古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「軍王」とは(続き)

2017年12月08日 | 古代史
 「軍王」について述べましたが、論者の中には『万葉集』の「軍王」について「雄略紀」との名称の近似について述べているものもありますが、そこでは「百済王族」の「尊称」という理解のようです。しかし「軍君」や「軍王」が尊称ならば、『書記』の「百済」との関係記事は「軍君」や「軍王」だらけになって不思議はないはずであるのに、実際には「昆支君」という「コン」という発音の人名に使用されている例だけが確認できる唯一であり、このことは「軍王」についても「尊称」などではなく「人名」の「発音」として選ばれている語であるという前回の記事は蓋然性の高い想定と考えます。(例えば坂本義義種氏などはこの「昆支」と「軍」の近似については「尊称が個人名に転じたものであろうか」という推測をされているようであり(※)、あたかも彼だけがその尊称を継承したかのようですが、そうなった経緯や根拠については特に述べられてはいないようです。)

 また、この「軍王」についてはその左注が「未詳」としていることに注意すべきです。『万葉集』の左注がこの『万葉集』成立からかなり後代のものであるのは当然といえますが(そのため古田氏は左注を歌そのものから切り離して考えるべきと提唱されたわけですが)、重要なことは「山上憶良」の『類聚歌林』を引用してその「題詞」や内容を検討していることです。つまりこの左注を施した人物は「万葉」の世界について疎く、そのためそれがどの時代の誰がどのような状況で歌ったのかを「山上憶良」によって知ろうとしているのです。さらに同時に最終的には『日本紀』の記述に基づいて判断していることが知られます。
 これらのことから判断して左注を施した人物と「万葉」の世界が異なっていることを示しているわけですが、それは単に時代が異なるのではなく、政治における「位相」が異なっていると考えるべきでしょう。しかもその「位相」の異なる世界の住人として「山上憶良」がいたことになります。
 これらのことから『万葉集』が「倭国九州王朝」において編纂されたものであり、その「倭国九州王朝」の時代のことを知るものとして「山上憶良」を選んだこととなるでしょう。
 すでに「山上憶良」が「倭国王朝」の関係者であったらしいことを推察しましたが、上の推定はそれを裏付けるものと考えます。
 さらに「軍王」については彼もよく知らないということとなりますから、かなり時代が遡上することを想定する必要があり、『雄略紀』に登場する人物とみた前回の「思い付き」もそれほど外れてはいないのかなと考えています。

※)坂本義種「日本書紀朝鮮・中国関係記事注釈 ―巻第十四 雄略天皇―」(『京都府立大学学術報告 人文・社会』一九九九年十二月)
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「軍王」とは

2017年12月06日 | 古代史
単なる思い付きを書きます。

たまたま山田氏のブログで「百済」の「嶋王」に関することが書かれており、その中に「昆支君」について「軍君」と書かれているのを見て、その「軍」の「音」が「こん」であることを思い出しました。

「(雄略)五年…
夏四月。百濟加須利君盖鹵王也。飛聞池津媛之所燔殺適稽女郎也。而籌議曰。昔貢女人爲釆女。而既無禮。失我國名。自今以後不合貢女。乃告其弟『軍君崑攴君也』曰。汝宜往日本以事天皇。『軍君』對曰。上君之命不可奉違。願賜君婦而後奉遺。加須利君則以孕婦。既嫁與『軍君』曰。我之孕婦既當産月。若於路産。冀載一船。隨至何處速令送國。遂與辭訣奉遣於朝。
六月丙戌朔。孕婦果如加須利君言。於筑紫各羅嶋産兒。仍名此兒曰嶋君。於是『軍君』即以一船送嶋君於國。是爲武寧王。百濟人呼此嶋曰主嶋也。
秋七月。『軍君』入京。既而有五子。百濟新撰云。辛丑年盖鹵王遣王遣弟昆攴君。向大倭侍天皇。以脩先王之好也。」

