「百済」から「五世紀初め」に仏法が入ってきて以来、倭国内ではその支持を徐々に広げていた(と思われる)仏教は、「武」の時代になり、「武」ないしはその後継者である「磐井」により積極的に受容されるようになった結果、その「教典」を自分たちだけではなく、一般民衆に理解させようとすることとなったものと推察されます。そこで「仏典」を「日本語」に「訳す」必要が出て来たものであり、「日本語」を表記するのに必要な「文字」を生み出すことになったものです。つまり、「普通の人」でも「日本語」を書いたり読んだりできるようにするために「文字」(「仮名」)が発明されたと考えられるのです。逆に言うと「王権」の上層部などでは「漢文」で事が足りていたという可能性が考えられるでしょう。必要な文章は「漢文」として書けばよいと言うわけです。(このことはその後も「役人」には「漢文」の教養が必須とされたことにもつながると言えます)
しかし一般民衆にはその様な事は不可能ですから、どうしても複雑な内容を伝えようとすると、「結縄刻木」では足りず、かといって「漢文」の知識もない民衆達には、それを伝えることも困難なことであったと思われます。
それまでは、支配者層は民衆に対しては、基本的に「力」を示し「絶対服従」を強制する態度(体制)で接していたと思われ、民衆の文化レベルを上げるようなことは念頭になかったものと思われますが、「武」の時代以降「制度」を整え、文化的側面を強調されるようになったもののようであり、そのような流れの中に「文字文化」の国内への「敷衍」というものがあったと想定されるものです。
このようにして、日本語を表記する必要に迫られたわけですが、そのために漢字の発音である「音」を利用して「表音文字」として利用することを考えついたのでしょう。そして、一大プロジェクトとして「勅」により「発音表」と「漢和辞典」の製作が始まり、それが完成したのを記念して「明要」と改元したものと思われるのです。
ここで年号として使用された「明要」という字義は「大事なことを明らかにする」という意味であり、「辞書」などに使われる形容詞に「明解」とか「要解」とかありますが、同義と思われます。
幕末の元治元年「一八六四年」村上英俊という学者により「佛語明要」というフランス語字典が完成しています。この「明要」と同様な用法と思われ、この「明要」改元時点で「漢語対和訳」辞書が完成したのでしょう。
「四八一年」という年は「漢和辞典」が完成し、もう「結縄刻木」などする必要がなくなった年であり、そのことを記念して「明要」と改元したものと思われます。そして、この「発音表」を作るとき編み出されたのが「万葉仮名」だったと思われます。
「万葉仮名」は基本的にはこの時に出来たと考えられますが、民間レベルではそれ以前から生活の便法として使用されていたのではないかと思われ、特に渡来してきた朝鮮半島人や中国人などは逆に「結縄刻木」が理解できず、日本人と意思疎通をするために必要に迫られ、すでに自主的に工夫、開発されていたものと思われます。
たとえば埼玉で発見された「稲荷山鉄剣」の銘文には日本人の名前と思われるものを「漢字」で書いており、「漢字」を「表音文字」として使用しているのが理解できますが、それに使用している「仮名」に用いる漢字はこの地域の独自性が感じられるものです。そこでは「て」の表記、「き」の表記、「は」の表記、「け」の表記などで、後の「一般的」な「万葉仮名」では使用例の少ない漢字を使用しているようです。つまり、この銘文は全体としては漢文ですが、人名は「日本語」を表記したものであり、「万葉仮名」であると言えますが、その「万葉仮名」を表記するため選ばれた「漢字」には、後の「記紀」「推古朝遺文」などでは使用されていない漢字が使用されているのです。
このことは、この「辛亥」の年を六十年後の「五三一年」という意見を否定するものでしょう。それでは「勅」により「統一」されたはずの「万葉仮名」とは違う漢字を使用していることとなってしまい、整合しないと考えられるのです。
