古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

『倭人伝』シリーズ(3)

2024年01月30日 | 古代史
さらに前回から続く

『三國志』の『高句麗伝』をみると以下のことが書かれています。

「…又有小水貊。句麗作國、依大水而居。『西安平縣北有小水。南流入海。』句麗別種依小水作國。因名之爲小水貊。…」(『高句麗伝』より)

 ここには「西安平縣」の「北」に「小水」があると書かれています。この「小水」は「西安平縣」の中にあるのでしょうか。そうではないことは同じく『高句麗伝』の中の次の記事から判ります。

「漢光武帝八年、高句麗王遣使朝貢。始見稱王。…宮死子伯固立。順、桓之間、復犯遼東、寇新安、居郷。又攻『西安平』、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」(『高句麗伝』より)

 また『漢書』をみても「西安平縣」は確かに「遼東郡」に属しています。

「遼東郡,秦置。屬幽州。?五萬五千九百七十二,口二十七萬二千五百三十九。縣十八:襄平,有牧師官。莽曰昌平。新昌,無慮,西部都尉治。望平,大遼水出塞外,南至安市入海,行千二百五十里。莽曰長?。房,候城,中部都尉治。遼隊,莽曰順睦。遼陽,大梁水西南至遼陽入遼。莽曰遼陰。險?,居就,室偽山,室偽水所出,北至襄平入梁也。高顯,安市,武次,東部都尉治。莽曰桓次。平郭,有鐵官、鹽官。『西安平』,莽曰北安平。文,莽曰(受)〔文〕亭。番汗,沛水出塞外,西南入海。沓氏。」(『漢書/地理志第八下/遼東郡』より)

 これらによれば「西安平縣」というのは「遼東郡」に属する「漢」の地であることが判ります。しかし「小水」記事ではその「小水」の地に「国」を造ったとされていますから、それが「高句麗」の内部の話であり「漢」の領土内ではないことが判ります。このことからここでいう「北」が「北部」の意味ではなく「北方」の意味を持っていることが知られます。

 同様に『ゆう婁伝』にも『北』で『北方』の意を示す例が出てきます。

「ゆう婁、在夫餘東北千餘里。濱大海、南與北沃沮接、『未知其北所極。』」(『ゆう婁伝』より)

 ここでは「北」の方向に何があるのかどこまであるかさえ判らないとしているわけであり、決して「ゆう婁」の国の中の北部が判らないと言っていいるわけではありません。「north」と「northern」の違いがないというわけです。
 中国語の曖昧なところですが、ただ「北」というだけでは「ある地域の中の北部」を指すのか「その地域の外側」に広がる「北方」の地を指すのかが曖昧なときがあります。「狗邪韓国」について『倭人伝』に出てくる「其北岸」という表現も同様であり、「其」という指示代名詞が示すのは「倭」であるのは確かと思われますが、「倭」からみて北方という意味なのか、「倭の中の北部」を指すのかがどちらとも受け取れるわけです。その差は前後関係で考えるしかないものと思われ、それを示すのが「狗邪韓国」という名称であり、また「官」を初めとする詳細記事の不在であると思われるわけです。それ以降の描写とは全く趣が異なるわけですから、その差は有意であり、このようないわば状況証拠が示すものは「狗邪韓国」とは「倭地」ではないということではないでしょうか。
 また『韓伝』をみると「南は倭と接する」という書き方をされています。

「韓在帶方之南。東西以海爲限、『南與倭接』、方可四千里。」

「…弁辰與辰韓雑居…『其涜盧国與倭接界』。」(いずれも『韓伝』より)

 これを韓半島に倭地があった証拠と考える向きも多いようですが、「接する」とは間に何も入らないという意味であり、この場合の「何も」とは他の国のことです。つまり「韓」と「倭」の間には(狭い海峡を挟んでいるだけで)「他の国」は挟まっていないといっているだけであり、「陸続きである」とは一言も述べていないのです。たとえば「山」も典型的な自然国境といえるでしょうが、それを挟んでいても「接する」という用語は使用されている例があります。

「高句麗在遼東之東千里,南與朝鮮、?貊,東與沃沮,北與夫餘『接』。」(『高句麗伝』より)

「東沃沮在高句麗蓋馬大山之東,濱大海而居。其地形東北狹,西南長,可千里,北與ゆう婁、夫餘,南與?貊『接』。」(『東沃沮伝』より)

 ここでは「沃祖」は「高句麗」の「蓋馬大山」の東にあるとされますが、「高句麗伝」では「沃祖」と「接する」とされており、間に高山があっても「接する」という用語が使用される事を示します。そしてそれは「海」を挟んでいる「倭」についても「接する」という用語が使用されうることを示すといえるでしょう。
 また上にも出てきますが、「ゆう婁」「(東)沃祖」の記事では「大海に濵している」という言い方が出てきます。

「ゆう婁、在夫餘東北千餘里。濱大海、南與北沃沮接、未知其北所極。」(『ゆう婁伝』より)

「東沃沮在高句麗蓋馬大山之東、濱大海而居。」(『東沃沮伝』より)

 上に見るように「大海」つまりここでは「日本海」に面した国であるとされています。その「日本海」の向こうには列島があるわけですが、さすがにその間の海は広大であり、「倭」と接するとは言い難いのは確かでしょう。しかし、「狗邪韓国」の場合はもちろんこれらとは異なるものであり、「晴れていれば見える」ほどの距離にある「対馬」であれば「接する」という表現は妥当なものといえるでしょう。
 「対馬」という名称も「馬韓」に対するものということからの命名という説もあるほどですから、その意味でも「対馬」の向こう側は「韓地」であるとみるのが相当ではないでしょうか。
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『倭人伝』シリーズ(2)

