古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「万葉仮名」の成立

2024年05月31日 | 古代史
 「百済」から「五世紀初め」に仏法が入ってきて以来、倭国内ではその支持を徐々に広げていた(と思われる)仏教は、「武」の時代になり、「武」ないしはその後継者である「磐井」により積極的に受容されるようになった結果、その「教典」を自分たちだけではなく、一般民衆に理解させようとすることとなったものと推察されます。そこで「仏典」を「日本語」に「訳す」必要が出て来たものであり、「日本語」を表記するのに必要な「文字」を生み出すことになったものです。つまり、「普通の人」でも「日本語」を書いたり読んだりできるようにするために「文字」(「仮名」)が発明されたと考えられるのです。逆に言うと「王権」の上層部などでは「漢文」で事が足りていたという可能性が考えられるでしょう。必要な文章は「漢文」として書けばよいと言うわけです。(このことはその後も「役人」には「漢文」の教養が必須とされたことにもつながると言えます)
 しかし一般民衆にはその様な事は不可能ですから、どうしても複雑な内容を伝えようとすると、「結縄刻木」では足りず、かといって「漢文」の知識もない民衆達には、それを伝えることも困難なことであったと思われます。
 それまでは、支配者層は民衆に対しては、基本的に「力」を示し「絶対服従」を強制する態度(体制)で接していたと思われ、民衆の文化レベルを上げるようなことは念頭になかったものと思われますが、「武」の時代以降「制度」を整え、文化的側面を強調されるようになったもののようであり、そのような流れの中に「文字文化」の国内への「敷衍」というものがあったと想定されるものです。
 このようにして、日本語を表記する必要に迫られたわけですが、そのために漢字の発音である「音」を利用して「表音文字」として利用することを考えついたのでしょう。そして、一大プロジェクトとして「勅」により「発音表」と「漢和辞典」の製作が始まり、それが完成したのを記念して「明要」と改元したものと思われるのです。
 ここで年号として使用された「明要」という字義は「大事なことを明らかにする」という意味であり、「辞書」などに使われる形容詞に「明解」とか「要解」とかありますが、同義と思われます。
 幕末の元治元年「一八六四年」村上英俊という学者により「佛語明要」というフランス語字典が完成しています。この「明要」と同様な用法と思われ、この「明要」改元時点で「漢語対和訳」辞書が完成したのでしょう。
 「四八一年」という年は「漢和辞典」が完成し、もう「結縄刻木」などする必要がなくなった年であり、そのことを記念して「明要」と改元したものと思われます。そして、この「発音表」を作るとき編み出されたのが「万葉仮名」だったと思われます。
 「万葉仮名」は基本的にはこの時に出来たと考えられますが、民間レベルではそれ以前から生活の便法として使用されていたのではないかと思われ、特に渡来してきた朝鮮半島人や中国人などは逆に「結縄刻木」が理解できず、日本人と意思疎通をするために必要に迫られ、すでに自主的に工夫、開発されていたものと思われます。
 たとえば埼玉で発見された「稲荷山鉄剣」の銘文には日本人の名前と思われるものを「漢字」で書いており、「漢字」を「表音文字」として使用しているのが理解できますが、それに使用している「仮名」に用いる漢字はこの地域の独自性が感じられるものです。そこでは「て」の表記、「き」の表記、「は」の表記、「け」の表記などで、後の「一般的」な「万葉仮名」では使用例の少ない漢字を使用しているようです。つまり、この銘文は全体としては漢文ですが、人名は「日本語」を表記したものであり、「万葉仮名」であると言えますが、その「万葉仮名」を表記するため選ばれた「漢字」には、後の「記紀」「推古朝遺文」などでは使用されていない漢字が使用されているのです。
 このことは、この「辛亥」の年を六十年後の「五三一年」という意見を否定するものでしょう。それでは「勅」により「統一」されたはずの「万葉仮名」とは違う漢字を使用していることとなってしまい、整合しないと考えられるのです。
 つまり、この「鉄剣」に記された「辛亥の年」は「四七一年」と推定され、日本語を表記するのに「漢字」を使用した例としてはかなり早いものと考えられるものです。このように各地で「試行錯誤」があったものと思われますが、いずれも広い範囲で「共通」に使用可能とするのが目的ではなかったため、地域による異同が多かったと思われ、それもあって国家として「共通語」的なものが必要となったということではないでしょうか。
 もちろん、当初目的としては「仏典」の読み書きを容易にする、というものであったわけですが、それ以上に「日本語」を表記できる「文字」が必要であったのは当然とも言えます。このことを「最重要」として「勅」により「標準発音表」とそれを使用した「漢和辞典」が作成されたものと推定されます。
 万葉仮名を見るとかなり難しい字が使用されていることもあり、このような「万葉仮名」を一個人で完成させるのは非常に困難と考えられ、「倭国王」(「武」)が朝廷のインテリを集結させて作成させたものと思われます。
 この時出来た「漢和辞典」には後の「五十音表」のような「発音表」(万葉仮名によるもの)と共に、主要な漢字・漢語(特に仏教経典中に出てくる漢字・単語など)の読みと意味が書いてあるような形ではなかったかと思われます。
 これが完成し、人々にも示されたことにより、一般民衆でも自分の意志を示すのに「漢字」(万葉仮名)を使用することが可能となり、各種の文献が作成されていくこととなったものと思われます。(学校のようなものができた可能性もあります)
 この「万葉仮名」により、人々は「通信」(手紙など)をするようになり、その結果「結縄刻木」はもうする必要がなくなったのです。そして、文字成立以前から「口伝」して伝えられていた「歌謡」あるいは「神話」「伝承」の類を「仮名」(万葉仮名)を使って書き記すことが始められ、さらに「創始」されるものなども現れるなど、発展していったものと思われます。(日本神話の多くがこのとき「口伝」から「文章」へと「書き留められた」と思われるのは、そこに示された服装などが中国南北朝期のものであることからもいえると思われます)
 この時に『万葉集』に載せられるような「歌」が「万葉仮名」によって書かれ始めたであろう事は『万葉集』の冒頭が「雄略天皇」の歌で始まっていることでも象徴的です。これは『万葉仮名』の成立したその時点の「倭国王」が「雄略」に相当する時代の王であったことを示し(彼自身かは不明)、年代として「五世紀末」を措定して整合的であることを示すものです。