つまり、この「鉄剣」に記された「辛亥の年」は「四七一年」と推定され、日本語を表記するのに「漢字」を使用した例としてはかなり早いものと考えられるものです。このように各地で「試行錯誤」があったものと思われますが、いずれも広い範囲で「共通」に使用可能とするのが目的ではなかったため、地域による異同が多かったと思われ、それもあって国家として「共通語」的なものが必要となったということではないでしょうか。
もちろん、当初目的としては「仏典」の読み書きを容易にする、というものであったわけですが、それ以上に「日本語」を表記できる「文字」が必要であったのは当然とも言えます。このことを「最重要」として「勅」により「標準発音表」とそれを使用した「漢和辞典」が作成されたものと推定されます。
万葉仮名を見るとかなり難しい字が使用されていることもあり、このような「万葉仮名」を一個人で完成させるのは非常に困難と考えられ、「倭国王」(「武」)が朝廷のインテリを集結させて作成させたものと思われます。
この時出来た「漢和辞典」には後の「五十音表」のような「発音表」(万葉仮名によるもの)と共に、主要な漢字・漢語(特に仏教経典中に出てくる漢字・単語など)の読みと意味が書いてあるような形ではなかったかと思われます。
これが完成し、人々にも示されたことにより、一般民衆でも自分の意志を示すのに「漢字」(万葉仮名)を使用することが可能となり、各種の文献が作成されていくこととなったものと思われます。(学校のようなものができた可能性もあります)
この「万葉仮名」により、人々は「通信」(手紙など)をするようになり、その結果「結縄刻木」はもうする必要がなくなったのです。そして、文字成立以前から「口伝」して伝えられていた「歌謡」あるいは「神話」「伝承」の類を「仮名」(万葉仮名)を使って書き記すことが始められ、さらに「創始」されるものなども現れるなど、発展していったものと思われます。(日本神話の多くがこのとき「口伝」から「文章」へと「書き留められた」と思われるのは、そこに示された服装などが中国南北朝期のものであることからもいえると思われます)
この時に『万葉集』に載せられるような「歌」が「万葉仮名」によって書かれ始めたであろう事は『万葉集』の冒頭が「雄略天皇」の歌で始まっていることでも象徴的です。これは『万葉仮名』の成立したその時点の「倭国王」が「雄略」に相当する時代の王であったことを示し(彼自身かは不明)、年代として「五世紀末」を措定して整合的であることを示すものです。
(この項の作成日 2011/01/26、最終更新 2017/05/23)
しかし一般民衆にはその様な事は不可能ですから、どうしても複雑な内容を伝えようとすると、「結縄刻木」では足りず、かといって「漢文」の知識もない民衆達には、それを伝えることも困難なことであったと思われます。
それまでは、支配者層は民衆に対しては、基本的に「力」を示し「絶対服従」を強制する態度(体制)で接していたと思われ、民衆の文化レベルを上げるようなことは念頭になかったものと思われますが、「武」の時代以降「制度」を整え、文化的側面を強調されるようになったもののようであり、そのような流れの中に「文字文化」の国内への「敷衍」というものがあったと想定されるものです。
このようにして、日本語を表記する必要に迫られたわけですが、そのために漢字の発音である「音」を利用して「表音文字」として利用することを考えついたのでしょう。そして、一大プロジェクトとして「勅」により「発音表」と「漢和辞典」の製作が始まり、それが完成したのを記念して「明要」と改元したものと思われるのです。
ここで年号として使用された「明要」という字義は「大事なことを明らかにする」という意味であり、「辞書」などに使われる形容詞に「明解」とか「要解」とかありますが、同義と思われます。
幕末の元治元年「一八六四年」村上英俊という学者により「佛語明要」というフランス語字典が完成しています。この「明要」と同様な用法と思われ、この「明要」改元時点で「漢語対和訳」辞書が完成したのでしょう。