2024年01月30日 | 古代史
 前回から続く

『倭人伝』では「半島」と「対馬」の間ではなく「対馬」と「壱岐」の間に「瀚海」という名称が書かれています。そのことは「対馬」と「半島」(狗邪韓国)との間に「国境」があることが推定でき、またこの「名称」(漢語)は「倭人側」の命名とみることができるでしょう。つまりここだけに特に名称がついている理由として「対馬」までが「邪馬壹国」率いる「倭王権」の範囲とみられるからです。
 もし「半島」にも「倭王権」の統治が及んでいるのなら「半島」と「対馬」間の「朝鮮水道」にも名前がついていて当然と思われます。「対馬」に至って初めて「倭王権」の統治範囲に入ったと考えれば(逆に言うと「対馬」までが倭王権の統治範囲であるとすれば)、その向こう側の海域には「倭王権」による命名がないのは当然といえます。
 「対馬」から「壱岐」までの間の海峡に名称がついているのは、そこが「倭王権」の領域内で通行・移動するための航海として「陸地」と「陸地」の間が「最も距離があった海域」だからと思います。
 当時は「沿岸航法」が一般的であったと思いますが、「半島」へ行くためには「一海を渡る」必要があったものであり、その中で特に「広い海峡」であるということから「広い」という意を含んだ「瀚海」と命名されたと考える余地があるでしょう。
 『倭人伝』ではこの二つの「一海」は共に「千余里」とされていますが(朝鮮水道も含めると三つの海峡が全て「千余里」となっている)、実際には九州と壱岐の間の距離に比べかなり壱岐と対馬の間の方が広いように思われ、実距離とはやや異なるようです。(これらの「千余里」は行程日数から逆算した「魏」の使者の判断と思います。)
 「瀚海」は(想定によれば)「邪馬壹国」から「魏」(「帯方郡治」)への使者がその帰途「魏」の使者を同行した際に、「魏」の使者に対して説明をした中にあったと見られ、そう考えた場合「瀚海」は「邪馬壹国」という内陸にあった王権に属する人達の命名であり、九州島から見た視点で述べられていると思います。これを「対馬」に住む人達から聞いたとするなら彼らの感覚では「壱岐」との間も「半島」との間もさほど広さに変わりはないわけであり、特に「壱岐」との間だけに「翰海」という命名をする必然性に欠けるといえるでしょう。つまり「壱岐」を含んだ「九州島」側から見た視点での命名と思えるわけです。
 たとえば「壱岐」に「一大率」の本拠があったとすると、明らかに「広い」のは「対馬」の方向ですから、彼らが命名したとして不自然ではありませんが、より自然なのは「九州島」の内部にある地域の人達による命名というケースです。彼らにとって「壱岐」から向こう側に広がる海は「広い海」といえるのではないでしょうか。そもそも現代と船の構造や性能が全く異なりますから、私たちが現代の感覚で「海峡」が「広いはずはない」あるいは当時の人がこの海峡を「広いと感じていたはずがない」と考えるのは「単なる思い込み」ではないかと思います。
 この「瀚海」については古田氏の見解が定説となっているようです。氏は「瀚海」の「瀚」という字について「広い」という本来の字義では意味が通らないとされ、「さんずい」を取って「翰海」と理解すれば「飛鳥」つまり鳥の飛ぶ様を意味しているとして、「対馬海流」に対する呼称であるとしたのです。しかし上に見たように『倭人伝』では「半島」と「対馬」の間ではなく、「対馬」と「壱岐」の間に「翰海」という命名がされています。この海峡の流速は「対馬海峡」つまり「朝鮮水道」に比べ流速がかなり落ちます。「朝鮮水道」ではなく「対馬」と「壱岐」の間への命名として「翰海」としたというのであれば、この呼称は不適切といえるのではないでしょうか。
 そもそも「瀚海」ではなく「翰海」と理解すべきならそう表記するはずであり、「卑弥呼」の場合は「表音」として使用されていますから、「卑」でも「俾」でも良いと言うこと思われ、基本的には「人偏」を取って意味が変わっても問題があるわけではなかったと思われますし、また「渡る」と「度」では既にこの時代で「度」で「渡」として通用していたと言う事情があったものです。もし「瀚海」を「翰海」として理解しようとするなら「翰」という文字が「三国時代」において「瀚」として通用していたと言うことを示す必要があると思われます。
 しかし「瀚」と「翰」は全く意味が異なるものであり、「瀚海」が「表音」ではなく「表意」であったと見るなら、「さんずい偏」を取って理解しようとするのは無理だと思われます。
 但し「瀚海」の「瀚」は「呉音」が「ガン」のようですから、当時の「魏晋音」が「呉音」に近いとみれば後代の「玄海」の「玄」と近い発音となります。これを偶然ではないと考えるならば(呼称の対象となる海域は「玄海」の方が広いようですが)、そのまま現代に継承されているという可能性が考えられ、その場合「翰海」はそもそも「表音」であったかもしれません。しかしそうであっても「ガン」あるいは「ゲン」という発音を聞いて「瀚」の字を充てたのは「魏」側となりますから、その字面の撰定には意味があったこととなると思われ、やはりこの当時「瀚」と「翰」が通用していたということが証明されない限り「広い」という意味で「魏」側が使用したと理解せざるを得なくなります。
 またそう考えた場合「翰海」はあくまでも「倭人」からの聴き取りの結果であることとなりますから、「倭王権」がこの海峡にだけ「名称」をつけていたという推測はますます可能性が高くなることにもなります。
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『倭人伝』シリーズ(1)

2024年01月30日 | 古代史
 以下は以前投稿したものをやや改変したものです。

『魏志倭人伝』に現れる「国名」と「官名」については、「邪馬壹国」率いる体制の中での「国名」であり、「官名」であると考えられます。つまり、「倭王」たる女王(卑弥呼)がいて、彼女の元に一種の「官僚体制」が存在しており、その体制の中で各国に「官」が派遣、ないし任命されていたものと考えられます。このような権力集中体制は「東夷伝」による限り「倭」だけであったと思料され、先進的な国家体制が構築されていたと見られます。このことはこの時の「邪馬壹国」とその統治範囲の「諸国」が「部族連合」であるというような評価が妥当しないことを示します。部族連合ならば「中央」から「官」が派遣されていることはあり得ないといえるからです。その点から考えると、この『魏志倭人伝』の行程を記す記述の中に「到其北岸狗邪韓國」という表現があることが注目されます。

「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。」

 この「其北岸」については意見が様々あり、これが「倭」の領域である証拠という言い方もされているようです。しかし、海を渡った「對馬国」から始めて「官」や「戸数」「風俗」などの描写が始まるのであり、この「狗邪韓國」では一切その様なものがありません。それは「倭国」側から「官人」が派遣されていない事を示すものであり、そうであればそこは「邪馬壹国」のテリトリーではないと考えざるを得ません。
 またそれは「狗邪『韓國』」という国名にも現れているといえます。ここには明確に「韓国」とあるわけですから、名称からもここが「倭」の領域ではないことが示されているといえます。
 推定によれば、この「行程」を記すに当たって「魏」の使者は、「倭人」(「邪馬壹国」からの使者)の帰国に同行したのではないかと考えられ、その際に「倭人」側から説明を受けたものをそのまま記載しているという可能性があると思われます。そのような中で「對馬国」から「国」の詳細について記事があるということは、「邪馬壹国」の北側の統治範囲は「對馬国」を限度としているように見られることとなり、ここから「自称」表記となるのだと思われます。
「對馬国」「一大国」「奴國」「不彌國」の副官が「卑奴母離」であるのが注意されます。この「卑奴母離」は「軍事」担当官なのではないかと思われ、「一大率」の配下の人間ではなかったかと考えられます。逆に言えばこれらの国々は「軍的」に重要に位置を占めていたものと思われ、それは「對馬国」「一大国」など海外との境界に位置する国を含んでいることでも推測できます。その意味で「奴国」「不彌国」についても重要な軍事的位置にあったこと窺えます。この両国は中心王朝である「邪馬壹国」の至近に存在していたと推察されますから、その意味で「首都防衛」という任務があったものではなかったでしょうか。
 それに対し「卑狗」は「民生」にかかわる業務を担当する官と思われ、「卑奴母離」はその「卑狗」のもとで「郡使」の往来などについて担当していたものと思われます。
 彼らはそのような場合「博多湾」ではなく「末廬国」から上陸させるのが課せられた仕事であったらしく、その「末廬国」で「一大率」が書類や物品の照合確認などを行っていたらしいことからも、彼ら「卑奴母離」は「一大率」の支配下にあったと推察されます。
 後の時代においても「對馬」には国境守備隊とも云うべき「防人」が配されていたものであり、「天智朝」の「郭務宋」やそれ以前の「高表仁」なども「對馬」までは「新羅」や「百済」の送使が案内しており、そこからは「倭国」側の人間が対応しています。これは『倭人伝』の時代から大きくは変らなかったことを推定させるものです。(「対馬」からは「筑紫矛」と称される武器が多数発見されており、その意味について諸説ありますが、私見ではここが軍事的要衝であったことの証拠と捉えられるものと思われます。)
 また「投馬国」の二等官(「彌彌」と「彌彌那利」)については人口が非常に多い(五萬餘戸)ことと関係があるかもしれませんが、やや特殊ではないか、と考えられる官名となっており、その地域の呼称を承認している可能性も感じられ、半ば独立国状態のような雰囲気を感じます。(ただし、ここでも王の名前は書かれていません)
 ところで「書紀」中に「耳」を名前あるいは称号に持つ人命を探すとすべて「神代」のものであり、「東遷」以降はあらわれません。(以下の人物)