(この項の作成日 2011/01/26、最終更新 2017/05/23)
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「年代歴」の真の年次

2024年05月31日 | 古代史
 既に考察したように仏教の伝来が常識とは違って「五世紀の初め」である可能性が高いことが明らかとなったわけですが、そう考えると以下の『二中歴』の記事(年代歴)の内容に疑義が生じます。それは推定される仏教の伝来時期との「食い違い」です。

『明要 十一 元辛酉「文書始出来結縄刻木止了」』

 この「明要」の元年干支である「辛酉」は通常は「五四一年」とされているわけですが、この記事を信憑すると仏教伝来から「結縄刻木」が止められ「文書始出来」まで「一二〇年」ほどかかったこととなります。これは時間がかかり過ぎではないでしょうか。
 『隋書俀国伝』を見ても「百済」からの「仏法伝来」と「文字習得」の間には深い関係があるかのように書かれており、(「…無文字、唯刻木結繩。敬佛法、於百濟求得佛經、始有文字。…」)この表記からは「仏教伝来」から「文字成立」まで「百年」を超えるような年月が経過したようには受け取れません。実際にはもっと近接した時期であったのではないかという疑いが生ずるのは当然と思われます。これを踏まえて「古賀氏」は「仏法」の伝来と「文字」発生の間には大きなタイムラグがなく、ほぼ同時と考えられているようですが、そうであればなおさら『二中歴』の「年代歴」には不審があることとなるでしょう。
 つまり、この『二中歴』の年代歴に書かれた「年次」(「干支」及び「細注」)は従来考えられているものとは「ズレて」おり、本来もっと遡上した時期の記事ではなかったかという可能性を考えるべきでしょう。その場合可能性の高いのは「干支一巡」(六十年)の「ズレ」ではないでしょうか。
 「干支」による「年次」の表記は「絶対年代」とでも云うべき「時系列」中の定点が指定されない限り、「六十年単位」で移動する(させられる)可能性があります。そう考えると、「仏教」の伝来という点から考えて『二中歴』の「年代歴」は通常考えている年次から実際には「六十年」繰り下げられている可能性を考えてみる必要があるでしょう。
 この仮定の下に考察してみると「辛酉」は通常の「五四一年」ではなく、「六十年」上がった「四八一年」となります。この年次は倭国王「武」の「上表文」が出された「四七八年」の三年後の出来事となります。
 「宋書」に書かれた「武」からの「上表文」は当然中国語(「漢文」)ですが、「宋書」の中には「全文」が掲載されており、そのことだけでも特筆すべき事ですが、その内容も注目に値するものであり、その「漢文」は「完全」であり、内容も見事な文章構成で、中国皇帝の徳をたたえつつ、巧みに日本、朝鮮支配の実績をPRする内容になっていることなど、「夷蛮の国」からの「表」としては出色であったのではないでしょうか。
 このような外交文書は「渡来人」が書いたという説もあり、もちろんそういう可能性はあるでしょう。しかし、ここで特に「全文」が掲載されている意味は、この「武」の「上表文」の出来映えが「南朝劉宋」の官僚にとっても「格別」であり、「皇帝」の徳が「東夷」に深く浸透した結果である、と言う意味も込めて「特記」されることとなったものと考えられ、それは「漢字文化」の浸透というものを「南朝」の官僚たちが認めたものという性格があると思われます。つまり、少なくとも「南朝」の官僚達は、この文章について「倭国官僚」、と言うより「日本人」の手によるものと考えていたという推定ができそうです。そして、それは当を得たものかもしれません。
 このように「立派」な「文章」を書くことができるようになったことと、「日本語」を書き表す「文字」を漢字を使用して書けるようになったこととは、深い関係があると思料されます。
 「漢文」での「文字使用経験」が増えてくると、漢字に対する知識も増えてきたため、「日本語」を書き表すツールとして使えるということに気がついたという可能性が高いでしょう。そのため「文字」(万葉仮名の祖型)が作られ、「文書」が作られるようになって、「結縄刻木」が止められた、と考えることは自然なことであると思われます。
 またこの「年次」であれば「仏教導入」からの年数としても「八十年」程度であり、これは先に考察した「観勒」の上表とほぼ同時期となります。(ただし、この上表文そのものは『書紀』では「漢文」として書かれていますが、それは公式文書は「漢文」でという決まりが当時あったことを示していると思われます。)
 ところで、この「観勒」の上表の後「僧正」などが任命されると共に「僧尼」の員数や特徴など「戸籍」とも呼ぶべきものが作成されたようです。

