さらに前回から続く
『三國志』の『高句麗伝』をみると以下のことが書かれています。
「…又有小水貊。句麗作國、依大水而居。『西安平縣北有小水。南流入海。』句麗別種依小水作國。因名之爲小水貊。…」(『高句麗伝』より)
ここには「西安平縣」の「北」に「小水」があると書かれています。この「小水」は「西安平縣」の中にあるのでしょうか。そうではないことは同じく『高句麗伝』の中の次の記事から判ります。
「漢光武帝八年、高句麗王遣使朝貢。始見稱王。…宮死子伯固立。順、桓之間、復犯遼東、寇新安、居郷。又攻『西安平』、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」(『高句麗伝』より)
また『漢書』をみても「西安平縣」は確かに「遼東郡」に属しています。
「遼東郡,秦置。屬幽州。?五萬五千九百七十二,口二十七萬二千五百三十九。縣十八:襄平,有牧師官。莽曰昌平。新昌,無慮,西部都尉治。望平,大遼水出塞外,南至安市入海,行千二百五十里。莽曰長?。房,候城,中部都尉治。遼隊,莽曰順睦。遼陽,大梁水西南至遼陽入遼。莽曰遼陰。險?,居就,室偽山,室偽水所出,北至襄平入梁也。高顯,安市,武次,東部都尉治。莽曰桓次。平郭,有鐵官、鹽官。『西安平』,莽曰北安平。文,莽曰(受)〔文〕亭。番汗,沛水出塞外,西南入海。沓氏。」(『漢書/地理志第八下/遼東郡』より)
これらによれば「西安平縣」というのは「遼東郡」に属する「漢」の地であることが判ります。しかし「小水」記事ではその「小水」の地に「国」を造ったとされていますから、それが「高句麗」の内部の話であり「漢」の領土内ではないことが判ります。このことからここでいう「北」が「北部」の意味ではなく「北方」の意味を持っていることが知られます。
同様に『ゆう婁伝』にも『北』で『北方』の意を示す例が出てきます。
「ゆう婁、在夫餘東北千餘里。濱大海、南與北沃沮接、『未知其北所極。』」(『ゆう婁伝』より)
ここでは「北」の方向に何があるのかどこまであるかさえ判らないとしているわけであり、決して「ゆう婁」の国の中の北部が判らないと言っていいるわけではありません。「north」と「northern」の違いがないというわけです。
中国語の曖昧なところですが、ただ「北」というだけでは「ある地域の中の北部」を指すのか「その地域の外側」に広がる「北方」の地を指すのかが曖昧なときがあります。「狗邪韓国」について『倭人伝』に出てくる「其北岸」という表現も同様であり、「其」という指示代名詞が示すのは「倭」であるのは確かと思われますが、「倭」からみて北方という意味なのか、「倭の中の北部」を指すのかがどちらとも受け取れるわけです。その差は前後関係で考えるしかないものと思われ、それを示すのが「狗邪韓国」という名称であり、また「官」を初めとする詳細記事の不在であると思われるわけです。それ以降の描写とは全く趣が異なるわけですから、その差は有意であり、このようないわば状況証拠が示すものは「狗邪韓国」とは「倭地」ではないということではないでしょうか。
また『韓伝』をみると「南は倭と接する」という書き方をされています。
「韓在帶方之南。東西以海爲限、『南與倭接』、方可四千里。」
「…弁辰與辰韓雑居…『其涜盧国與倭接界』。」(いずれも『韓伝』より)
これを韓半島に倭地があった証拠と考える向きも多いようですが、「接する」とは間に何も入らないという意味であり、この場合の「何も」とは他の国のことです。つまり「韓」と「倭」の間には(狭い海峡を挟んでいるだけで)「他の国」は挟まっていないといっているだけであり、「陸続きである」とは一言も述べていないのです。たとえば「山」も典型的な自然国境といえるでしょうが、それを挟んでいても「接する」という用語は使用されている例があります。
「高句麗在遼東之東千里,南與朝鮮、?貊,東與沃沮,北與夫餘『接』。」(『高句麗伝』より)
「東沃沮在高句麗蓋馬大山之東,濱大海而居。其地形東北狹,西南長,可千里,北與ゆう婁、夫餘,南與?貊『接』。」(『東沃沮伝』より)
ここでは「沃祖」は「高句麗」の「蓋馬大山」の東にあるとされますが、「高句麗伝」では「沃祖」と「接する」とされており、間に高山があっても「接する」という用語が使用される事を示します。そしてそれは「海」を挟んでいる「倭」についても「接する」という用語が使用されうることを示すといえるでしょう。
また上にも出てきますが、「ゆう婁」「(東)沃祖」の記事では「大海に濵している」という言い方が出てきます。
「ゆう婁、在夫餘東北千餘里。濱大海、南與北沃沮接、未知其北所極。」(『ゆう婁伝』より)
「東沃沮在高句麗蓋馬大山之東、濱大海而居。」(『東沃沮伝』より)
上に見るように「大海」つまりここでは「日本海」に面した国であるとされています。その「日本海」の向こうには列島があるわけですが、さすがにその間の海は広大であり、「倭」と接するとは言い難いのは確かでしょう。しかし、「狗邪韓国」の場合はもちろんこれらとは異なるものであり、「晴れていれば見える」ほどの距離にある「対馬」であれば「接する」という表現は妥当なものといえるでしょう。
「対馬」という名称も「馬韓」に対するものということからの命名という説もあるほどですから、その意味でも「対馬」の向こう側は「韓地」であるとみるのが相当ではないでしょうか。