一書曰。素戔鳴尊自天而降到於出雲簸之川上。則見稻田宮主簀『狹之八箇耳』女子。號稻田媛。

天照太神之子。『正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊。』

時『神渟名川耳尊』孝性純深。悲恭無已。特留心於喪葬之事焉。其庶兄『手研耳命。』行年已長。久歴朝機。故亦委事而親之。然其王立操■懷。

冬十一月。神渟名川耳尊。與兄『神八井耳命。』陰知其志而善防之。於山陵事畢。

三年春正月戊寅朔壬午。立渟名底仲媛命亦曰渟名襲媛。爲皇后。一書云。磯城縣主葉江女川津媛。一書云。大間宿禰女糸井媛。先是后生二皇子。第一曰『息石耳命。』第二曰大日本彦耜友天皇。一云。生三皇子。第一曰常津彦某兄。第二曰大日本彦耜友天皇。第三曰磯城津彦命。

秋八月癸卯朔己酉。倭迹速神淺茅原目妙姫。穗積臣遠祖大水口宿禰。伊勢麻績君。三人共同夢而奏言。昨夜夢之。有一貴人。誨曰。以大田田根子命爲祭大物主大神之主。亦以市磯長尾市爲祭倭大國魂神之主。必天下太平矣。天皇得夢辭益歡於心。布告天下求大田田根子。即於茅渟縣陶邑得大田田根子而貢之。天皇即親臨于神淺茅原。會諸王卿及八十諸部。而問大田田根子曰。汝其誰子。對曰。父曰大物主大神。母曰活玉依媛。『陶津耳』之女。

 以上のように舞台が「九州」にある時代にだけ「耳」が現れます。しかも彼らは「日向」にいたとされていますが、この地域は「投馬国」の勢力範囲の一部ではないかと思われ、その意味で「耳(彌彌)」を名前に持っているのも首肯できるところです。
 これらのことは「近畿王権」のルーツとして「邪馬壹国」などの「筑紫」地域から「肥」の領域ではなく、「より南方」の「投馬国」周辺が考えられるものであり、その意味で「筑紫王権」に対し従属的な環境にいたことが推測できるでしょう。

『魏志倭人伝』の中でやや不明なものとして各国の「官」、「一大率」、「刺史」、「使大倭」などの相互関係の問題があります。
 
「…自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯…」

 上の文章の中には「皆」という表現がされ、それは「女王」に対する「文書」等の管理担当として機能している職掌について述べているものですが、文章からは「王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 」というように「機会」がある毎に「皆」という意味と思われ、また「臨津」という表現からはこれが「末盧國」における行動であることが明らかですから、この「刺史のごとく」とされた職掌については「一大率」と同一である可能性が高いと推量されることとなりました。
 ここでいう「刺史」とは「三国時代」に各州の長官として任命されていた人物であり、名目上は将軍号を持っているものもいたようですが、基本的には軍事については担当せず、もっぱら民生的な部分の管理監督を行っていたものです。「州」の長官のうち軍事権を持たないものが「刺史」、持つものを「牧」(牧宰)といいます。当時中国では中国全土を十三の「州」に分けその各々をさらに「郡」により分割して政治を運営していたのです。(「州-郡-県」という制度)
 「一大率」は明らかに「軍事」面での存在であり、「刺史」とは異なるはずのものですが、ここ「伊都国」ではあたかも(「王」はいるもののそれを上回る統治権限者として)「刺史」のように民政的なことも行っているということを表現するために「刺史のごとく」と書かれたものと思われます。
 また、国中に市場があり、交易をしている、という文面中に「使大倭」という人物の紹介があります

「… 國國有市 交易有無 使大倭監之…」

 彼は「交易」をするときに検閲官として監督している立場の人物です。(経済面で不当なやり取りがないようにするために存在している訳です)
 このような経済的な部分での監督者、という立場の人間に「大倭」の代理者という名称が使用されている、というのは如何に「経済面」が重要であるか、という証明でもあるようです。
 彼(「使大倭」)と「知事」のような「行政官」としての「刺史」とは明らかに異なっています。(この職掌が「刺史」と同一人物が兼務しているのであるならそのような文言があって然るべきではないでしょうか。)
 また、ここには「租賦」という「税金」(稲ないし雑穀と思われる)と思われるものを「収める」「邸閣」がある、と書かれています。(ただし「邸閣」というものについては通常の「倉」ではなく「軍事用」の糧食供給基地であるという見方が多く、その意味で「狗奴国」との戦闘行為が継続していた時期の描写であるように思われます。)
 この「租賦」は一般の人々から「徴集」したものと考えられますが、そのためには「戸籍」や「暦」が必要であり、この段階でそれらが整備されていたことを示します。(ただし「王権」内部のことであり、一般化していたと言うことでないと思われます。)
 またこの「租賦」が人頭税的なものなのか、収量に応じて変化するものかは不明ですが、この時点で個々人まで把握し管理していたとは思えませんから、人頭税的なものと言うより記事内において「戸」が特記される現状から考えて、「戸」単位での「祖」であったものと思われ、収穫に応じて増減する性格のものであったと見ることができそうです。
 「戸籍」がこの時点で存在していたことは『倭人伝』の諸国の記載中に「戸数」表示が出て来ることでもわかります。「戸」の基礎となる資料が「戸籍」ですから、「戸」という表記があるのは「戸籍」の存在を示唆していることとなります。
 「漢」や「魏」の例でも「戸」という表示は「権力側」が「租賦」を収奪するための前提となる「戸籍」を造っていたということの表現であると思われ(「家」については後述しますが、「戸籍」データ等の提示がなかった場合や、「戸数」表示に「なじまない」場合の使用法と思われます)、その「戸籍」整備のための最低条件である「暦」は「漢」の時代から既に導入されていたものと考えられます。そう考えると「暦」や「戸籍」が「卑弥呼」の「邪馬壹国」など「倭王権」においては統治のツールとして使用されていたと考えることは可能でしょう。
 各々の国に派遣されている「官」(「卑狗」など)はその様な「租賦」などを確実に収奪する体制を構築するのに必要な官僚であったものと思料します。
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「倭」と「倭国」―金印の読み方との関連で―