「(推古)卅二年(六二四年)戊午。詔曰。夫道人尚犯法。何以誨俗人。故自今已後任僧正。僧都。仍應検校僧尼。
壬戌。以觀勒僧爲僧正。以鞍部徳積爲僧都。即日以阿曇連闕名。爲法頭。
秋九月甲戌朔丙子。校寺及僧尼。具録其寺所造之縁。亦僧尼入道之縁。及度之年月日也。當是時。有寺册六所。僧八百十六人。尼五百六十九人。并一千三百八十五人。」

 この「観勒」の上表の時期は既に考察したように「四八〇年」から「五〇〇年」頃と推定されるわけですが、このことは他の『推古紀』の(少なくとも)「仏教関係」の記事についても同様に『書紀』に書かれた年次からズレがあると考えられることとなります。(そうでなければ時系列として一貫しなくなるでしょう)
 そう考えると、「寺院」と「僧尼」についての詳細な記録が作成されたとして、それが「漢文」ではなく「万葉仮名」を用いたものであったと考えるのはそれほど不自然ではないこととなります。

(この項の作成日 2011/07/16、最終更新 2017/09/07)

 以下続きます。

「僧尼」の戸籍ともいうべきものが「五世紀代」に作成されたと考えられる訳ですが、その記録に「度之年月日」つまり「得度」した日付が記録されているとされますが、それはこの時代に「元嘉暦」が導入されたのではないかと考えられる点からも首肯できるものです。
 この「元嘉暦」の導入と関係しているのが「年号」の使用開始です。
 『二中歴』には「継体二十五(応神五世孫 此時年号始)」(「継体天皇」は「応神天皇」の五世の孫であり、その治世は二十五年間続き、主要な事項は年号の使用開始である)と書かれています。
 これは従来、「六世紀前半」の記事であり、「継体」の時代というのは、通常「倭の五王」の一人である「武」の時代から後継者としての「磐井」の時代であり、成文法としての「刑法」が制定され、「律令政治」の原型が作られた時代と考えられています。(磐井の墳墓の様子を記した『風土記』の記事から「刑法」の存在が想定されているわけです)
 このような時期に「年号」の「使用開始」という記録があるわけで、これは一見「律令」の開始という様なことを想定すると、整合性は高いものと思われ、このことからこの『二中歴』の細注には「正当性」があると考えられた結果、余り関心を払われていなかったと思われます。しかし(すでに仮定したように)この時期を「六十年」過去側に移動すると「四五七年」となります。
 『書紀』の日付の研究(※1)から、「元嘉暦」の使用開始時期について、遅くても「四五六年八月」と判明しています。それ以前の「三九九年」から「四五六年八月」までは「儀鳳暦」でも「元嘉暦」でも合うとされていますが、実際には「南朝」で「元嘉暦」を使用開始したのが「四四五年」とされており(※2)、この年次以降のどこかで「倭国」に伝来したと考えられることとなりますが、「六十年」の年次移動の結果「年号」の使用開始が「四五七年」となると、これは「暦」の解析から導き出された「元嘉暦」の伝来時期の下限とされる「四五六年」とまさに「接する」年次となり、「暦」が伝わった時点で、同時に「年号」も使用し始めたと考えると非常に整合的だと思われます。
 日付表記法(「年」について)は「干支」によるか「年号」によるかですが、いずれにしろ、「一年」の長さを正確に把握しなければならず、「暦」と「年号」というものが不可分であるのは当然であり、「元嘉暦」の導入と「年号」の使用開始が「同時」であったとするのはむしろ当然とも言えます。
 これに類する例を挙げると、『三国史記』に「真徳女王」時代のこととして、「唐」から「独自年号」の使用を咎められたことが書かれており、その際の「新羅使者」の返答によれば、「唐」から「暦」の頒布を受けていないから「独自年号」を使用しているとしています。