 「軍」を「ぐん」という「音」として使用するのは現在は普通ですが、これは後代の「慣用音」であり当時は「漢音」も「呉音」も同じく「こん」でした。「軍布」が「昆布」の表音であるらしいこともそれを示します。そう考えれば「軍君」は「昆支君」とほぼ同音であることとなります。つまりこの「軍」は「軍事」関係を示すものではなく(つまり「表意」ではなく)「音」だけを借りたものと思われるわけです。
この「昆支君」と同様に「軍」を使用して呼称される人物が「万葉集」に出てきます。

「万葉集五番歌」「幸讃岐國安益郡之時軍王見山作歌 霞立 長春日乃 晩家流 和豆肝之良受 村肝乃 心乎痛見 奴要子鳥 卜歎居者 珠手次 懸乃宜久 遠神 吾大王乃 行幸能 山越風乃 獨<座> 吾衣手尓 朝夕尓 還比奴礼婆 大夫登 念有我母 草枕 客尓之有者 思遣 鶴寸乎白土 網能浦之 海處女等之 焼塩乃 念曽所焼 吾下情

右檢日本書紀 無幸於讃岐國 亦軍王未詳也 但山上憶良大夫類聚歌林曰 記曰 天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午幸于伊<与>温湯宮[云々] 一<書> 是時 宮前在二樹木 此之二樹斑鳩比米二鳥大集 時勅多挂稲穂而養之 乃作歌[云々] 若疑従此便幸之歟」

ここでも「軍王」が出てきます。これは通常「扶余豊」(余豊樟)のこととされています。しかし読みは「こにきし」とされており、「余豊」とつながりのない名前です。
この「軍」が「軍隊」の「軍」を示すものであるなら、当然「余豊」は「将軍」でなければなりません。しかし『書紀』のどこにも「余豊」が「将軍」であったということは触れられていません。このように「軍」が「軍事」を示すものであるなら、「余豊」という存在と「軍」の関係が明確でないことと矛盾します。とすればこの「軍」は名前を示す「表音」とみる必要があります。それなら「昆支君」である「軍君」と同じということとなってしまいます。つまり「こん」という音が名前に入っている人物を想定する必要がありますが、特に見当たりません。このことから「昆支」自身を指すものではないかという疑いが生じます。
一見両者は全く時代が異なるように思われますが、それは注に示された「山上憶良」の歌集の記述に引っ張られているためであり、そこでも述べられている様に実際にはこの両方の記事は「整合していない」のです。単にその内容は「伊予」と「讃岐」という地域名がたまたま同様の領域を指すものであったために「無理に」引き合いに出されたものであり、関係として成立していないように見えます。(だからこそ「舒明」から「斉明」に至る『書紀』には出てこないと思われるわけです)

「万葉集」の場合その配列は基本的には年法では並んでいるとは言えませんから、前後と違う年代のこととみてもそれほど不自然ではありません。特に一番歌は「雄略」の歌とされているぐらいですから、それと同時代の歌が並んでいるとみることもできるでしょう。
つまりこの「軍王」は「昆支君」を指すのではないかということを述べてとりあえず「思い付き」として提示しておきます。(以降、論が発展するかはわかりません)

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「射日神話」と「シリウス」

2017年12月06日 | 古代史
 すでに、紀元前八世紀付近で各地に気候変動があり、より寒冷となった地域とより炎熱となった地域が出たと思われ、そのような気候変動がより快適で、より多くの食糧を得られる地域へと民族(というより地域に居住する人々)の移動が行われる源泉となったと思われるわけですが(それは即座に「武装化」の進行であり、金属器の発展となったと思われるわけであるわけですが)、その契機となったのが「シリウス」伴星による新星爆発現象であり、それに伴う多量の宇宙線の飛来が極域の雲量の増加に結びつき、その結果として「北極振動」が活性化された結果であるとみたわけですが、このような現象が地球上の誰もが目にすることのできたものであることは確かであり、すでにその例として「ギリシア」と「ローマ」の古文献を上げたものです。
 さらに渉猟していると、古田氏の論に出会いました。それは昭和五十九年に行われた「民俗学のシンポジウム」を氏が傍聴した際の経験からのものでした。それによれば「沿海州の現地民に伝わる「射日神話」に関するものであり、その中に「複数の太陽」というものが示されていたものです。