2024年01月30日 | 古代史
リバイバルシリーズ第3弾です。

「倭」と「倭国」 ―「金印」の読み方との関連で―

「要旨」
 『後漢書』に出てくる「委奴国王」はその授けられた金印には「倭国王」とも「倭王」ともされていないこと。「帥升」は「倭国王」と呼称されているものの「金印」を授与されていないこと。そのことからこの『後漢書』の「倭国王」という称号には疑いがあること。「卑弥呼」も「魏」の皇帝からは「倭国王」ではなく「倭王」という称号を授与されていること。それは「倭地」内に「狗奴国」という反対勢力があったためと思われること。「倭」は一種の「地方名」「地域名」に過ぎないものであり、その時点では「国家」としての体裁を整えていたとは思われないこと。『後漢書』の性格から「倭国」「倭国王」という呼称は「五世紀」の実情を古代に延長したものであると考えられること。それらの帰結として「漢委奴国王」の金印は「委奴国」という一語ではなく「倭」の「奴国」を指すと考えられること。「奴国」(および「伊都国」)の官職名や遺跡からの出土物もそれが「周」との関係を深く示すものであり、列島を代表していた時期があったことを示唆するものと思われること。それが『後漢書』の記事に反映していると思われること。以上を述べるものです。

Ⅰ.『後漢書』への疑問
 『後漢書』の「東夷伝」には「倭在韓東南大海中」とあり、「倭」であって「倭国」とは書かれていません。さらには、その直後には「凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。」とあり、ここでも「大倭王」であって「大倭国王」ではありません。
 また『後漢書』には「委奴国王」が金印を授けられたことが記されています。これを見ると「委奴国王」には「倭国王」という呼称はされていないことが注目されます。彼が授けられたという金印にも「委奴国王」と有り「倭国王」あるいは「倭王」という表現がみられません。
 しかしその後「生口」を「貢献」するため「後漢」を訪れた「帥升」は「倭国王」と呼称されています。しかし本当に「帥升」は「倭国王」だったのでしょうか。もしそれが本当なら「倭国王」という金印を授与されて然るべきではないでしょうか。
 以前の「委奴国王」が「倭国王」ではなく、この「帥升」という「王」の段階で「倭国王」と称されるようになったとするなら、その支配領域つまり政治的に一体の領域が一気に拡大したことを示すものと思われ、「倭国」といういわば「統一国家」が出現したこととなりますから、そのような業績を示した彼に金印が授与されなかったはずがないこととなるでしょう。しかし、この『後漢書』内には「帥升」が金印を授けられたとは書かれていません。これを「書き漏らし」とするにはそもそも「夷蛮」の王に対して金印を授与するということが滅多にないことであり、その様な事が記載から脱落するというようなことが想定しにくいことを考えると、実際に金印が授与されることがなかったと見るべきでしょう。つまり、安易に「書き漏らし」と片付けるべきではないこととなりますが、そう考えると「倭国王」という表記そのものに疑問符が付くこととなります。
 「委奴国王」の時代「倭」とは(簡単に言えば)「日本列島」を指す呼称であり、それが政治的に一体化していたとは「後漢」からは考えられていなかったものでしょう。もし「列島」の大部分を支配していたならば、「後漢」からはためらわず「倭国王」あるいは「倭王」と呼称されたものでしょう。「委奴国王」と称されているのはその支配領域がその中心地域である「委奴国」の周囲に止まっていたからとみるのが相当であると思われます。
 また「帥升」が金印を授与されなかったとするとその理由として考えられるのは彼には前述したような「功績」が見られなかったからであり、「委奴国王」の支配していた領域とほぼ変化がなかったからではないかということが考えられ、そのことから「帥升」が「委奴国王」の(単なる)後継者であると考えるべき事を示します。そうであれば敢えて「帥升」に別途金印を授与する理由が見あたらないこととなります。しかし、ここでは「倭国王」という呼称がされているわけですが、その背景には彼が「倭」における地域王者であるという確証が「後漢」側(というより編者「范曄」)にあったためと思われますが、それは「帥升」が「皇帝」にもたらした「国書」に「光武帝」が下賜した「漢委奴国王」の金印により「国書」の封泥がされていたことがあったのではないでしょうか。
 彼が「委奴国王」の後継者ならば必ず「後漢」の皇帝より授与された「金印」をその身分の証明として「封」に使用したはずであり、これを見た「後漢」の官僚から「帥升」が「委奴国王」の後継者であると認定されたことが『後漢書』の著者「范曄」をして「倭国王」と書くこととなった動機の一端であると思われるわけです。

Ⅱ.「卑弥呼」が「倭王」である理由
 さらに『魏志倭人伝』によれば「卑弥呼」は「魏」の皇帝から「親魏倭王」という称号を得ており、授与された金印も同様の印面であったらしいことが書かれています。しかしなぜ「倭王」であって「倭国王」ではないのでしょうか。(前述した通り『後漢書』でも「大倭王」という表現となっています)
 その理由を考えると、「倭国」という呼称が示すような「統一国家」がこの段階でまだ発生していないということがその最大の理由であったのではないでしょうか。
 「倭国」という呼称が「倭全体」を一つの単位とするような国家観の元のものとするならば域内に反対勢力がいる場合その勢力を除外して「倭国」という呼称は使用できないこととなり、当然「倭国王」もいないこととなるでしょう。つまり同じ「倭」の中に「卑弥呼」の統治に反対する「狗奴国」率いる勢力がいるわけですから、それを無視することは当然できないわけであり、そうであれば「卑弥呼」を「倭国王」と断定するわけにはいかないこととなります。
 ただし『魏志倭人伝』の中には「倭国」という表記例がいくつか出ています。(以下『魏志倭人伝』の中の「倭国の例」)

「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國。於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使『倭國』、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」

「正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣『倭國』、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦、刀、鏡、采物。倭王因使上表答謝恩詔。」

さらに「其国」あるいは単に「国」という表現がされている例があり(以下の例)、それらはいずれも「邪馬壹国」単体というよりその周辺の統治範囲に入る領域全体を指して「倭国」と称しているように見えます。

「『其國』本亦以男子爲王、住七八十年、『倭國』亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫壻、『有男弟佐治國』。」

 しかしこのような使用法はいってみれば特殊であり、はっきり言えば「不適切」な例であると思われます。それは「卑弥呼」に授与された金印の示す現実と適合していないからです。
 金印が「皇帝」から授与されたものであるからには、そこに刻まれた呼称が「絶対」であり「正統」なものであると見るのは当然です。それは金印の持つ権威と深く関係しています。つまり『魏志倭人伝』の中に「倭国」の使用例があっても、それは『三國志』の編者である「陳寿」の使用法であり、実態としては「卑弥呼」は決して「倭国王」ではないわけです。(この辺りは『後漢書』を著した「范曄」とやや共通するものがあります)
 彼女は「魏」の皇帝から「倭王」としか認定されていないという事実が当時の日本列島の状況、つまり「邪馬壹国」の支配する領域が「倭」の全体を覆ってはいないという現実を表していると思われます。