「二年冬使邯帙許朝唐。太宗勅御史問 新羅臣事大朝何以別稱年號。帙許言 曾是天朝未頒正朔 是故先祖法興王以來私有紀年。若大朝有命小國又何敢焉」

 ここでは「正朔を奉じる」こと、つまり「宗主国と同じ暦を使用する」ということと、「宗主国」の年号を使用するということがセットになっていることが判ります。この「新羅」の言い訳を見ると「正朔」つまり「唐」の暦ではない別の暦を使用してたいたことが窺えます。なぜなら「年号」を使用しているからであり、正確に一年の長さを把握していたことが明らかだからです。そのためには何らかの「暦」を使用していたはずであり、「唐」のものではない「暦」が使用されていたものでしょう。
 「新羅」は「百済」と違い親南朝系ではなかったものであり、当初より「北朝」に偏していました。「南朝」は「倭王」に対し「新羅」における軍事権の行使を認めていたものであり、「倭王」の統治範囲としていたものです。このため「隋」成立後すぐに使者を「隋」に送り、「隋」から「楽浪郡公新羅王」として柵封されています。当然「暦」は「隋」の暦を使用していたはずであり、可能性のあるのは「開皇暦」あるいはその後改暦された「大業暦」ではなかったでしょうか。これらを「唐」成立後もそのまま使用し続けていたというのがもっとも蓋然性の高いものです。
 「唐」王朝は「隋」王朝を継承したとされますが、実際には武力で打倒したものであり、実質的には新王朝でした。特に「煬帝」に対して厳しい評価をしていたものであり、「大業暦」の使用については当然認めておらず、「新羅」がこの「煬帝」の暦を使用継続していたことを知っていたものと思われると共に、それを承知で「新羅」をなじったものでしょう。(唐は律令も「開皇律令」を踏襲したものであり「大業律令」ではなかったものですが、それも同様の思想ではなかったでしょうか。)
 「倭国」の場合は「南朝」より配下の将軍として称号を得ており、「柵封」に準ずる立場であったと思われます。当然「暦」と「年号」の使用も受容するべき制度・知識の中にあったとあったと思われるものの、純然たる「柵封国」と違い「遠絶」に位置する域外諸国の一つでしたから、実際には「倭国側」の任意の範囲であったものと思われ、最新技術としての「暦」だけを受容することとなったと見られます。
 国内的には「東国」への進出と同時期に「年号」の使用開始が行なわれていると見られることとなりますから、それは「東国」に対する統治の強化等に有効に作用したであろう事が推察できます。
 このようなことから考えると「年号」の使用開始と「元嘉暦」の伝来とは直接的な関係があると考えられ、逆に「暦」の伝来から「六十年」も隔たって「年号」を使用開始したとすると、著しくタイミングがずれているといえるのではないでしょうか。

(※1)小川清彦『日本書紀の暦日について』一九四七年
(※2)南朝劉宋では永初元(四二〇)年劉裕(武帝)が東晋の恭帝から禅譲を受けて天子の位につき、その六月に泰始暦を改めて永初暦としたが、名称を変えただけで晋の正朔をそのまま踏襲したのです。しかし、天象と合致しなくなっていたため、「何承天」という人物が改革を行ない、「元嘉暦」を文帝元嘉二二(四四五)年から施行しました。その後「元嘉暦」は、南斉(「建元暦」と改名)を経て、梁の武帝天監八(五〇九)年まで行われました。

(この項の作成日 2011/07/16、最終更新 2021/01/06)
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『百済』からの仏教伝来の真の年次

2024年05月31日 | 古代史
前回までと同様再投稿となります。

『書紀』による仏教伝来記事は以下の通りです。

「欽明十三年(五三八年)冬十月。百濟聖明王更名聖王。遣西部姫氏達率怒■斯致契等。獻釋迦佛金銅像一躯。幡盖若干・經論若干卷。別表讃流通禮拜功徳云。是法於諸法中最爲殊勝。難解難入。周公。孔子尚不能知。此法能生無量無邊福徳果報。乃至成辨無上菩提。譬如人懷隨意寶。逐所須用。盡依情。此妙法寶亦復然。祈願依情無所乏。且夫遠自天竺。爰■三韓。依教奉持。無不尊敬。由是百濟王臣明謹遣陪臣怒■斯致契。奉傳帝國。流通畿内。果佛所記我法東流。是日。天皇聞已歡喜踊躍。詔使者云。朕從昔來未曾得聞如是微妙之法。然朕不自决。乃歴問群臣曰。西蕃獻佛相貌端嚴。全未曾看。可禮以不。蘇我大臣稻目宿禰奏曰。西蕃諸國一皆禮之。豐秋日本豈獨背也。物部大連尾輿。中臣連鎌子同奏曰。我國家之王天下者。恒以天地社稷百八十神。春夏秋冬祭拜爲事。方今改拜蕃神。恐致國神之怒。天皇曰。宜付情願人稻目宿禰。試令禮拜。大臣跪受而忻悦安置小墾田家。懃脩出世業爲因。淨捨向原家爲寺。於後國行疫氣。民致夭殘。久而愈多。不能治療。物部大連尾輿。中臣連鎌子同奏曰。昔日不須臣計致斯病死。今不遠而復。必當有慶。宜早投弃。懃求後福。天皇曰。依奏。有司乃以佛像流弃難波堀江。復縱火於伽藍。燒燼更無餘。於是天無風雲忽炎大殿。」