「…又有小水貊。句麗作國、依大水而居。『西安平縣北有小水。南流入海。』句麗別種依小水作國。因名之爲小水貊。…」(『高句麗伝』より)
ここには「西安平縣」の「北」に「小水」があると書かれています。この「小水」は「西安平縣」の中にあるのでしょうか。そうではないことは同じく『高句麗伝』の中の次の記事から判ります。
「漢光武帝八年、高句麗王遣使朝貢。始見稱王。…宮死子伯固立。順、桓之間、復犯遼東、寇新安、居郷。又攻『西安平』、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」(『高句麗伝』より)
また『漢書』をみても「西安平縣」は確かに「遼東郡」に属しています。
「遼東郡,秦置。屬幽州。?五萬五千九百七十二,口二十七萬二千五百三十九。縣十八:襄平,有牧師官。莽曰昌平。新昌,無慮,西部都尉治。望平,大遼水出塞外,南至安市入海,行千二百五十里。莽曰長?。房,候城,中部都尉治。遼隊,莽曰順睦。遼陽,大梁水西南至遼陽入遼。莽曰遼陰。險?,居就,室偽山,室偽水所出,北至襄平入梁也。高顯,安市,武次,東部都尉治。莽曰桓次。平郭,有鐵官、鹽官。『西安平』,莽曰北安平。文,莽曰(受)〔文〕亭。番汗,沛水出塞外,西南入海。沓氏。」(『漢書/地理志第八下/遼東郡』より)
これらによれば「西安平縣」というのは「遼東郡」に属する「漢」の地であることが判ります。しかし「小水」記事ではその「小水」の地に「国」を造ったとされていますから、それが「高句麗」の内部の話であり「漢」の領土内ではないことが判ります。このことからここでいう「北」が「北部」の意味ではなく「北方」の意味を持っていることが知られます。
同様に『ゆう婁伝』にも『北』で『北方』の意を示す例が出てきます。
「ゆう婁、在夫餘東北千餘里。濱大海、南與北沃沮接、『未知其北所極。』」(『ゆう婁伝』より)
ここでは「北」の方向に何があるのかどこまであるかさえ判らないとしているわけであり、決して「ゆう婁」の国の中の北部が判らないと言っていいるわけではありません。「north」と「northern」の違いがないというわけです。
中国語の曖昧なところですが、ただ「北」というだけでは「ある地域の中の北部」を指すのか「その地域の外側」に広がる「北方」の地を指すのかが曖昧なときがあります。「狗邪韓国」について『倭人伝』に出てくる「其北岸」という表現も同様であり、「其」という指示代名詞が示すのは「倭」であるのは確かと思われますが、「倭」からみて北方という意味なのか、「倭の中の北部」を指すのかがどちらとも受け取れるわけです。その差は前後関係で考えるしかないものと思われ、それを示すのが「狗邪韓国」という名称であり、また「官」を初めとする詳細記事の不在であると思われるわけです。それ以降の描写とは全く趣が異なるわけですから、その差は有意であり、このようないわば状況証拠が示すものは「狗邪韓国」とは「倭地」ではないということではないでしょうか。
また『韓伝』をみると「南は倭と接する」という書き方をされています。
「韓在帶方之南。東西以海爲限、『南與倭接』、方可四千里。」
「…弁辰與辰韓雑居…『其涜盧国與倭接界』。」(いずれも『韓伝』より)
これを韓半島に倭地があった証拠と考える向きも多いようですが、「接する」とは間に何も入らないという意味であり、この場合の「何も」とは他の国のことです。つまり「韓」と「倭」の間には(狭い海峡を挟んでいるだけで)「他の国」は挟まっていないといっているだけであり、「陸続きである」とは一言も述べていないのです。たとえば「山」も典型的な自然国境といえるでしょうが、それを挟んでいても「接する」という用語は使用されている例があります。
「高句麗在遼東之東千里,南與朝鮮、?貊,東與沃沮,北與夫餘『接』。」(『高句麗伝』より)
「東沃沮在高句麗蓋馬大山之東,濱大海而居。其地形東北狹,西南長,可千里,北與ゆう婁、夫餘,南與?貊『接』。」(『東沃沮伝』より)
ここでは「沃祖」は「高句麗」の「蓋馬大山」の東にあるとされますが、「高句麗伝」では「沃祖」と「接する」とされており、間に高山があっても「接する」という用語が使用される事を示します。そしてそれは「海」を挟んでいる「倭」についても「接する」という用語が使用されうることを示すといえるでしょう。
また上にも出てきますが、「ゆう婁」「(東)沃祖」の記事では「大海に濵している」という言い方が出てきます。
「ゆう婁、在夫餘東北千餘里。濱大海、南與北沃沮接、未知其北所極。」(『ゆう婁伝』より)
「東沃沮在高句麗蓋馬大山之東、濱大海而居。」(『東沃沮伝』より)
上に見るように「大海」つまりここでは「日本海」に面した国であるとされています。その「日本海」の向こうには列島があるわけですが、さすがにその間の海は広大であり、「倭」と接するとは言い難いのは確かでしょう。しかし、「狗邪韓国」の場合はもちろんこれらとは異なるものであり、「晴れていれば見える」ほどの距離にある「対馬」であれば「接する」という表現は妥当なものといえるでしょう。
「対馬」という名称も「馬韓」に対するものということからの命名という説もあるほどですから、その意味でも「対馬」の向こう側は「韓地」であるとみるのが相当ではないでしょうか。