Ⅲ.「倭」と「倭国」、「倭王」と「倭国王」の差
 上に見たように「後漢」当時は「倭国」という概念が(少なくとも「後漢」側には)なく、「倭」あるいは「倭地」とは列島全体に対しての呼称であり、「倭人」はその「倭地」に居住する人達という概念しかなかったものと思われます。当然「帥升」や「委奴国王」も同様であり、かれらはあくまでも「倭」という地においてある程度の範囲を統治する事に成功した「王」であったものであっても、「倭王」や「倭国王」と言い切るほど強力で広大な権威があったとは思われていなかったものと思われます。その概念は「後漢」から「魏晋」へと継承されたものと思われますが、「卑弥呼」に至って「倭」の内部において統治領域とその体制が近代化(当時のという意味で)されたことに対応して「倭王」(あるいは「大倭王」)という呼称が採用されることとなったものと推量しますが、この段階でも「倭国王」ではないことに注意すべきです。「倭国」という概念はさらにその後に形成されたものであり、「東国」を含む列島の主要な部分に対してかなり強い権力を示すこととなって以降「倭国」という一種の「大国家」概念が造られたものではないでしょうか。
 この「倭国王」という称号が現実のものとなったのは「倭の五王」の時代になってからです。
「倭の五王」のうち最初に「倭国王」と称号を授与されたのは「讃」の死後「王位」に付いた彼の弟とされる「珍」の時です。それ以前の「讃」は「卑弥呼」と同じく「倭王」という称号しかもらっていないようです。

「晉安帝時,有『倭王』賛。…」(『梁書五十四、諸夷、倭』)
「太祖元嘉二年(四二五年),讚又遣司馬曹達奉表獻方物。讚死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王。表求除正,詔除安東將軍『倭國王』。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。」(『宋書』)

「文帝元嘉十五年(四三八年)夏四月…己巳,以『倭國王』珍為安東將軍。…是歳,武都王、河南國、高麗國、倭國、扶南國、林邑國並遣使獻方物。」(『宋書』)

 これ以降も『倭国王』という称号を授与されていますし、配下の者について「将軍」」や「軍郡」に除されるという例が多数確認できます。(「武」には「倭王」と呼称された例があり、それ以降「遣使」が途絶えているというのも別の意味で示唆的です。一種の格下げと「武」には映じたのではないでしょうか。)
 『後漢書』はこれら「倭の五王」が遣使をしていた「南朝」の一つであった「宋」(劉宋)の「范曄」によってまとめられた書であり、その中に「范曄」の生きていた「五世紀」の観念が持ち込まれているという可能性が高いと思えます。つまり『三國志』の「邪馬壹国」を『後漢書』において「邪馬臺国」に変えたと同じ性質のことが「倭国」や「倭国王」という表記として行われたとみられるわけであり、「帥升」が「倭国王」とされているのはこのような「五世紀」の考え方を「後漢」の時代に敷衍した結果であると推察されるわけです。
 「後漢」に朝貢した「委奴国」は「倭」のほんの一部に対する支配という功績を讃えられたものですが、明らかにその範囲も極限定的であったものであり、「行政制度」やその根拠となる「法体系」も未整備であったと見られ、そのため「国家」とは認められず、しかし地域ナンバー1であることは確かであったと思われるため、「金印」を与える条件としては整っていたものであり、また「光武帝」としてはその「覇権」の領域の広大さをアピールする意味でも彼に対し「漢委奴国王」という「金印」を授与することとなったものと思われるわけですが、そう考えると「委奴国王」とは「倭の奴国王」のことと考えざるをえないこととなるでしょう。
 つまり「委奴国王」という表記は発展段階における「倭」という地において、初めてある程度の領域を治めることとなった(それでも三十国以下の国数しかなかったと思われますが)「奴国王」に与えたものであり、その統治内容の不完全さから「倭王」や「倭国王」とは認定され得なかったことを示すと理解できるでしょう。

Ⅳ.「志賀島」の金印の三段読みについて
 『後漢書』に書かれた「帥升」の貢献記事には「倭」という文字が「倭国」「倭奴国」の両方に現れています。

「建武中元二年(五十七年)、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年(一〇六年)、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。」『後漢書』

 ところが「金印」を見ると「『委』奴国」とされていますから、「倭」と「委」は共通して使用されていたこととなるでしょう。(前述したように「金印」の表記が絶対ですから、彼は「倭国王」ではないこととなります)
 これを踏まえて考えると、「漢委奴国王」という「志賀島」から出土した金印についての「読み」について、従来と別の考え方が可能となると思われます。
 この金印については古田氏を初めとする多元史観論者は「委奴国」という一語で読むべきとされており、それまでの通説のように「委(=倭)」を挟んだ「漢の委の奴の国王」と「三段」に読むべきではないとされるわけです。その理由として、金印とは単一部族とか地域限定の権力者に授与されるものではなく、広い範囲に権力を及ぼす事が可能であるような「統一王者」に授けられるものであることや金印は贈る側である「漢」と贈られる側の「委奴国」との関係が直接関係であり重要で親密である、ということを互いに確認するため授与されるものだから「漢」と「奴国」の間に「委(=倭)」という語が入るのは印章を各部族に授与するときのルールに反しているというわけです。しかし、上に見たように「倭」はこの時点では「国名」ではなくあくまでも一地方名であって、この金印においても「委(=倭)」がその地域名程度の意味しかないとすると、それに続く「奴国王」が地域ナンバー1の権力者であるとした場合、「奴国王」と「漢」の間に位置する中間権力者は存在しないわけですから、「委(=倭)」を挟んでも、実際には「漢」と「奴国」の間の直接関係であることを示すものであり、「二段国名」表記と内実は同じであると思われるわけです。
 また古田氏は同じ『三國志』の「韓伝」には「光武帝」が「韓人」である「廉斯人」に対して「漢廉斯邑君」という称号を授与した記事があるとされ、これが「韓」を飛び越えて直接の関係を示したものという理解をされていますが、この「廉斯人」は「辰韓王」の統治を離れて「楽浪郡」の支配下に入ろうとしていたものですから、「韓」という一語を入れると「漢」と「廉斯」の関係を直接的に規定することができなくなるのは当然です。しかし「倭」の場合はこの「韓」のケースとは異なり、この時代に「奴国」以外に「倭」を「不完全」ではあってもまとめているような「上部的権力」は存在していなかったとみられるわけですから、この「韓伝」の例とは同列には議論できないものと思われます。
 上に見たように「委奴国王」を「倭の奴国王」と理解できれば「委奴国」と「伊都国」が同じというような音韻的に無理な理解(註一)をする必要もなくなります。
 また「奴国」の領域と思しき場所から「弥生王墓」と考えられる「方形周溝墓」が出土しそこから豪壮華麗な副葬品が多数出土した理由も判明します。それらは「周」から「後漢」へと続く王朝との間に成立していた関係において下賜されたものという可能性が考えられることとなるでしょう。
 また以下に示すように「使人」が「大夫」と称したという記事とも関連づけて考えられるものです。