 この記事によれば「百済」より「仏像」「経論」などが持ち込まれ、それに対し「欽明天皇」は「歡喜踊躍」して喜んだものの「然朕不自决」として「可禮以不」を「群臣」に問いかけた、ということとなっています。
 つまり、「天皇」が「礼拝」するかどうか、と言うわけですから、「国教」とするかどうかということのようです。しかも「天皇」の「詔」として「朕從昔來未曾得聞如是微妙之法。」とまで言っています。つまり、「今までにこのようなすばらしい教えは聞いたことがない」というわけです。つまり、この「詔」の時点では「国内」に仏教が全く入っていないように感じられます。
 また、その後「崇仏」と「排仏」で国内は分かれて争うこととなるわけですが、これが「物部守屋」の滅亡で決着したのが『推古紀』の事として書かれています。
 「欽明紀」の記事が「仏教伝来」のその時点の記事としてリアルな描写であること、すでに見たように「百済僧」「観勒」の「上表」記事の解析から『推古紀』の記事が実は「倭の五王」のうちの倭国王「武」の時代に相当するらしいことから、『欽明紀』から『推古紀』の記事のうちかなりの部分が「干支二巡」(一二〇年)ずれているのではないかと考えられることとなりました。
 つまり百済僧「観勒」の「上表」は「六二四年」から「一二〇年」程度遡った「五〇〇年」前後ではなかったかと推定されるわけであり、仏教の伝来は実は「四二〇年」前後かと推定されることとなったわけです。
 これについては従来の「仏教伝来」の時期が「高句麗」「百済」に比べ異様に遅かったものが、上の思惟進行によればそれらの国々からさほど遅くない時期となり、しかも「倭の五王」の活動時期とぴったり重なると言うことは、この推定がそれなりの論理性があることを示すものです。
 対国外、対国内とも活発な活動を繰り広げ、海外から文物を多く取り入れていたと見られるその時期に、仏教も同様に国内に取り入れたこととなり、きわめて自然な進行と考えられます。たとえば、『三国史記倭人伝』の「百済本紀」によると「三九五年」に「始めて」「百済」と「倭国」が「好(よし)みを結」んでいます。その証しとして「百済」からは「太子」である「典支」を「質」として倭国に送っているようです。さらに「父王」の死去に伴い帰国する「典支」に「倭国」側は「兵」百人をつけて護衛しこれを帰らせ、即位を援助しています(「四〇六年」)。
 その後も友好は続き「四一八年」には「百済」より「白絹」五十匹が献上されています。このような友好関係の中で「仏法」が伝えられていたとしても不思議ではありません。
 このように「百済」が「倭国」とこの時期「友好関係」を結んだのは「対高句麗」という「戦略上」の理由が大きいと考えられます。
 「好太王碑」に書かれた内容を見ると、「倭」軍を「好太王」が「渡海」して「破」ったと書かれており、また「百済」や「新羅」を「臣民」としたという事跡(高句麗の建前論)が書かれています。そして、それが「辛卯」(三九一年)の年のことと考えられているわけであり、これは『三国史記』で「倭国」と「百済」が「友好」を開始したとされる「三九五年」の直前のことなのです。
 このようにこの時期「高句麗」と「倭国」「百済」は互いに「熾烈」な戦いを行っていました。しかし、「好太王」即位以降「高句麗」の勢いが強くなる中で「百済」と「倭国」は「連係」して対応する道を選んだものと思われます。そのような方法論に至った理由は「百済」側により多くのものがあると考えられます。なんと言っても「百済」は「高句麗」と「国境」を接しているわけですから、より強力な軍事能力を獲得する必要があり、そういう意味で「倭国」と連合したものと推察されます。
 また、「百済」にしてみると「高句麗」と「前線」で戦っている「背後」を襲われてはたまらない、という意味もあったでしょう。「高句麗」と「倭国」が手を結ぶというようなことさえも想定して、その前に、あるいはそうはさせないように「画策」したとしても不思議ではないと考えられます。そういう意味で「百済」の方に、より「友好」を結ぶべき理由があったと考えられ、そうであるなら、仏教をあえて「倭国」に伝えなかったなどと言うことは想定できないこととなるでしょう。
 仏教を「百済」から取り入れず、逆に「高句麗」から伝わってしまったならば、「倭国」が「高句麗」に対して「敵意」を持たなくなるようなことも考えられるからです。明らかに「百済」からは各種の「文物」を「友好」の「証」として「倭国」に提供せざるを得ない「事情」があったのであり、その中に仏教というものがあったとしても全く不思議ではありません。(「王」同士が同じ「宗教」を信仰しているという方が「連帯の証」としてふさわしいでしょう)
 逆に「倭国」からの使者も「仏教寺院」を目にして何も興味を示さない、というのは想定しがたいものと考えられ、「使者」から「報告」を受けた倭国王は多いに興味をかき立てられたことと思慮されます。

(この項の作成日 2011/07/13、最終更新 2017/01/02)
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『百済僧』『觀勤』の上表

2024年05月31日 | 古代史
 以下も前回までと同様以前の投稿の再提出です。

以下は古賀達也氏の研究(※)に依拠します。

 仏教の伝来に関係したこととして、『書紀』の『推古紀』の中に興味深い記事があります。

「(推古)卅二年(六二四年)夏四月丙午朔戊申。三有一僧。執斧毆祖父。時天皇聞之。召大臣詔之曰。夫出家者頓歸三寶具懐戒法。何無懺忌輙犯惡逆。今朕聞。有僧以毆祖父。故悉聚諸寺僧尼以推問之。若事實者重罪之。於是集諸僧尼而推之。則惡逆僧及諸尼並將罪。於是百濟觀勤僧表上以言。『夫佛法自西國至于漢經三百歳。乃傳之至於百濟國。而僅一百年矣。然我王聞日本天皇之賢哲。而貢上佛像及内典未滿百歳。』故當今時。以僧尼未習法律。輙犯惡逆。是以諸僧尼惶懼以不知所如。仰願其除悪逆者以外僧尼。悉赦而勿罪。是大功徳也。天皇乃聽之。」