「…第二、「狩猟時代」(人類が弓矢を発明してより以後。日本列島の縄文期、そしておそらく旧石器期の、新しい段階も、これに入るであろう)。
 昔、二つの太陽があった。魚は跳びはねるとすっかり焦げて死んだ。赤ん坊は生れても生きることが出来ず、(暑さのために)呼吸が出来ずに死んだ。そこで老人が矢で太陽を射た。すると、太陽は上へ逃げ去った。二つの太陽があった時、木もまた良く生れる(育つ)ことが出来ず、(葉は)ちぢれ、(何故なら、太陽が低くて木々が枯れたので)、石もやはりすっかり溶け、穴だらけになった。二つの太陽があった時には。(オロチ族)〈同右〉…」(荻原真子氏による採取と翻訳:『盗まれた神話』 ―記・紀の秘密(ミネルヴァ書房) 二〇一〇年三月刊行 古代史コレクション3朝日文庫版 ―あとがきに代えて 補章 「神話と史実の結び目」より)

 これは氏が触れている様に「縄文時代」のこととみられ、ふたつの太陽とは「太陽」と「シリウス」を指すのではないかとみられます。それを示すのは「太陽が低くて」という表現であり、これは「シリウス」を意味するとして自然だからです。
 「シリウス」の高度は(北半球では)実際にはかなり低く(当時は「歳差」のためにさらに低かったはずです)、それは「ホメロス」の「イリアス」においても「オケアノスに湯あみして」という表現がされており、「オケアノス」が「海」を意味するものですから、太陽と違ってほぼ水平線付近に見えていたらしいことが推察できます。上の「オロチ族」の神話でも同様のことを意味しているのではないかと思われるわけです。また「生まれた赤ん坊も生きることができず」という表現は、古代ギリシアにおいて行われていた「アルテミス」に供物をささげる儀式をほうふつとさせるものです。この儀式も(すでに述べたように)「女性と子供あるいは妊婦」などに「アルテミス」の加護があるようにというのが原初としてあったと思われますから、同様の悲劇が横たわっていたことを示唆します。

これが実際にあったことの反映とはだれも考えないようですが、「神話」が実際にあったことの「写影像」であるのはほぼ常識であり、それは人類がその経験したことを伝承として残そうという集団意識のなせる業ではないかと思われるわけです。

 実際には「北極振動」は現象としてジェット気流の蛇行として現れ、極北からの冷気の流れ出す場所が移動・変化することで、特に北半球の中緯度地域を中心に気候変動菟が起きるとされます。「沿海州地域」においては蛇行が北側にずれたのではないかとみられ、そのため酷暑が発生することとなったと推察されるわけです。(逆に日本列島付近ではより南側にずれたものと思われます)
 このように世界の各地で紀元前八世紀付近に起きた気候変動が何らかの形で語り伝えられ現在に残っているのではないかと思われます。
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「魏使」が「末盧国」へと誘導された理由についての「補足」

2017年12月03日 | 古代史
以前『魏志倭人伝』の中で「魏使」が「末盧国」経由で入国していた件について書きましたが(http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/19ded18130b5acdcf32dcf51c4e6b123)、
今回「山野草氏」のブログ(http://39228087.at.webry.info/)に「佃収氏」の論として「博多湾」の水深の話が出ていました。それによれば大型の構造船が進入できるほど博多湾は深くはないということを示されており、大変参考となりました。(自分でも色々調べその正しいことを確認しています)そのことにより「末盧国」へと誘導された理由がより明確となったものであり、納得しました。

ただし「論旨」として「一大率」が「北方防衛」という重要任務を背負っていたとみる点には変わりなく、それは「倭」の諸国ではそれほどの「大型船」をまだ利用していなかったであろうと思われ、その意味で「小型船」なら「博多湾」への侵入も可能であったと思われることはいえます。(後の「新羅」人による「海賊」の同様であったと思われます)
上の記事でも書きましたが、平安時代の「博多警固所」の所在地は、それ以前から「大津城」があったとみられる場所であり、それが「卑弥呼」の代の「一大率」からつながるものであり、彼らが警戒していたのは「国内」からの「侵入者」であったという理解は妥当と考えています。

有力な情報ありがとうございます。
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