Ⅴ.「奴国」(及び「伊都国」)の官職名と王朝の正統性
 正木裕氏も説かれたように(註二)『魏志倭人伝』に記された「奴国」と「伊都国」の官名には特徴がありました。そこには「觚」という文字が使用されています。

「…東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰『泄謨觚』、『柄渠觚』。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。東南至奴國百里。官曰『兕馬觚』、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。…」

 ここに書かれた「觚」は古代中国で祭祀や儀礼に使用された「酒」や「聖水」などを入れた「器」であり、そこから「爵」で移して飲んだとされているものです。
 このような「典拠」のある漢字をあえて「魏使」や著者「陳寿」が選ぶ必要はなく(貴字に属すると思われる)、明らかに「倭」の側(「奴国」と「伊都国」)側で「選択」したものであると考えられるでしょう。当然これらの国では「觚」の意味やそれがどのように使用されたのかを明確に踏まえた上の撰字と思われ、「表意文字」として選ばれていると考えられます。つまり、彼等には「実態」として「觚」が授与されており、その形状などがそのまま「官」の名称になっていたのではないかと考えられるわけですが、また「伊都国」「奴国」は「漢字先進地域」であり、より中国の文化を深く受け入れていたと考えられ、このことから「伊都国」「奴国」にはかなりの「渡来人」がいたのではないかということが想定されます。それは「伊都国」が「中国」からの使者の「常駐」場所であるという『三国志』の記述とも重なります。その「伊都国」には「王」がいるとされますが、同様のことは古い時代の「奴国」にもいえることだったのではないでしょうか。
 「倭人伝」では「奴国」に「王」の存在が書かれませんが、それは以前からいなかったという意味ではないと思われ(他の諸国もそうですが)、元々は「王」が存在していたわけであり、「邪馬壹国」の「王」が「王の王」たる存在となって以来「奴国」から「王」が見えなくなったものと推量されるわけです。つまり「伊都国」、「奴国」に「觚」という「字義」を持つ官職名(位階)が存在していたことは、「爵」が「諸候王」に対して「天子」が「卿」と認めた場合授けるものであり「觚」よりも一段高い位であったと考えると、「伊都国王」等が「中国」の天子(この場合は「周」か)から「爵」位を受けていたという可能性が考えられます。そこには位階に関する一種の階層性が表れているものと考えられるものです。
 これらのことは『後漢書』に「委奴国」からの使者が「使人自稱大夫」(使人自ら大夫と称す)と書かれることにつながるものです。この「大夫」という「官名」は「周」の制度にあるものですから(「士・卿・大夫」という順列で定められたもの)、それは一見「倭」側の単なる「自称」と見られがちですが、実際に「周」の王の配下の諸王の一人、と認められていたという可能性もあるでしょう。それは「周代」の貢献以来のものであったという可能性もあり、連綿として継続した権威の主(ぬし)として「伊都国王」あるいは「奴国王」が「倭人」の代表として君臨していたということが推測できます。そのため、派遣された「倭王」の部下はその下の「大夫」を名乗ったということになるわけですが、このことからこの「光武帝」への貢献は「觚」という語を負った官職の人物が使者として派遣されていたものであり、金印に書かれた「委奴国王」とは「奴国」の「王」であったという可能性が最も考えられるところであり、それは上の推論とも矛盾しないと思われることとなります。

「註」
一.内倉武久「漢音と呉音」(『古田史学会報』一〇〇号二〇一〇年十月)などの論。
二.正木裕『周王朝から邪馬壹国そして現代へ』二〇一三年九月久留米大学公開講座(YouTubeで公開されている動画を視聴)

参考資料
古田武彦『邪馬壹国の証明』、『失われた九州王朝』角川文庫
『梁書』『宋書』等漢籍資料は「台湾中央研究院 歴史言語研究所」の「漢籍電子文献資料庫」を利用しています。
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「鞠智城」について ―「北緯三十三度」の地とは(再度)

2024年01月28日 | 古代史
リバイバルシリーズの第2弾です。(第1弾は「遣隋使」関連のもの)
以下の論はかなり以前に投稿したものですが、このままでは採用されずその後前半部分を割愛した形で再編集したものが「古田史学会報一五五号」に採用・掲載されています。

「鞠智城」について ―「北緯三十三度」の地とは

「要旨」
 『延喜式』に残る「日の出・日の入り時刻」データから「平安京」以外の場所である「北緯三十三度」の地点が「都」であった時代があると推察され、その場所としては「鞠智城」付近が想定されこと。その「天文観測データ」の収集開始時期は「倭の五王」の最後の王である「武」の時代付近ではなかったかと考えられること。そのことなどから「肥後」が「倭国王権」の中心であった時代があったと見られること及び「難波京」のプロトタイプとして「鞠智城」が存在していたと推察されること。