 この記事の解釈の代表的なものは「大系」の注にあるような「而僅一百年」と「未満百歳」を連続して数えるものです。注には「欽明朝に仏教が伝えられたのが五三八年とすると百五十四年になる」「五三八年から本年までは八十六年。欽明十三年からは七十二年。」とあり、これであれば「五三八年」付近の伝来でほぼ合うというわけです。というか「五三八年伝来」を前提とした読み方です。しかしそれはかなり「恣意的」な読み方ではないでしょうか。
 この記事によれば「仏法」が「西国」から「中国」(漢)を経由して「百済」に伝わるまで「三〇〇年」かかったとされていますが、これについては五世紀「東魏」の「楊衒之」が撰した『洛陽伽藍記』では、西国(インド)から中国への伝来は「後漢の明帝」の時代(紀元五十七~七十五年)とされ、一般にはこれは「紀元六十七年」のことと考えられています。

「白馬寺漢明帝所立也 佛入中國之始 寺在西陽門外三里 御道南帝夢金神長丈六項背 日月光明金神號曰佛遣使向西域求之乃得經像焉 時白馬負而來因以為名 明帝崩起祗?於陵上 自此從後百姓冢上或作浮焉寺上經凾 至今猶存常燒香供養之經… 」『洛陽伽藍記/卷四 城西/白馬寺』
 
 これによれば、「後漢」の「明帝」が「西域」に遣使し「経像」を求めたものであり、それを白馬が背負ってきたので「洛陽」に「白馬寺」を建てたとされ、それが仏教の「中国」における「始め」であると書かれています。(前漢の時代という説もあるようです)
 また「百済」に「東晋」より仏教が伝来したのは、『三国史紀』によれば「三八四年」とされています。

「沈流王元年」(三八四年)「九月 胡僧摩羅難自晉至 王迎之致宮内 禮敬焉 佛法始於此。」(『三国史記』百済本紀)

 これについて異説があるようですが、十年前後の差に収まるものであり、その意味では以下の推論にそれほど影響を与えません。
 「中国」からの伝来時期として「三八四-六十七=三一七年」ですから、これを「三〇〇年」の経過、と表記するのはそれほど間違いではないと思われます。しかし問題はその後です。
 「觀勒」の上表文では「乃傳之至於百濟國。而僅一百年矣。」、つまり、百済に伝わってから「僅か一〇〇年」と言っているように受け取ることができます。これは「観勒」の「上表をしている現在時点」のことと考えられますから、「百済」に伝来してから「百年」ということは、この「上表」の年次は「三八四年」+「一〇〇年」=「四八四年」付近のこととならざるを得ません。
 さらに「貢上佛像及内典未滿百歳」、つまり「倭国」に仏教が伝来してからは「一〇〇年未満」というのですから、「八十年」前後と考えれば、「倭国」への伝来の年次は百済に伝来した年次である「三八四年」に「百-八十年」(=二十年)ほどを加えて「四〇四年」前後、という事となります。こう考えなければ「上表文」の趣旨と合致しません。決して「百済」への伝来した後「百年」経った後の倭国への伝来を意味しているものではないのです。
 ただし、「観勒」は「西国」から「漢」を経由して「百済」に伝来するまで「三〇〇年」かかったと言っていますが、上記の計算では「三一七年」となり、「十七年」の誤差があります。「観勒」の表現法にはこの程度の誤差があると考えると、「百年」にも「百年未満」という数字にも「十年程度」の誤差があっても不思議はありません。つまり「伝来」については上に見た「四〇四年」に対し十年程度の出入りを考える必要があるでしょう。また上表した時期についても「五〇〇年」程度までその幅を広げて考えるべきと考えられます。ただし、いずれにしても「観勒」の時代として「五世紀末」程度を想定する必要があり、「倭の五王」の一人である「武」に対して行われた「上表」であると見るのが相当ではないかと思われることとなります。
 また、この推定はこの時点で「僧正」「僧都」「法頭」などが任命されたという記事内容とも合致します。

「(推古)卅二年(六二四年)戊午。詔曰。夫道人尚犯法。何以誨俗人。故自今已後任僧正。僧都。仍應検校僧尼。
壬戌。以觀勒僧爲僧正。以鞍部徳積爲僧都。即日以阿曇連闕名。爲法頭。
秋九月甲戌朔丙子。校寺及僧尼。具録其寺所造之縁。亦僧尼入道之縁。及度之年月日也。當是時。有寺册六所。僧八百十六人。尼五百六十九人。并一千三百八十五人。」

 これらの「僧尼」を統制管理する職掌の「中国」における原型は「東晋」の頃のようですが、「王権」が「僧尼」等に対する監督としての「職掌」として任命したのは「南朝劉宋」の「順帝」の「昇明年間」に「楊法持」という人物を「僧正」としたとされているのが最初と考えられます。

「宋時道人楊法持與高帝有舊,元徽末,宣傳密謀。昇明中,以為僧正。…。」『南史/列傳第六十七 楊法持』の段

 この記事は「武」が「上表文」を提出した年次の至近となります。つまり、彼が派遣した「使者」が「僧尼」を管理する「管掌」としての「僧正」という存在を知識として持ち帰ったという可能性(蓋然性)は非常に高いと考えられますが、このことは「観勒」が上表した結果、それに応じて「僧正」などの任命を行ったという『書紀』の記事と整合するものといえ、彼の「真の」時代が「武」の時代であることを強く示唆するものです。(「観勒」という人物名が五世紀のものであるかは不明であり、全くの別人であったという可能性もあるとは思われます。)

