同一年次として記録されるというある種摩訶不思議なことが起きてしまったと考えられるのです。 
 この結果本来開皇年間つまり六八〇―七〇〇年の間に起きた出来事が七〇〇年を超えた年次として書かれている事となり、それだけですでに10―15年程度ずれていると思われるのに加え、『書紀』の記事がやはり「不利な記事」を抹消してなおかつ『隋書』との整合をとろうとした結果、さらに数年がそのズレに加わったとみられ、およそ20年程度の年代ズレが『書紀』において生じていると思われるわけです。この「20年程度」というのはかなり重大な結果をもたらすものであり、ちょうど時代の転換点付近であったところから「仏教」の拡大の原因や時期などの理解に不都合を来すこととなっていると思われますが、それはまた別に。

コメント