Ⅰ.「日の出・日の入時刻」と「緯度」
 以下は増田修氏の研究(註1)に触発されたものであり、先行研究として敬意を表したいと思います。
 増田修氏は上掲論文の中で「斎藤国治氏」の研究(註2)に触れ、そこに書かれた「日の出・日の入り時刻」の記録からそれが「太宰府」で記録されたものとされました。それについて再検討することとします。
 『延喜式』に書かれた「日の出・日の入り時刻」は「夏至」・「冬至」の前後三日間ほどを除いて、その時点の都である「平安京」(京都)の緯度(三十五度〇一分)よりもっと南の「北緯三十三度」付近におけるものが書かれているらしい事が推定されています。
 『令義解』(大宝令の注釈書) には「宮廷の開門時刻」について「鐘を鳴らして合図すること」と規定しており、その鐘を鳴らす時刻については『延喜式』に詳細が記されています。そこには「日の出・日の入」の時刻が数日おきに「一年」を「四十」の区間に分けて書かれているのですが、それらのデータからその土地の緯度が推測可能です。
 「日の出・日の入」の時刻は「春分」と「秋分」については土地の緯度には無関係となり「同時刻」となりますが、「冬至」と「夏至」付近については緯度により大きく変化するものであり、「緯度」が高い方が変化の幅(ずれ方と言うべきか)が大きくなります。(註3)
 それを踏まえて『延喜式』を見てみると、「冬至」と「夏至」前後の三日間だけは「緯度」として「北緯三十五度」を想定すると近似していると判明しています。つまり「夏至」付近の日の出と「冬至」付近の「日の入り」は北緯三十五度の曲線と合うとされますが、それ以外はほぼ北緯三十三度の曲線と一致するとされるのです。(数字から曲線を描くと本来なめらかなサインカーブのはずが「夏至」の「日の出」と「冬至」の「日の入」部分が「出っ張った」状態になっているのがわかります)
 「北緯三十五度」に近いのは「京都」(「平安京」)(ほぼ三十五度)ないしは「飛鳥」(三十四度三十分)です。これは「冬至」と「夏至」という時点に行われる重要な儀式(「十二月の大祓い」及び「六月の大祓い」)を行う際に利用されるものだけは「北緯三十五度」の地点のデータが使用されているとみるべきであり、『延喜式』の成立事情から考えて「平安京」という『延喜式』制定時点の都のデータが使用されていると考えて間違いないと思われます。しかし「冬至」と「夏至」を除くとそれらの値は「北緯三十三度」の地点の「日の出・日の入」時刻が書かれていると推定できるとされます。
 ただし、斉藤氏はこれを「当時の算法の不備」というような見解のようですが(つまり「宮門の開閉時刻」を規定するために「近似計算」を行って「日の出」・「日の入り」の時刻を算出したと考えられているようです)、しかし、これは「観測」による値(時刻)がその基礎となっていると見るべきではないでしょうか。計算せずとも観測すれば「日の出・日の入」の時刻は測定できるわけです。これを基礎データとして使用したと見ることもできるでしょう。
 もしこれを計算で出した値とすると「夏至」・「冬至」の前後だけ「算法」に狂いが出ていることになり、不審でしょう。これを「観測値」と捉えれば当然「夏至」・「冬至」の付近とそれ以外の日付とは観測地点に違いがある結果と見ることができます。
 しかしこの「北緯三十三度」という値に該当する「適地」は「近畿」付近に存在しません。この経度付近で「北緯三十三度」に相当する場所を調べると「太平洋」上に出てしまいます。
 他に「北緯三十三度」が陸上に存在するのは「四国」の高知県の足摺岬の根本付近(宿毛市や四万十市などの地域)と「九州」の内部しかないのです。しかし「四国」の当該地域は「倭国王権」の都とは縁遠い場所と考えられますから「九州」だけが条件に合致することとなるでしょう。
 「九州」の中で「北緯三十三度」に該当する地域を見てみると、「肥後」の地である「熊本県玉名市」や「荒尾市」「山鹿市」「菊池市」などが該当しますが、「鞠智城」の位置がまさしく「北緯三十三度」です。つまり『延喜式』の「日の出・日の入り時刻」が観測された場所として「鞠智城」付近が最も考えられることを示しています。これについて増田氏は上掲論文中で「…倭国の首都に存在した太宰府は、北緯三三度強に位置する。…」とされ、この北緯三十三度の地点を太宰府と考えられているようですが、この「鞠智城付近」も該当することに言及されていません。誤差を考えると確かに「太宰府」にも可能性はあるものの、そこが「倭国の首都」であるという記述通り、実際には「先入観」によるものではないでしょうか。逆にこの「緯度」から「首都」をいわば「逆算」すると「太宰府」とは限らないことがいえると思われます。

Ⅱ.「鞠智城」の創建時期
 上の「日の出・日の入り時刻」の解析から「北緯三十三度」付近に以前倭国王権の都があったことが推定されることとなったわけですが、その時期は自力で「暦」の作成をすることを余儀なくさせられた時点が最も該当するものと考えられます。
 これについては従来『書紀』における天文観測の開始時期が『推古紀』であることを理由としてこの時期を「暦」を自力で作成開始した時点と考えられているようですが(註4)、それは不審であり、もっと遡上する時期を措定すべきと思われます。なぜなら「倭国」は「隋」以前に「南朝」との関係の継続に破綻したと考えられるからであり、実質的には「遣使」の記録が「武」で途絶えていることでもわかるように「倭国王権」は「武」の時代以降すでに「柵封」されてはいなかったと見られます。(註5)そうであれば「暦」の頒布(これは百済を通じたものであったとは思われるものの)を受けることはその時点以降できなくなっていたものと思われ、その結果自力で暦を作るということとなったものと思われるわけですが、そうであれば「五世紀の終わり」から「六世紀の初め」付近にはすでに「天文観測」を開始していたとして不審ではないこととなります。そしてその時点での「都」は「北緯三十三度」(つまり「肥」の国)の地点であるのは「前方後円墳」についての伊東氏の考察(註6)などから了解できます。
 それに従えば「前方後円墳」の重要な構成要素である「横穴式石郭」という様式あるいは「舟形石棺」などの「石棺」の源流、また「石材」として「阿蘇溶結凝灰岩」の使用など各種の点で「肥後」にオリジナルがあるとされます。それらは一般に「肥後の豪族」の近畿王権への服属の証しなどと言われますが、そのような理解がアンフェアなのはいうまでもありません。なぜなら「古墳」や「石室」の様式や素材は「葬送祭祀」の重要な要素であり、それらは一般に「外部」からの圧力なしには大きく変化しないものであり、そこに「肥後」の要素が多いのは「肥後」からの「圧力」によるものとしか理解できないからです。もしこの時点で「近畿」に「倭国」の中心権力があり、「肥後」が「従」たる勢力であったとするならなぜ、その「従」たる文化を「主」たる側が取り入れなければならないのでしょうか。「近畿」の権力が「肥後」に及んだのなら、「近畿」の墓制を構成する要素が「肥後」に見られなければなりませんが、実際には逆になっているわけですから、それはいわゆる「文化勾配」(中心権力から地方へと文化が移動すること)に反するものです。これを素直に見るならば、「倭の五王」は九州特に「肥後」に所在していたものであり、「肥後」に「倭の五王」の権力の淵源があったのだ、という理解しかありえないのです。特に「阿蘇溶結凝灰岩」の著名な切り出し場所は当初「菊池川上流」の「鞠智城」の至近にあったものであり、この「鞠智城」の存在意義に深く関わるものと思われます。
 そもそも「鞠智城」で発見された「総柱式建物」の柱穴からは「七世紀前半の須恵器」が出土しています。この時代にすでに「鞠智城」が存在していたことが疑えないこととなったわけですが、それはあくまでも「繕治」の年次とみるべきであり、「創建」の年次とはみられません。なぜならこの「鞠智城」が「難波京」と共通する性格があり、さらにこれに先行することが想定されるからです。
 