(※)古賀達也「倭国に仏教を伝えたのは誰か~「仏教伝来」戊午年伝承の研究 『古代に真実を求めて』第一集一九九六年三月 明石書店)

(この項の作成日 2011/07/13、最終更新 2023/05/27)
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「結縄刻木」について

2024年05月31日 | 古代史
 前回と同様以前の投稿の再提出となります。

 『二中歴』の「年代歴」の冒頭部分に「結縄刻木」というものが出てきます。

「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政」

 これについては以前「縄の結び目のバリエーションで意志を伝え合い、年数は木に刻み目をつけて数を表す」というものと理解していましたが、その後検討した結果、これは「逆」であり、「縄の結び目で数を表し、木に文様を刻みつけて意志をを伝え合う」ものというように理解を変更します。
 「結縄」により「数字」を表すのは世界の各地で見られた習慣であり、ある意味普遍的なものでした。また「数字」を表すことができれば「日付」の表記には有効であるのは確かです。
 また「刻木」は「漢籍」を探ると以下のように中国の周辺の諸国(いわゆる夷蛮の国)において「メッセージ」(指示や伝達など)を伝える際に使用されていたという記述が確認され、これらは「文字」がない世界ではごく当然のように使用されていたものと見られます。 
 まず「結縄」については『漢書』などに「易経」を引用する形で以下のような記事が見えます。

(「漢書/藝文志第十/六藝略/小學」より)「…易曰:「上古結繩以治,後世聖人易之以書契,百官以治,萬民以察,蓋取諸夬。…」」

(「後漢書/志第九 祭祀下/迎春」より)「…論曰:臧文仲祀爰居,而孔子以為不知。漢書郊祀志著自秦以來迄于王莽,典祀或有未修,而爰居之類?焉。世祖中興,?除非常,修復舊祀,方之前事?殊矣。嘗聞儒言,三皇無文,結繩以治,自五帝始有書契。至於三王,俗化彫文,詐偽漸興,始有印璽以檢姦萌,然猶未有金玉銀銅之器也。」

 また「刻木」については以下のような記事が見えます。

「(註)魏書曰…大人有所召呼,刻木為信,邑落傳行,無文字,而部?莫敢違犯。…」(「三國志/魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳第三十/烏丸」より)
(『後漢書』にも同趣旨の記事があります。)

「…無文字,刻木為契。…」(「隋書/列傳第四十九/北狄/突厥」より)

「…刻木以為符契,…」(「隋書/志第二十六/地理下/揚州/林邑郡」より)

 以上からは「三皇」時代には「結縄」であったとされ「五帝」の時代には「文字」が造られたとされています。また「刻木」は「突厥」「林邑」「烏丸」などにおける風俗として書かれていますから、いずれも夷蛮の地域のものです。
 これらによればどちらかといえば中国の中心域では「結縄」、周辺諸国では「刻木」ではなかったでしょうか。
 このことから「倭国」における「結縄刻木」という表現からは、中国の古い風習と夷蛮の国らしい珍しい方法とがミックスしていると(魏使には)見られていたこととなるでしょう。
 また、上の「刻木」の例では「烏丸」におけるものが注目されます。(上の『三国志』の例)そこでは「信」つまり「手紙」やメッセージの代わりとして「刻木」しているとされます。「大人」からの指示が「刻木」として各邑落に伝わり、そこに「文字」がないのに(文様だけがあったと思われます)誰も違反するものがないとされているわけです。
 他にも『隋書』に書かれた「突厥」や「林邑」の例では「刻木」とは「符契」を意味し、それらは身分証明であったり、信用確保のために使用するものであったとされます。(木ないし竹に何らかの「文様」を刻みつけ、それを二つに割った上で両者がそれを所有し、何らかのタイミングでそれを合わせることにより身分証明として使用したもの)
 倭国においてもこれらと同様の意義があったという可能性も考えられる訳です。
 「倭国」において仏教が伝来した後もこれを止められなかったとされるわけですが、その理由は「まだ『日本語』を表す文字がなかった」ということではなかったでしょうか。「無文字」とはそういう意味なのだと思われます。
 この段階までは「漢字」は「漢文」(中国語)として存在するだけだったものであり、「日本語」を表記する手段ではなかったわけです。
 漢字文化は「王」を中心とする、一握りの支配者層が理解し、使用していたものと思われ、「普通」の人々の生活には全く浸透しておらず、彼らは昔ながらの素朴な生活をしていたものでしょう。
 彼らは情報を伝えるのに、「結縄刻木」していたものであり、このような生活は「弥生」以来なのではないかと思われます。
 「王」も彼等に対して何か「詔」のようなものを発する時には「結縄刻木」で表していたものと思われます。そうでなければ王権の意志が人々に伝わらないからです。それが「無文字無号不記干支『以成政』」という部分に明確に現れていると言えるでしょう。
 上に見たように「結縄」も「刻木」も古い時代のものであり、「文字」がない時代のものとされています。当然倭国においても「文字」がないという前提の中で「結縄刻木」されていると理解すべきでしょう。
 その「結縄刻木」時代に「文字」の代わりとして「刻まれた」文様が「日本語」を表すものであったこともまた当然です。この「結縄刻木」という用語が「無文字」という状態を表すのに中国史書等では常套的に使用されていることを考えれば、この時点では「公用語」は「日本語」であり、「刻木」されたものは「文様」ではあっても「文字」(それも「漢字」)ではなかったこととなるでしょう。
 そしてその後仏教が伝来したことにより「漢語」が流入したわけですが(この場合「漢語」は「経典類」としてのものを意味すると思われます)、「公用語」は依然として「日本語」であったと思われます。そのため「結縄刻木」が続かざるを得なかったと理解できます。(また「暦」も未だ伝来していないため、干支も使用されていなかったもの。)
 そしてその後ある程度期間を経た後「結縄刻木」が停止されることとなったわけですが、それはそれまでの「文様」の代わりに、「漢字」を使用して「日本語」を表記できることとなったからと推量されるわけであり、またその時点で「万葉仮名」が成立したことを示すと思われるわけです。
 伝来した漢籍の表記に使用されている「漢字」を日本語表記に転用可能であると考え工夫するのにやや時間がかかったとすると、それが「仏教伝来」から「明要年間」までの期間であると考えられます。(約五十年)
 これについては「漢語」を「公用語」としたという中小路氏のような理解もありますが(※)、それでは一般民衆に対して布告などを行う際にも漢語が使用されたこととなり、とても誰も理解できなかったであろうと推測されます。「結縄刻木」が行われなくなったということは代わりに「文字」が発明されたからであり、それは当然「日本語」を表すものでなければならなかったはずです。でなければ「一般民衆」には伝わらなかったと考えられます。
 またこの時点で「漢語」を公用語としたという理解は「武」以前の「珍」や「済」がすでに「上表文」を中国皇帝に提出していることと矛盾するといえます。