「四八一年」という年は「漢和辞典」が完成し、もう「結縄刻木」などする必要がなくなった年であり、そのことを記念して「明要」と改元したものと思われます。そして、この「発音表」を作るとき編み出されたのが「万葉仮名」だったと思われます。
「万葉仮名」は基本的にはこの時に出来たと考えられますが、民間レベルではそれ以前から生活の便法として使用されていたのではないかと思われ、特に渡来してきた朝鮮半島人や中国人などは逆に「結縄刻木」が理解できず、日本人と意思疎通をするために必要に迫られ、すでに自主的に工夫、開発されていたものと思われます。
たとえば埼玉で発見された「稲荷山鉄剣」の銘文には日本人の名前と思われるものを「漢字」で書いており、「漢字」を「表音文字」として使用しているのが理解できますが、それに使用している「仮名」に用いる漢字はこの地域の独自性が感じられるものです。そこでは「て」の表記、「き」の表記、「は」の表記、「け」の表記などで、後の「一般的」な「万葉仮名」では使用例の少ない漢字を使用しているようです。つまり、この銘文は全体としては漢文ですが、人名は「日本語」を表記したものであり、「万葉仮名」であると言えますが、その「万葉仮名」を表記するため選ばれた「漢字」には、後の「記紀」「推古朝遺文」などでは使用されていない漢字が使用されているのです。
このことは、この「辛亥」の年を六十年後の「五三一年」という意見を否定するものでしょう。それでは「勅」により「統一」されたはずの「万葉仮名」とは違う漢字を使用していることとなってしまい、整合しないと考えられるのです。
つまり、この「鉄剣」に記された「辛亥の年」は「四七一年」と推定され、日本語を表記するのに「漢字」を使用した例としてはかなり早いものと考えられるものです。このように各地で「試行錯誤」があったものと思われますが、いずれも広い範囲で「共通」に使用可能とするのが目的ではなかったため、地域による異同が多かったと思われ、それもあって国家として「共通語」的なものが必要となったということではないでしょうか。
もちろん、当初目的としては「仏典」の読み書きを容易にする、というものであったわけですが、それ以上に「日本語」を表記できる「文字」が必要であったのは当然とも言えます。このことを「最重要」として「勅」により「標準発音表」とそれを使用した「漢和辞典」が作成されたものと推定されます。
万葉仮名を見るとかなり難しい字が使用されていることもあり、このような「万葉仮名」を一個人で完成させるのは非常に困難と考えられ、「倭国王」(「武」)が朝廷のインテリを集結させて作成させたものと思われます。
この時出来た「漢和辞典」には後の「五十音表」のような「発音表」(万葉仮名によるもの)と共に、主要な漢字・漢語(特に仏教経典中に出てくる漢字・単語など)の読みと意味が書いてあるような形ではなかったかと思われます。
これが完成し、人々にも示されたことにより、一般民衆でも自分の意志を示すのに「漢字」(万葉仮名)を使用することが可能となり、各種の文献が作成されていくこととなったものと思われます。(学校のようなものができた可能性もあります)
この「万葉仮名」により、人々は「通信」(手紙など)をするようになり、その結果「結縄刻木」はもうする必要がなくなったのです。そして、文字成立以前から「口伝」して伝えられていた「歌謡」あるいは「神話」「伝承」の類を「仮名」(万葉仮名)を使って書き記すことが始められ、さらに「創始」されるものなども現れるなど、発展していったものと思われます。(日本神話の多くがこのとき「口伝」から「文章」へと「書き留められた」と思われるのは、そこに示された服装などが中国南北朝期のものであることからもいえると思われます)
この時に『万葉集』に載せられるような「歌」が「万葉仮名」によって書かれ始めたであろう事は『万葉集』の冒頭が「雄略天皇」の歌で始まっていることでも象徴的です。これは『万葉仮名』の成立したその時点の「倭国王」が「雄略」に相当する時代の王であったことを示し(彼自身かは不明)、年代として「五世紀末」を措定して整合的であることを示すものです。
(この項の作成日 2011/01/26、最終更新 2017/05/23)