Ⅲ.「難波京」と「鞠智城」
 「難波京」も発掘が進み各種の科学的方法が援用された結果、その創建は「七世紀半ば」を遡上する可能性が指摘されています。そうであれば「鞠智城」はさらにそれを遡上するとも考えられ、「六世紀代」であると言うことも考えられることとなります。
 「鞠智城」の形式としては「筑紫」の「大野城」や「高良山神籠石」などのいわゆる「朝鮮式山城」と共通する性格を持っているとされていますが、他方それらに比べると大きな違いも指摘されています。たとえば、他の「山城」と違い急峻な山腹に「城」を築く「山上抱谷式」というタイプではなく、より「平坦」な「台地」上の場所に「城」を築く「平地丘陵式」であることや、「城域」に「谷」が含まれていない点が異なっています。
 また、これら「山城」は「百済」に基本的に源流があるとされ、その意味で「朝鮮式山城」と称されるわけですが、「百済」では「泗沘城」と「青馬山城」というように「都城」と「山城」という組み合わせが「普遍的」であり、その意味では「筑紫都城」と「大野城」等の山城という組み合わせは多分に「百済的」であるものの、「鞠智城」の場合はそれらとは「一線を画する」ものです。それは「鞠智城」それ自体が「山城」と「都城」を両面備えた形式となっていると考えられるからです。それは「城域」に「政庁的」建物と考えられる大型建物群が存在しており、「官衙的中枢管理区域」の存在が指摘されていることからもいえることです。
 そして、これらの点は「難波京」に通じるものではないでしょうか。つまり、「難波京」は「鞠智城」と同様「都城」と「山城」という二つの特性を有していると言えると思われるわけです。
 「都城」(京師)の特徴として「条坊制」が挙げられますが、「鞠智城」や「筑紫」(太宰府周辺)の「山城」では「条坊制」が布かれてはいません。(「山城」という構造自体が、「条坊制」とは異質であり、相容れなかったものでしょう)
 それに対し「難波京」では「難波宮」を起点として「条坊制」が施行されていた痕跡が確認されつつあります。つまり、「難波京」は「発展型山城」とでも言うべき状態となっており、「鞠智城」の形態をより「進化」させ、「筑紫都城」のもつ「条坊制」とその周辺の防衛施設である「大野城」などの「山城」の防衛機能を「合体」させた形態を有するものとして造られたと推定されるわけです。それはこの難波京」の立地からもいえることであり、「上町台地」のほぼ最標高地点を選んでいることや(一番高い場所には「生国魂神社」があったため、そのすぐ直下に造られている)、谷の入り組んだ土地をわざわざ選んでいるように見えることなど、ある意味古代の「京」としては「空前絶後」とも言える場所に造られたものといえます。
 「飛鳥京」や「藤原京」、後の「平城京」などの「京」はほぼ「平地」といえる場所に造られたものであり、それらとは明らかに「趣」を異にするものです。(ただし、「近江京」とは近似した性格が認められます)
 このような「上町台地」の突端の「海」に突き出たような、とても「平坦」とは言えないような場所をあえて選んでいるのは、この「難波京」の「性格」として「山城」的な部分があったのではないかということを推測させるものです。また「難波京」では「複雑に入り組んだ谷」を埋めながら整地層を構成しており、それはその様なことを基本的には行わない「大野城」や「基肄城」などの通常の「山城」とは明らかに異なってはいるものの、「鞠智城」とは少なからず共通しているように思われます。その意味でこの「副都」「難波京」は、「筑紫宮殿」周辺の「条坊制」をモデルとしつつ、「鞠智城」という「新型」山城の発展・拡大の延長線上にあったと思われるわけです。これらを総合すると「鞠智城」は「難波京」の母型ともいうべきものと思われ、創建年次として「難波京」を相当程度遡上することが窺えるものです。

Ⅲ.「古代官道」と「山城」
 また、この「鞠智城」付近には「古代官道」が通じていたことが確認されており、この場所が「筑紫」や「肥後」周辺各地への交通の要衝であったことも明らかになっています。
 「鞠智城」の至近から「肥後国」の中心として考えられている「大水駅家」の間にも「車路」という地名が遺存しており、そのことから「延喜式」以前の官道は「鞠智城」を経由していたというのが有力な説となっているようです。つまり「延喜式」以前に廃絶してしまった官道が多くあり、それらについてはルートの再現が「延喜式」からは既に困難になっていると考えられますが、「肥後」国府から「鞠智城」に至る道路としての「菊池街道」として今に残るものはかなり「直線的」な道路であり、これが古代の「官道」であったことを窺わせるものです。
 「基肄城」など山城には「車道」と呼ばれる「平坦部」があるのが確認されており、この事から「山城」には「官道」が取り付くものであったことが推測されています。これら「基肄城」や「鞠智城」などの「山城」に「軍事目的」があったのは「当然」ですが、「官道」もまた基本的に「軍事目的」であったと考えられ、そうであれば「官道」に沿って「山城」があり、また「官道」が「山城」に接するように敷設されているのもまた「当然」とも言えると思われます。
 この「七世紀前半」時点の「倭国王権」は「筑紫都城」を防衛するための施設として、その「至近」に「山城」と「水城」を築造したものと推量されますが、それと同時に「複都制」の「詔」を発し、その中で「凡都城宮室非一處。必造兩參。故先欲都難波。是以百寮者各往之請家地。」というように「二ないし三箇所」を「都城宮室」の場所として選定することとしたものであり、「先ず」第一番目に「難波」に「副都(京)」が形成されたわけです。
 この「詔」でも「両参」とされているように、「副都」として想定しているのは最大二箇所程度と考えられ、『書紀』にも「難波」の他「信濃」にも造る動きがあったとされます。これは「筑紫」が危険と判断されれば「副都」から列島支配を継続することが可能になるように手段を講じていたものです。
 ここで「難波」や「信濃」がその場所として想定されていたのは「山陽道」と「東山道」の整備拡幅事業の進捗との兼ね合いであったと思われます。
 「副都」と「離宮」などが決定的に違うのは、「副都」から「統治行為」の全てが可能であることです。当然官人なども「首都」から引き連れていく訳ではなく最低限の「統治体制」が常時整った状態となっていたものと思料されます。そのことから「複都制」の前提条件というのは、「副都」と「首都」を結び、且つ主要な地域へ早期に「軍事展開」ができるような「幹線道路」の整備が完了していることであり、「副都」から素早く軍事行動ができるようになっているということであったと思われます。その意味で「難波津」が交通アクセスの第一である時点はまだ「副都」として機能してはいなかったとみられるわけです。あくまでも「陸路」によることで大量の軍事的行動が可能であるというのが必須の前提条件であったと思われ、その意味で「山陽道」の整備の進捗と「難波」が「副都」として機能するということの間には緊密な関係があると思われるのです。
 ただし「倭国王」が「筑紫京」に滞在している時に(海から)「奇襲」などを受けた場合は「難波」まで逃げる時間もないわけであり、「筑紫」からそう遠くはないが、追っ手を遮断できる「天然の要害」である「山地」を挟んでいて、かなり安全と思われる場所に「王権」の「仮の受け皿」として「旧王城」である「鞠智城」を整備したという可能性があるでしょう。

「註」
一.増田修「倭国の暦法と時刻制度」(『市民の古代』第16集一九九四年)
二.斉藤国治「『延喜式』にのる日出・日入、宮門開閉時刻の検証」(『日本歴史』五三三号、一九九二年)
三.その時刻を求める近似式としては時角をtとして、cost=tanφtanδ(ただしφはその土地の緯度、δは太陽の赤緯、tは角度)で表されます。
四.谷川清隆、相馬充「七世紀の日本天文学」『国立天文台報』第十一巻(二〇〇八年)
五.菅野拓『「梁書」における倭王武の進号問題について/臣下から「日出処天子」への変貌をもたらしたものは何か ―古田説の検討を中心として』(「大学評価・学位授与機構二〇〇八年十月期学位授与中請(要旨)として」をネットで参照)
六.伊東義彰「九州古墳文化の展開(抄)」(『古田史学会報』七十七号 二〇〇六年)
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