「宋書」「太祖元嘉二年(四二五年),讚又遣司馬曹達奉表獻方物。讚死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王。表求除正,詔除安東將軍倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。」

「宋書」「(元嘉)二十八年(四五一年),加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍郡。濟死,世子興遣使貢獻。」

 これらの記事では「表」が提出されたと見られ、「倭国王権」が「漢文」を使用していたことは明確です。それが「渡来人」の手によるものであるかは問題ではありません、その「漢語」による「文書」の存在そのものは「倭国王」を初めとする「倭国王権」が認識していたことは確かであると思われるからです。そうであるなら「明要」年中という「文書始出来」という記述の内容が「漢文」による「文書」の成立を示しているものではないことは当然のこととなります。
 また、確認できる「文書木簡」では明らかにそこに書かれた文章は「日本語」を漢字を使用して表現したというものであり、「漢文」とは言えないと思われます。もちろん「漢籍」にその出典があるような語も確認できますが、基本的には「日本語」としての文章が書かれていると判断でき、このことはこの「文書始出来」とされる「明要年間」において確立したことではなかったでしょうか。
 ところで「結縄」と「刻木」は本来別の「慣習」であり、「文化」でした。『二中歴』によれば「明要」年中において「結縄刻木」が止められたとするわけですが、「刻木」については仏教の伝来という「衝撃」により「日本語化」の動きが出ていたと思われますが、他方「結縄」の方は「太陰暦」の伝搬によって「二倍年暦」との交替という動きが出ていたと思われます。これら二つの「カルチャーショック」は別の時点に起点を持つものと思われるわけですが、それが「明要」において「一致」したということとなります。その原因となったものは「武」という強力な「王」の存在ではなかったでしょうか。彼が強力なイニシァティブをとってこれらの政策(日本語を表す文字の発明・工夫及び二倍年暦の全面停止と太陰暦の全面的導入)を推進したものと思われます。
 ただし「年号もなく、干支も記さない、ただ結縄刻木のみである」という状態が非常に原初的であるのは間違いないところです。このような状態は先に見たような「元嘉暦」を受け入れる前の状態であるのは明確と考えられますが、「卑弥呼」の時代には「魏」の皇帝に上表文を差し出しており、「倭の五王」のころと遜色ない漢字文化の中にいたはずです。その漢字を利用して「日本語」を表現する発明がその時点では行われなかったこととなりますが、それは「漢字文化」が仏教のような「宗教」と関連していなかったことがあると思われます。
 逆に言うと「五世紀」に入って仏教が「漢字文化」の精髄として現れたことに対する「強い反応」が倭国内に起こったことを示すものであり、その時点以降「漢字」の「日本語化」という動きが「内在」し、直後に「顕在化」することとなったのではないでしょうか。
 また「西晋」の滅亡以降「半島」における「中国」の出先機関も消滅したことにより「中国」との交流が途絶えたことも重要であると思われます。その結果「漢字文化」と長い間乖離する状況に置かれることとなったことが「漢字」への親近感を低下させ、「日本語化」への動きを鈍らせる要因となったとも見られます。
 『二中歴』の「年代歴」冒頭の部分は、その後「東晋」との関係ができた時点付近で「再度」漢字文化の流入があり、それが仏教との関連によって親密さが増したことを示唆するものです。

(※)中小路駿逸「日本列島への仏法伝来、および日本列島内での漢字公用開始の年代について」及び「仏法伝来と漢字の国内公用開始についての補足ならびに訂正」大手門学院大学デジタルリポジトリ

(この項の作成日 2011/01/26、最終更新 2015/02/11)
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